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第2章 アプローチ編 4.大逆転


 夏休みが終わった。もうひと月以上、克彦からの連絡はなかった。弘子には自分に言い聞かせる言い訳が一つもなくなっていた。

 弘子は克彦に会いに行きたいと思っていた。あるいは物陰から見て、克彦がすっかり明るく過ごしているのならそれであきらめてもいい。もしもチャンスがあれば、連絡をくれなくなった理由を訊いてみたい。けれどそれを友人たちに頼る勇気はなかった。

 なんとなく一日一日が終わり、なんとなく帰る…そんな日々だった。毎日、渡り廊下を通るたびにテニスコートが見えた。高校時代にちゃんと出会っていたら、どうだったろうと考えたりもした。

 その日も弘子は一人で帰ろうと渡り廊下を通っていた。本当は吹奏楽部がある日で、まもなくコンクールなのに、体調不良と言って練習を休んでいた。テニス部はどうやら休みで、誰もいないテニスコートをぼんやりと眺めていると、後ろから声をかけられた。

「ヒーロコ。なに、やってんの」

 佳美だった。弘子は慌てた。何を考えていたか、すぐに見抜くだろう。

「ああ、うん、帰るとこ」

 そう言って弘子は歩きだした。

「まだ、連絡ないんだ」

 佳美はやっぱり気付いていた。

「…うん…」

 それだけ答えた。もう強がる気力はなくなっていた。克彦のことばかり考えて過ごしたこのひと月は、弘子にとって重いものだった。

「素直になりなよ。なんでこうなったかわかんないんだったら、ちゃんと訊いてみなよ」

「ん、…もういいの」

「ヒロコ」

 佳美の口調が少し厳しくなった。

「あんたの、その、一方的に好かれてなきゃ嫌だっていう態度、すごいムカつくんだけど。自分で何の態度も示さないで、なんで相手が連絡してこなくなったら落ち込むわけ。先輩の肩を持つ気はないけど、公平に見て、アンタが卑怯だって言ってるの。誘われるなら仕方なく行きますが、私は電話もしないしOKもしませんって、そんな態度じゃ、好きだって、退くしかないじゃん。連絡先も訊かないでさ、アンタのほうが先輩を弄んでたんじゃないの」

 佳美は憮然とした。弘子は無反応で、聞いているんだか聞いていないんだかちっともわからない。仕方なくしばらく黙っていたら、弘子がぽつりと言った。

「…佳美」

「なに」

「…会いに行って、嫌な顔されたら、どうしよっか…」

 佳美は即座に手帳を出し、メモをちぎって弘子に渡した。そこにはあらかじめ、山根克彦の住所と電話番号が書いてあった。

「アンタがそう言いだしたらすぐに渡せるように、書いておいたの」

 弘子はすぐに受け取れなかった。受け取ることは勇気が要った。

「ヒロコ。いい加減にしなさいよ。山根先輩は、ちゃんと、話、してくれるよ」

 弘子はおずおずと受け取り、その紙片を大切にたたんで手帳にはさんで持って帰った。

 会いに行こうと思った。自分の感情の正体は今もってわからなかったが、たったひとことを伝えたかった。

「先輩がいなくなって、淋しい」


 弘子は、ちょっと弘子っぽくない服装に身をやつして、克彦の家を探しに来た。佳美のメモに電話番号も書いてあったが、家族のいる自宅に電話をかける度胸はない。心も道も迷いに迷ったあげく、なんとか佳美のメモの住所付近までたどり着くことができた。克彦は土曜がサークルだと言っていた。日曜日ならいるんじゃないか、そう思って選んだ9月はじめの日、空はまだ真夏の雲が広がっていた。

 電柱やブロック塀の角にある番地のプレートを探しながらしばらく歩き回ると、番地の数字が近づいてきて、少し先にこれみよがしに綺麗な広い家が見えた。

(まさか、このうえ家まで金持ちなんてこと、ないでしょうね…)

 しかし、どうもそのまさかだった。メモどおりの番地と、「山根」の文字が見えた。

「うわ」

 弘子は思わず声に出した。3階建てで、レンガ色のおしゃれな家。白い塀、装飾された門、芝生、出窓。〝豪邸〟よりは小ぶりだが、リッチな家であることは間違いなかった。

(王子様にも、ほどがあるよ…)

 弘子は苦笑した。克彦には、一体何が備わっていないのだろう?

