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第6章 接触編 4.2つの事件


 慶尾大学の卒業式が行われ、その週のサークルは「追い出しコンパ」となった。恵梨も卒業生のひとりだった。その日、克彦は意を決して恵梨に声をかけた。

「…高田先輩、最後の最後に本当に恐縮なんですけど…、最後にもう一度だけ、個人的に、相談に乗ってもらいたいんですが…」

 恵梨と克彦は、ホテルでの一件があって以来「それなりに仲がいい」程度にサークルの仲間として過ごし、踏み込んだ相談をし合うことはなくなっていた。

「私はいつでもOKよ。もう、ホテルに誘ったりしないから安心して何でも言ってよ」

 恵梨は喜色満面で答えた。克彦は、それがサークルの他の面々、とくに勇也に聞こえるのではないかとヒヤヒヤした。

 恵梨と克彦は2人だけで恵梨の卒業祝いをすることにした。その夜、恵梨は待ち合わせよりだいぶ前からひとりで飲んでいた。克彦は祝う側の礼儀として早めに来たのに、恵梨がもう来ていて驚いた。

「なんか、こういうの久しぶりになっちゃったわね。まあ、私が悪いんだけど」

 恵梨はとても嬉しそうだった。

「で、どうしたの、また山根くんがなんか問題起こしちゃったの?」

 克彦は口をつぐんだ。恵梨は冗談のつもりだったのだろうが、どうもその通りとしか言いようがない。

「あれ、アタリ? 彼女の方は他に男作ったりとか、事故でホテルに入ったりとか、何にもしないんでしょ?」

 言われてみれば、弘子はちょっと面倒なところはあるが克彦ひとすじだ。克彦は深く反省した。そして目下の問題の早期解決を強く願った。

「…あの、高田先輩に訊くなんて、デリカシーがないし、失礼だとは思ったんですけど…」

 克彦がおずおずと言うと、恵梨は大笑いした。

「私、気を遣ってあげてただけで、ずっと友情は変わってないつもりだったんだけどね。是非訊いてよ。変な風に態度変えられるの、嫌いだし。いいじゃない、訊きなよ」

 克彦は今更、かなり逡巡したが、なんとか気力を集めて開き直る努力をした。

「あの、じゃあ、お言葉に甘えて、言っちゃいますけど…実は、彼女をやっとこの前ホテルに連れ込んだんです。でも…ちょっとしたきっかけで、彼女に泣かれちゃって…」

 恵梨はこれ以上にないくらい訝しげな顔をした。克彦は自分の告白が恥ずかしくて目をそらしていたが、やがて恵梨の表情に気付いて戸惑った。

「あのさ、まさかと思うんだけど、あれから半年たって、キミたちまだHしてないの?」

 恵梨は克彦の顔をのぞき込んだ。克彦はしばらく照れ笑いをして、深くうなずいた。

「びっくり。変な人たち。私、彼女にいろいろ教えたつもりだったんだけどな。ちょっとはオトナになってなかった?」

「え! 一体、彼女に何をしたんですか!?」

「本当のことを普通に言ってあげただけよ。私が裸でベッドにいるのに山根くんが立たなくてデキなかったのよ、って」

 克彦はしばし閉口した。あの日病院で、最大の勇気を振り絞って恵梨とのコトを告白したはずが、弘子があまり動揺しなかった理由がやっとわかった。こんな話をズバリ聞かされたら、その後で克彦がした遠回しな説明なんて児戯に等しい。

「それは…結果的には感謝してます。彼女もちょっと大人になってくれたんで…」

「じゃあ、なんでそのまま2人で大人になれなかったの」

「なんにもないわけじゃなくて、ちょっと前から、えっと…準備っていうか、そういうことは、してたんで」

「彼女はなんでそこまでいってて、ホテルに行って泣くわけ」

 これを語るには勇気が要ったので、克彦はだいぶ遠回りをしたが、結果、なんとか相談することができた。

「彼女が嫌がるから、今まで、下を脱いだことはなかったんです。でも、シャワーからバスタオルで出てきて、ベッドで外したら、彼女がめちゃめちゃ怖がって…」

 これは絶対、男友達相手に相談できない。弘子のベッドでの様子を他の男に知らしめることになってしまう。それは自分も嫌だし、なにより弘子が嫌だろう。弘子は女性に話すこともよしとしないだろうが…。

