第2章 アプローチ編 2.それから
問題は2人の親友たちだ、と弘子は思った。
とりあえずその夜はハッピーだった。生まれて初めて男の子に好きだと言われた。しかも、その日のことや思い出を検証すると、克彦を悪いようには考えられなかった。
でも、浮かれた頭でも、これが友人たちに知れたら大変な騒ぎになるのはよくわかった。
「来週、先輩がホントに来るか、わからない」
弘子は自分に言い聞かせ、とりあえずは誰にも言わず、様子を見ることにした。
少し頭が冷えるといろいろなことが気になり始めた。
克彦のルックスに気持ちが左右されている側面があるのは事実だ。克彦が向けてくる好意は、ささいなきっかけで生じた思い込みでしかない。親友2人に対しても言えないくらいなのに、他の女の子たちの嫉妬はどれほどになるだろう。克彦は今後も女性に人気があるだろうし、誘惑も多いだろう。その中で自分が「一番」であり続けられるとはとうてい思えない。考えれば考えるほど八方塞がりな気がした。
そして弘子は、自分の中のいささか汚い側面を見てしまうことにもなった。
――もう高校生だし、彼氏くらいほしい。相手がかっこいい人だったらすごい。
弘子はそんな考えを振り払おうとした。しかし、つきあった方が「得」だという意識は消えなかった。
苦難、困難が想定され、自分の気持ちもなんだか打算みたいで、「やっぱりやめておこう」と何度も思った。けれども、日曜日に克彦が傘を返しに来ると思うとドキドキした。そんな自分にますます意固地になっていく反面、やはり日曜日は待ち遠しかった。
克彦は、部屋にノックの音がしたので「どうぞ」と言った。妹の夏実が入ってきた。
「アニキ、なんかいいことあったの」
夏実はそう言うと克彦のベッドにばふっと腰掛けた。
「あ、そう思う?」
山根家の、花のように優しいお兄ちゃんと、生意気で元気な妹の仲は良かった。そして、大概格好のいい兄弟をもった女の子がそうであるように、妹は兄に憧れ、恋に似た感情を抱いていた。
「最近、なんかごはん食べてるときとか、思い出し笑いしてて気持ち悪いよ」
夏実は克彦の机の上に女の子の写真が飾ってあることにだいぶ前から気付いていた。克彦が高校生のときに出現したその写真立ては、しばらく消えたと思ったら、数日前から復活していた。女の子はそういうことにはすぐ気づく。そして、多分母親も。
「あ、そう? 変かな」
克彦の顔はまたちょっとゆるんだ。
「変だよ。その写真立ての彼女?」
夏実は呆れたように言った。克彦は、妹の指摘にうろたえもせずに、にこにこ答えた。
「わかる?」
「…ヘラヘラしてる。キモ。アニキって、18年間ずっと彼女いなかったんだっけ?」
「いいや? 高校のとき、彼女いたよ。…あ、この写真の子じゃないけど」
「あっそ。その割には、30年女に縁がなくて、やっと彼女ができたみたいな不気味な喜び方してるよ」
克彦のベッドの上にあぐらをかいて座り、脚の上にひじをついて頬杖にしている夏実の様子は小生意気で偉そうだ。身長161センチ、ファッション雑誌の読者モデルを何度もやったバランスのいい細身。強い目は印象的だが、多分、顔は「無難に整頓している」という程度。あいにく兄のように、母方の華やかな印象を受け継がなかった。
夏実は恋愛にそこそこ積極的だったが、いささか飽きっぽかった。割合簡単に男の子とつきあい始めるものの、「恋人」というような甘い関係になるのを嫌がった。
克彦は相好を崩して妹の悪態に答えた。
「なんとでも言って。俺の初恋なんだから」
「はつこいぃぃ~??」
兄のあまりに臆面もない様子に夏実は呆れた。
「なんで初恋なの。彼女いたって言ってたじゃん、今」
「うーん、まあねー。でも、別に好きじゃなかったし」
「うわー、サイテー。アリ? そういうの」
「若気の至りだよ」
