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第2章 アプローチ編 1.ある日


 それは6月の下旬、天気予報がひさしぶりに週末の晴れを告げた木曜日だった。夜8時を回った頃、斉藤弘子の家の電話が鳴り、少しして弘子の部屋のインターホンが鳴った。

「弘子、電話。山根さんって人から」

(やまね?)

 心当たりがない。その名字で知っている人は、3月に卒業したテニス部の「かっこいい先輩」くらい。他にいただろうか。いや、知り合いを騙った電話セールスかもしれない。

「もしもし、お電話、かわりましたが」

 少し警戒して弘子は自分の部屋で電話をとった。男性の声が話し始めた。

「あの、覚えてないと思うけど、高校で…あの、この間卒業した、テニス部の山根です」

「え?」

「ゴメン、誰かわからないよね」

「えっと、あのー…」

 忘れてなんかいない。テニス部の憧れの先輩はいまだに友人の話題にのぼる。でも、知り合いとも言えない相手から電話がかかってきたことに、弘子は困惑した。

 克彦もどう言葉を継いで言いかわからず、続く言葉を探していた。少し沈黙ができて、弘子がその気まずさに焦って言葉を継いだ。

「いや、あの、覚えてます。友達が、よくウワサしてるし」

 克彦は弘子が覚えていてくれたことに勇気づけられ、なんとか本題に入った。

「あの、急に電話なんかしてゴメン。それでね、その…」


 克彦が大学生になってもうすぐ3ヶ月がたとうとしていた。克彦は大学でもテニス部に入ろうと思っていたが、体育会系の正当な部活の「テニス部」は、人生をテニスに懸けている本気すぎる世界だった。でも、大半の「テニスサークル」はナンパとコンパと旅行ばかりしているらしかった。自称「真面目なサークル」をいくつか見に行ったが、いい男と見るなり女性たちの目の色がいっせいに変わったのを感じ、克彦は早々に脱出した。最後に、学校発行の公式のサークル紹介雑誌に「テニスしかしません」としか載せていないうえに、勧誘をまったくしていないところを見つけて入部した。幸い、当たりだった。

「キミ、カッコいいから、フツウのテニスサークルのほうがよかったんじゃない?」

 サークルの説明をしてくれた女性は、克彦をじろじろ見ながらそう言った。

「あのー、ここは、テニスとそれ以外の比率、どのくらいなんですか?」

「テニス99%。コンパとか、合宿という名の旅行とかは、やらないとは言わないけど、気持ち的にはテニスしかしない。恋愛は禁止してないけど、サークルの外でどうぞ」

 部員を見渡すと男のほうが多かった。克彦は念を押して、訊いた。

「突然お見合いパーティー始めたり、どこかの短大から女の子だけ連れてきて入部させたり、しないですよね?」

 説明担当の華やかで気取りのない3年生、高田恵梨は、あははと笑ってうなずいた。

「じゃあ、キミはここがいいんじゃない。女子大と交流試合することもあることはあるけど、基本、ウチには、体育会系のイキオイではやりたくないけど、いわゆる『テニスサークル』にウンザリしてる、真面目なテニスバカばっかり集まってるから」

 何事もなくは済まなかったが、2人ばかりモーションをかけてきた女の子をいつもの調子でかわしたら、あっさりと克彦の周りは沈静化した。4月はめまぐるしく過ぎ、GWで一息ついた。大学生になったんだと実感した。そして、ふと気がついた。

(…また、女の子が灰色に見える)

 峯丘高校は優等生ばかりの進学校だったため、制服も色気がなく、女の子たち自身も総じて地味だった。だから、大学に入って、周囲に魅力的な女の子は飛躍的に増えた。けれど克彦にはみんな「女性」という同じ生き物にしか見えなかった。

 次の「春の妖精」を待った。弘子が入学してきて、花壇のそばでフルートを吹きそこなったように、そういう人はいつか現れると思っていたし、焦る気持ちは全くなかった。

 弘子の写真は机の引出しにしまったまま捨てられないでいた。机の上に戻す勇気もなかった。そのまままたひと月が過ぎ、6月になった。

 突然、弘子のいない世界で毎日が過ぎていく自分を淋しいと思った。そして弘子の人生の中に存在していない自分を自覚した。自分だけが思い出して、相手の中には何もない…それをとてつもなく淋しく感じた。弘子の人生に一瞬でも登場したい、それだけでいいからと、気持ちを告げる意思が芽生えた。

