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第3章 交際編 1.スタートライン


「で、ヒロコ、結局どうなったわけ」

 早速、その翌日、佳美とかおりが昼休みの弘子の教室を訪れ、直撃取材した。弘子はぎこちない作り笑いを浮かべた。

「つきあうことになったわけ」

 問いかけても弘子がにこにこしているだけなので、2人は詰め寄った。

「あーんたねえ、やまっ…」

 そこで慌てて小声になって、

「山根先輩と、あの後、どうしたのよ」

 と言った。危なく大声で名前を言ってしまうところだったが、このクラスにも克彦に憧れていた子はいる。

 弘子は観念して、

「…藤棚にでも、いこっか」

 と言った。藤棚は、学校の裏門の部室棟の脇にある。

「で」

「で」

 藤棚に座るが早いか、2人は同時に訊いてきた。

「このひと月連絡がなかったのは、簡単に言うと、誤解だったわけで、だから元通り…」

「もとどおりぃ?」

 弘子が答え終わらないうちに、かおりがかみついた。

「元通りって何よ。あんたらひと月もモメて、劇的に仲直りして、またなんだかわかんないちゅーとハンパな関係に、戻っただけなの」

 弘子が困ったような笑顔をして黙っていると、佳美も、

「アンタ、私があげた電話番号とか、ちゃんと活用したんでしょうねえ」

 とかみついてきた。

「一応ね、住所を頼りに行ってみて、家の周りをウロウロしてたんだけど先輩はいなくってね、それで…」

「あ、それで先輩が、弘子が来てたって聞きつけて飛んできたわけだ」

 佳美はとにかく察しがいい。

「うん、…妹さんに見つかって…。それでバレたみたい」

「山根先輩、ホントに弘子のこと、好きなんだね~」

 佳美がしみじみと言った。

「な、なんで」

 弘子は赤くなって言い返した。

「だってさ、妹さんが弘子のこと、わかるんだよ。写真とか見せて話してるんじゃない?」

「写真なんて、一緒に撮ったりしてないよ」

 弘子はそう言ったが、一般的にそんなものはだいたいどこからともなく入手できる。

「ヒロコ、どうすんの。先輩と」

 弘子ももう隠すつもりはなかった。ためらいがちに、でもしっかりと答えた。

「…うん、OKしようかなって思ってる」

 一瞬の間の後、2人は同時に「そっか」と言った。やっぱりちょっと妬けた。

 それから佳美が思わせぶりに、

「それじゃ、私も、2人に続くとしますか」

 と言って弘子とかおりをいたずらっぽく見た。

「私も、つきあってくれって言われてるの。…つきあってみようかな」

 弘子とかおりは目を丸くした。

「えー、どこの誰、いつから」

「うん、バイト先の人。ちょっと考えさせてって言って、ひと月近く引っ張っちゃった」

「じゃあ、これで3人ともカレシもちだー」

 こんなふうに人はそれぞれ別々に相手を見つけていくのだと弘子は思い、不思議な感慨がわき上がった。そして2人の友人たちにそっと感謝した。


 克彦は和宣に報告メールを出した。

「ゴメン、前にダメだったって話したけど、あれは実は俺のカン違いで、ダメじゃなかった。でも、お互いにしばらく距離をとることになったのは、結果として良かったみたい。おまえの言うとおり、消極的というか、遠慮しすぎてたかもしれない。

 近いうち、また会おうよ。日曜日はデートかもしれないけど」

 和宣は、克彦が落ちた大学に行った。彼女ともつつがなく続いているらしい。克彦はつくづく、男としての甲斐性は和宣のほうが勝っていると感じた。

 克彦は窓から見える月をしばらく眺め、小さく恋のため息をついた。日曜日に弘子と約束をしていた。会ったらはっきりと「恋愛として会おう」と言うつもりでいた。勝ちか延長戦か、そのふたつしかない勝負。でも、何の望みもなく呼び出したあの6月よりも、ずっと緊張する気がした。

