第2章 アプローチ編 3.負の力
待ち合わせに向かう弘子の足取りは重かった。結論を出すにはまだまだ早すぎるという思いは心の中にあったが、会うのはもう3度目になる。このまま結論を先延ばしにし続けてしまいそうな気がした。ふってわいたような克彦からのアプローチは、弘子をかなり舞い上がらせたし、弘子自身もそれを自覚していた。
克彦がもしもうまく女の子を騙す人だったら…とも考えた。大学に別の女性がいても、弘子には知りようがない。だが、そうやっていろいろと悪い仮定を考えたりしてみたものの、結局いつも1つの疑問に戻ってきた。
(…じゃあ、なんで、知り合いですらない、遠い存在の「私」を選んだの?)
その日、弘子は待ち合わせに5分早く着いた。時間にマメなほうではないのだが、克彦が早く来るのにいつしか合わせていた。待ち合わせの場所に遠目に克彦が見えて、弘子は少しだけ立ち止まり、ぼんやりとその光景を眺めていた。
(山根先輩は私にとって、いろんな意味で、「白馬の王子様」だよ…)
子供の頃は「白馬の王子様」がとても素敵に感じられるけれど、高校生にもなれば本当はそれが決していいことずくめではないことを知っている。本物の王子様のふりをした詐欺師かもしれない。本物だったとしても、いきなり恋することなんか普通できない。突然求婚されたって、簡単に人生を決められない。やっかむ人もいるだろう。他に身分の釣り合うお妃候補が現れたら、王子様の気が変わるかもしれない。
遠目に見ても、やはり克彦は素敵だった。弘子は自分とのギャップをしばし客観的に感じて自虐的な時間を過ごし、それから克彦のところにたどりついた。
「どこへ行きたい?」
克彦の満面の笑みが、その日の弘子には重荷に感じられた。2人はとりあえず本屋に行き、タウン情報誌を眺めた。
「こういう情報誌が発行されてて、皆が買ってるのが前は不思議だったんだけど、確かに、必要かもね。ゴメンね、斉藤さんのことよくわかってれば調べておくんだけど、まだわかんなくて…」
克彦はそう言ったが、弘子自身も自分がどこに行きたいのかわからなかった。
「山根先輩は、休みの日とか、何して過ごすんですか?」
「…うーん、読書か、パソコンいじってるか、…たまにテニスに行くこともあるけど。土曜はサークルで一日中テニスやってるから、ここのところは一人では行かないな」
その日は浅草の縁日と「浅草花やしき」を歩いてお茶を飲んだ。
弘子は、何度か克彦の顔を見上げながら話をしようと思ったが、身長差が32センチもあって、並んで歩いていたら見上げられなかった。自然、うつむき加減になった。
(なんだか、遠いな…)
巷では女の子たちが背の高い人を好むように言うが、弘子はそうではない。バレー部やバスケ部の背の高い人たちなんて、怖いくらいだった。克彦も180センチ以上ある。怖くはないが、やっぱり遠かった。
並んで歩いていると克彦の顔を見る機会があまりないのも不思議だった。
(私は誰と歩いているんだろう、実は誰でも一緒なのかな)
顔の見えない人と、顔を見ないで街を歩く「デート」…。
「先輩は、退屈しないんですか?」
弘子は喫茶店で座るなり訊いた。克彦の表情がこわばった。
「えっ、…退屈だった?」
誤解させたことに気づき、弘子は慌てて言い直した。
「あ、そうじゃなくて、先輩が私に退屈したんじゃないかと思って」
克彦はホッとしたように笑って、臆面もなく言った。
「なんで? 斉藤さんと一緒にいる時間はいつだって幸せだよ」
弘子は克彦が平然としている分までを引き受けるように、倍照れた。
(この人は、どうしてこんなに強気になれるんだろう?)