 あいにく、インターホンを押して「山根克彦先輩はいらっしゃいますか?」とやる勇気はなかった。弘子はひたすら克彦の家の様子を探り、克彦が出てくるのを願った。

 その頃、山根夏実は化粧品の紙袋をぶら下げて帰宅途中だった。ぴったりした七分丈の赤いパンツをはき、少しおなかが見えるくらいのシャツを着て、化粧品ブランドの黄色い紙袋を下げている姿は格好よかった。夏実はそんな自分を誇るように、気取って歩いていた。

 自宅に近づくにつれ、怪しい人物が家をうかがっていることに気がついた。男の子っぽい服装をしていたが、すぐに女の子だとわかる。

「おや、久しぶりにアニキの追っかけか?」

 夏実はそうした人物を必ず追い払うことにしていた。どうせ兄に相手にされないくせに追っかけ回している邪魔な女に決まっている。近づいていくと、背が小さい。夏実より10センチは小さい。後生大事に手に持っている住所と電話番号のメモが目に入った。

「あのー、すみませーん、この家の者なんですけど、なんか用ですか?」

 弘子はびっくり仰天して振り向いた。見知らぬ女の子が弘子を見下ろしていた。克彦を地味に均したような顔で、すぐに妹らしいと結論し、弘子はあわてた。

 夏実は弘子の顔を見て、「あれ?」と思った。

(なんか、見たことがあるような、ないような?)

 とりあえず、夏実は迎撃態勢をとった。

「アニキは、今、いませんよ。旅行中です」

「旅行」と言ったとき、頭にぱっとある映像が浮かんだ。

(…こいつ、アニキの机の上の写真だ!)

 克彦は数日前、「傷心旅行に出てくる」と言って、その「机の上の写真」と寝袋を持って出て行った。夏実は、おろおろしている弘子に腹を立て、さらに攻撃を仕掛けた。

「アニキは、なんかよっぽどつらいことがあったらしくて、ウチを出て行ってしまいました。いったい、いつ帰ってくるかはわかりません。何度来ても無駄ですよ」

 仁王立ちになって押し黙った夏実の剣幕を察知して、

「そ、そうですか。すみませんでした」

 と言って、弘子は一目散に逃げ出した。夏実はその後ろ姿に「二度と来るな」と思いっきり舌を出した。

(なによ、よりを戻しに来たのかしら。ムカツク)

 夏実は自分の部屋に戻り、買ってきた化粧品をベッドの上にばらまいた。

 弘子は炎天下をとぼとぼと帰宅した。呆然と自宅に戻ると、母親が、

「あら、かおりちゃんから電話があったわよ」

 と言った。弘子がかおりの携帯電話にかけると、佳美と買い物をしているから来ないかという。克彦はいないようだとわかったので、一旦あきらめて、気分転換に出かけることにした。

 友人たちとセールスの洋服やアクセサリーを漁り、喫茶店で小休止して、それから雑貨屋を回った。3人とも両手に袋をいくつもぶら下げてショッピングモールを出ると、おしゃべりをしながら電車に乗り、3人で最寄り駅に帰ってきた。