 眺めていただけの自分に後悔もあった。どうせならあきらめついでに頑張ってみればいいんじゃないか…失うものがあるわけではないのだから…。やがて、その気持ちが強くなっていった。

(…一日だけ、デートに誘ってみよう)

 克彦の気持ちは固まっていった。そして弘子の連絡先をなんとか調べた。木曜日に天気予報が週末の晴れを告げたとき、克彦は斉藤家に電話をかけた。


「それで、用事は…今週の土曜か日曜、…空いてないかな」

 克彦は、やっと弘子にそれだけを言った。また沈黙が流れた。

「…は、あの、…」

 弘子は「何の用でしょうか?」と言いかけて、言葉を止めた。

(まさか、デートのお誘い…)

 弘子はかぶりをふった。どういう発想をしてもそれはあり得ない。じゃあ、他にどういう可能性があるだろうか?

「あのう、まさかとは思うんですが、宗教の勧誘…とか?」

 おそるおそる言ってみた。まあ、だからといって弘子に電話をかけてくるのは不自然極まりないけれど。

「えっ?」

 克彦は思いもよらない反応に驚き、そして自分と弘子の距離の遠さに苦笑した。

「ちがうよ、なんか変なセミナーとか、自己啓発とかの勧誘でもなければ、押し売りでもないし、お金を払わせようとか、損をさせようとか、そういう話じゃないよ、ただ、…」

 克彦は深呼吸をしてから、言った。

「話したいことがあって、だから、ちょっとだけ会ってほしいんだ」

 日曜に駅前で待ち合わせることになった。弘子は、心に浮かぶ「ありえない状況」を必死で底の底に沈めながら言われるままにメモをとった。

(…そういえば、吹奏楽部のステージのとき、声かけてきたなあ。私の名前も覚えてて、何が「応援する」なのか、私は全然わかんなかった…。…夕方、誰もいない校舎で転んだ時、なんであんなところに、あの人は駆けつけてきたんだろう?)

 会って話を聞くまでは何もわからないのに、弘子は何度も「何の用だろう」と同じ問いを繰り返した。佳美やかおりになにかある、という可能性も考えたが、それで部外者の弘子に電話をかけてくるのは辻褄が合わない。だいたい、弘子の家の電話番号を調べたのはなぜなのか?

 弘子は佳美とかおりにそれぞれ電話をかけ、「最近誰かにウチの電話番号訊かれたりした?」と訊いたが、2人とも返事は同じだった。

「いや、べつに? なにかあったの?」

 弘子は「なんか変な電話がかかってきたから」とごまかした。

 一方、克彦は、電話を切ってまずホッとし、それから静かに狂喜した。

(なんとか呼び出すことに成功した! 何でもっと早く、そうしなかったんだろう!)

 弘子はそれから丸2日半、七転八倒して過ごした。克彦はうっとりして、いろいろ勝手なことを想像しながら過ごした。


 その日弘子は、「何かを期待している」と思われては困ると思い、比較的地味な小さな青い花柄のカットソーに同じ青のひざ丈のフレアースカート、それと白の薄いカーディガンを着て家を出た。早く起きてしまったし、家にいてもどうしても落ち着かなかったのでちょっとだけ早めに駅前に向かったつもりが、着いたら待ち合わせの15分前だった。早すぎるからどこかで時間をつぶそうと思い、ふと、

「まさかね」

 とつぶやいて改札付近を見ると、克彦の姿が瞬時に目に入った。細いストライプのなんでもないシャツにジーンズで、肩にゆったりと薄手の白いパーカーをかけていた。さりげない服装なのに際立ってカッコいい。弘子はドキッとするより、ギョッとした。

「うわ」

 思わず声になってしまった。

(15分前に、なんでもう来てるの!?)