 克彦は週末までの長い日々を、進まないボートを必死で漕ぐように一生懸命過ごした。


 デート前日の土曜、テニスサークルの日を迎えた。克彦が遊びの一試合を勝ってコートを交代すると、恵梨が紙コップにお茶をくれた。

「あ、どうも」

 お茶を飲んでいると、恵梨がまじまじとその様子を観察しながら言った。

「山根くんさあ、悩みは解消されたんだ?」

 克彦は慌てて口の中のお茶を飲み込み、恵梨のほうを振り返った。

「…な、なんでしょう」

 なぜそう言われるかは察しがついていた。先週は無断欠席だったし、その前の週まではただひたすら座り込んでラケットを上下させたり、テニスボールをこねくりまわしたりしていた。その様子は、ちょっと見れば誰だって「どうかしてる」と気付くだろう。

 恵梨はからかうようなまなざしで克彦を見た。

「山根くんってもっと、女ったらしでスカした奴かと思った。フツーの男の子だね~」

 克彦は大げさに憮然としてみせた。普段は女性に対してこんな態度はしないのだが、恵梨はなんとなく気の置けないところがあった。

「何、悩んでたの? 先週来なかったから、みんな心配してたよ。ああいう奴でも落ち込むことってあるんだなー、なんて。あはは」

「ああいう奴ってなんです?」

「キミみたいに、なんでも恵まれてそうなヒトのこと」

「別に何にも恵まれてません。多少、背は高いかもしれないけど」

「キミってみんなにとって微妙になんかこう、近寄りがたいものがあったわけよ。でも、人って残酷なもので、キミが落ち込んでそうとなったら親しみがわいたみたい」

「…それはどうも」

 恵梨がサークル内の人間関係の円滑化を図っていることは明白だった。恵梨はこのサークルのムードメーカーであり、潤滑油だ。克彦は秋になってもこのテニスサークルでどことなく浮いていた。克彦自身にもその自覚はあった。

「なに落ち込んでたの? 彼女にふられたとか、そういう話?」

「彼女は――多分、いないって言うべきでしょう。それも今日までかもしれないけど」

 克彦は、つい浮かれた答えを返した。恵梨は目を瞠った。

「明日、何があるの! デート? 告白するの? じゃあ来週、結果訊くからね」

 克彦は涼しい顔をしつつも、来週、恵梨と話すのが楽しみになってきた。

 その日のサークルの後、女子一同が女子会で輪を離れたので、男子一同も別途飲みに行くことにした。

「山根、飲み久しぶりだよな~。先週来なかったし、飲みもずっと来なかったし」

 部長の中川が声をかけてきた。克彦は昼の恵梨の言葉を思い出し、恐縮した。

「すみません、ご心配かけて」

 男12人のその日の飲みは「男子会」らしく、女の話大会になった。時に猥談も混じったが、そして克彦はそういう話は苦手だったが、溶け込もうと努力した。

 克彦にも質問が飛んだ。

「おまえ、女の話しないよな~。もてるんだろー?」

「彼女何人いるんだよ~」

 普段なら「いません」で済ませるところだったが、克彦はひと言多く答えた。

「彼女はいません。今んとこ、一応」

「えっマジ? いないの?」

 その場にいた全員が驚き、克彦は説明した。

「高校1年のときに一人、短期間つきあった子がいるだけで、それからは全然縁もなんにもないです」

 本当は「今んとこ」いない、のところに食いついてほしかったが、そこは空振りだった。

 それからしばらくは巨乳グラビアモデルとAV女優の品評会になった。克彦の隣に座っていた同学年の高崎勇也はその会話に加わらず、同様に不参加の克彦に質問してきた。

「マジ、彼女いないの?」

 とにかくうきうきしていた克彦は、調子に乗って白状してみた。

「そのうちできるとこ。好きな子はいるんだよ。明日、白黒つけるから」

「うっそ、マジで?」

 勇也の声が思いのほか大きかったので、先輩たちが2人のほうを見た。勇也は、一瞬様子を窺ったが、克彦が止める風でもなかったので大きな声で言った。

「こいつ、明日、好きな子に勝負かけるらしいですよ!」

「へー!」

 ちょっとしたセンセーションだった。克彦の正体はこの半年、このサークルではてんで不明で、見た目の印象もあって「男のバカ話」ができない印象を持たれていた。自分のことを話す様子もなく、仲間内ではお高く止まったようにも感じられていた。そのイメージが気持ちよく崩れた。

