(7)越坂部と左肘と
(7)越坂部と左肘と
練習試合の当日、生憎と空は雨模様であった。
しとしとと降り続く雨がプレハブの屋根を叩き続け、遠路濡れながら訪ねてきた星月女子の一行を喧しく歓待した。
この日は道戸高校卓球部顧問の冬月明日菜も参加しており、「星月と冬月で似てるわよね」という彼女の適当なコメントは、紅林伊佐夫や嘉門さくらに流されていた。
星月女子は六人連れで、六月の関東大会や七月末のインターハイで活躍した越坂部悠里と栗原千秋の二枚看板が揃っていた。
道戸高校の女子勢はすっかり萎縮してしまい、近年は地区大会ベスト十六あたりが最高成績だったので、それも無理ない話であった。
紅林はそもそもぼろ負けを想定していた。
「レオと有栖川は出来るだけ勝つ。特にレオは負けない覚悟で挑んでくれ。残りのレギュラーメンバーは、本物の雰囲気を学んでくる。ここに来てる子達は間違いなく全国区の選手だからね。たとえ負けても、向き合うだけで濃密な練習になるから」
紅林はそう言って、顧問の激励も催促せずにシングルスのみ五ゲームマッチの練習試合に部員を送り込んだ。
結果は散々であった。
一周目は道戸高校の一勝五敗。
赤井玲音は前陣速攻で攻め立て、三ゲームを先取してストレート勝ちを決めた。
二周目も一勝五敗。
やはり赤井が強烈なストロークによる力押しで決め、三ゲーム対一ゲームで勝利を収めた。
この時点で星月女子の顔付きが変わった。
連勝中の赤井というプレーヤーを個として認識し、三番手プレーヤーである足利しのんをぶつけてきた。
足利は関東大会でベスト十六に食い込むレベルにあり、実績でいえば赤井をダブルスコアで凌駕していた。
また、防御と攻撃の双方を上手く切り替えるカットマンスタイルで、先程、有栖川佑都をストレートで下していた。
赤井はその足利を粉砕して見せた。
カットに対しては縦回転を強めたドライブで対応し、甘い返球を思い切り叩くことでペースを譲らなかった。
赤井の勝勢に押されてか、三周り目に有栖川がはじめて辛勝を収めた。
四周目、ついに赤井と越坂部が対戦した。
二人は共に、前に出て速さと力強さで球を追う戦型を得意としていたので、序盤は乱打戦に持ち込まれた。
サービスからの三球目をフォアハンドで強打する赤井と、粘ってからの高速バックハンドを決める越坂部。
男女の差はあれど実力は伯仲し、ゲームカウントは二対二までもつれた。
見守る嘉門も応援に力が入り、喉はカラカラに枯れていた。
仕方なしに顔を出した冬月ですら、赤井のプレーから目が離せなくなった。
接戦で迎えた最終ゲームは、序盤は経験にものを言わせた越坂部の有利に運んだ。
ここぞという場面で越坂部の技が冴え渡り、平時ならばあり得ない角度や高さのバックハンドが次々と得点に繋がった。
五点対九点と四ポイントのリードを許すも、赤井はそこから粘りを見せた。
赤井は持ち前の平常心でミスなくラリーを繋ぎ、一方で勝負を急いだ越坂部の無理な打球が失点を重ねていった。
九点対九点まで持ち直した時点で、赤井の勢いは止まらなかった。
赤井がフットワークをふんだんに活用してフォアハンドで押していくと、守勢に回った越坂部は徐々に立ち位置を後退させていった。
前陣で強打を貫いた赤井はそのままゲームを制し、遂に星月女子の看板を撃破した。
「うおおおおおおお!」
その咆哮は赤井からではなく、応援していた同輩から出たものであった。
冬月などは人目も憚らず紅林に抱き付いて、嘉門から厳しく窘められていた。
赤井は越坂部と握手をして、そこではじめてまじまじと彼女の容姿を確認した。
越坂部は世間一般でいうところの美形に属しており、激闘を繰り広げた間柄というのも相俟って、赤井の目には女神のように映った。
越坂部はタオルで汗を拭い、肩までの黒髪を手櫛で整えてから赤井に一声掛けた。
「赤井部長。ためになりました。私の詰めが甘かったです」