「信じらんない。私、昔の男が私をそんな風に言ってたら、マジで殴るけどね。女を敵に回すようなこと、言わないでよねー」
「うん、よそでは言わない。ウチだから言ってるだけ」
かなりの重症だ、と夏実は思った。完全に今の幸せに舞い上がっている。
「…どこの、どーいう人? その新しいカノジョは」
「新しいとか古いとか言わないでよ。それに、まだ『彼女』じゃないよ」
これだけ浮かれていてなお発展途上ということは、兄のほうがよっぽど熱心なんだなと夏実は推論した。克彦はニコニコして弘子について語った。
「彼女、峯丘の後輩なんだ。2年生。テニス部じゃないけどね。吹奏楽部でフルートやってるの。修業中の春の妖精みたいな子だよ」
「なにそれ」
夏実は、こんなに情けないほど嬉しそうな兄を見るのは初めてだった。何度か女の子からの電話を取り次いだ際、克彦はいつも乗り気でないそぶりしか見せなかった。克彦は自分の携帯電話の番号を女の子に教えるようなうかつな真似はしないから、電話がかかってくるのはすべて緊急連絡先として部活に提出している自宅宛てで、夏実は何度も居留守を手伝わされていた。
夏実はちらりと机の上の写真に目をやった。あんまり美人じゃないけど、その方がいいかもね、と思った。ガッカリするような不細工な子じゃないし。
「まあ、私は、ごはんのときに思い出し笑いをするのと、ときどき白昼夢を見てへらへらしてるのをやめてくれれば、アニキがどうなろうが、カンケーないんだけどね~」
もうひとつ悪態をついて、夏実が部屋を出て行こうとすると、克彦はその背中に、
「あ、もし斉藤さんって子から電話がきたりしたら、なにがなんでも俺につないでよ」
と言った。電話番号を教えるような機会は、まだないけれど…。
(斉藤)
夏実は心の中で繰り返した。
(ふうん、それが春の妖精さんの名前か)
日曜日、弘子は朝7時に目が覚めた。いつも日曜日はだらだら寝ているのだが、この日はすっかり目が覚めてしまった。朝の8時半にかけておいたが無駄だった目覚まし時計を持ち上げてじっと見据え、
「なんで、起きちゃったんだろう」
とつぶやいた。気持ちは一週間の間にどんどんひねくれていっていたが、こうしてすごい勢いで目を覚ましている自分がいるのも一つの事実だった。
同じ頃、克彦も目を覚ましていた。一日家にいると言われて、時間で約束をしそこなってしまったが、あくまでも「傘を返しに行くだけ」だから、気張って朝一番から行くのは重荷だろう。午後に行こうと決めていた。
弘子がふとんをたたんで押入れにしまい、タンスに向かって真剣に思案にふけっている頃、克彦はベッドの中でいろんな妄想にふけっていた。
弘子は母親に「なに、今日はこんな早く起きてきて」と言われつつ深刻な面持ちで朝ごはんを食べ、克彦は9時過ぎにインターホンで「いい加減、ごはん食べなさい」と呼ばれるまでもぞもぞしていた。弘子は前回と同じように「それほど気張っていないけれど、自分で可愛いと思っている服」を選んで着込み、9時過ぎにはすべての支度を終えていた。克彦はベッドを出るとシャワーを浴びて、少し前に弘子がやっていたのと同じように真剣に服装を選んだ。
午前10時を過ぎた時点で、弘子はガッカリした。時刻が10時半、11時と進み、12時半頃にはすっかり落ち込んでいた。腹が立った。それでも、2階の自分の部屋の窓から外ばかり見ていた。
しばらくした頃、何の前ぶれもなく、花を持った背の高い男の子が坂を上って家の前に来たのが見えた。弘子はあわてて部屋を出た。階段を下りきる頃には呼び鈴が鳴ったが、母が出ようとするのを「いい、私が出る!」と言って制し、玄関に下りた。そして、一呼吸おいて「何食わぬ顔」を作ってドアを開けた。
目の前はいきなり花だった。
「あの、傘を返そうと思って」
克彦がまだ少し緊張気味の笑顔で、花と傘を手に立っていた。着ているものもスタイルも立ち姿も、モデルのように華やかだった。弘子は倒れそうになった。