 その頃、山根家には寝袋をかついだ克彦が帰還していた。出かけたときよりいくらかさっぱりした表情になった兄を見て、夏実はやはり、弘子が来たことは言うまいと思った。

「えー、どこ行ってたの、どこ行ってたの」

 夏実は兄にくっついて2階に上がった。

「ん、北のほうだよ。そのほうが涼しいし、なんか傷心旅行っぽいじゃない? 情熱の国に向かっちゃダメだよね。感じ出ないし」

 そう言いながら克彦がリュックの中から出したものを見て、夏実はびっくりした。

「ちょっとアニキ、それ、捨ててくるんじゃなかったの?」

 克彦は机の上に弘子の写真の入った写真立てを戻した。そして位置をちょっと直して、夏実を振り返った。

「次に誰かを好きになるまで、ずっと好きでいちゃダメかな?」

 夏実はしばらく二の句が継げなかった。夏実にかまわず、克彦はリュックから使用済みの衣類を次々出し、床に放った。

「…アンタ、なにしに行ったの…」

 妹の声を背にリュックの底をさらいながら、克彦は目を伏せて笑った。

「現実逃避。結局、逃げきれなかったけど」

「アニキさ、斉藤さんと、なにがあったの」

「…ん、ふられただけだよ。終わりにしようって言われたの」

 たしかに傷心旅行の効果はあった。克彦は未練を洗い流して、「思い出をありがとう」というさわやかな気持ちになっていた。

 夏実は、もう黙っていられなかった。

「アニキ、もう、チャンスって、ないと思う…?」

「え、何の?」

「斉藤さんと、うまくいくチャンス」

「さあね…。少なくとも俺からはもうしつこくできないでしょ」

「ちょっとその写真、貸して」

 夏実の申し出に、克彦は慌てて写真をかばった。

「おまえまさか、兄に代わって写真を破いて捨てるとか言いだすんじゃ…」

 夏実はため息をついた。

「確かめたいことがあるだけ。はい、貸して」

 克彦は渋々夏実に写真立てを渡した。夏実は写真をよく見た。たしかに、この顔だった気がする。

「アニキ、斉藤さんて、背、どのくらい」

「うーん、普通の女の子より、小さいんじゃないかなあ。夏実はいくつ?」

「162」

「…じゃあ、150くらいかな?」

「多分間違いないな」

 夏実は写真を克彦に返し、克彦は写真を机の上に戻そうとした。そこに背後から夏実の銃撃を受けた。

「今日、来たよ。斉藤さん。ウチの住所と電話番号が書かれたメモ持って、ウチをのぞいてた」

 恐竜の神経を痛みが伝わるような遅さで、克彦の脳に信号が届いた。

「…え、と? 来た、って? 何しに?」

 そして事態をやっと飲み込み、電光石火で振り返った。

「斉藤さんが来たの? 何しに?」

「そんなの知らないよ。新聞の勧誘とか、町内会の集金ではないだろうねー」

「たまたま、通りかかったわけじゃ…」

「だから、メモを持ってて、ウチの住所が書いてあったって言ってるでしょうが~」

 克彦はそのまま3秒間ほど立ち尽くし、それからものすごい勢いで部屋を出ていった。そしてあっけにとられる夏実の前に再び戻ってきて、タンスから下着とTシャツを出した。そしてまた、ダッシュで部屋を出ていった。

 夏実はだんだんおかしくなってきて、声を出して笑った。傷心旅行はあっさり無駄になったらしい。夏実は弘子の写真を一瞥して克彦の部屋を出た。

 克彦は猛然とシャワーを浴び、冷房で汗を飛ばしながら服を選び、ダッシュでオレンジのポロシャツを着てジーパンをはいた。そして慌てて髪を乾かし、ポケットに財布と電話を突っ込み、急いで家を出た。小走りで電車に飛び乗り、弘子の家のある駅に向かった。

 電車の中で、克彦は一生懸命弘子が来た理由を考えていた。

(俺に会いに来たの? でも、なんで?)

