第1章 片想い編 3.接近遭遇
夏休みは、実は結構いろいろなことが起こる。8月下旬のある日、弘子、佳美、かおりは集まって喫茶店でおしゃべりにふけっていた。
「夏休み、なんかあった~?」
かおりの言葉に、即座に佳美が呼応した。
「なんかあったのはアンタでしょ。それが話したくて弘子呼んだようなモンじゃない。早く話しなさいよ、むかつく」
「へっ? なんかあったの?」
弘子が訊くと、かおりは笑いをこらえきれないような顔で、
「彼氏ができた」
と言った。
「どういうこと!」
大きな声で弘子は言い、そして慌てて口を閉じて周りを見回し、小声でかおりに訊いた。
「どこの誰? 早すぎ!」
「あはははー」
かおりがへらへらして答えずにいると、佳美が代わりに答えた。
「テニス部の数少ない1年男、1人ゲットしちゃったんだよ、夏休みに連絡取り合ったりしてさ。山根センパーイとか言ってて、ちゃっかり実用は別に押さえてんの」
「えー別に、私はじめから山根センパイは観賞用だって言ってたじゃん。それはそれ、これはこれじゃん?」
「しかも全部事後報告でさ、裏でこそこそ動いてたなんて…あらかじめ何か言いなよ、もー、友達をなんだと思ってるんだ」
かおりと佳美が押し問答を始めたので、弘子はまあまあと割って入り、
「いやあ、私も実は、報告することがあるんだー」
と言った。2人の動きが電気くらげに刺されたかのように止まった。
「ア、アンタまでまさか、私ひとりを置いて」
佳美が不安の極致のような顔をして言った。弘子はえへへと笑った。
「うーん、近いかな~」
「げ、マジ? ヒロコがあ?」
かおりがイヤな顔をして言ったので、弘子はムキになった。
「アンタはよくて、なんで私だとそんな顔されんの」
佳美はテーブルにうつぶせに倒れ、動かなくなった。
「あ、佳美…。ゴメン、私はどっちかと言うと佳美のほうに近い」
弘子が言うと、佳美はぱっと起き上がった。
「な、なになに、もったいぶらないで何があったのか言いなさいよ」
弘子はもう一度えへへと笑い、
「ん、好きな人ができた」
と言った。
「なに、吹奏楽部?」
「かっこいい?」
2人は同時に言った。
「うん、吹奏楽部。ホルンの人。かっこよくはない。多分」
克彦が和宣に弘子の写真を隠し撮りしてもらい、受験勉強の合間にぼうっと眺めていた頃、こんなところで事態は急な展開を見せていた。
「なんか、ホルンってとこがマニアックだよね。人より後ろのほうにいそう」
「何、その先入観。誰かはホルンをやることになるのに。まあ、明るい感じの人ではないけど…でもね、生き物が好きで、ヘビ触れる人なの」
「はあ?」
「中野大基くんっていってね、B組の人。私と一緒で、部活で楽器始めたばっかなの」
吹奏楽部は8月の上旬に合宿で斑尾高原に行った。夏は何もないところだが、スキー場が原っぱのようになっているので、そこを使って野外で楽器の練習ができる。
ペンションに着いて部屋に入ると、弘子たちの部屋の隅に、1メートルほどの体長のヘビがくつろいでいた。1年生女子はいっせいに悲鳴をあげた。
「うわーっ、ヘビ!」
「キャー」
全員が部屋を飛び出して騒いでいると、他の部屋から部員たちが次々顔を出した。
「大丈夫だよ、毒蛇じゃないから。ちょっと入るね」
眼鏡をかけた男の子が1人、部屋に入っていき、平然と蛇をつかまえた。そして、ちゃんと首を持ち、頭を親指で押さえる「正しいヘビの持ち方」で保持した。
「ぎゃー、ヘビ触った~」
「うっそー、キモチワルーイ」
女の子たちは小声で、さっきと違う悲鳴をあげた。
「ちょっと、外に逃がしてきます」
彼は、モーゼの「十戒」で海が割れるようにどんどん左右に後ずさっていく部員たちの間を通り抜け、外に出て行った。それが中野大基だった。
「いやー、キモチワルーイ」
「こわーい、『ヘビお』じゃーん」