「それから、これ、傘のお礼」
傘と花を同時に渡され、弘子は目を白黒させた。自分の状況を「なんじゃこりゃ」としか思えなかった。
(山根先輩みたいな人じゃなかったら、花束を持って傘を返しに来るなんて、カンチガイのアホ男だよね。でも、今、こうして山根先輩に直面していると、かっこいいと思ってしまうからずるい…。ホントは絶対に変だ。すごく変だ)
呆然としていると、克彦は、
「それから、あの、今日の午後は、時間ない?」
と訊いてきた。弘子が激しくまばたきをして花を見つめていると、さらに、
「いやならムリにとは言わないけど、一緒に、どこか散歩でもしない?」
と続いた。弘子は克彦の顔を見られず、伏せた目のまま、
「…あ、はい、何も、用事はないです…。でも、あの、支度してきて、いいですか」
と言った。
「うん、いつまでも待ってる」
克彦はそう言ってにっこり笑ったが、内心、ものすごくホッとした。ここで傘だけ受け取って「それじゃあどうも」と終わりにすることもできる。わざと留守にすることだってできる。そんな心配がすべて杞憂に終わった。
弘子がバッグをとりに行こうと振り返ると、そう広くない家の廊下の突き当たりに、のれんごしにのぞく目玉を見つけた。弘子は慌ててその方向へ駆け込み、ドアを閉めた。
「なにやってんの!」
弘子は小声で言った。のぞいていたのは母だった。弘子は、それが姉じゃなくて良かったと思った。
「アンタこそ、なに傘持ってこっちまで入ってきてんの」
母親は指摘した。弘子は花と傘を両方持ったまま家の奥まで入ってきていた。
「あとで傘は戻しとく。それから、花ビンない?」
やや理不尽なふてくされかたをして、弘子は花を流しに置いて流し台の下を開けた。
「そんなところにはないよ。いいよ、人待たせてるんでしょ」
「急に来たんだもん、少しは待ってもらって平気だよ」
「…よく言うよ、今日、朝から、どうりで早いと思った」
「関係ないよ!」
弘子はぶっきらぼうに言って花瓶を探した。母親は洗いおけに水を張り、テーブルの上から花をとりあげてラッピングのフィルムをむきはじめた。そして何食わぬ顔で言った。
「お母さんに、今の人紹介してくれないの?」
「いいの!」
「あら、なんで」
「そーいうヒトじゃ、ないから!」
母親は洗いおけの中で花の茎を手早く切り、床下の物入れから大きな花瓶を取り出した。
「…あっそ」
信用してないな…と、弘子は思った。だけど、「あっちの片想いなの!」と言えるはずはなかった。弘子は階段を上ってカバンを手に取り、「支度をしている時間」を演出するために時間を少しつぶした。そして前髪をていねいに櫛でといて、おずおずと階段を下りた。
「すみません、お待たせしちゃって」
遠慮がちに弘子は頭を下げた。克彦は、
「ゴメン、花はジャマだったね。誘うときは、花持ってきたら面倒だって学習したよ」
と恐縮していた。
それから2人は外へ出た。克彦は、雨の可能性を考えずに簡単に「来週」と言ってしまった自分が滑稽だった。まだ梅雨は明けない。雨だったら、返しに来た傘でデートに出かけるところだった。けれど幸い、空はさっぱりと晴れていた。
2人はとりあえず駅へ向かった。
「…大変だ、…どこに行こうとか、全然考えてこなかった…」
克彦はつぶやいた。なんて言って弘子を連れ出そうかとか、デートで何を話そうかとかは考えたが、行き先を全く考えていなかった。
「あの、どこへ行きたい?」
克彦は冷汗をかきながら訊いた。せっかく誘い出したのに、これは失態だ。
「え、…あの、急なんで、わからないです…」
(ウソつけ)
弘子はこっそり後ろめたい気分になった。デートになるかもしれないと思っていたので、いろいろ考えていたが、最終的には「わかりません、と言ってる方がいい。なんか期待してたみたいに思われるの嫌だし」という結論を出していた