自分も美人ならそんな風になれるのだろうか…。いや、きっとこんなことは言えない。弘子は自分がひねくれているような気がしてまた卑屈になった。
克彦は、デート終盤の恒例となった「また会ってほしい」の依頼に入った。
「次に会うときはどこに行こうか、…って訊いてもいい?」
弘子は言葉に詰まった。そういえば、これで終わりにしようと言うこともできる。中途半端な気持ちで漠然と会っている現状は、いいことなのか、悪いことなのか…
弘子が「次」をOKするか迷っていることに気付き、克彦の胸は不安に貫かれた。
「斉藤さんは今日、つまらなかった? 退屈だったの?」
克彦の口調が変わったので、弘子は慌てて顔を上げた。克彦は不安に凍ったような表情で弘子を見ていた。弘子は目を伏せた。
「…私、いつまでに結論を出せばいいですか?」
克彦の胸の痛みは増した。結論を急ごうとしているならOKではない気がした。答える声はわずかに震えた。
「やっぱり、俺、退屈な人だったかな」
「そんなことないです。山根先輩は優しいし、いろいろ気を遣ってくれてるの、わかってます。でも、私は何の意思表示もできないで、失礼だと思うんです」
克彦は、「だからもう、会うのはやめましょう」という言葉が続くような気がして、慌てて言葉をつないだ。
「そんなことないよ。俺のほうこそ、自分の勝手で何度も来てもらって、悪いと思ってるよ。急いで結論を出さないで。迷ってるだけなら、また会って。このペースが嫌なら、月に1度とか、3ヶ月に1度とか、年に1度とかでもいいから。他に好きな人ができたらそう言って。俺が嫌いになったら言って。でも…、可能性があるなら、また会って」
「すみません」
弘子はそんな返事しかできなかったが、とりあえず「会って」という頼みにはイエスの答えだということは伝わって、克彦はホッとした。
「じゃあ、次はいつ頃、会える?」
弘子はもう夏休みだったが、克彦は前期試験だったので、すぐにでもまた会いたい気持ちを抑えて、少し間をおくように日程を計算した。
「じゃあ、次の次の水曜日。…いい? ムリにつきあわせようとは、思ってないから…」
「いえ、あの、その水曜日に…で、いいです」
「斉藤さんて、お弁当持ってピクニックと、音楽会の後にフランス料理っていうのは、どっちが好き?」
「え、…そうですね、自分にはお弁当のほうが似合うと思いますけど、音楽会とフランス料理っていうのは、一種の憧れですね…。音楽会は、ピアノソロのコンサートに母と2回くらい行きましたけど、オーケストラに行ったことないんです。吹奏楽部なのに」
「じゃあ、次は、音楽会行こうよ。オーケストラ」
「取れますか? チケット」
「うん、とれたら。取れなかったらその次ので予約するよ。楽しみにしてて」
「…はい…」
弘子は渋い返事をした。これまでのデート代は全部克彦持ちで、それを気にしていた。音楽会とフランス料理なら高額だろうから、絶対に払わせるわけにいかない。でも早々に「ワリカンに」と言うのはむしろ物欲しげな気もして、金額がはっきりしたら問答無用で手渡すことに決めた。
喫茶店を出て、弘子は自分の分を払おうとしたが、やはり克彦は受け取らなかった。
「まだつきあってもなくて、俺が来てもらってる立場なのに、そんなことできないよ」
それが克彦の言い分だったが、弘子は違うと思っていた。喜ぶ女の子もいるだろうけれど、自分は違うし、男が一方的に負担しなければいけないのは不公平だ。弘子のものさしはいつも「正しいかどうか」だし、その基準で言うと一方が金銭的負担を強いられるのは「間違ったこと」だった。
克彦が弘子を弘子の家のある駅まで送り、そこで別れて、2人のデートは10日間のインターバルに入った。
