(8)ホットコーヒーとテニス小説と
(8)ホットコーヒーとテニス小説と
八月の中旬に行われた学年別強化卓球大会において、赤井玲音はシングルス四回戦で敗退した。
赤井にとり満足のいく結果とは言えなかったが、負けた相手である紫ヶ丘高校の選手がその後優勝したことを考えれば、競った赤井の健闘は充分に評価できた。
一年生の部で出場した有栖川佑都が赤井と同様四回戦まで進出したことは、卓球部にとり朗報であった。
道戸高校にポイントゲッターがもう一人二人増えれば、シングルスだけでなく学校別対抗戦に出場する目も出てこようというものである。
夏の主要行事を終えた卓球部は、週に三回・午前のみという練習スケジュールに則って粛々と運営がなされた。
部活動が引けると、赤井は紅林らと共にファミリーレストランで昼食を摂り、午後は図書館で勉強してからクラブチームの練習へ移行するのが恒例となっていた。
この日はクラブチームの活動予定がなかったので、赤井は宍戸夏蓮から誘われるがままに川越市へと連れ立っていた。
「結局、月末まで放っておかれたし。ほーんと、レオってもう少し約束とか守るタイプなんだと思ってた」
宍戸は一月近く待たされたことに文句を垂れつつも、決して機嫌が悪いわけではないようで、赤井の隣で小気味良いステップを踏んでいた。
夏休みということもあり、往来は若者でひしめいていた。
人を避ける度に宍戸が赤井にタックルをするもので、赤井はこれは何かの罰ゲームかと邪推した。
宍戸は大学生の兄の誕生日プレゼントを見繕うと言って、赤井を百貨店の各階につれ回した。
女子のファッション選びに付き合わされるよりかはましかと思い、赤井は慣れぬ仕草で男性ものの服やらステーショナリーを物色した。
二時間近く歩き回って、赤井の提案でチェーンのカフェに腰を落ち着けた。
「もう疲れたの?レオってば、あんなに鍛えてる割には情けないわね」
「使うエネルギーが違うんじゃないかな」
ホットのブラックコーヒーに口をつけ、赤井は惚けて言い返した。
赤井は女子とのデート経験がないので、宍戸の一挙手一投足に神経を磨り減らされていた。
例えば宍戸は夏らしい萌黄色のミニのワンピースを着てきたのだが、赤井は何ら変哲のない黒のポロシャツとジーンズというまさに普段着であった。
これでは釣り合いがとれていないのではと疑心暗鬼になり、赤井は集合した時点で冷や汗をかいていた。
「ていうか、なんで温かいコーヒー?外で暑そうにしてたのに」
「コーヒーはホットしか飲まないんだ」
「ふーん。ミルクも砂糖も入れてないもんね。ほら、試しにこれ飲んでみ?甘くて冷たくて、これはこれでアリだよ」
宍戸がフローズンキャラメルチョコレートラテという、ネーミングからして甘そうなドリンクを差し出して赤井に勧めた。
テイクアウト用の蓋付きのカップを渡された赤井は、果たして飲み口に口を付けていいものかと逡巡した。
その様子を宍戸が半笑いで凝視しており、赤井はますます身動きがとれなくなった。
「レオさ。女の子に興味がないとか、ないよね?」
「何だ、急に。興味なら幾らでもある」
「……言い方がキモいんですけど」
「……自覚はある。緊張しててな」
「へえ。私のこと、女として意識してたりする?」
額に落ちてきた金色の前髪を指で払い、宍戸が悪戯っぽい目付きをして訊ねた。
「もちろん、する」
「ならOK。ところで、うちの顧問から聞いたんだけど、二学期に転入生が来るって」
「二年に?」
「三組。レオのクラスだって。陸上部に入部を希望してるらしくて。けっこうなイケメンだとか」
「ほう。それは、おれの地位が危うくなる」
「……冗談?まあ、レオは見方によってはそこそこいけてなくもないけど」
「無論冗談だが。微妙なお誉めの言葉をいただけて何より」
宍戸はケラケラと笑って、テーブル越しに赤井の肩をばしばしと叩いた。