「そ、そうだよね、わかんないよね」
弘子は克彦の素直な様子にますます後ろめたい気分になった。
「あの…、目的があってどこか行くよりも、なんとなく歩いたり、話したりして、疲れたら喫茶店とか入ったりして、その、うーん、そういうのじゃ、退屈するかな?」
克彦はそんな風に言ってみた。たとえば映画館に行って別々にスクリーンの役者の顔を見ているより、弘子と並んで歩いて、弘子の顔を見ていたかった。
「…あ、なんでも…」
首をすくめるようにして弘子が言うと、克彦はホッとしたように、
「いろんなお店とか、あちこち見て回ろうよ。それで、斉藤さんの好きなものとか、いろいろ教えてよ。昔やってたこととか、今こってるものとか、いろんなこと…」
と言った。弘子は自分が克彦を退屈させることを危惧したが、とりあえずは従った。
二人はデパートを歩き回り、可愛い文房具を見たりぬいぐるみを見たりした。それから道なりにある飲食店を見て歩いて、楽器屋を冷やかしに入った。
「山根先輩は、何か楽器とか、できるんですか?」
弘子が訊くと、克彦は遠慮がちに答えた。
「高校1年まで、ピアノやってたんだ。テニス部にハマっちゃって、あまりに練習サボるから、親とケンカになってやめちゃったけど。だから、今はほとんど弾いてないよ」
弘子はピアノを弾く克彦を想像して、おそらく相当かっこいいだろうと愕然として、ため息をついた。
(…この人、テニスとかピアノとか、やっぱりわざとかっこいいことをやってるんじゃないの? 卓球と尺八とか、平泳ぎとウクレレとか、そういうわけにいかないのかな?)
それから、今新しく楽器を始めるとしたらなにをやりたいかという話をして、弘子は子供の頃本当はピアノがやりたかったと言い、克彦はバイオリンがいいと言った。
弘子はバイオリンを弾く克彦の姿を想像して、ますます愕然とした。
(カスタネットとか、まあそこまではヘボくなくてもいいから、せめてフツーの男の子っぽく、ギターとか言ってくれないかなあ…)
弘子が変な顔をしているので、克彦は、
「え、何、俺何かおかしいこと言った?」
と訊いた。弘子はえも言われぬ表情で、
「…いえ、想像したら、カッコよすぎるな…と思って」
と含みのある返事をした。
「え、ホントに? だったら、俺ホントにバイオリン始めちゃおうかな」
克彦が嬉しそうに棚を覗き込んだので、弘子は即座に、
「冗談です」
と言って克彦をガッカリさせた。
「疲れない? ちょっとお茶にしようよ」
克彦は終始ニコニコして弘子をエスコートしていた。弘子は疑問に思った。うさぎのぬいぐるみがかわいいとか、ピンクのチェックの便箋が気に入ったとか、渋い織部の湯のみがほしいとか、そんな話を聞いていて楽しいのだろうか。
でも、居心地は悪くないな、と弘子は思っていた。そして、ずっと気になっていたことを訊いてみようと思った。
喫茶店では克彦がコーヒー、弘子がいちごのパフェを頼んだ。頼んでから自分が子供っぽく見える気がして、弘子は、
「パフェとか、好きですか? 甘いもの全般とか」
と訊いてみた。克彦は、
「好きだよ。コーヒーも、砂糖入れるし」
と答えた。弘子はホッとした。勝手だが、コーヒーにざらざらと砂糖を入れて、パフェも頼む人のほうが親近感を持てる気がした。
「前にね、パフェ頼んだらカッコ悪いって言われたから、今日はコーヒーだけにしてみたの。でもコーヒーに砂糖入れるから、予告しとくね。入れないと飲めないから…」
克彦は決まり悪そうに言ったが、弘子は女性へのアピールでブラックを飲むよりも素直に砂糖を入れる人のほうがいいと思った。でも、揚げ足を取れば、ひっかかるところもあった。
(パフェがカッコ悪いって、誰に言われたんだろう? 一緒に喫茶店に入って、山根先輩がカッコいいとかカッコよくないとか、面と向かって話せる関係にある人、でしょう?)