「それじゃ最後までできないし…だから、触らせて、見せたんです。そしたらこの世の終わりみたいに泣かれちゃって…」

 克彦は全身全霊のエネルギーを費やして吐露し、あとは下を向いていた。いつまでも反応がないので、不安が照れに勝って顔を上げた。

「あの、…なにか、おかしいですか、俺…」

 恵梨はそれでもしばらく黙っていた。そして、克彦がさんざん不安を育てた頃、やっと答えてくれた。

「山根くん、それはまずいことをしたよ」

 克彦の巨大な不安の上に、さらにたくさんの重い不安が落ちてきた。だが、なにがまずいのか想像がつかない。もしかして自分の体がどこか異常だったんじゃないかという気分になってきた。克彦は自分の器質的問題を恐れた。手がかりは、とにかく恵梨に勇気をもって聞くしかない。

「先輩、あの…もしかして俺、男として…異常なんでしょうか」

「男として?」

「その、あの、俺…自身っていうか、あの、えっと、その、…コレ、です」

 克彦は真下を向いて、かつての恵梨に倣ってテーブルを指さした。恵梨はそんなふうに照れていられることが心底うらやましかった。自分にとってはもう人体の一つのパーツくらいの話だ。まあ、男性の中では永遠に気になる部分なのだろうけれど。

「大丈夫よ、普通だから。すごーく、普通」

 恵梨はにっこり笑って言ってあげた。

 克彦は顔を上げられなかった。それから、安心する以上に、「普通」という評価がとってもガッカリだった。とはいえ、恵梨とホテルに入っておいた意味はここにあるのかもしれないとも思った。一度あんな関係になっていなければ、こんなことはどうやったって訊けない。こういう力を貸してくれる「運命の人」もあるのかもしれない…と思って、克彦は気を取り直した。

「でもあの、『普通』なら、泣かなくてもいいんじゃないですか?」

「男は自分で見慣れてるだろうけど、女の子はそうそうお勉強もしないから、漲った状態なんて見たことないの。実は、私も、初めて見たとき泣いたんだよね。今思うとまあコドモだったなーと思うけど、男性恐怖症になっちゃった。それからしばらくカレシを拒否したね。顔見るのも嫌だった」

 克彦は愕然とした。

「私は、彼女の立場だったら、何がなんだかわからないうちに済んでいた…くらいの方がいいな」

 絶望に打ちひしがれて言葉もない克彦の手を、恵梨はぽんぽんとたたいた。

「大丈夫よ、みんな乗り越えて大人になっていくんだから。まあ、彼女がこれをきっかけにキミと別れて、次の人と乗り越えるってこともあるけど」

 克彦はますます落ち込んだ。

「どうしよう、ゴメンって言っても何にもならないし…」

「彼女も、いつかは乗り越えなきゃいけない壁なんだから、人生のしかるべき時期がきたというだけのことだよ。キミが自分からそういう子を選んだんだから、責任もって育ててあげなさい」

 2人は夜更けまで飲み、今度はちゃんと終電に合わせて店を出た。そして、必ずまた会って話をしようと約束して別れた。克彦の日常生活から、恵梨が卒業していった。


 日曜日に克彦は弘子を呼び出したが、一緒にいてもなんとなくぎくしゃくしていた。克彦は自然にふるまおうとしたが、弘子が殻に閉じこもったように息苦しくしていた。

「この前のこと、気にしてるの?」

 克彦は訊いた。弘子は答えなかった。

「ゴメン。ホントに、悪かったと思ってるんだよ。でも、俺も傷ついてるの。もちろん、キミは謝る必要なんかないけど、俺は俺で、つらいんだよ」

 やっぱり弘子は答えなかった。

「俺、どうしたらいいのかな。なんだか、一生懸命になればなるほど、うまくいかなくなるみたいな気がして…」

 弘子は困惑していた。克彦のことも怖い気がしたし、それに生理的に嫌な気持ちにもなってしまっていた。自分が大人だったり子供だったりして、弘子は揺れていた。

「ねえ、弘子さんはどうしたいの。いつもそんな風に黙ってないでよ。俺は男をやめるわけにはいかないんだよ。俺はやっぱり弘子さんと、そういうこと、したいんだよ。男であることをやめろって言われても無理だよ」