弘子が気後れしていることを感じ取り、克彦の受けたダメージは大きかった。どこかで今後の展開を甘く考えていた自分が情けなかった。誰かに相談に乗ってもらいたくて、和宣に「ダメかもしれない」と短くまとめてメールで送った。それから克彦は自分の部屋の隣、夏実の部屋をノックした。
「うわ、シケた顔」
開口一番、夏実は言った。克彦は弱々しい微笑だけを返した。
「サイトーさんだ、また。前に出かけていった後はにやにやしてたのに、今回はうなだれて帰ってきたもんね。なに、もうふられたの?」
克彦はがっくりと肩を落とした。やっぱりそういう方向に向かっているのだろうか。
「一応、まだ…」
「まだ? てことは、もう時間の問題? えー、アニキの何がいけなかったの? やっぱ、ちょっと頼りなさそうなとこ? 私、アニキの一番の欠点って、なんか女の子っぽいところだと思うんだよね」
夏実の言葉に、克彦は大ショックを受けた。
「え、女の子っぽい?」
「うん。時々アニキ、女の子っぽいよ。しかも、なんかサイトーさんとデートしたりとかしだしてからは、ますますそんな感じ。なんか『夢見る乙女』みたい」
「…それって、…キモチワルイ?」
克彦は蒼白になって訊いた。
「うーん、アニキは見かけがいいから、あんまりわかんないかもね。私も別に気持ち悪いとかは思わないよ」
「じゃあ、原因はそういうことじゃないと思う」
「だいたい、サイトーさんの好みってどういうタイプなの? ちょっとくらいの誤差だったらルックスで埋められるかもしれないけど、大幅な差があったらそうはいかないよ?」
克彦は苦い顔をした。
「眼鏡かけてて、ホルンのできる奴」
「は? 何?」
「いや、なんでもない。そういえば、そのへんどうなのかな。訊いてみる」
「それをまだ知らないあたりに敗因を感じるね」
敗因という言葉に、克彦は憮然として言った。
「まだ、わかんないよ」
それから深いため息をついた。
「でも…なんか、彼女のほうがなーんとなく退き気味なの。原因はぜんぜんわからないから、どうしていいかわからないんだよね…」
「そんなこと、うじうじ言ってるからダメなんじゃない? ストレートに訊きなよ。そういうはっきりしない女々しいところに魅力を感じないんじゃない?」
克彦は呆然と妹の顔を見つめた。女の子にはそう嫌われたものではないと多少の自負があったつもりが、次々に砕けて消えていくような気がした。
夏実は励ますように明るい声色を作って言った。
「アニキ、大丈夫だよ。大丈夫大丈夫。頑張れば何とかなるよ」
克彦は上目遣いになって夏実を見た。
「いいよ、気休めは」
「大丈夫だよ。いざとなったら、ギュッて抱きしめちゃいなよ。何度も会ってくれてるんだから嫌われてるはずはないし、アニキせっかく見かけいいんだからさ、そういう強引なのもアリだよ。その辺の男がやったらサイアクだけど」
克彦は飛び上がった。
「そんなことしたら、軽蔑されるよ! チカンだよ!」
「確かに相手は選ぶけどさあ。私はカッコいい人だったら、まあOKかな~」
「斉藤さんは、そんな人じゃないよ。すごく真面目で潔癖な子なんだから」
夏実は、にやっと笑って言った。
「女の子ってあんまり変わんないよ。案外クラクラっとくると思うけどね」
「…わかった。自分で考えないといけないんだな、ってことが」
克彦はふらふらと夏実の部屋を出た。背後から「せっかく考えてやったのに~」という夏実の声が聞こえた。
克彦は自分の部屋に戻ってぐったりとベッドに倒れこんだ。夏実の言ったことが別の意味でこたえていた。
「ギュッと抱きしめたら」…かつて、小岩依里子も、最後の賭けのようにして必死で抱きついてきた。克彦には、そのときの依里子と自分がダブって見えた。想ってもらおうという焦りばかりがつのって、相手の心が見えなくて、心の距離が近づいていかない関係。自分が依里子にしたことが、今、自分に降りかかってきているのだと思った。