弘子は、その疑問に背中を押されて、聞きたかったことを単刀直入に聞いた。
「あの、先輩。今まで、つきあった人って、どのくらいいるんですか?」
克彦は「え」という口の形を作ったまましばらく固まった。昔、彼女がいたことを後ろめたく思う必要はない。でも実際には弘子以前に好きな人なんていなかったのに「恋愛相手がいた」と解釈をされるのが釈然としない。かといって「その彼女のことは好きでもなんでもなかった」と言うわけにもいかない。正直に答えたいが、どう答えたら本当の意味で「正直」なのだろう。
克彦が黙っているので、弘子は重苦しい気分になった。
「…けっこう、いるんですか?」
克彦は慌てて否定した。
「いない、いない! ひとりだけだよ!」
ウソをつくわけにはいかず、結局「ひとり」は言わざるを得なかった。
「ホントですか?」
弘子の目は疑いに満ちていた。克彦は焦りに焦った。
「ホントに、ひとりだけだよ。しかも、自分からつきあってほしいなんて思ったのは、キミだけだよ。俺、そんなに女の子に縁ないよ」
さらに深刻なまなざしを向け、弘子は続けた。
「…はあ、まあ、じゃあ、ひとりだとします」
「仮定じゃなくて、事実だよ」
「あの、私、ゴシップ根性で訊いてるんじゃないんですよ」
「わかってるよ。興味をもってくれるんなら、すごく嬉しいよ」
弘子は大真面目に返されて、克彦の視線にいくらかひるんだ。
(…興味? そうじゃなくて、自分を危険な目にあわせたくないだけだもん)
でも、私には聞く権利がある、と思って弘子は質問を再開した。
「それで、じゃあ、その、前の彼女とは、なんで別れちゃったんですか? それから、つきあってた期間って、どのくらいだったんですか?」
耳の痛い質問だった。克彦は恐る恐る答えた。
「うーん、…3ヶ月で別れちゃった、って言ったら… 短いと思うかな、やっぱり」
(いや、だからね、すぐ飽きたとか、俺が軽いとかは思ってほしくないんだけど…)
3ヶ月。弘子は明らかに短いと思った。だから黙っていた。
「…あと、なんで別れたか、だっけ?」
克彦が言いにくそうにしていたので、弘子は視線をテーブルに落として定めたまま、
「別に、無理して話してくれなくてもいいです。それは、お2人の問題でしょうから」
と背筋を伸ばして言った。その態度を見て克彦は、「ああ、よくないことを考えてるな」と思った。
「だって、言わなかったら、斉藤さん、きっと俺のこと悪く思うでしょ?」
「いえ? ひとそれぞれ、事情はありますから」
克彦は、弘子が明らかに「警戒バリア」を張りはじめたことに気がついた。
(多分、俺が飽きて捨てたとか、そんなふうに考えてるに違いない…。まあ原因も原因だし、冷めたとか飽きたとか言う前に好きじゃなかったわけだけど…)
「…別れた理由ね…。なんて言ったら、いいのかなあ…。何から訊きたい?」
「いえ、べつに、つぶさに聞きたいとかいうわけじゃないんで」
弘子が緊張しながらも聞き耳を立てているので、克彦はいささか困った。そう、弘子の言うとおり、ひとそれぞれ事情はある。
「…うーん、ふったのは、一応俺…ってことに、なってるかな」
事実、そのへん微妙なのだが、もちろんそれが弘子にわかるはずもない。
「あんまり、その、俺のほうが積極的になれなくって…」
「飽きちゃったんですか?」
その言葉には棘があった。克彦は縮み上がった。絶対に間違った認識をされている。いや、その頃傲慢だったことを正しく認識されてしまっているとも言えるが。
「その、飽きたとか、そういうのじゃなくて…」
いろいろ複雑なんだよ、と克彦は思った。弘子に「キミは男と別れたことある?」と逆に訊きたかった。今そんなことを訊いたら、激怒されそうだけど。
そのままうまい言葉が見つからずに克彦が黙っていると、弘子が、
「すみません。わかりました。変なこと訊いて、すみませんでした」
と機械的に言った。
克彦は一生懸命解決策を探した。そして、ごまかしてもダメだと覚悟した。どう思われても、誠実であること、それが正しい態度だと思った。