 克彦は必死で訴えた。弘子は静かに言った。

「わかってます、先輩は、当たり前のことを言ってるんだと思うし…」

 そしてしばらく黙って、弘子は何かを悩んでいた。克彦はじっと待った。待たなければいけないと思ったし、今は待つことしかできなかった。

 弘子は思い詰めたような顔になり、覚悟を決めた声で言った。

「…来週、都合のいい日があったら、先輩の家に行ってもいいですか?」

 克彦は弘子の言った意味を一生懸命考えた。克彦には弘子が「OK」してくれたとしか思えなかった。でも、それはあまりに唐突で、不可思議な展開だった。

「うん、わかった、待ってる。その時に、いろいろ、話し合ったりしよう」

 克彦はとりあえずそう答えた。でも、弘子の静かな瞳に、克彦の方が緊張していた。

 弘子の理性は意志を固め、克彦に体を委ねてみようと思っていた。でも、それとはまた別に、自分の体を相手に与えることを恐れてもいた。知ってしまったらもう忘れることはできない。受け入れてしまったらその事実は消せない。

(…むしろ、何も考えないでいられるくらい、先輩が自然な流れで抱いてくれればよかったのに…)

 弘子は勝手なことを考えている自分に苦笑した。そんなの、自分が拒否した結果だった。


 どうしても勇気が出ず、弘子はかおりに電話をかけた。

「かおり、実は相談があるんだけど…」

「何よ、珍しいね~」

「うん、…実はさ、私、山根先輩とのつきあいが、重大な局面を迎えちゃってて…」

「うまくいってないの?」

「え、そうじゃなくて、つまり…その、そういう、最終段階に到達してるってこと…」

 弘子が一生懸命勇気を出して言うと、かおりは頓狂な声で聞き返した。

「あれっ? ヒロコ、まだだったの?」

「なによ、そうだよ。まだだよって言ってたじゃん」

「私はまた、アンタのことだから、そこまで進んだなんてとても他人様には話せないとか言って意固地になってるだけだと思ってた」

 弘子は渋い顔をした。自分が人からどう思われているかがよくわかる。そして、克彦がよく愛想を尽かさないなと感心して、自分にあきれかえった。

「ホントにまだなんだけど、そのへんもそろそろ極まってきちゃってね、この前、…実は、ホテルに行ったんだよ」

「あ、すごーい。ヒロコをそこまで育てた山根先輩がすごーい」

「もう、からかわないでよ。それでね、人生の先輩と見込んで、かおりにちょっと、その…下世話なことの相談に乗ってもらいたくて…」

 かおりは、なるほど佳美には言えないなと思った。弘子は必死になって話し始めた。

「かおり、初めての時、怖くなかったの? あのさ、体験すること自体も怖いけど、そのね…男の人の体って、普段は見ないわけじゃない。とくにその…腰のあたりっていうか」

「ああ、そーいうこと」

 かおりは弘子が何に悩んでいるか合点した。

「まだごちゃごちゃやってるんだ。先輩らしいっていうか、ヒロコらしいっていうか。ヒロコはその気があるの、ないの?」

 弘子はためらったが、素直に言った。

「…いいかなって思ったりもしたんだけど、実際に先輩が脱ぐとなるとね、ダメなの。下を脱ごうとされると、もう、絶対にイヤになっちゃうのね。で、この前、私、ちょっとしたきっかけで…怖くてめちゃめちゃ泣いちゃって」

「見たの?」

 あえて弘子が明言しなかったところを、かおりは確実に突いてきた。かおり自身にも同じような状況があったのだろうかと弘子は思った。

「…うん…」

「ふーん」

 かおりはしばらく何も言わなかった。弘子は何か言ってほしくて一生懸命待った。

「…そのうち、慣れるよ」

「え?」

「慣れる。そういうモン。習うより慣れろ」

「はあ?」

「私も慣れるのに結構かかったよ」

 かおりの言葉にすがりつくように、弘子は必死で訊いた。

「ホント? かおりもショックだった? ダメだった? ダメなのって、普通なの?」

「ヒロコが特殊なわけじゃないよ、多分。でも結局は大丈夫になるよ。世の中の女の子は大概そういう経験をして、乗り越えるわけじゃん。アンタは難しく考えすぎるところがあるから悩むかもしんないけど、いずれは慣れる、慣れる」