克彦がベッドに伏していると、家の電話が鳴った。それは、克彦への、「よくある電話」ではあったが、ある意味「意外な電話」でもあった。
弘子は悩んでいた。デートのワリカンを確立するよりも、自分の気持ちを決めることのほうが重要課題だ。確かに山根克彦は素敵な男性だが、アプローチされなければ縁のない人だったはずだ。特に理由もなく恋愛的なニュアンスで男性と一緒に過ごす自分は不誠実だと感じた。
弘子がいろんなことを考えながら居間でテレビを見ていると、佳美から家に電話がきた。
「なに?」
弘子が母から電話を替わると、佳美は前振りもなく、
「弘子、山根先輩のこと、どうすんの?」
と訊いた。弘子は慌てふためいて自分の部屋に移って子機で受け直した。
「なによ、なによ唐突に」
「私らも反省したのよ。私とかおりがいろいろ言ったせいで、アンタがまた意地を張ってるんじゃないかと思ってさ。ちょっと電話してみたの」
弘子は「いや、別に…」と答えたが、影響がないとは実のところ言えなかった。
「あのさあ、今更かもしれないけど、山根先輩、いい人だよ」
佳美はかみしめるように言った。
「弘子さあ、逆に、山根先輩がカッコいい人じゃなかったら、もうOKしてるんじゃないの? 見かけに騙されちゃいけないとは思うけど、だからって、もてるからとか、そういう、山根先輩のせいじゃないことでマイナスするのは、逆に失礼じゃないかなあ」
「…そうかなあ、私、先輩がカッコいい人だから会うことをOKしちゃったような気もするんだよね…。フツーの相手だったら、『誰、アンタ』で終わっちゃったかもしれない」
「それはカッコいい人の特権かもだけど、アンタが今、OKしない理由って、何よ」
「うーん…。自分が山根先輩を好きだとは、今、別に思えない…」
「アンタ、もしかして、両想いって、元から片想い同士の二人のどっちかが告白したら、なんと相手も自分が好きで、奇跡のハッピーエンド…とか思ってない? ふつう、両想いって、どっちかが好意をもってて、相手に伝わって、それがきっかけでお互いに好きになるんだよ。あとから好きになるほうの気持ちが育つまでって、時間がかかるよ。弘子だって時間が必要だと思うよ。両想いっていうのは、ちゃんとプロセスがある、現実的なものなんだよ」
弘子は佳美のお説教にごちゃごちゃと力ない言い訳を繰り返した。
結構な長電話のあと、弘子の肩の荷はひとつ下りていた。
次のデートで、克彦は有名な楽団の演奏会のチケットを用意していた。弘子はチケットの表面の一万円の文字を真っ先にチェックした。ちょっとした金額だったが、惜しいとは思わなかった。部活に関係のあることだったし、男の子とオシャレなデートをする喜びの方が大きかった。
しかし、演奏会の最中、弘子は睡魔と戦う羽目になった。隣の克彦と触れ合う肩や客席の暗闇にドキドキはしたが、吹奏楽部だし、普段からクラシックを聴いているのに、こんなに眠いなんて思わなかった。弘子が自分にガッカリしていると、会場を出たところで、
「…どうだった?」
と克彦が訊いた。弘子は迷ったあげく、
「すみません、実は眠かったんです」
と正直に答えた。克彦は苦笑いを浮かべて、
「よかった、実は俺もなんだ」
と言った。弘子はホッとして、そして2人で笑った。
克彦は、前回のデートで感じた終わりの気配を一生懸命打ち消そうと明るく振舞った。コンサートの時間は午後少し遅めだったので、初めて夜まで一緒にいるデートになった。ホールを出ると夕方六時すぎで、七時からおしゃれで高級なフランス料理店にコース料理で予約が入れてあった。弘子は一生懸命値段の手がかりを探したが、こればかりは見つからなかった。
「…山根先輩って、こういう高級そうな店とか、テーブルマナーとか、慣れてますか?」
完璧なテーブルメイクがなされた席につき、弘子は恐る恐る訊いた。
「子供の頃から、親に連れて行かれてマナーがどうとかけっこう言われたよ」