騒ぐ女子一同に、弘子は「恩人に向かってそれはないよ」と思った。親切にしてくれた人に中傷的な言葉を向けるなんて、あってはならない。正義感がむやみに強いくせにあまのじゃくな弘子は、周囲の女の子たちの分も余計に彼への好感を育てた。それがきっかけで合宿が終わる頃には恋心が育っていた。
弘子は佳美とかおりに合宿の話を交えつつ中野大基の人となりを紹介し、言い終えると目の前のミルクティーを優雅に飲んだ。
「ヒロコ、きっかけが変だよ…」
佳美が言った。
「ヘビをつかんだから気に入ったなんて、びみょーすぎる」
かおりも言った。
「でも、彼がヘビをすぐにとってくれなかったら、すごく怖かったんだよ?」
「そうしたら宿の人がなんとかするでしょ」
「宿の人は仕事でやるけど、中野くんは親切でやるんだよ?」
合宿中、女の子たちは延々と中野大基のヘビネタでこそこそ笑っていた。弘子は、女性陣の失礼の詫びも兼ねて大基に「そのせつはありがとう」とお礼を言った。大基は、
「でも、あれ、単なるアオダイショウだから、毒とかないんだよ」
と返事をした。
「…いや、毒があるから怖いっていうのとは、ちょっと、ちがう」
「そう? まあ、女の子は、ヘビ怖いって言ってるほうが普通か。一般的にはそのほうが可愛いのかも、ね」
そう言って、大基はクスッと笑った。そのとき、弘子は「ね」の優しい響きにドッキリし、同時に、眼鏡の奥の優しそうな瞳にも気付いた。弘子の心にはずっとそのまなざしが焼きついていた。
「…で、その、ヒロコの『へびお』だけどさあ」
「そんな名前で呼ばないでよ、中野くんだってば!」
「じゃあ、ホルン君でいい」
「もー!」
2学期が始まった。
「おまえさ、いいかげん、ストーカーからは卒業したら?」
和宣はため息混じりに言った。
「ストーカーかな、やっぱ?」
克彦は教室の窓から校庭を見下ろしていた。弘子たちのクラスが体育の授業の片付けをしている。都立峯丘高校では、大半の生徒が学校指定の耐え難いデザインのジャージを拒否して、部活のジャージで体育の授業を受けている。吹奏楽部員も演奏のため一応体力づくりの基礎トレーニングをするので「吹奏楽部ジャージ」なるペパーミントグリーンのウェアを所有していて、このジャージを目印にすると体育の時間の弘子は非常に見つけやすい。克彦はこの曜日のこの休み時間に弘子を少しだけ眺められることに気付き、毎週窓にへばりついていた。
「眺めてるだけなんて男らしくないって。声かけて映画とか遊園地とか、誘えよ」
「えー、だってそしたら俺の気持ちがバレちゃうじゃん」
「それで、頑張って押して、オトせばいいじゃん。おまえ見かけがいいから、頑張れば大丈夫だって」
「でもね、俺、まだ彼女と知り合いらしい知り合いにもなってないから」
「だったら、知り合いになれよ。声かけろって」
「何コイツ、とか思われちゃうよ」
「ホント新発見。俺、女に言い寄られても全然動じないオマエを男らしいと思ってたんだけど、女に言い寄るほうのオマエ、てゆうか、言い寄りもしないでモジモジしてるオマエは『女らしい』よ」
克彦はこんな調子で日々を過ごしていた。一方で、弘子のほうも中野大基に対して何か行動を起こすことはなく、ただ部活を楽しみに日々を過ごしていた。
何かあったと数えるならば、学園祭の日、吹奏楽部が講堂に向かう途中、克彦はとうとう、初めて弘子に声をかけた。
克彦はさりげなく講堂の入口付近をうろついて吹奏楽部を待っていた。弘子が友人とおしゃべりをしながらフルートを抱えて歩いてきたのを見つけ、もう存在も忘れられているかもしれないと思いつつ、克彦は必死で声をかけるタイミングを待った。
「…斉藤さん」
声をかけられた弘子もびっくりしたが、声をかけた克彦のほうは心臓も止まるほど緊張していた。
「頑張ってね、今度は俺が応援するから」
克彦は必死でそれだけ言った。弘子は、内心「こんどは、って何だ?」と思ったが、
「あ、はい、ありがとうございます」