 待たせるのは悪いが、15分も前に現れるのは恥ずかしい。弘子は悩んだあげく、5分前に行こうと本屋に逃げ込み、結局落ち着かなくて10分前には本屋を出た。

 克彦は同じところにもたれて時計を見ていた。弘子はしばらくその姿をじっと見つめていた。周りを行き来する男性と比べて明らかに華やかで、一体自分に何の用だろうという疑問はますます大きくなった。

 正面から歩み寄っていく勇気はなくて、後ろから声をかけようと、弘子はぐるっと遠回りをして近づいていった。そしてすぐそばの角からそっと体半分だけ出すような格好で、

「山根先輩」

 と声をかけた。恥ずかしくて顔が見られなかった。

 克彦ははじかれたように振り返った。弘子の姿を見て、体が温まるように力が抜けていくのを感じた。会えて純粋に嬉しかった。ただの執着だけで、もう恋をしていなかったらどうしようと思っていたが、心が溶けていくようなやわらかい気持ちが広がった。

「…来てくれて、ありがとう」

 克彦は誘ったときから決めていた言葉をかけた。

「今日は、ゴメンね。急に電話なんかかけちゃって」

 できるだけ優しく言ったが、弘子はすっかり身構えていた。克彦は、できるだけ長く一緒にいたいと思っていたが、おそらく無理だろうと短期決戦を決意した。

「覚えててくれたんだ。俺のこと、見てもわからないと思って心配したよ」

 弘子は「ご冗談を」と思った。学校屈指のいい男を、顔から先に忘れるのは難しい。

「ここで立ち話ってわけにはいかないから、喫茶店と公園、どっちがいい? 確かこの近くに公園があったよね。池があって、広いところ。喫茶店なら、そのへんに何軒か…」

「いえ、あの、公園のほうが、私は…」

 弘子には喫茶店で克彦と正面切って向かい合う度胸はなかった。心の中ではずっと、「何の話?」「何の話?」「何の話?」と繰り返していた。

「じゃあ、ちょっと歩こうか」

 優しく促すように、克彦は少し歩いて振り返った。弘子は後を追ったが、脚からぎくしゃくという音が聞こえるようだった。

「フルート、うまくなったんだろうね。もうあれから1年以上経ったもんね」

 克彦は言った。ドキドキはしていたが、心地よい緊張だった。

「え、あ、あの、まあ、ええ、それなりには」

 弘子は緊張しすぎて変な汗が出てきてしまった。「あれから1年以上」が、どこから1年以上なのかわからない。

「吹奏楽部って、パートかえたりするの?」

「は、はい?」

「楽器のパート、替わったりするの?」

「いえ、ええと、途中で替わる人もいますし、演奏会のときは替えたりしますけど、基本的には替わりません」

「斉藤さんは替わったりしたの?」

「いえ、私はずっとフルートです」

「そうか。よかった」

 一体何がよかったのか全然わからない。弘子は悩んだ。

 駅からちょっと歩くと芝生とベンチと池と花壇しかない広い公園がある。弘子が佳美やかおりと中学の頃からおしゃべりをしていた場所だった。何日も降り続いた雨で土が湿っていて独特のにおいがする。二人は緩やかなスロープを上り、遊歩道に沿って歩き始めた。

「2年生になって、なにか変わった?」

「いえ、べつに…、クラスがえもないし、何も…。先輩は、大学、どうですか?」

 弘子の方から訊かれて克彦は嬉しくなり、行ってみたけれど入らなかったいくつかのテニスサークルの話をした。弘子は少しリラックスしたらしく、くすくすと笑った。克彦はホッとした。

 柱を立てて屋根をのせただけの休憩所にベンチがあったので、克彦が「座る?」と訊いたが、弘子は「歩きませんか?」と答えた。

 弘子は会話だけでめいっぱいだった。なんでもない会話が続けば続くほどデートに思えてくる。克彦が話を続けてくれるからいいものの、沈黙ができるたびに弘子は大いに戸惑った。