「あの、なんか、いろいろ悪いこと考えてるでしょ」
弘子は凍ったままだった。克彦は、弘子を揺り起こすように話し始めた。
「あのね、まあ、きっかけとしては、彼女が俺にこう、…」
胸元で小さく掌で抱きつくようなしぐさをしながら言った。弘子の目が少し上に向いて、そのしぐさを見た。話は聞いてくれているらしい。
「こんなふうにしてね、どうして何もしてくれないのって。あのね、変な意味じゃないんだよ。まだその頃手を握ったことくらいしかなくって、だから、もうちょっと何か、ってこと。…それで、俺はね、…」
様子を見ようと克彦は「ため」をつくってみた。弘子は緊張を強めた。
「俺、その時、彼女に対して何にもできなくてさ。精神的に退いちゃって。わかる?」
克彦はそんな風に簡潔に要約して話しながら、それだけではないいろいろな要素を思い出していた。
「彼女ともっと近づきたいとか、あんまり思ってないことに気付いちゃって。あのね、その子とは、その頃彼女がほしいなーとは思ってて、だから、ちょっと可愛いかな~、くらいに思ってつきあいはじめちゃったの。それで、いざそんなことがあった時にね、ああ、自分は彼女のことを好きじゃないんだなーって自覚しちゃったの」
弘子は一生懸命聞いてだいたいを想像できた気がした。特に、「彼女がほしくて、ちょっと可愛いかなという女の子とつきあいはじめた」という克彦の気持ちはわからなくもなかった。それはまさに今の自分の姿だ。
「あの、わかってくれた?」
克彦の心配そうな顔と声に、弘子は我に返った。
「…なんとなく」
とりあえずそう答えたが、自分の中に否定的な気分が広がっているのを感じた。
「だから、誤解しないで。俺、ホントにキミが初めてなの。こんなふうに一生懸命一緒にいたいとか思ってるのって。以前、保健室まで、キミのこと、こうやって」
さっきの話のときと同じように、克彦は掌で抱きつくようなしぐさを作った。
「したときにはね、すごく嬉しかったんだよ。前につきあった子がいることはいるけど、キミへの気持ちと違うんだなって、今はすごくわかる。だから、やっぱりその子とは別れるべきだったんだよ。俺が女の子と遊んでるとか、とっかえてるとか、変な風に考えないで。俺自身が嫌われるなら仕方ないけど、誤解で嫌われるのは嫌だから。お願い」
克彦があんまり一生懸命言うので、弘子は困ったように表情が緩んでしまった。テニス部でちやほやされて、少しくらいは傲慢なところがあるに決まっていると思っていたけれど、むしろ頼りなさばかりが目立つ優しい人に感じた。
「…わかりました」
弘子がそう言ったので、克彦の顔がパッと晴れた。弘子はそれを見て、つい、
「信じるかどうかは、また、別ですけど」
と楔を打ち込んでしまった。だって、話だけならなんとでも言える。心を開いたと思われても困る。
「信じてはくれないの?」
「それは、今後次第で…」
弘子が言うと、克彦はその瞬間、満面の笑みをたたえた。
「じゃあ、次はいつ会える?」
しまった…と弘子は思った。あくまでも自分の側は会うのに消極的な雰囲気にしておきたかったのに、こういう時はつい本音がこぼれてしまう。
「今日の今この瞬間以降、家に帰るまでの時間も『今後』ですから…」
なんとか取り繕った。もちろん、つぎはぎはミエミエだけれど。すっかり耳まで赤くなってしまった自分の様子に、まるで説得力がないことはわかっていた。
「そうだね、じゃあ、今日の帰り際まで、君が怒って帰ったりするようなことがなければ、また、次も会ってもらえる?」
克彦は弘子のためにそう言ってあげた。もちろん、弘子が今日で終わりにする気がないということは十分伝わっていた。克彦は緩んでくる顔を一生懸命こらえた。
「…それは、帰る時までに、じっくり考えます…」
弘子は必死になってなんとか答えた。痛い失点だったが、そう悪い気はしなかった。
そして二人は、次の約束をして別れた。
その翌日、月曜日。弘子の教室に佳美とかおりがやってきた。