と言って慌てて頭を下げた。もちろん、「テニス部のかっこいい男」として親友二人の話題に常に出てくる「山根先輩」は忘れようもない。でも、その「山根先輩」のほうが自分を覚えているとは考えられず、弘子は、なぜ自分が声をかけられたのか全く心当たりがなかった。
それだけですれ違ったが、弘子の隣の女の子は、
「今の、テニス部の山根せんぱいでしょう? うそー、知り合いなの~?」
と羨望のまなざしで弘子を見た。弘子は、
「ああ、友達がテニス部だから」
とだけ言った。その時、やっと克彦のその言葉が半年前のテニスの大会を受けていることに思い当たった。
(ああ、あの時の。それで、「今度は俺が応援」か)
ふと、自分がわずかにドキドキしていることに気付き、弘子は無性に恥ずかしくなった。
(ほんのちょっと関わっただけの女の子のことまで、よく覚えてるよね。そうだよね、そんなふうにマメだから、もててるんだよね、きっと!)
克彦の気持ちも知らず、弘子は心の中で当てずっぽうにののしった。
けれど、本当にたったそれだけで、秋は過ぎていった。
冬が来た。
冬は、クリスマスやバレンタインデーといったチャンスがある。特に卒業を控えた3年生の周りはあわただしくなる。11月の中旬頃から、克彦は、それとなくクリスマスの予定を訊かれたり、パーティーに誘われたり、いろんな思惑の中に巻き込まれていた。けれどすべてを「受験だから、勉強する」と言って断った。この言葉は印籠のようなもので、嫌われたくない女の子たちはあっさりと諦めた。
「クリスマスか…」
克彦は、片っ端から誘いを断りながらも、間違いなく「独り者」のため息をついていた。初めて、淋しく迎えるクリスマスがぐさっと胸に刺さった。
(ああ、俺、今、人間として成長してるなあ…)
今までバカバカしく思っていたことが全部自分に降りかかってくる。クリスマスを好きな子と過ごしたいとか、ひとりは淋しいとか、思ったこともなかったのに…。
「テニス部で、なんかやらない?」
川上京子が声をかけてきた。克彦は、
「ああ、残念だけど、志望校にまだ偏差値が足りてないんだ」
と言い訳して断った。その返事は、佳美、かおりを含むテニス部のほとんどの女子をガッカリさせた。
「そろそろ、最後のチャンス、って感じじゃないの?」
和宣は克彦をたきつけていた。克彦も「そうかなあ」などと言ってクリスマスデートの特集を組んだ雑誌を見たりしていた。親友としては克彦のこの変化は非常に画期的で、イジワルな言い方をすると「見もの」だった。これまで克彦は女性に対して徹底的に冷静で、決して自分のペースを崩さなかったのに、最近では思い悩んだり、些細なことで一喜一憂したり、自信をなくしたりしている。男から見ても明らかにカッコいい親友に対してコンプレックスがあった和宣は、その克彦がやっと自分と同じように「普通の男の子」をやっていることにホッとした。
「でもさあ、一体いつ、どこで、どうやって声をかけて、どうやって誘えば自然かなあ」
「どうやったって不自然だろ。そこを頑張るんだよ」
「…うーん、やっぱそうかな~」
声をかけるきっかけをつかもうと、克彦は少し不自然でも積極的に弘子の行動圏をうろつくようにしていた。すでに弘子が1年E組だとわかっていたし、E組が3階だとわかっていたし、体育の授業の時間もわかっていたし、吹奏楽部の練習日もわかっていた。多少不自然でも、弘子が1人きりで歩いていたらすぐに声をかけようと思ってスタンバイしていた。
チャンスは、ある日唐突にやってきた。
土曜日、吹奏楽部は5時に練習が終わる。克彦は図書室で5時少し前まで勉強したあと、3階の音楽室のドアが見える、同じ階の屋外の渡り廊下でチャンスを待っていた。その背後を、学期に一度やってくる床面のワックス掛け業者が重い缶を下げて通り過ぎていった。克彦がそのまま待ち続けていると、音楽室のドアが開き、弘子が1人で出てきた。克彦は弘子がどこに行くのかを目で追ったが、すぐ見えなくなってしまった。
(なにか忘れ物でもとりに行ったのかな?)