 克彦は本題に入るタイミングを一生懸命探っていた。

 池には白鳥がいた。ふっくらと水面に浮かんでいる。雨が続いて濁った水面に真っ白な羽が美しかった。

「わあ、白鳥がいるんだね」

「あ、そうなんですよ、住みついてるみたいです」

 池のそばの木の手すりまで行き、2人で白鳥をのぞきこんだ。克彦は、隣で乗り出して白鳥を眺めている弘子の横顔を見て、今だ、と思った。

「…あのさ、それで、実は…」

 弘子はただならぬ気配を察知して凍りついた。克彦もその気配を察して、何から言い出そうか、急にわからなくなってしまった。また沈黙が流れた。

「…なんだっけ、忘れちゃった。白鳥って、ここに一羽いるだけなの?」

「あ、いつもはもう一羽いるんです。今日はどこに行ったのかな…」

 弘子は手すりから離れ、道の真ん中に戻った。促されるように克彦は隣に来て、また歩きだした。弘子がそっと見ると、克彦は指でさりげなく額をぬぐっていた。弘子はますますうろたえた。どんなに自分に自信がなくたって、これはもはや、そういう状況だ。

 ふいと日がかげったので克彦は空を見た。天気予報は晴れのち曇りだったが、梅雨の雲が広がってきていた。

(おかしいな、午後の天気予報は降水確率10%だったけどな)

 夕方からは30%だったなと、克彦は思い出した。降ってくれるなと祈った。

 2人は池の周りをぐるっと一周歩いてしまい、克彦は観念した。

「さっきのベンチで、ちょっと座ろうよ。疲れたでしょ」

 弘子も、もう一周むやみに歩くのは変だと思ってわずかに会釈するようにうなずいた。

 2人は遠すぎないように、でもやや遠めに並んでぎこちなくベンチに座った。何か話さなければいけないような圧迫感が2人を包んだ。

「なんだか、引っ張り回しちゃって、ゴメンね」

 克彦は言った。

「あ、いえ…」

 弘子は小さな声で短く答えた。「そんなことないです、楽しいですよ」と答えるほど盛り上がっていないし、何を言っても墓穴を掘りそうだ。必死で会話をどうするか検討しながら、弘子はただ座っていた。

「しかも、もう卒業した、自分に何の関係もない奴から突然電話来て、来いとか言われて、来たらなんか歩いてるだけだし、ホントに、ゴメンね」

 克彦の声が優しい中にも緊張をたたえてくる。うかつに返事ができない雰囲気が広がり、弘子はうつむいて聞いていた。克彦がひざにのせていた手がかすかに震えた。弘子はそれに気がついて、慌てて目を伏せた。

 克彦は一気に本題に踏み込んだ。

「でも俺、大学に入ってからもう3ヶ月もたつのに、キミのこと、忘れられなくてさ」

 弘子は凍りついた。うまく飲み込めないが、何が起きているかはわかった。「どういうこと?」を心で連呼する。一体何がどうなってこうなったのだろうか。

 意味はもう伝わってしまった。克彦は、言葉の出ていったのどから順に体が焼けついて苦しくなっていくような感覚にとらわれた。それでも言葉を続けた。

「それで、せめて伝えたくて。…俺、ずっと、キミのことが好きでした」

 弘子は頭を金属バットで殴られたような感覚に打ちのめされ、正気を保っているのがやっとだった。

「…それだけ。呼び出したりして、ゴメン」

 克彦は途中から息つぎをしていなかったことに突然気がつき、深呼吸をした。そうしたら少し落ち着いた。弘子が自分に何も特別な感情をもっていないのは知っている。返事がどうだとか、そういうことに焦っても仕方ない。

 弘子が黙っているので、克彦はそのまま待った。

(…ダメモトで、つきあってほしいとか言ってみようかな。でも、よく知らない男にいきなり言われて、OKなんてしないよね、普通)

 弘子は、「そうですか」というのも変だし、「それはどうも」と言うのもおかしいし、これだけ引っ張ったあとで「ええっ! そうだったんですか」と言うわけにもいかないし、なんと返していいかわからずに困っていた。克彦はそれを察して声をかけた。