 電車を降り、改札を抜けた――その瞬間、克彦は転倒しそうになった。見計らったように弘子たち仲良し3人組が目の前で立ち話をしていた。克彦は慌てて駅のコンビニに飛び込み、立ち読みするふりをしながら弘子が一人になるのを待った。

 克彦は最善を尽くしたが、女の子の立ち話がすぐに終わると思ったのが間違いだった。30分でとうとう力尽き、結局3人一緒にいるところに乗り込むことにした。

 克彦は緊張しながら3人に近づいた。弘子がほぼ背中を向けていたので、佳美が最初に克彦に気付いた。

「…山根先輩」

 その声につられてかおりが顔を上げ、弘子はそのまま動かなくなった。克彦は「テニス部の先輩」の顔を装った。

「久しぶりだねー。キミたち、ホントに仲がいいんだね。みんな同じ駅なの?」

 こういうときはだいたいかおりが答える役回りになっている。

「あ、中学から一緒なんでー」

「そっか」

 すぐに佳美が「そろそろ、帰ろうか」と言い、かおりもすぐに察して「うん、帰ろう。じゃあね、ヒロコ」と言って地面に降ろしていた紙袋を拾った。弘子だけは凍りついたように動けなかった。

 佳美とかおりはその場を離れ、あとには克彦と弘子だけが残された。

 克彦は弘子の後ろに立ったまま、どう話しかけようか迷っていた。弘子は克彦が何か言うのを待っていた。克彦がこの駅を「偶然」使うことはない。自分に会いに来たことはわかっていた。

「斉藤さん」

 克彦の声に、弘子は動揺と同時に安らぎのようなものを感じた。会いに来てくれた理由はまだわからないが、それは幸福な出来事に違いなかった。

「買い物? 迷惑じゃなければ、手伝うよ。持って帰るんでしょ?」

 弘子が立ち尽くしていると、克彦は地面に降ろしていた弘子の紙袋をみんな拾った。

「とりあえず、歩こうよ」

 2人は並んで歩きだしたが、どっちも何も言わなかった。弘子の家が見えてくると、克彦が一言だけ言った。

「ちょっとだけ、話、できないかな」

 弘子は「はい」と言おうとしたが、声が出なかったので黙ってうなずいた。

 克彦は門の外で待った。弘子は、小さな声で「ちょっと、置いて来ます」とだけ言って、たくさんの紙袋を持って家に入った。

 弘子は汗をかいた服を脱いで、さっとシャワーだけ浴びた。本当は髪も洗いたかったのだが、長くてなかなか乾かないだろうからあきらめた。

 克彦がぼんやりと、でもそう悪くない気分で待っていると、

「…なにか、御用ですか?」

 という声がした。振り返ると、すらりとした女性が立っていた。弘子と似ていなかったので、克彦は少し慌てた。

「あ、すみません。弘子さんを待ってるんです」

 恐縮しながら言うと、女性は、

「そうですか。失礼しました。すぐ来るようにせかしておきますね」

 と穏やかな営業スマイルをたたえて弘子の家に入っていった。

(ちょっと歳の離れたお姉さんがいる、…って言ってたかな…)

 弘子は高2、今の彼女はOLといった感じだった。22歳としても、5つは違う。たぶん、もう少し違うだろう。克彦は似ていない姉妹を頭の中で並べてみて微笑んだ。

 それから少しして、うつむき加減に弘子が出てきた。

「すみません、お待たせしました」

 前髪が少し濡れていて、服が変わっていた。克彦はその伏せた目と濡れた髪に胸がすく思いをした。着替えてきたことにもドキドキした。会ったら、やっぱりどうしようもなく可愛いし、そして綺麗だと思った。