夕飯前には健全に別れ、赤井は一人スーパーマーケットに立ち寄った。
夏休みの間は買い物の周期が乱れがちになり、暇があるタイミングで適当な量の食材を購入していた。
卵はあったか、今夜は素麺にでもするか、明日と明後日分のサラダチキンをストックするか、といった思考を巡らせながら、赤井は商品棚を見て回った。
買い物を終えてから真っ直ぐに帰宅し、赤井はそのまま食事の支度に取り掛かった。
BGM代わりにテレビを点けっぱなしにし、副菜を手早く作ると素麺を茹で始めた。
夕飯の後は洗濯物を取り込んで畳み、水回りの掃除だけをさっと済ませた。
午後九時になると赤井は自室の机に向かい、受験参考書にかじりついた。
途中で気分転換にAMラジオを流し、リラックスしたままで英語と世界史の単元を先に進めた。
赤井は十二時前には風呂に入り、寝床につく前に紅林伊佐夫から借りた小説を取り出すと、触りだけでもと本文に目を落とした。
大学生活をテニスに打ち込んで過ごす青年の物語だそうで、彼を取り巻く女子学生たちとのほろ苦い交流に心打たれるのだという。
昼間、柄にもなく女子と出掛けなどしたものだから、赤井は無意識に小説の主人公と自分を重ね、ヒロインである奔放で魅惑的な女子大生は宍戸の姿に置き換えて読み進めた。
青年が作ったテニス部のメンバーには卓球部員たちの顔を当て嵌め、気が付けば二時間以上を読書に費やしていた。
サブヒロインに当たる気立ての良い女子大生役は嘉門さくらが担当せざるを得ず、赤井は現実の彼女の方が数倍気が強いものだがと、いらぬ妄想に耽った。
作中に青年の良き友人として、天才的なテニスプレーヤーが登場するのだが、赤井は彼に紅林以外の連想をしようもなかった。
ここで赤井の脳裏に、星月女子との練習試合の光景がリフレインした。
ベストマッチは間違いなく、紅林対ツインテールの栗原千秋戦であった。
赤井はあの試合を観戦した時、一年ぶりに卓球への情熱を再確認した。
赤井と紅林の出会いは昨年の四月に遡る。
中学で卓球部に所属していた赤井は、特に悩むことなく道戸高校の卓球部へと入部した。
紅林は後から見学に訪れ、中学時代の彼の実績を知って仰天した当時の上級生から熱心に誘われ、コーチ役として入部した。
卓球部はお世辞にも強豪とは呼べず、それでいて顧問は間もなく定年を控えた古典の教師で、指導者は皆無という状況であった。
士気は上がらず、高校の部活はこうも緩いものなのかと赤井は些か拍子抜けがした。
四月五月と、紅林はひたすら練習を目視していた。
アドバイスをしたりはせず、来る日も来る日も部員たちの動きをただ眺めていた。
その日も、紅林は一言も口をきいていなかった。
赤井はフォアハンドの威力を向上させたいと思い、何気なく紅林に質問してみた。
帰ってきた答えは、走り込みをすることと練習時間を増やすという、技術とは無関係なものであった。
赤井は紅林の意見に従い、部長に申し出て練習時間中のランニングの許可を貰った。
練習時間を増やすことはあっさり却下されたので、多少強引に迫って朝練習を黙認して貰うことにした。
それから、紅林は少しずつ赤井に課題を与えるようになった。
赤井は、紅林から彼が全中時代の試合を録画したVTRを貸してもらえる位に仲が進展した後、入部してからしばらくの間じっとしていた理由を訊ねてみた。
紅林は明るい表情で「強くなりたい気持ちがあれば、自分から聞きにくるでしょ?レオ以外に誰もそうしなかっただけ。外野に言われて仕方なく練習するようなモチベーションだと、卓球といえど向上なんてしないものさ」と答えた。
借りたVTRを何度も観直して紅林のプレーに心酔していた赤井は、彼のこの言葉によって自分の中に確かな火が入ったと感じた。
一度たぎった卓球への情熱は、赤井が練習の虫になるよう進んで後押しした。