「ゴメン、いきなり言われたら、困っちゃうよね」

 すると、突然弘子がうつむいたまま、

「あの」

 と言ったので、克彦は焦った。弘子は必死で言った。

「なんか、イタズラとかじゃないですよね、ドッキリとか、そういう」

「え?」

 克彦は脱力して、笑いがこみ上げた。

「そんなんじゃないよ。本気だよ」

 弘子を見ると、身動きも取れずに、ほとんど半泣きで固まっている。その様子にかえって克彦の中に余裕ができた。会話を続けてあげなければいけないと思えた。

「ホントにゴメン、驚かせちゃったね。あのね、じゃあ、説明するから聞いて。俺がキミのことを気になりはじめたのはね、キミがテニスコートの脇で、フルート吹いて失敗したとき。俺が、フルートをくわえたキミを見て、なんて思ったかわかる?」

 楽器についての表現があまりわからなかったので、克彦はフルートを「くわえた」というおかしな言い方になってしまった。弘子はそのせいで余計に自分の醜態を思い出し、自虐的に答えた。

「はあ、ものをくわえた感じというと…イソップ童話の、欲張りな犬とかですかね…。川に向かって吠えて、肉をおとす犬」

「そんなんじゃないよ! うーん、なんて言ったらいいのかな、フルートにこう口をつけてね、今にも吹こうかというその瞬間のことなんだけど」

「…はい…」

 返事が返るようになって、克彦はホッとした。

「あのね、笑わないでよ」

 でも自分でも笑ってしまいそうだった。

「…ええとね、…春の妖精みたいだなって、なんだかそんな風に思ったの」

「は?」

 弘子はついつい怪訝そうな声になった。克彦は急に恥ずかしくなった。

「だから、笑わないでって言ったのに」

 そして、次の言葉を探す間、両手をもじもじとこすりあわせて掌の汗をぬぐった。

 弘子がそうっと克彦を横目で盗み見ると、克彦は顔を赤くして決まり悪そうな表情を浮かべ、地面を見ていた。弘子の先入観としては、きっと克彦はこういう場数も踏んでいて、人気がある分は確実に女ったらしに決まっているはずだったのだが…。

「俺自身も、自分ですっごく恥ずかしいこと考えてるなーと思ったんだけど、キミの後ろにはチューリップが咲いてて、春の夕方の光がちょっと黄色くて、まわりの木は新緑で、キミのフルートが金色にきらきら輝いて、ホントに綺麗な光景だったんだよ。キミが持ってるのは、この世界に春を告げる魔法のフルート…なんて、また、笑われるだろうけど…」

 弘子は克彦のガッカリしたような語尾が可笑しくて、つい笑った。

「やっぱり笑われた…」

 克彦が肩を落としたので、弘子は慌てた。

「違うんです、先輩の言い方が可笑しくて…」

「…いいの、自覚してるから」

 照れ隠しに克彦は鼻の頭を指でこすり、それでも続きを話しはじめた。

「キミがそのフルートで奏でる音を、俺は期待して待ってたの。そしたら、いきなり、すっごい音が鳴ったでしょ。それで…」

 克彦も、思い出して少し笑ってしまった。弘子はうなだれたまま口をとがらせて克彦を糾弾した。

「先輩だって、笑ってるじゃないですか…」

「ゴメン、それで、キミが大っきい声で失礼しましたーって言って、フルートを片付けて、猛然と本を読みだしたでしょう。もうね、その、感情の一つ一つが手にとるようにわかるしぐさが、可愛いなあと思って。だから俺の中では、ホントにキミのフルートの音色で春が来たわけ。もう恥ずかしいとかナシで言っちゃうけど。それから、キミのこと知りたくて、校舎うろついたり、窓から外ばっか見たりして。テニスの大会来てくれたとき、本当に嬉しかった。あれでキミの名前もわかったし。絶対気付いてくれるはずないと思いながら、一生懸命キミに手を振ってみたりしてたの」

 弘子は、大会の日、克彦が自分の方向を見て手を振っていることに気付いていた。でも、自分のすぐ後ろの席に特別な人でもいるんだな、と思っただけですぐ忘れていた。

「それから…学園祭のとき、俺、声かけたでしょ? おかしいなって思わなかった? そんなに親しいわけでもないのに、わざわざ声なんかかけてきて」

(…はい、その通り。おかしいと思いました)