 2人は黙って駅前の公園へ向かい、遊歩道を並んで歩いた。あたりは薄暗くなっていた。

 克彦が沈黙をやぶった。

「…今日、妹が、君をうちのそばで見たっていうんだけど…」

 弘子はぎくりとした。妹に自分の素性がわかったはずはないと思って、返答に困ってうろたえた。

「来てくれたの?」

 克彦は立ち止まった。弘子もそのまま立ち止まった。後ろからジョギングの足音がしたので、2人は池の柵のほうに寄った。克彦は柵に手をかけた。

 克彦は、弘子が黙っているので静かに話を進めた。

「でも、キミは、俺とのこと断ったのに、どうして…」

 弘子がはじかれたように顔を上げた。克彦の後ろに街灯があり、弘子からは克彦が少しシルエットになっていた。克彦からは、弘子の顔は照らされてよくわかった。

「断ったって…」

 弘子は次の言葉が出てこなかった。青天の霹靂だった。そんな結論を出した覚えは全くない。一方で克彦も、弘子の意外な反応に戸惑って言葉を見つけられなかった。

 弘子はなんとか言葉をつないだ。

「断ったって、いつ…。私、そんなつもり、全然…」

 克彦は驚いて言い返した。

「え、だって、喜べないって、重荷だって、ちゃんとしようって、今まですみませんでしたって…」

 そしてふと、どこにも決定的な拒絶の言葉がないことに気がついた。

 弘子はあっけにとられ、それから唇を開いて、震える声でやっと言った。

「だから、言ったじゃ、ないですか。『デート代は払います』って」

 その一言が堰を切った。弘子は一気に気持ちを吐き出した。

「私、…一方的におごってもらうのが重荷で、そんなんじゃ、何度も会ってたら嫌になっちゃうから、これからはデートはワリカンにしようって、私、男の人が出すの普通だなんて思えないし…。私には私なりの、先輩に対する誠意っていうのがあって、だから、今日の分は払います、次は、ちゃんとワリカンにしましょう、って、そういう、…」

 克彦はそのときのことを必死で思い出そうとした。けれど、あまりに激しいショックに打たれながら聞いていた言葉だったので、うまく思い出せなかった。

(とにかく、俺の勘違い?)

 それだけは理解できた。克彦は呆然と弘子の震える声を聞いていた。

「そしたら、先輩が帰っちゃって、私は…まだ、次の約束をしてないのに、おかしいなって思って…。私、ずっと、先輩から、なんで連絡が来ないのかなって思って、…」

 弘子は涙をこらえきれなくなった。友達の前でも泣いたことなんかないのに、涙が一気にたくさん流れ落ちた。

「先輩から連絡来るの待ってたんです。ずっと待ってたのに連絡が来なくて、なんでかもわかんなくて、どうしようもなかったから、今日、私、先輩に、なんで何も言わずにいなくなったのかって、訊きに行ったんです…」

 弘子は慌ててハンカチを探って顔に当てた。その瞬間、緊張の糸が切れた。ハンカチに顔をうずめて、弘子は自分でもみっともないと思うほど声を漏らして泣いた。なんでこんなに泣けるのかわからなかった。

(ただの誤解だったんだ…)

 弘子はホッとしながら、会えなかったひと月を惜しんでいた。もっと会いたかった。けれど、会いつづけていればきっと気付かなかっただろう。

「…ゴメン、俺…」

 克彦は、自分をいくら責めても責め足りなくて、何も言葉が思いつかなかった。弘子が待っていたと言ってくれた。自分のために泣いてくれた。なんだか夢みたいだった。

「ホントに、ゴメン、もう、それしか…。ゴメン、泣かないで」

 弘子は、自分を照らしていた水銀灯が急に翳ったので、不思議に思って少しだけ顔を上げた。いつの間にか目の前に克彦の胸があった。

「泣かないで、お願い…」

 克彦の腕が恐る恐る背中に回るのを感じた。自分でも不思議なほど自然に、弘子は体の力を抜いた。克彦は、弘子が体を委ねたことに気付いて、抱きしめる手に力をこめた。


 克彦は弘子を家の前まで送り、次の約束をして帰っていった。弘子は克彦の姿が見えなくなるまでぼんやりとその背中を見ていた。克彦は弘子の視線を感じて、かえって振り返れずにまっすぐ歩いていった。