克彦はきっかけを求め、同じく3階にある1年E組の方向をゆっくり目指して渡り廊下を歩いた。そこに「キャッ」という短い悲鳴が聞こえた。
(斉藤さんの声?)
克彦が慌てて校舎に飛び込むと、業者がわずかにこぼしたワックスに足を滑らせて転倒した弘子が足を押さえてうずくまっていた。
「どうしたの?」
克彦は駆け寄った。弘子は誰もいないと思っていたのでびっくりした。
(うわ、しかも、「山根センパイ」だ!)
弘子は克彦の顔を見てついひきつった。克彦は弘子のそばにかがんで心配そうに声をかけた。
「あ、ワックスで転んだの? 大丈夫?」
「あの、大丈夫です。すみません」
至近距離で話しかけられ、克彦の綺麗な顔立ちに、やっぱり弘子はドギマギしてしまった。あわてて「かっこいい人」は関係ないのだと、意識の外によけた。
「大丈夫? 立てる?」
「ホントに大丈夫です」
弘子はクールに強がって立ち上がろうとしたが、左足にひどい痛みが走り、不覚にも顔に出てしまった。さらに、「歩けますから」と言って歩いてみせようとして、痛みでバランスを崩した。克彦は反射的に弘子の肩と腕に手を回して支えた。触れた瞬間、気後れして手を引っ込めそうになったが、この場合は手を離したら危険なので、焦りと照れと後ろめたさにかられつつ、そのまま弘子を支えた。
「…す、すみません」
「保健室まで、歩ける? 下まで下りられる?」
克彦は心配しつつ、ここが3階でよかったと思った。保健室までちょっと遠い。
「あの、ホントに、大丈夫ですから。1人で行けますから」
「無理しちゃダメだよ、1階まで遠いよ。俺だって、ほったらかして帰るわけにはいかないよ」
弘子は試しに2、3歩歩いてみて、ひどい痛みに観念した。
「…すみません」
階段まで、弘子は克彦の腕につかまった。克彦はふってわいた幸運を神に感謝したが、さすがにこのタイミングでクリスマスの予定を訊いたりデートに誘ったりするのはマナー違反だし、卑怯だろうと思ってガッカリもしていた。
階段にさしかかると、弘子は、
「手すりにつかまりますから…すみません」
と恐縮して言った。克彦はとても残念だったが、触りたがっていると思われると困るので、黙って引き下がった。
弘子は手すりに両手でつかまり、そろそろと階段を下りた。克彦は、弘子がバランスを崩したときはすぐに支えようと、弘子の方に体を向けて少し前方を降りた。
3階から2階へと下り、それから1階へと下りていく途中で、ずっと力を入れていた弘子の腕からふとした拍子でかくんと力が抜け、反射的に痛いほうの足を突いてしまってバランスを崩した。克彦は慌てて手を伸ばし、落ちないように弘子の肩を支えたが、後ろ向きに階段を下りたせいで段差を踏み外した。
(斉藤さんを巻き添えにするわけに、いかない!)