「こちらこそ。味わったことのない高速バックハンドには感服しました」
赤井は身体中の毛孔や汗腺から全ての水分と熱が立ち上って蒸発しているかのような錯覚に囚われていた。
そして、興奮が冷めやらぬ内にもう一人の全国区と対峙した。
茶髪ツインテールの栗原は、越坂部とは異なり自在派であった。
栗原はフォアハンドを用いては甘い球を強く叩き、バックハンドは長短、左右に打ち分けて赤井の混乱を誘った。
それでいて足利のようなカットスタイルを用いたかと思えば、越坂部ばりの高速バックハンドも繰り出してくるので、ともすると赤井は己の戦い方を見失いそうになった。
栗原に二ゲームを連取されたところで、紅林が檄を飛ばした。
「柿沼戦と同じじゃない?レオは経験豊富で手数が多い相手とやり合うと、混乱して視野が狭くなるんだよ」
赤井は頷き、両の頬を手のひらでぴしゃりと叩いて気を鎮めた。
第三ゲームは意識して前陣速攻に専念し、赤井は辛くも勝利をものにした。
惑わず自分のスタイルを貫くことでストロークの威力は増し、それにつられて赤井の足も動き始めた。
しかし、栗原の安定感は抜群で、第四ゲームはシーソーの末に彼女に奪われた。
結果、赤井は一ゲーム対三ゲームで敗れた。
五周を終えて、全勝は星月の栗原ただ一人となっていた。
そこで波乱が幕開けた。
やにわに紅林が座り込んでいる栗原の側に歩み寄り、ぽかんと見上げるツインテールに対して提案した。
「うちの部長以外は退屈だったでしょ?三ゲームマッチでいいなら、揉んであげるよ」
これには栗原や星月勢だけでなく、道戸の部員たちも驚愕した。
赤井からして、入学してから紅林がプレーする様など生で見た試しはなく、そもそも肘は大丈夫なのかという心配が先に立った。
紅林は赤井を呼んで、あくまでエキシビジョンだと断った上で言った。
「これが最後だよ。レオには見せておかなきゃと思ってね。男子で上を狙うなら、ここで足踏みしてちゃ覚束無いから」
紅林は有栖川からラケットを借り受けると、静かな足取りで卓球台に張り付いた。
素振りを数回してから肩を回し、軽く左肘を揉みほぐした。
紅林はサウスポーであった。
休息を終えた栗原が卓球台に付くと、二人は練習のラリーを開始した。
二人以外の人間は皆ギャラリーに徹して、その様子に釘付けとなった。
紅林のサービスから試合の火蓋は切って落とされた。
高いトスからの回転サービスを栗原は無難に処理し、そこから三往復は浅めのカット合戦が続いた。
紅林が牙を剥いたのは一瞬であった。
バックハンドの一振りが綺麗に炸裂し、逆を突かれた栗原は反応できなかった。
その一打を目撃した赤井は、背筋に電撃が走ったかのように感じられた。
そこから紅林がポイントの連取を続けた。
紅林の動きに決して派手さはなかったが、誰の目にも一球一球、一歩一歩が最適解なのだと映った。
紅林がサービスを放つと彼の動いた先に返球がなされ、そこから球を左右に振ると栗原は面白いように翻弄された。
紅林が栗原の思考や球筋をコントロールしているかのような戦いぶりであった。
そして、紅林のプレーは姿かたちも精度も洗練されており、見ていて美しかった。
終わってみれば、紅林は大差で二ゲームを勝ち切り、体力の消耗はそれほどでもないように見えた。
しかし、紅林は左肘を押さえ、見たことがないような苦悶の表情を浮かべていた。
赤井と嘉門が駆け寄ると、「痛いけど大丈夫。レオ、よく見た?」と瞳に挑発的な光を宿して問い掛けた。
赤井が何度も頷くとそれに満足したのか、紅林は「病院に行く」と断った上でそのまま退出した。
おろおろするばかりの冬月を差し置いて、赤井は星月女子の部長である越坂部と協議し、もう三周の試合をこなすことに決めた。
赤井はそこからの三試合を二勝一敗とし、星月女子のレギュラーを相手に通算六勝二敗で決着した。
一年前のリベンジを果たすと共に、赤井はこの日確かな手応えを得ていた。