「…じゃあ、私が行儀悪かったら、すぐバレちゃいますね…」
弘子は気まずく言った。「ナイフとフォークは外側から使う」程度の知識しかなかった。
「高校生で、テーブルマナー知ってる人なんてそうそういないよ。でも、そういうの煩いと思わなければ、なにか気がついたら、後学のために教えるよ。そのへんは、俺のほうが2つ上だし、年の功とでも思ってよ」
食事はおいしかったし、弘子もそうみっともないことをやらかさずにクリアできた。
帰りがけ、弘子は道々、ワリカンをどう切り出そうかと悩みながら歩いた。どうやら克彦は予約の時点で支払いを済ませていたらしく、金額がちっともわからなかった。
「…斉藤さん?」
克彦の声に気がついて顔を上げたが、克彦の顔が高いところにありすぎて、弘子はすぐに顔を伏せた。
「すみません、ちょっと考え事してて」
克彦は弘子の態度に不安を感じた。考え事って、なんだろう…と思うと、心に暗い雲がわいた。
弘子の最寄り駅に着いて2人で電車を降りると、ホームの隅に寄り、弘子は意を決して言った。
「あの、実は、お話があるんですが」
克彦は緊張に体が凍りつくのを感じた。でも平静を装った。
「…何? 俺、改札出てもいいけど…」
「いえ、あの、そんなに長くかかる話じゃないんで」
弘子は克彦の顔を見ずに言った。克彦の心臓が早鐘を打ちはじめた。
「ホントは、最初から言わなきゃいけなかったんですけど、なかなか言い出せなくて…」
克彦は嫌な結末を感じては打ち消し、感じては打ち消ししながら聞いた。
「山根先輩がいつも優しくしてくれるのは、本当に私、ありがたいと思ってるんです。でもあの…私はあの…普通の女の子みたいに素直に喜べないのは申し訳ないんですけど、…一方的に先輩に負担をかけてるのが、重荷なんで…」
弘子はひたすら言いづらそうにしていた。克彦は、弘子の言った「重荷」という言葉を反芻しながら、弘子の様子に差し迫ったものを感じていた。
(俺の気持ち…重荷?)
克彦は女の子を振るときによく「気持ちはありがたいと思ってる」という言葉を使った。弘子も今、似たような言葉を使った。
「…言ったら先輩が傷つくのかなって思って、今日まで来ちゃったんですけど、私、今日は絶対にちゃんとしようと思って来たんです」
弘子が肩から掛けたカバンを少し前に回し、胸元にギュッと抱えた。克彦にはそれが弘子からの「これ以上近づかないでほしい」という拒絶に思えた。この前のデートで迷っていたマイナスの答えを、この10日間で決めてきたのだと思った。
弘子は、言いにくそうに、でもはっきりとした口調で言った。
「あの、先輩、今まで、すみませんでした。今日のデート代は、ちゃんと払います。だから、もう、次は…」
「わかったよ。…もう、いいよ。ゴメンね、俺、自分勝手で…」
克彦は弘子の言葉を無理やりさえぎった。
「でも、今日のことはみんな俺が勝手に決めたんだから、受け取っておいて。俺、自分で払うつもりだったから、今日キミの意見も聞かないで全部用意しちゃったんだよ。どんな理由があったって、これを払わせたら俺の立場がないよ。他のことはみんなあきらめるから、今日は、…お願い」
弘子は顔を上げて克彦を見た。そのとき克彦は、本当に夏実の言ったとおり、弘子をギュッと抱きしめたいと思った。けれど、脳裏に描いたその光景は、依里子と自分の姿に重なって暗い影になって消えた。
「…先輩、でも、…やっぱり、ちゃんとしないと…。今日、かなりお金かかってるの知ってます。払わせてください。本当にちょうど半分。いくらですか? ホントは、今までの分全部、ちゃんと払いたいんですけど…」
克彦は、弘子をぼんやりと見ながら、真面目なんだな…と思った。下に向かって落ちていくような感覚と戦いながら、なんとか無理な微笑を作った。