バランスを崩しながら、克彦は弘子を押し戻すようにして手を離した。そしてそのまま下り階段を腰から落ちた。なんとか手すりを片手でつかみ、踊り場までの5、6段を軽く落ちただけで済んだ。
「すみません、大丈夫ですか」
弘子は痛みをこらえて片足とびで階段を下り、倒れるように克彦の側にかがみこんだ。克彦は腰を押さえ、力なく笑った。
「かっこ悪いとこ見せちゃったね。俺が支えなきゃいけないのに」
それでも何より弘子の安全が確保できたことにホッとしていた。
「すみません、ホントにすみません、すみません」
弘子は強がった自分を後悔した。迷惑をかけるまいとして、かえって迷惑をかけてしまった。克彦に素直に腕を貸してもらえば絶対にこうなることはなかった。
克彦は立ち上がり、服をはたいてからもう一度弘子の横にかがんだ。
「つかまって。大丈夫だから」
腕につかまらせてもらい、肩をうまく支えられてそろそろと両足を使って歩けたので、弘子はずっと楽になった。ただ、克彦とのギリギリの距離がとても気になっていた。男の子とこんなに近付いて歩くなんて初めてだった。
克彦は目の前がかすむほど幸せだった。自分の腕の中に弘子がいる。腰を打った痛みなんかすぐに忘れた。胸の高鳴りが苦しかった。それから、目の前に弘子の髪や耳や首筋があるので、変なところに吐息をかけないように苦労した。自分が時々不必要に弘子を引き寄せていることは自覚していた。でも弘子がされるままになっているので、気付かれていないだろうと状況に甘えることにした。
残念ながら、保健室にはしばらくしたら到着してしまった。保健の先生は片付けをしながらまだ残っていて、克彦は、いなければよかったのにとガッカリした。
保健の先生は弘子の足を診て、明るく言った。
「骨は平気みたい。ねんざだね。シップ貼って、テーピングして包帯で補強しておくから、ゆっくり歩いて帰りなさい。時間経っても良くならなかったら病院に行ってね。家までに、結構歩くところとか、ある?」
「いえ、あまりないです」
「んでも、駅から家までは、家の人に来てもらうか、タクシー使ったほうがいいかもね」
その会話を聞きながら、克彦は「家まで送るよ」と言うタイミングを待っていた。送っていって、別れ際にデートに誘うのならありだろう。
するとそこに、にぎやかな女子生徒の話し声と足音が聞こえてきた。
「弘子、いますか~」
保健室のドアがガラッと開いた。克彦は目の前で展開する悲劇をただ眺めていた。
「戻ってこないから探してたら、なんか運ばれてたのが見えたからさ~。どうしたのー? カバン持ってきたよ~」
「足? なにやったの?」
「帰ろ、帰ろ~」
吹奏楽部の女子生徒たちは、嵐のようにやってきて弘子を取り囲み、キープしてしまった。克彦の入る余地などどこにもなかった。
「先生、弘子平気ですか~?」
「連れて帰ってもいいですか~?」
「おぶったほうがいいですか~?」
彼女たちはきゃははと笑った。取り残されて呆然としている克彦を見て、弘子が立ち上がって歩いてきた。克彦は慌てて立ち上がった。
「あ、いいよ、無駄に歩いたらもっと傷めるよ」
弘子は背の高い克彦を一生懸命見上げた。そんな様子はとても可愛く見えた。
「あの、今日は、ホントにすみませんでした。先輩は、大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ。斉藤さんが落ちなくて、よかったよ」
弘子はあらためて深々と頭を下げた。
「ありがとうございました」
それを見て、吹奏楽部の女の子たちも、
「ありがとうございましたー」
と頭を下げた。そして、「帰ろ帰ろ~」と言いながら、ばらばらとドアを出た。2人の女の子が両側からそっと弘子の肩を支えるようにして、
「大丈夫?」
と言って弘子を連れ出した。弘子は廊下でもう一度克彦を振り返り、軽く頭を下げた。