「ちょっと、話、聞かせろよ~」

「相手誰、うちのサークル? …じゃあなさそうだよな」

 克彦は口々に問いかけられた。今までこんな風に男に注目されることがあまりなかったので新鮮で面白かった。しかも、その明日の勝負には「負け」がない。特定の相手がいるということは、こんなにも誇らしいものかと思った。

 克彦はその日、サークルの男連中とすっかりうちとけることができた。克彦にとって心地良い「居場所」が大学でもやっとできた。特に高崎勇也とは話が合った。

 克彦は夜遅く家に帰り、起きて待っていた母親に日付をまたいだことをたしなめられた。しかしそんなことはどこ吹く風で、

「明日、絶対に昼には起こしてよ。デートなんだから」

 と言って2階に上がった。

「はいはい、ちゃんと起こしますよ」

 母親は、そうつぶやいて電気を消した。


 克彦が目を覚ますと朝の6時半だった。もう一度寝ようとしてみたが全然眠れない。仕方なく、Tシャツとスウェットの下を着込み、スニーカーをはいて外に出た。あてもなくジョギングするなんて高校のとき以来だった。

(高校時代か…)

 走りながら、克彦は弘子と出会った頃のことを思い出していた。名前も知らなくて、必死で姿を探しながら校舎を歩き回った長い長い時間が懐かしかった。

 帰ってシャワーを浴びると、落ち着くために本を読み始めた。長い、長い午前中だった。やっと昼がすぎて、克彦は家を出た。

 弘子に会ったら、まずなんて言おうか考えた。はじめからはっきりつきあってほしいと言おうかと思ったが、それで現状維持だったら一日がっかりしてしまうから、帰る前にティータイムをとる時にしようと決めた。まっすぐ顔を見て話をしたかった。克彦も身長差が邪魔して顔が見えないことを気にしていた。

 いつものように克彦は10分前に着き、弘子は5分前にやってきた。

 弘子は、髪を上半分綺麗に編んで、下半分はそのまま背中におろして、小さな花柄のワンピースを着ていた。それまでは「決しておしゃれをしてきたわけではない」と言いたげな少し地味な格好だったが、この日ははっきりとおしゃれをしていることがわかった。

「そういうの似合うね。可愛いよ、すごく」

 克彦がいきなりそう言ったので、弘子は真っ赤になって冷汗をかいた。おしゃれはしてきたつもりだったが、そういう決意が伝わってしまうのは恥ずかしい。

 その日は絵を見に行った。弘子のお気に入りの新進イラストレーターで、克彦をつきあわせるのは申し訳ないような、動物をモチーフにしたパステルタッチのイラストの展覧会だった。入場料は別々に払った。

「なんだか、気が引けるな」

 一人分の料金を払いながら克彦が言うと、弘子は、

「今までは私が気が引けてたんですから、おあいこです」

 と返した。

 克彦は、弘子がひとしきり気に入って眺めていたイラストのプリントされたハンカチを買ってプレゼントした。

「こっちのほうが、入場料より高いじゃないですか」

 弘子は怒ったような顔をしたが、目は嬉しそうだった。

「先輩も、ピンクのハートのついたうさぎちゃんのハンカチ、さしあげましょうか?」

「似合うかな?」

「案外、似合っちゃいそうでイヤかも…」

 2人は笑いながら会場を出た。克彦は勝利を確信した。いや、弘子の服装を見たときから確信していたといってもいい。その日はすっかり余裕でいられた。

 余裕がなかったのは弘子のほうだった。克彦の態度が全く変わらないのを見て、弘子は明るく振舞いながらもだんだんイライラしてきた。

(もしかして、このまま? 現状維持? 進展なし?)

 言葉が途切れるたびに、克彦の言葉の調子がちょっと変わるたびに、周りにひと気がなくなるたびに、弘子は何か言葉を期待した。けれど、克彦は余裕の表情で、何を言うでもなくただ優しい。次第に待っている自分が悲しくなっていく。

 克彦は克彦なりに計算をしていた。おしゃれな喫茶店を見つけたので頃合だと思い、

「ここ、可愛いお店だね。お茶でも飲む?」

 と言った。

「はあ、なんでもいいです…」

 弘子はもう投げやりな気分になっていた。

 克彦が先にドアを開けようと店に近づくと、ドアのガラスに弘子が映っていた。その顔を見て、克彦はびっくりした。弘子は映っていることに気づかないまま、感情に任せて克彦の背中をにらんでいた。

(俺、なんかしたかな?)