 弘子は内心そう思いつつ、口では、

「いえ、あの、親切な人なんだなと…。あと、女の子にマメなんだな、と…」

 と答えた。克彦はショックを受けた。

「え、女性にマメって思われちゃったの? 誤解だよ、俺、女の子に自分から声かけるなんて、ホントにしないんだよ?」

「…そうなんですか?」

「ホントに。でもそうだよね、キミにしてみれば、他の女の子と自分を比較する機会はないんだもんね…」

 弘子は恐縮したふりをしていたが、伝わるところはあった。

(いや、佳美とかおりが「山根先輩は、絶対に隙を見せないように女と距離をとっている」って言ってたっけ…)

「あとは、キミがケガしたとき、俺、放課後のひと気のないところにすぐ飛んできたでしょ。あれね、あの日、音楽室からキミが出てくるのを待ってたの。全然キミと知り合いになれるチャンスがないんだもん。…気味悪い? そういうの」

「いえ、その、別に、毎日後をつけられて怖い思いをしたわけでもないので…」

 いや、そうじゃないんだよね、と弘子は思った。度が過ぎればすべて嫌ではあるが、ある程度のこういうことは、やる人によっては嫌で、場合によっては…というよりこんな「かっこいい人」にされていたらそれなりに嬉しいというのはある。弘子は愕然とした。「かっこいい人」はよけるのがポリシーだったのに…。

 弘子が自戒してしゃちほこばっていることには気がつかず、克彦は話しつづけた。

「だから、キミがケガしたとき、力になれてホントに良かったよ」

 保健室に腕を借りて行った時のことが思い出され、弘子は初めてそれが「恋愛沙汰」だったのを理解した。ハッとした弘子の様子が伝わり、克彦は恐縮した。

「ゴメン、あれは、なんか変なふうに触ろうとしたつもりじゃなくて、結果的に助けたくて、そうするしかなくて、…よかったっていうのは後から思っただけだよ。…ああ、あと一周くらい歩かない?」

 克彦は立ち上がった。弘子も雰囲気を打開したかったので立ち上がった。そしてゆっくりと、さっきと同じ道を歩いた。

(けっこう、いいムードじゃない? 案外、うまくいくかもしれないよね?)

 克彦は少しいい気分になりつつあった。そして、他に話すことは…と記憶をたどっていき、呼び起こされた出来事に打ちのめされた。

(あと、覚えているのは、バスの中の会話…)

 誰かに片思いをしていると話す声を思い出し、克彦はそのまま黙って歩いた。弘子は、まだ克彦が照れているのかと思い、そっと克彦のほうを見た。克彦も弘子を盗み見ていたので、多分初めて、2人の目が合った。克彦の切ない瞳にドキッとして、弘子は慌てて下を向いた。弘子が目をそらしたあとも、克彦は弘子を見つめていた。

(…例えば今日、失恋して帰っても、俺は、斉藤さんのことをあきらめられるんだろうか?)

 沈黙の中、池をもう一周してしまった。どちらからともなく足を止めて、立ち尽くした。克彦は意を決して口を開いた。

「…ホントは、今日それだけ言って帰ろうと思ってたんだけど…」

 その時、弘子が急に空を見上げた。雨が降りだした。克彦は慌てて言った。

「さっきのところに戻ろう」

 これからもう少しどこかで一緒にいようと言いたかったが、言えなくなった。やっぱりあきらめろということなのか…。克彦は気持ちが沈んだ。

 弘子は、自分がずっと黙っていることに腹を立てていたが、やっぱり何も言えず、困惑の中にいた。

 屋根のあるベンチに戻って雨宿りをした。決して強くない雨だったが、静かに、わずかに降り続けてやまなそうな雰囲気だ。克彦は梅雨時に呼び出したことを心から後悔した。

「少し待ってて」

 克彦はそう言ってベンチから立ち上がった。

「え、どこへ行くんですか?」

 弘子が追って立ち上がると、克彦は肩にかけていたパーカーを軽く外しながら、

「傘、買ってくるよ。家まで歩くでしょ?」

 と言って出て行こうとした。克彦は手で「気にしないで」と弘子を制したが、屋根を出ようとした瞬間、

「ホントに、そんなふうになにか、してもらっちゃうと困るので…」

 という声に立ちすくんだ。弘子は遠慮のつもりで言った言葉だったが、克彦はそうはとらなかった。

(こういうの、困る…そうだよね。好きな人がいるって話してた…)