 弘子は克彦の腕を思い出して、胸に痛いような衝撃をおぼえた。夢見心地で家に入り、そのまま居間に行くと、姉の美佐子が猛烈な勢いで立ち上がって弘子に迫ってきた。

「さっきの誰? 誰? 誰、誰?」

 弘子は渋い顔をした。美佐子は23歳、弘子と違って見かけも性格も華やかだ。弘子はずっと、克彦の存在を姉に知られるのを恐れていた。

「弘子~、答えなさいよー」

 美佐子が乗り出すと、母親が新聞を読みながらかわりに答えた。

「弘子の彼氏でしょ。お姉さんなんだから、みっともない真似はやめなさいね」

 弘子は「彼氏じゃないよ(まだ、多分)」と言おうとしたが、姉のほうが早かった。

「だって、結構、というより相当カッコいいおニイちゃんよ?」

 弘子は「悪かったね、カッコいい男だと私の彼氏じゃなさそうで…」とむくれた。母は、

「弘子ちゃん、こないだおっきな花束持って来たお兄ちゃんでしょ?」

 と新聞から目を上げずに言った。

「…ま、まあそうだけど、別に、彼氏じゃないよ」

 それだけ言い残すと、弘子は慌てて2階に逃げていった。美佐子は、

「彼氏じゃないなら、紹介しろー!」

 と弘子の背中に叫んだ。

 弘子は自分の部屋に入って畳の上に飛び込んだ。そしてそっと自分の肩を抱いてみた。

(初めて…)

 そう考えて、「でもないか」と思った。克彦に腕を回されたのは初めてではない。以前保健室まで連れて行ってくれたあのときも、寝付けないほどドキドキした。

(でも、やっぱり、愛情表現として男の人に抱きしめられたのは、初めてだ…)

 弘子は寝返りをうって天井を見ながら、ぼうっとさっきの光景を再現した。思い出すたびに胸がうずいた。なんで嬉しいのに痛いのかな…と思った。

(つきあってる、つきあってないの境目はどこだろう。もしかしたら、先輩はもう私がOKしたって考えてるのかな?)

 それでもかまわない。でも、できれば、ちゃんともう一度意思表示をしてほしい。克彦に対して、ちゃんと「YES」の答えを返したかった。

 克彦は電車の中で緩んでくる頬を抑えるのに必死だった。やっと家に着くと、最初に夏実の部屋の戸をたたいた。

「なに」

 愛想のない夏実の声がしたので、克彦はドアを開けた。

「なんだ、アニキ」

 夏実は机に向かっていて、その姿勢のまま振り向きざまに言った。克彦は、

「夏実、立って、立って」

 と言った。夏実が訝りつつも立ち上がると、克彦が突然抱きついてきた。

「うわ、なにすんの、アニキ、キモチワルイ、セクハラ~」

 克彦の胸の中で夏実はモガモガとわめいた。びっくりしたが、実際はお兄ちゃんのことが大好きなのでだいぶいい気分だった。

 解放され、夏実はぷはーとわざとらしく深呼吸してみせた。

「うまくいったわけね、斉藤さんと」

 言われて克彦はうなずいた。そして、

「おまえって、斉藤さんより細いのな」

 と言って、軽やかな足取りで出て行った。

「なんなの、アンタは…」

 夏実はあっけにとられ、つぶやいた。それからひとりごちて、ふふっと笑った。

「はあ、あのアニキがねえ。人の子だったんだねえ」

 克彦は自分の部屋に戻り、しばらく立ちつくして、ベッドにばさっと倒れこんだ。両手を眺めた。それから空を抱いてみた。弘子の表情を思い出した。もどかしくて、いてもたってもいられなかった。

(これから、どうしよう…)

 克彦は思った。弘子の気持ちは自分に向いてきている。どうしたら、もっと近くにいけるだろう。

(…ちゃんと、つきあってほしいと言おう)

 ただ克彦が呼び出して弘子が応じている、根拠のない関係は終わりにしたかった。それでも弘子がまだそんな気持ちになれないなら、また今の関係に戻ればいいだけだ。

(それに…)

 克彦はちょっと照れ笑いをした。

(今の関係のままじゃ、もう一度抱きしめることはなかなかできそうにないから…)

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