 克彦は背中に冷汗をかきつつドアを開け、弘子を導き入れた。向かい合って座ると、弘子は努めて感情を押し殺して、穏やかに自分をとりつくろった。克彦は、とっかかりのつもりで旅行の話を始めた。

「先週ね、俺、新潟のほうをずっと歩いて旅してたの。斉藤さんにおみやげ、買ってこなくてごめんね。越後湯沢まで行って、それから『ほくほく線』っていうのに乗って…」

「いろいろ、大変だったんですね」

 弘子の声がどことなく冷たかったので、克彦は言葉を止めた。

「こういう話、つまんなかった? ゴメンね」

 弘子は黙っていた。

「どうしたの?」

 克彦が訊いても、弘子は、

「…いえ、別に…」

 としか答えられなかった。自分でもなんでこんな態度をとるのかわからない。それでも自分を取り繕えない。

「あの…さ。斉藤さん、俺、なにか怒らせるようなこと、した?」

「してませんよ、なんにも」

(そう、なんにもしていない。なんにも言ってくれない。だから…)

 弘子はちょっと泣きそうになって、唇をかんで我慢した。急に変わった弘子の表情を見て克彦は驚いた。

「斉藤さん、あの、何かわかってほしいと思ってるんだったら謝るよ、でも、俺、鈍感だから、言ってもらわないと、わかんない…」

 弘子は、なんとか理性で感情を押さえ込もうと努力して、やっと少しだけ言った。

「先輩は、このまま、…ずっと、このままでいるんですか」

 克彦は、弘子の言う意味をすぐに察した。でも自信が持てなかった。弘子の様子をうかがいながら、とりあえず言葉を返した。

「…いや、このままなんて…」

(このままって? このままってことでしょ? 違うのかな? このまま、中途半端な関係じゃなくて、ってこと…じゃなくて?)

 克彦は戸惑った。弘子はもうそれ以上言う気はなかったので、うつむいて黙った。

「…あのさ、的外れなこと、言ってたらゴメン…。えっと、なんて言ったらいいか、うまく言えないけど、その…」

 やっぱりすごく的外れなことを言っているような気がして、克彦は弘子の顔を盗み見たが、何も察することができないほど無表情だった。

 克彦は、弘子の顔色を探るのをやめて、深呼吸をした。

「俺、今日、ずっと言おうと思ってたことがあるんだよ。もう先週から、ちゃんと決めてたの。ちゃんと聞いて。そして、今度はちゃんと、返事をして」

 弘子の胸が大きく脈打った。ずっと待っていた瞬間が目の前まできていた。

「この前は、俺のカン違いで斉藤さんに不安な思いをさせちゃってゴメン。それでね、…もう、そういう誤解で簡単にグラグラするような関係でいるのは、イヤなんだ」

 克彦は心の中で「斉藤さん、そういうことでしょ?」とそっと声をかけた。

「だからもう一度、ちゃんと言わせて。…俺、キミのことが好きです」

 弘子の瞳が、打たれたようにかすかに揺れた。

「それから、これをまだ、一度も言ってなかったんだよね。…俺と、つきあってください。…俺の彼女になってください。…お願い」

 克彦はまっすぐ弘子を見て返事を待った。自信があったつもりなのにドキドキした。自分の手元に視線を落とした弘子の口は開かない。克彦は不安になって言葉を継いだ。

「まだ返事ができないなら、無理しなくてもいいよ」

 弘子は慌ててかぶりをふった。動いたら、金縛りが解けたように楽になった。

「いえ、そうじゃなくて、私も、あの、今みたいな関係は、もう、終わりにしたいなって、あ、だからその、終わりっていうのは、そういう意味じゃなくて、あの…」

 弘子はまるっきり上手く言えなかった。克彦は、もう弘子の返事を痛いほど深く受け取っていたが、ちゃんと肯定の返事がほしくて助け舟を出した。

「斉藤さん、YESかNOかで答えて。それだけでいいよ」

 弘子は克彦を見上げた。優しい瞳が見返していた。

「…俺の彼女になってくれる?」

 弘子は「はい」と言おうとして唇を開いたが、声が出なかった。何度か声を出そうとしてもダメだった。とにかく意思表示だけはしないといけないと思い、深くうなずいた。そのままうつむいていると、「ありがとう」という克彦の声が頭の上から聞こえた。