 克彦はそう反芻して、再び襲ってきた胸の痛みにかすかに顔をしかめた。本当に胸に痛みが走るんだ、と思った。恋をするまで、それはただの比喩だと思っていた。弘子を帰さなければいけないが、雨の中、傘も持たせずに帰すなんてできない。雨がやむまで一緒にいたいが、長い時間拘束する勇気はなかった。

 弘子は、自分が「まだ帰りたくない」と思っていることを知っていた。けれど、克彦のことをほとんど知らないくせにどこか好感を抱いている自分を嫌悪した。

 気まずい雨は降り続き、2人は別々に自分の足元を見ながら立っていた。自分が決断しなければ…と克彦は思い、なんとか最後のプライドをふりしぼった。

「…家まで、送らせて。それだけでいいから。雨の中このまま帰したら、俺、ずっと後悔するから…」

 弘子はやっぱり何も言えなかった。克彦の気持ちに少しでも応える勇気はなく、けれども断る気にもなれなかった。もう一度会ってほしいと言ってくれることを期待していた。

「今日は、ホントに突然、ゴメンね。言いたいこと言って、いろいろ、困らせたと思うけど、…本気だっていうことだけ、わかって。もっと、一緒にいたいけど…雨だから…」

 克彦は弘子を盗み見た。弘子の表情は動かなかった。あきらめる覚悟が決まった。

「…行こう」

 そう言われて、弘子は公園の出口の方角へ足を進めた。克彦が自分のパーカーを広げて弘子にさしかけながら、2人は屋根の下を出て、小雨の中を歩き始めた。

「あの、…いいですから…。このくらい…」

 弘子は恐縮したが、克彦は、

「こんな日に呼び出しちゃって、雨の中歩かせたっていう思い出が残るの、嫌だよ」

 と強く言った。弘子は戸惑ったが、

「あの、それだと、手が疲れると思うので…、その上着を貸してもらってもいいですか?」

 とだけ、なんとか言った。

「え、そう? あの、…いいの? …なんか汚れたりとかしてないかな」

 弘子が肩の上に軽くかざした手と頭の上に、大きくて温かいパーカーがそっとかぶさった。雨にぬれた繊維の独特のにおいに混じって、なんだか優しいにおいがする気がした。

 弘子は、ずっと「考えさせてください」という一言を言おうとしていた。自分にはそれしか言えない。けれど、克彦の気持ちが、斉藤弘子という人間をよく知らないせいなのではないかと思えば気持ちは揺れた。例えばたった1日だけでも一緒に過ごしたら、もう好意は持ってもらえないのではないか…。それなら、飽きられるよりこのまま想われて、思い出になったほうがいい気がした。

 雨の中、黙って2人は歩いた。時々、弘子が「こっちです」と自宅の方向を指すだけだった。克彦は楽しい話に戻すきっかけを探したが、駅からほんの10分で、弘子の家が見えてきた。

「あの、角に見える赤っぽい屋根が、ウチなんで…」

 そう言われて、克彦はあと少ししか時間が残されていないことに気付き、躊躇はしたがはっきりと決意した。

「…また、友達でいいから、会ってくれないかな」

 弘子は唐突に言われて、また言葉に詰まってしまった。あっさりOKするのは軽薄だ。でも、「考える時間がほしい」という正直な気持ちを返事にすると、言葉がかみ合わない。

 克彦は弘子からの返事が返らないことに焦った。その数分の時間は、弘子には足りなすぎたが、克彦にとっては長すぎた。断られるのが怖くて、克彦は慌てて自分に釘を刺すように言った。