 しばらくかおりときわどい話を続けるうちに、弘子はなんとか勇気がわいてきた。

「うん、わかった。慣れる。頑張って慣れるよ。ありがとう」

「コッチ方面の悩み事だったら私に訊いて。わかる範囲で誠意を持って答えるから」

「うん、頼りにする~」

 弘子はつくづく訊いて正解だったと思った。大パニックだった事件を、単なる「みんな同じ」「慣れれば大丈夫」なことだと思えた。


 だから、克彦の家に向かう足には異様に気合いが入っていた。弘子は自分なりに一生懸命だった。

 克彦は、自分の部屋で「やっぱり、そういうことなのかなあ…」と真剣に考え込んで弘子を待っていた。とはいえ、しっかりシャワーを浴びてあったし、ずっと前に親からもらって隠しておいたアイテムを本の間から取り出しておいた。

 その時、運命のチャイムが鳴った。克彦は気もそぞろだったので、飛び上がるほどびっくりした。

 弘子は妙に引きつった笑顔をたたえて玄関に立っていた。克彦も自然体を装いながら、自分の笑顔が不自然になるのを感じていた。

「お茶いれるから、待っててね」

「あのう、おかまいなく」

 とても儀礼的なやりとりをして、弘子はひとりで部屋に残された。やっぱりいざとなるとドキドキしたし、なにより自分が克彦に「その気」を告げて(弘子は、克彦に「その気」が伝わったと思っていた)訪ねてきたことが緊張をあおった。

 お茶を飲みながらしらじらしいお天気の話などして、「大学、いつから?」なんてことを言い合った。

 克彦が変な空気にいたたまれなくなって本題に入った。

「あのさ、…ホテルに行ったときのことなんだけど…」

 弘子は緊張のあまり、

「私とですか、他の人との時ですか?」

 と言ってしまった。

「キミとに決まってるでしょ?」

「スミマセン」

 2人は所在なく視線を泳がせた。克彦はそっと弘子に手を伸ばした。最近では直角に座るのが定番になっていた。手はすぐに届いた。

 克彦は弘子の手を握り、目をそらしたまま言った。

「だからさ、ホテルで、いろいろあったじゃない。それでね、その後で、…キミの方から、こんな風に訪ねてきてくれるのって、…俺、『そういうこと』なのかなって期待しちゃってるんだけど、…もしかして、それって間違いなのかな」

 弘子は、自分が答えられないのは克彦も悪いのだと思った。この状態で「いいえ、間違ってませんよ」もないだろう。いい加減つきあいも長いのだから、察するところは察してほしい。弘子は握られた手をそろそろと自分の方に引いた。

「…なにを期待してるのか、教えてください」

 克彦が弱気だと妙に強気になる自分に、弘子は他人事のように感心した。克彦は、内心で「ゴメン」と弘子に謝り、肩に手をかけた。そしてドアに鍵をかけたことをちらりと確認してから、弘子にそっと口づけて、体に触れた。しばらく進めてからベッドに移り、これまでにも何度か進めたところまでは進んだ。弘子は、今日こそ抱かれるんだと思って自分自身の何もかもをあきらめた。あきらめるなんて言ったらあんまりだが、実際、そんな気分だった。

(…大丈夫、みんな同じ。みんな怖い…)

 けれど、いよいよというところで弘子は結局、怖くなってしまった。弘子がくり返し拒否して謝るのを、克彦は呆然と聞いた。やっぱり無理強いはできなかった。

「弘子さん、いいよ、ゴメンね、大丈夫だよ、ゆっくり頑張ろうね」

 克彦はそっと弘子に腕を回した。

「大丈夫だよ。無理しないで。ゴメンね、怖かったね」

 そのまま克彦は弘子を抱きしめ、子供をあやすように優しく言いながら肩をそっと叩き続けた。弘子はそのままわずかに寝息をたてた。克彦は弘子が寝入ったことに気がついて、たまらない愛おしさを感じた。恋愛感情はそれをしないと満たされないのだろうか。弘子を手に入れるのはこんな方法だけじゃないような気がした。

 しばらくすると弘子が目を開けた。

「あ…すみません、寝ちゃいました…」

 弘子はうつむいた。こんなはずではなかった。克彦はめいっぱい微笑んでみせた。

「こればっかりが大切なわけじゃないよ。きっと、いつかうまくいくよ。焦るのはよそうよ。俺がせかしちゃったんだけど、それでも、自然にそうできるまで待つよ。今日、弘子さんがそういう気持ちになってくれただけで嬉しい。十分だよ。ありがとう」