 弘子はおそるおそる顔をあげ、克彦を見た。心配そうにのぞきこんでいた克彦が笑顔になった。弘子はそのきれいな瞳に呆然とした。自分の身には絶対に釣り合っていないと改めて思った。

「ね、…それで、俺、OKしてもらえたら、お願いしようと思ってたことがあるの」

「は、はい!?」

 緊張のさめやらぬ声で弘子は返事をした。

「うん、あのね、『斉藤さん』じゃなくて、名前で呼んでもいい?」

 弘子が恥ずかしくて慌てふためいていると、克彦は、

「ね、いいでしょ、弘子さん」

 と言った。弘子は、ただうなずくしかできなかった。

「弘子さんは、俺のこと、名前で…」

「えっ! いえ、あの、私は、いいです、このままで」

「あ、そう…。残念…」

 少し落ち着くと、克彦が急に言葉の調子を変えた。重い声だった。

「実はね…弘子さんがOKしてくれたら、言わなきゃと思ってたことがあるんだ」

「えっ…な、なんでしょうか」

 弘子は一気に現実に戻った。聞いたら克彦との交際を断りたくなるようなことだったらどうしようと思い、不安にかられた。克彦は慌てた。

「べつに、深刻なことじゃないんだけど、キミの友達のことで」

「友達? ですか?」

 弘子は克彦の顔を凝視した。克彦は話し始めた。

「…あのさ、池内さんって、いるでしょ」

「佳美ですか?」

「下の名前までは覚えてないけど、いつも一緒にいる子のうち、おとなしい子の方」

「ああ、佳美です」

「ホントは口止めされてたんだけど、やっぱり、弘子さんが困るんじゃないかと思って。それで弘子さんと池内さんがどうこうなっちゃ困るんだけど、でも、やっぱり…気を遣ってあげたほうが、いいと思って…」

 察しの悪い弘子でもピンと来た。戸惑う時間もなく克彦の声が事実を告げてきた。

「…あのね、俺…池内さんに、告白されてるんだ」

 弘子はショックを受けた。佳美が「山根先輩とつきあった方がいい」と電話をかけてきたこと、克彦の連絡先のメモを渡してくれたことが頭を次々によぎった。そういえば佳美は、冗談めかしはしても、山根克彦への好意を冗談だとは一度も言わなかった気がした。

 ――あの日、家の電話が鳴り、「テニス部の池内さんから」と言われて克彦は電話をかわった。佳美から電話が来たことは在学中にもなくて、それが初めてだった。

「池内さん、どうしたの? 突然でびっくりしちゃった。…斉藤さんのこと?」

 克彦は思わずそう問いかけた。少し間があって、佳美は静かに答えた。

「…私が用があっちゃ、いけないですか?」

「ゴメン、…そんなつもりじゃなかったんだけど…あれ、それとも、斉藤さんは、内緒にしてたのかな…」

 あわてた態度で克彦は言った。佳美は落ち着き払っていた。

「いいんです。知ってます」

「…ゴメン。ホントに。…なんだろう、用って」

「先輩が弘子を好きなのは知ってます。ジャマしようとか、そういうんじゃないんです。でも私、このままじゃ弘子のことを応援できないから、けじめをつけようと思って」

 用件はそれだけでわかった。克彦は女の子からの告白で初めて冷や汗をかいた。相手の気持ちも考えずに、いきなり好きな子の名前を言ってしまうなんて、とんでもない失態だ。

「山根先輩。私、入部したときから、先輩のことが好きだったんです」

「ありがとう。…返事は、したほうがいいのかな」

「いえ、…いいです。先輩は、弘子のことが好きなんですよね」

「それは、俺の口から答えてもいいのかな」

「…」

「俺は、斉藤さんが好きだよ。これだけは絶対に、誰にも譲れない。ゴメンね」

「いいんです。本当は、うすうす気がついてたんです。ずっと前から。地区大会で、先輩、弘子の方ばっかり見てたから…。あと、先輩が、私とかおりだけ呼び出して川上先輩とはなんでもないんだって言ったじゃないですか。あのとき、絶対におかしいなって思って、それからなんとなく…弘子なのかなって…」