「斉藤さん、俺、なびいてくれないなら金返せとか、そういう男じゃないつもりだよ」
弘子は克彦の強い口調に口をつぐみ、それから言い返そうとした。
「でも、先輩…、私、絶対に今日はちゃんと精算しようと思って…」
弘子は精算と言った。克彦は清算と聞いた。
「わかったから大丈夫。でも今まで――今日までのことは、俺の気持ちをキミが叶えてくれてただけで、だからホントに感謝してるから。気にしないで」
「あの、先輩」
「いろいろ、ありがとう…ゴメンね」
克彦はそれだけ言うと急いで乗り換えの階段に消えた。弘子はびっくりして見送った。
(…ワリカンを提案するのって、そんなに男の人に対して失礼だったかな…)
弘子は克彦の表情を思い出し、申し訳ない気持ちになった。それから、次の約束をしないで別れたことに気がついた。けれどきっと電話をくれるだろうと思った。
克彦は真っ暗な世界を歩いて帰宅し、なんとか自分の部屋にたどり着いた。部屋のドアを閉じると、涙がこぼれて、情けない気持ちが増した。まさか自分が泣くとは思わなかった。そして、失恋がこんなにもつらいものなのかと思った。
心の中でずっと弘子の名前を呼んだ。他のことは何も出てこなかった。ひたすら「斉藤さん」と心で叫びつづけて、克彦は長い時間、泣いていた。
1週間がすぎた。弘子は克彦からの連絡を待っていたが、どこかおかしいと思いはじめていた。電話をしてみようかとも思ったが電話番号を知らない。それに、自分が恋をしているわけではないのだから、自分から動いたら負けのような気もした。
2週間がすぎた。弘子は克彦の身に何か起きたのではないかとも思ったが、ちょうど夏休みで佳美ともかおりとも会う機会はなく、情報はどこからも得られなかった。
「飽きられた?」
弘子は自分に訊いた。かけひきかもしれないとも考えてみたが、そうは思えない。むしろ、このまま連絡が途絶えて、終わってしまう可能性のほうが高いように感じた。
3週間がすぎた。もう、克彦の心に変化が起きたのだと思うしかなかった。何もわからなくて無神経だったり傲慢になっていたりしたかもしれない。けれど、それでも自分の中でも決着をつけたいし、ちゃんともう一度会って話したかった。
もう一度会いたい…。
弘子はその響きにドキッとした。つきあう気がないならこのままにすればいい。蒸し返すことはない。けれど、弘子は明らかにもう一度克彦と会いたいと思っていた。
(…それは、せっかく男の子に好きになってもらったから、もったいなくてそう思うの?)
弘子は悩んでいた。そして、もうひとつ確かなのは、弘子がこの3週間、克彦のことばかり考えているという事実だった。
それから数日後、佳美とかおりからお茶のお誘いが入り、弘子は出かけていった。二人がテニス部の合宿から帰ってきて、おみやげを渡しがてらお茶を飲むのは去年と同じパターンだった。
かおりは合宿で彼氏とケンカしたらしく、えらく怒っていた。
「もう、1年もすると愛は冷めるのよ。悲しい現実だわ。みんな若い女のほうがいいのよ」
佳美が弘子に注釈を入れた。
「あのね、かおりはちょっとべたべたしたがりすぎなのよ」
かおりはますますいきり立った。
「男子部員の比率少ないんだから、1年生が狙ったらどうするのよ」
「アンタの彼氏じゃ、そうそう狙う人もいないって」
「悪かったわね! でも、テニス部の男の中では、真ん中くらいだと思うな。そしたら、上位陣には彼女がいる以上、新入生のターゲットはいずれ順に下がってくるのよ?」
弘子は苦笑した。
「テニス部ってそういうノリなの? カッコいい人から順にモーションかけて、ダメならランク下げていって、彼氏できるまで片っ端からアタック?」
「まあ、そういうイキオイで彼氏作ろうとする人は常にいるよね!」
かおりが言うと、佳美が口をはさんだ。
「かおり、アンタ去年、そう見えなくもなかったわよ。山根先輩のまわりちょろちょろしてて、合宿から突然他の男にいい顔し始めて」