 克彦が優しい言葉をかけるので、弘子はまた泣きだしてしまった。

「どうしたの、また怖くなっちゃったの?」

 克彦は焦った。弘子は克彦の方に向き直ってぎゅっと抱きついた。

「だって、また先輩に応えられなかったから…」

 克彦は温かい気持ちで弘子を抱きしめた。そのまま、2人はずっと抱き合っていた。

 外が暗くなり始め、克彦は、

「そろそろ帰る? 送ってくよ。車出そうか?」

 と言った。弘子はしばらく考えて、

「あの、いいです、ひとりで帰ります」

 と強くて静かな声で言った。

「でも、危ないから…」

「大丈夫です。自分がわからなくて、いろいろ考えたいんです」

 弘子は断り抜いてしまった。克彦の心配そうな眼差しに見送られて山根家を出ると、弘子は駅に向かって歩き始めた。たった今まで感じていた克彦の優しさと、男性の体の怖さが交錯した。拒んだ瞬間の自分の気持ちを反芻した。克彦のショックと切なさを想像した。夕方の薄暗さを通り過ぎ、空はもうだいぶ暗くなっていた。


 丁度その頃、夏実は駅で電車を降り、帰る途中で懐中電灯を持った近所のお父さんと行き会っていた。

「あれ、何やってるんですか?」

「夏実ちゃんか。さっきウチの子が帰ってきてね、変な人がウロウロしてたって言うから見に来たんだよ。交番に言うだけ言ってこようと思ってるんだ。あの暗いとこは通らないで、商店街の方通って帰った方がいいよ」

「変な人?」

「なんかね、若い男で、こうやって懐に手を入れてウチのをじろじろ見てたらしいんだ。なんか刃物でも持ってたらと思うと、怖くてな。ホントに、気をつけてくれよな」

 夏実は、道一本となりの明るい商店街に帰り道を逸らして家路を急いだ。普段通っている道はいささか暗い。そっちに不審な誰かいるのかと、そっとのぞき込んだ。

 視界の隅に不審な影が見えた。夏実が慌てて目を凝らすと、細い道のずっと奥の方で、女の子がもがいているように見えた。一瞬で人影は見えなくなった。

 夏実は携帯電話を取り出した。

(アニキ、私が帰ってくる時間妙に気にかけてた…斉藤さんが来てるんじゃないの?)

 克彦の声が電話をとった。

「もしもし?」

「アニキ、今日斉藤さん来たの?」

「来たよ。でも、もう帰った」

「もう帰ったって、いつ?」

「え、…ちょっと前だけど…」

「送っていかなかったの?」

「あ、うん、断られちゃったから…」

 夏実は駆けだした。今の人影が弘子だったように思えた。弘子のことをそんなに知っているわけではなかったが、ただ何となく、その時そんな気がしてならなかった。

「何、どうしたの?」

 克彦の呑気な声に、夏実は走りながら叫んだ。

「なんか、刃物持ってるかもしれない変な人がウロウロしてたって話を近所の人からちょうど聞いて…なに、斉藤さんひとりで帰してんの!」

 克彦は慌てて上に着るシャツをつかみ、携帯電話を握ったまま階段をかけおりた。

「俺だって、いつもだったら絶対に送るんだよ。夏実、おまえは帰れよ。おまえも危ないから。俺は弘子さんを追いかけるよ」

 夏実は状況を説明するのが面倒だったので、

「わかったから、急いで」

 とだけ言って電話を切った。人影が消えたあたりにたどり着き、周りを見回すと、神社がひときわ暗く見えた。夏実は神社に向かって走った。

 遠くに白っぽい服を着た女の子の姿が見えた。その背中がところどころ黒く欠けて見えた。目をこらすと、薄闇の中に黒い服を着た男が立っている。黒い服の男は女の子の背中に手をついているように見えた。尋常ではないと即座にわかった。夏実は「警察のふりをしようか」など、さまざまなことを一生懸命考えて走りながら、手に持っている携帯電話のスリープをとっさに解除した。防犯ベルを持っていないので、大きな音を立てるならこれしかない。目覚ましに使っているアラームを指先で呼び出す。