 佳美は饒舌だった。「ずっと気付いていた、だから大丈夫だ」と伝えようとする声の響きがかえって痛々しかった。

「あの、山根先輩。私が今日電話をしたことは、弘子には言わないでください」

「…池内さんが、そうしたいなら…」

「先輩はわかってますよね、弘子が先輩のこと、迷ってるって…」

「うん、わかってる」

「私が先輩のこと好きだったって知ったら、弘子は先輩とつきあえないと思います。そういうふうに弘子が気持ちを決めるのは、フェアじゃないと思います」

「俺は、なにも言えないよ。それは、斉藤さんの気持ちの問題だから…」

 言いながら、克彦は自分を嘲笑した。そんなのは嘘だ。本当は、佳美に「だったら、斉藤さんには言わないでほしい」と恥も外聞もなく懇願したいくらいだった。

「私は、弘子には言いません。先輩も言わないでください。私は、これから弘子と先輩がつきあうことになっても、普通にしています。だから、私の気持ちのことは今日で終わりにしてください。すみませんでした、お時間取らせて」

「…ゴメンね、ホントに、その…。はじめから、失礼な態度で…」

「いえ、いいんです。私、気にされるの嫌いですから。弘子と一緒のときに顔を合わせても、私に気を遣ったりしないでください。そういうのはみじめです。私のことは、この電話を切ったら終わりでいいですよね」

「うん、…ありがとう」

 それが一連のやりとりだった。克彦は佳美に最大限の配慮をしたうえで大まかに状況を弘子に話した。弘子は深い海に沈んでいくような気分で聞いた。心が痛んだ。

「弘子さん」

 弘子は克彦の強い声に驚いて、びくっと顔をあげた。

「キミは今、俺にOKの返事をくれたんだよ。それを撤回したりしないで」

 弘子は困り果てた。こんなことがあったのなら、簡単にOKなんかできない。

「俺…、池内さんのこと、隠しておくわけにいかないと思ったんだよ。キミが何も知らないせいで友達を傷つけることになって、そのせいで自分を責めたりしたら、俺もつらいから。俺、弘子さんのこと、ホントに好きなんだよ」

 弘子は戸惑った。佳美はバイト先の人とつきあうことにしたと言っていた。克彦を忘れるために無理をしているのかもしれない。

「…弘子さん、俺、言わないほうが良かったの? 今から、実は嘘だったって言ってもいい? でも、キミの幸せを考えたら、友達も大切にしてほしいから…。池内さんはすごくしっかりした子で、きっといい友達だと思ったし、だから…」