「ゴメン、迷惑だよね。好きな人とか、つきあってる人とか、いるよね」

 弘子は反射的に、

「いません!」

 と叫び、それから克彦のパーカーの陰に隠れた。

「だからどうだって、わけじゃないんですけど、別に、今は、その、特に…」

 弘子が要領を得ない言葉で言い訳をすると、すぐさま克彦は追及した。

「…あれ、あの…。好きな人がいるって言ってたの、偶然、聞いてたことがあって…」

「聞きちがいじゃないですか? …ホントに…その、山根先輩も含めてになっちゃうんですけど、特にその、気になる人はいないんで…」

 弘子はまさか半年も前のクリスマスの頃の話とは思わず、しどろもどろに言った。克彦は狐につままれたような顔で弘子を見て、今が6月であり、弘子の中では克彦以上に時間がたっていることにやっと気がついた。

「…あの、ここなんで…」

 弘子の家に着いた。弘子はもっと答えやすい克彦の言葉を待った。そして、何も言ってくれないのなら、傘を貸そうと思った。薄着で雨に当たっている克彦に、一度家に上がって少し温まってもらったほうがいいかとも悩んだ。でも家族の目も気になった。

 克彦は言葉を探し、もう一度「また会ってほしい」と言おうとしたが、その瞬間くしゃみが出た。

「あ、あの、これ」

 弘子は借りていたパーカーを差し出そうとして、手を止めた。雨に濡れたパーカーはくたくただった。

「あ、…洗濯、してから返します」

「…え、…あ、そしたら…」

 その言葉が「次」の約束になっていることに克彦が気づいた瞬間、もう一回、くしゃみが出た。

「あ、あの、寒かったら…返します…」

 弘子がパーカーを差し出したので、克彦は慌てた。チャンスが消えてしまう。

「いや、その、寒いけど、その…」

 言葉を続けようとしたら、弘子が押し付けるようにパーカーを返してきた。克彦は絶望に見舞われた。しかし、そうではなかった。

「あの、傘を貸しますから」

「ちょっと待って」

 家のほうに向き直ろうとした弘子を呼び止め、克彦はおそるおそる言った。

「あのう…。俺は、その傘を返すチャンスを、もらえるんでしょうか…?」

 そして早口になって、

「もし、傘を返さなくていいとか言われるんだったら、これ、あの、あつかましいと思うかもしれないけど、洗濯して返してもらえれば、その…」

 と続けた。その様子は颯爽としたテニス部のエースでも二枚目の色男でもなく、なんだか頼りない男の子だった。弘子は控えめに笑って、

「あの、先輩」

 と制して、はにかんだように克彦を見上げた。

「私が『傘は返さなくていい』って言ったって、返しに来られちゃったら、私、玄関に出てこないわけにはいかないです」

 克彦の顔に歓びが宿ったのを見て取ると、弘子は急に恥ずかしくなり、

「ちょっとだけ、待っててください」

 と言って玄関に駆け込んだ。克彦はその後ろ姿を見て、それから手元に返されたパーカーを見た。そして、パーカーをぎゅっと抱きしめて顔をうずめた。さっきまではしなかった、いい香りがした。

 瞬時に弘子が傘を手にしてドアを出てきたので、克彦がパーカーを抱きしめているところにハチ合わせた。克彦は慌ててパーカーを顔から離し、必死で照れ笑いを作った。その瞬間、克彦が本気で自分を好きなのだと、弘子はやっと信じる気になった。

 弘子がうつむき気味に傘を渡すと、克彦は早速、

「来週、日曜日に、傘を返しに来ても、いいかな」

 と訊いた。その嬉しそうな顔を一瞬見上げ、弘子はすぐに視線を足元に落とした。そして、消えそうな声で答えた。

「…あの、先輩の気が変わらなければ…。一日、出掛ける予定はないので…」

「それじゃあ、また」

 克彦はかみしめるように言った。弘子は小さくお辞儀をした。

 克彦は弘子の傘をさして、「Singin’ in The Rain」を適当に歌いながら、水溜りを軽やかに飛び越えて帰っていった。弘子はその後ろ姿をドキドキしながら見送った。

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