 白い服の女の子の姿が不意に消えた。夏実は音量を最大に上げ、アラームを鳴らす操作をした。金属のベルを模した音が鳴り響き、その音とともに神社の森に飛び込んだ。

「何やってるのよ、アンタ、そこで!」

 そんな言葉しか出なかった。夏実が荷物を振り回して走る音とアラームに驚いて黒いかたまりが起き上がり、神社の建物の方へ逃げた。夏実は男がいたあたりの草むらに飛び込んだ。白くてもやもやした何かが見えた。夏実は何も考えず、そこに向かって、

「斉藤さん? 大丈夫?」

 と声をかけていた。草むらに仰向けになった白っぽい服の女の子は、しばらくぼうっと横になっていた。

「生きてますか?」

 不安になり、夏実が揺すると、返事があった。

「…大丈夫です…」

 真面目そうな声の響きに聞き覚えがあった。慌てて携帯電話のバックライトで顔を照らした。

「斉藤さん!? やっぱり?」

 夏実は弘子を助け起こして、肩を抱きかかえるようにして暗い林を抜け出した。

「早く明るいところに行かないと。アイツが戻ってきたら困るから」

 弘子は放心していた。胸元のボタンが取れかかり、背中は枯れ葉と草の汁で汚れていた。夏実は弘子の体が無事かどうか心配したが、状況から、まだ大丈夫だろうと思った。

 夏実は弘子を家まで連れて帰りながら、克彦に電話をかけた。

「斉藤さん、危なかったけど、大丈夫だった。変な男は逃げた。今から斉藤さん連れて帰る」

 克彦は夏実の電話で張りつめていたものが切れて、へなへなとそこにあった植え込みに座り込んだ。脚が立たなくなるくらい震えていた。

 夏実は弘子を部屋にあげ、着替えを出した。

「大丈夫? 葉っぱとかついてるから、着替えた方がいいですよ」

 夏実は自分の服を見繕って渡し、「サイズ合いますか」などと問いかけながら、弘子の着替える様子をさりげなく観察した。スカートを脱いだ時にちらりと下着を見たが、特に乱れている風はなかった。夏実はやっとホッとした。

「ゆっくりしててください。お茶いれてきます」

 夏実は部屋を出た。台所でお湯を沸かしていると、克彦が帰宅して飛び込んできた。

「夏実、弘子さんは」

「私の部屋。今、行かないで。着替えてるから」

 着替えているという夏実の言葉に、克彦は激しく動揺した。

「…大丈夫って、…大丈夫なの?」

「うん、それは、大丈夫。でも、倒されてたからだいぶショックだったみたい。まだ顔合わせないであげてよ。私だったら、ちょっと彼氏と顔会わせたくないよ」

「あの、そういうの、…大丈夫だったのかな、ホントに何もされなかったのかな」

 克彦は不安で切り裂かれるような気持ちだった。夏実は落ち着き払ってカップを用意していた。

「うん、大丈夫だと思う。私が見たときは2人とも立ってたし、倒されてからすぐ飛び込んでると思う。今、着替えてるところ見たけど、何かされた様子もなかったよ。泥とか草で背中が汚れただけ」

 克彦はまだ体が震えていた。神妙な顔をして立ち尽くしていると、夏実ににらまれた。

「アニキ、自分の部屋にいてよ。ウロウロしてないでよ。斉藤さんだって、今日はアニキに顔合わせないで帰りたいかもしれないじゃん。気、つかってよ」

「わかった…」

 克彦は台所を出て階段を上がった。奥の夏実の部屋が気になったが、手前にある自分の部屋におとなしく入った。

 夏実がお茶を運んでくると、弘子は夏実の服を着て、夏実のベッドにぼんやりと腰掛けていた。テーブルにお茶が置かれるのを見て、やっと少し我に返って、

「すみません」

 と言った。

 弘子がお茶を飲みはじめるのを待ってから、夏実は、

「…警察、行きます?」

 と訊いた。弘子は首を横に振った。思い出したくも、考えたくもなかった。

「さっき近所のおじさんが通報に行ったから、たぶんそいつですよ。多分つかまりますよ」

 夏実は気休めを言った。

 しばらくの沈黙の後、弘子が、

「あの、すみませんでした」

 と声をかけてきた。夏実が顔を見ると、弘子はやや正気を取り戻したようだった。

「アニキが心配してますけど…、会います?」

 夏実が訊くと、弘子は間髪をいれずに

「帰ります」

 と言った。そして、汚れた自分の服を手に取ったので、夏実は慌てて止めた。

「ウチに置いていってください。斉藤さん、自宅ですよね。親が洗濯するんだったら、これ、びっくりしますよ。私、洗っておきますから。それとも、捨てますか? だったら、ウチで捨てても一緒だし」