 弘子は、やっと小さな声でつぶやいた。

「…すみません、もう一日だけ、考えさせてください…」

 克彦は愕然とした。

 2人は黙って喫茶店を出た。弘子が財布を出すと、克彦はそれを無言で制した。弘子は逡巡したが、押し問答をする気力はなく、そのまま黙って財布をしまった。

「俺は、また、斉藤さんって呼ばないといけないかな」

 弘子は黙っていた。心底困惑していた。2人は並んで駅までの道を歩きだした。

「また、そうやって黙っちゃうんだね。いつも、俺ばっかり一生懸命で…」

 返事がなかったので、克彦は苛立った。

「ねえ、弘子さん。返事くらいしてよ」

 克彦の怒った声を初めて聞いて、弘子は慌てて顔を上げた。

「池内さんの気持ちばっかり考えないでよ。俺の気持ちも考えてよ。俺、どこまで一生懸命になればキミに認めてもらえるの?」

「…すみません…」

 駅前の広場で克彦は急に立ち止まり、

「池内さんの電話番号、教えて」

 と言った。弘子はあっけにとられたが、すぐに手帳を出した。克彦はそれを見せてもらいながら電話をかけた。

「もしもし?」

 佳美の声が返った。克彦は落ち着いて切り出した。

「もしもし、池内さん、山根です。ゴメン、電話なんかして」

「山根先輩? あ、弘子となんかあったんですか?」

「…鋭いね、いま、ちょうどなんかあってる最中。ホントにゴメン、電話なんかして」

「どうしたんですか?」

「俺ね、君との約束、守れなかったの。ゴメン。…俺には俺なりの、誠意っていうか…そういうのがあって…、斉藤さんにね、君のこと、話しちゃったんだよ」

「先輩ならそうするんじゃないかって思ってました。でも、…だから言ったのに。弘子、先輩とつきあわないって言いだしたりしませんでした?」

「うん…だいたいそんなとこ」

 弘子はうつむいた。佳美は弘子よりずっと克彦に詳しく、そして克彦よりもずっと弘子に詳しい。そのことが、電話に向かって話す克彦の言葉から伝わってくる。

(私たちって、なんて、相手のことがわかってないんだろう…)

「弘子さん」

 目の前に電話が差し出されて弘子は戸惑った。

「池内さんが、弘子さんに話したいって」

 弘子はおずおずと電話を受け取った。

「…佳美」

「ヒロコ、バーカ。私は別に男作るから、いいって言ったでしょ。そもそも、私ははじめからあきらめてたんだからね。先輩を困らせないでよ」

「…でも…」

「私は、山根先輩に告白してからもう一ヶ月もたってるの。アンタみたいに、たかが連絡をくれない理由を訊きに行くのに一ヶ月も悩むようなゆっくりした時間の使い方はしないの。私はこの一ヶ月でしっかり切り替えて、ちゃんと別の男に乗り換えるの。…聞いてるの? ヒロコ」

「聞いてる」

「アンタがそうやってると、私の仁義がまっとうできないのよ。聞いてるの?」

「…いやあの、だから…、佳美が一気にしゃべるから、相槌も打てないんだよ…」

 克彦は不謹慎ながらちょっと吹き出した。基本的に動揺したり困ったりすると弘子は口が回らなくなるらしい。佳美に頼ることにしたのはどうやら正しかった。自分ひとりで結果を出せないのは情けないが、佳美は頼もしかった。

 弘子はひとしきり佳美にやっつけられた。

「今から山根先輩に謝って、ちゃんと返事しなさいよ。OKするんでしょ。あんた義理とか正義とか好きな割に、誠実じゃないんだよね。アンタが山根先輩とつきあわないんだったら、私も当てつけで、バイト先の彼、ふっちゃうからね」

「…佳美…、あの…」

「わかったの? 一ヶ月遅いの。ひと月前のことなんかでうじうじ悩んで、先輩に愛想つかされないようにね。ちょっと、先輩に電話戻してくれる?」

「あのね、佳美、…あの、ありがとう」

 弘子は必死でお礼だけは言えた。電話を返すと、克彦も佳美に礼を言い、

「うん、そうだね…手におえないかもしれないけど、…頑張ってみる」

 と言って電話を切った。

「弘子さん。…反省した?」

 緊迫感は消えていた。弘子は首をすくめ、所在なくうつむいて視線を泳がせた。

「俺、何度言ったらいいの? もう…。…俺の彼女になってください」

 克彦は弘子を正面から見据えて言った。弘子は戸惑った。返事に窮していると、克彦の手が両肩をそっと捕まえて、かがみこむようにして顔を至近距離からのぞきこんできた。すでに夕方になったオレンジ色の光が二人の顔を半分だけ照らしていた。

「もう、じらさないで。答えてよ」

 弘子がそのまま足元を見つめていると、克彦の足が前に出るのが見えた。あれっ、と思うより先に、抱きしめられていた。

「弘子さん…」

 克彦の甘い声に、弘子は気が遠くなりそうだった。平衡感覚がなくなりかけ、ためらいながら克彦の背中に浅く手をかけた。背中のカーブが触れて恥ずかしかったので、服をつかんだ。克彦は弘子の手が触れたのを感じ、体中が熱くなった。

 そのまましばらく幸せを味わったあと、克彦は少し腕を緩めて、

「返事をして。…つきあってくれるよね、俺と…」

 とささやくように訊いた。

「…はい」

 小さすぎる声で、けれどしっかりと返事は届いた。弘子は自分の声を隠すように、そして自分も隠れるように、克彦の背中を強く引き寄せた。克彦はもう一度、胸の深いところに弘子を抱き寄せた。

 やっと、スタートラインに立つまでの、長い長い道のりが終わった。

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