克彦はぼんやりと弘子の出て行ったドアを見ていた。「うそー、いいなー」「かっこいいよねー」という黄色い声が聞こえてきた。自分のことが話題になっているなと思った。
保健室の先生は、何度かテニス部でケガをして保健室に来た克彦を覚えていた。
「山根くん、彼女好きなの?」
「えっ!」
克彦は声も出ないほど深いボディーブローを食らった。先生はけらけら笑った。
「秘密にしたいんだったらもうちょっと気をつけたほうがいいわよ。入ってきてから、彼女から片時も目を離さないんだもの」
「気のせいです!」
克彦は慌てて保健室を出た。そして、自分が手ぶらなのに気がついた。
「…あれ、カバン、どこやったっけ…」
自分で言い終わる前に思い出した。弘子がうずくまっていた3階の廊下にそのまま置いてきてしまった。薄暗くなった校舎をひとりで歩いて3階まで上り、カバンを見つけた。
「俺、バカ?」
つい口をついたが、カバンを拾うとともに幸せがこみ上げてきた。弘子の体を支えて降りた階段をゆっくりとかみしめるように歩き、克彦は帰途についた。
「でも、それだけだったんだ。なんで誘わなかったの。チャンス、あったでしょ?」
「いや、なかったよ。また、チャンスを探すよ」
和宣は無欲な親友に呆れかえった。
克彦はすっかり幸せ気分で、こんな浮かれた気持ちははじめてだった。自分が変わったことを実感していた。こう考えては本当に申し訳ないが、以前つきあった小岩依里子に対する気持ちとは全然違っていた。
弘子と会話をして、偶然とはいえ触れるほど近づく機会があって、克彦の気持ちは漠然とした「気になる」というものから「一緒に過ごしたい」「想ってほしい」というはっきりとした恋に変わった。
克彦は弘子に触れた手の感覚を何度も確かめ、何度もその光景を思い出した。忘れないように何度も反芻した。歩く時の揺れに合わせ、もっと抱き寄せたかった。もっと言葉も交わしたかったし、もっと一緒にいたかった。
可愛い、と思った。顔とかそういった造作のことでなく、存在が。小さくて、愛しくて、切なかった。彼女がどんな子なのか、ほとんどわからない。けれど…。
比べる対象にしたくはなかったが、かつての彼女だった依里子に対する気持ちとの違いが恋を教えてくれる。依里子が胸に飛び込んできたのは単なる一つの普通の出来事でしかなかった。けれども弘子が触れそうな距離にいた間のとてつもない胸の熱さは、そんな簡単な一場面では収まらなかった。はあ、と克彦はため息をついた。自室の机の上には全然こっちを向いていない弘子の隠し撮り写真が飾ってある。親が見るかもしれないが、別に隠そうとも思わなかった。
とはいえただ一つ、克彦には気に病んでいることがあった。
自分の中にある女性への嫌悪感。依里子と手をつないで街を歩くことはそう悪くなかったが、性的な対象として意識したらおぞましいイメージしか浮かばなかった。昔の記憶を介して突然壊れてしまう自分の感情が不安だった。
(俺は、普通に女の子とつきあって、普通に「その先の関係」まで行けるんだろうか?)
実際の女性を前にしたら自分はどうなるのだろう。いわゆる正常な機能が、自分にもちゃんとあるのだろうか。克彦は一生懸命自分の男としての価値について考えた。
(そして、例えば斉藤さんとうまくいって、…それから、その先…。…こんなこと、考えてゴメン、斉藤さん…)
克彦は弘子とのそういうことを考えるたび、必ず心で「ゴメン」と唱えていた。それは意外なことだった。誰に知られるものでもないし、むしろ、あくまでも真剣に仮定として考えているだけだ。恋愛の先にはどうしてもそういうことがある。そのはずなのに、弘子を性的なことにつなげて考えるのがどうしようもなく後ろめたかった。弘子を想像の中でも、思考の中でも、決して侵害したくなかった。
克彦は十代らしく、そして一度は女の子とつきあったことがある男の子らしく、それなりの悩みを抱えていた。
一方の弘子は、「今日は中野くんと話をする機会がなかった、がーん」などという幼稚な落ち込みに日々を費やしていた。