佳美は時折辛らつだ。かおりはムッとしたが、それどころではないらしく、すぐに元の話題に戻った。
「当時の私はどうでもいいのよ。それより、私とカレの散歩についてきた図々しい1年生2人は、どーいうつもりなのかしら」
「大丈夫大丈夫、全然他意はないよ」
佳美はため息をついた。しばらくテニス部の二人はやりあっていて、弘子は聞き役になった。話を聞きながら、弘子はかおりをうらやましいと思っていた。かおりはいつもストレートで、誤解されることが少ない。弘子自身はいつも意地を張っていて、誤解されることもよくあった。
「で…弘子は、山根先輩とは、もういい加減、つきあうことにしたんでしょ?」
佳美が急に弘子の話に持ち込んだ。弘子は、「ついに来たか」と思いながら、
「原因不明の音信不通…。もう3週間、何の連絡も来ない…」
と現状を端的に報告した。
「なんで」
「だから原因不明」
「アンタから連絡は」
「連絡先知らない」
「なんで! 教えてあげるよ。えっと」
カバンを漁るかおりを、弘子が制した。
「いいよ。それが、答えなんでしょ。山根先輩の」
この期に及んで意地を張っていた。1人でくよくよしていたときには連絡先を訊こうかと考えていたのに、いざこうして2人を前にすると勇気が出なかった。
「山根先輩って、ほったらかして終わらせるとか、絶対しなそうだけどなあ」
「そうだよねえ、絶対に、なんかきちんと言って終わりそうだよねえ」
2人が口々に言うのを聞きながら、「終わり」という言葉が何度も弘子の胸に刺さった。
「うーん、自分から私に行動起こした分、言いにくかったんじゃない? 君は僕の思ってたような人じゃなかった。悪いけど取り消させてくれ」
弘子は自虐的に言った。そしてさらに言葉を継いだ。
「まあ、しょうがないよね。お互いによく知らなかったんだし、そういうこともあるよ」
そんな風に言っていると、自分でもそう思えてきた。克彦からはじめて電話がかかってきたときに感じた不安が的中しただけだと思った。
「弘子は、それでいいわけ?」
佳美がいぶかしげに言った。弘子は、内心で「良くないけど」と思いながら強がった。
「いいも悪いも、私、まだ山根先輩がどんな人なのか把握できてなかったし。ここで向こうに退かれちゃったら、どうしようもないよ。傷口が大きくならないうちでよかったよ」
(じゃあ、この何週間も悩んでいた自分は何?)
弘子が内心で自分を嘘つきだと思いながら卑屈なことを言っていると、
「ヒロコ、強がり言ってない?」
とかおりが顔を覗き込んできた。佳美も似たような視線を向けていた。弘子はとっさにかぶりをふった。
「いや、私は、自分の身のほどは元からわきまえてるよ。だから、ホントに、短い間でしたが、光栄でした、てカンジ。それくらい」
2人は疑わしげな目で目くばせを交わした。
「そういうわけわかんない謙遜とかって、すごく失礼だよね。山根先輩は真剣なのに、なに、私は関係ありませんって態度とってんの」
弘子は2人にいろいろ言われたが、結局最後まで意地を張り通してしまった。
ぼんやりと家に帰り、自分の部屋でぼうっとしていた。机の上に一輪ざしがあり、ドライフラワーと言うにはあまりにお粗末な干からびたバラとかすみ草がちょっとだけささっていた。克彦が傘を返しに来た日、抱えてきた大きな花束のひとかけらだった。
弘子はぼんやりと花を眺めていた。大きな花を抱えて、嬉しそうに訪ねてきた克彦の姿が浮かんだ。
「仕方ないじゃん」
そうつぶやいたら涙が出た。そしてあっという間に溢れ出した。
「なんで急に連絡くれなくなっちゃったの? もう、本当に、連絡くれないの?」
本当は克彦に投げかけたい言葉をひたすら花に語りかけながら、弘子は泣きつづけた。自分でも不思議なくらい長い間、涙は止まらなかった。