「今日、放課後、お茶してこう」
弘子はぎくりとした。お茶して、そこで「最近どうよ」とか「なにかあった?」とか訊かれたとき、自分は涼しい顔をしてしらを切れるだろうか。
「んー…部活って、どうなってたかな~…」
弘子は二人の顔を見ず、悩む時間を稼いでみたが、「サボれ、サボれ」「じゃあ、放課後2階の流しのとこね」と勝手に決められてしまった。
放課後、待ち合わせ場所で合流して、駅前の喫茶店に入った。弘子はストロベリーパフェを頼もうとして、昨日の今日だなと思い直してケーキセットにした。
「で」
唐突に、かおりが高らかな声を発した。
「ヒロコ、アンタ、なんか私たちに報告があるんじゃないの」
弘子の表情が笑顔のまま硬直した。かおりは弘子ににじり寄った。佳美も続いた。
「ヒロコー、怒らないから、ちゃんと言ってー」
「…なんのこと~?」
克彦のことではないと思いたかったが、そういえば二週連続で地元を二人で歩いていた。二人のどっちか、あるいは誰か別の誰かが、目撃したのか…。弘子が思案をめぐらしていると、かおりがキレた。
「あんたねー、自分の電話番号の漏洩ルート、どこだと思ってんのよ~~!」
まあまあ、と佳美が制した。弘子が冷や汗を隠して二人の顔を交互に見ていると、何か言いたそうなかおりを制して、佳美が、
「ヒロコ、アンタを責めやしないから」
と言った。弘子は観念したが、「告白された」なんて口に出せなかった。もごもごしていたら、やっぱりかおりがキレた。
「ウチのカレシが、マル秘とかいって、アンタの名前と電話番号が書いてあった紙を持ってたのを見つけた私の動揺がわかる!? ナニゴトかと締め上げたら、山根先輩に調べてくれって頼まれたから、私の携帯電話から探ったとか言うじゃんよ? アンタはいろんな意味で私をきりきりまいさせて、あげく山根先輩をとったのよ! 私ってなんなの~? なんでテニス部の私たちを素通りして吹奏楽部で、しかもヒロコなのよ~」
「まあまあ」
佳美はかおりをなだめ、ふうーと大きなため息をついた。
「で? つきあうの?」
佳美が話を振り出しに戻した。弘子は、ううーん、と宙を見上げてうなった。
「…未定…」
一瞬の沈黙の後、佳美とかおりはぎゃあぎゃあ叫んだ。
「ぜったい納得いかないー」
「つきあわれてもムカツク、かといってヒロコごときが先輩をふってもムカツク」
「高嶺の花だと思ってたのに、こんな地べたに咲いていたなんて…」
弘子は苦い顔をした。
「アンタら…。悪かったわね、地べたで」
二人の糾弾は延々と止まなかった。そして、かおりの言った、
「カッコいい男は嫌いだとか言ってたクセに~」
という言葉が弘子の耳にぐさりと刺さった。
結局弘子は、3人分の勘定を払って、さんざん責められながら帰るハメになった。ほうほうの体で家に帰ると、弘子は自分の部屋にこもっていろいろ考え始めた。
『カッコいい男は嫌いだとか言ってたクセに~』
親友2人の声が次々頭に響いた。
『その頃彼女がほしいなーとは思ってて、だから、ちょっと可愛いかな~、くらいに思ってつきあいはじめちゃったんだよね』
克彦はそう言っていた。そして、その結果は…。
『自分は彼女のことを好きじゃないんだなーって、自覚しちゃったの』
(私って、山根先輩のことが、好きなの? …なんとなく、好かれたから?)
打算、という言葉が浮かんだ。目下、好きな人はいないけど彼氏はほしい。そこに、ちょっとカッコいい男の子からつきあってほしいと言われた。だから。
(勿体ないから?)
…たぶん、勿体ないから。ラッキーだから。道に落ちているお金を、拾うように。必要にかられているわけでも、切羽詰まっているわけでもないけど、勿体ないから。
(そういう気持ちで会うことが、山根先輩に対して正しい態度なの?)
道に落ちているお金を、拾うように。
弘子の気持ちはマイナスに転がり始めた。克彦の嬉しそうな顔を思い出すと心が痛んだが、だからこそ簡単な気持ちであっていてはいけないのだと思うようになっていった。