 弘子は、

「捨てます」

 とだけ答えた。夏実は弘子から服を取り上げて、やや乱暴にゴミ箱に放り込んでみせた。

「帰るんだったらアニキに車出させます。運転だけさせて、斉藤さんは、私と一緒に後ろの席に乗りましょう」

「あ、ひとりで帰れます」

「何言ってるんですか、冗談でしょ」

 夏実が克彦を呼びに部屋を出ようとすると、

「あの、ホントに嫌なんです。今は、ちょっと…」

 と強い声で止められた。夏実は振り返って「無理もないか」と思った。

「じゃ、私が商店街の方通る道案内するから、ちょっと待っててください」

 夏実はとりあえず克彦の部屋に伝えに行った。

「アニキ、やっぱ斉藤さん会わないって。私が駅まで、商店街の方回って送ってくから」

「え、でも…」

 克彦は立ち上がろうと腰を浮かせた。

「無神経なこと、しないでよね」

 夏実にきつくにらまれ、克彦は腰を下ろした。

 部屋に戻って、夏実は弘子を連れて部屋を出た。階段のそばまで来たとき、突然克彦が部屋を出てきた。

「弘子さん!」

 弘子は困惑した。夏実は慌てた。

「アニキ、ちょっと、やめてよ」

「弘子さん、ちょっと来てよ。いいから」

 克彦は弘子の腕をつかみ、半分引きずるようにして連れていってしまった。夏実は呆然と2人を見送り、立場上、仕方なく1階の居間に降りていった。

 克彦は、弘子を連れて部屋に入り、いきなりベッドに押し倒した。

「…弘子さん」

 他の男にあらぬ行為を受けている弘子のイメージが克彦を押し流した。怖くて、弘子を捕まえていたかった。必死にしがみつくように体を撫でられた後、弘子は克彦にいきなりスカートをまくり上げられ、慌てて抵抗した。まるでさっきの続きのようだった。

 弘子は、暗い道で突然背後から襲いかかられ、刃物で脅されて神社の林に連れ込まれた。夏実からは見えていなかったが、男は弘子を木に押し付け、スカートに手を入れた。真っ暗な中で男の荒い息づかいだけが聞こえ、弘子は歯を食いしばって耐えることしかできなかった。克彦と結ばれずに帰ってしまったことを心の底から後悔した。

 それから、男は襟首をつかんで弘子を草むらに引きずり倒し、刃物を向けて弘子が動けないよう威嚇しながら、自分のズボンに手をかけた。体がすくんで全く動かず、弘子はどうすることもできなかった。だがやがて、遠くで目覚まし時計のような音がして、目の前から男が消えて…。

 ――気がつくと、触れているのは克彦だった。着ているものがいつの間にかジーンズのスカートに変わっている。そういえば上に着ているものも、白いブラウスではなくて、ジャージ地のラフなジャケットだ。自分の服ではない。弘子は我に返った。

「先輩?」

 弘子は抵抗をやめた。克彦は弘子の胸に顔を埋めて荒い息をした。

「…弘子さん…」

 克彦は震えていた。弘子は克彦の顔をのぞき込もうとしたが、見えなかった。克彦の慟哭が聞こえた。

「嫌だよ、弘子さん、弘子さん、弘子さん…」

 克彦の肩が不規則に、小刻みに揺れた。弘子は克彦にそっと腕を回して優しく抱いた。

「先輩、大丈夫ですから。何もされてませんから…」

「ゴメンね、無理にでも送って行けばよかった…」

 克彦が落ち着くまで、弘子はずっと克彦の髪を撫でていた。自分以上に傷ついて震えている克彦を愛しいと思った。

「…先輩、大丈夫ですから…」

 弘子は何度も繰り返しそう言った。

 そうして時間をおいて、克彦が言ったのは、意外な言葉だった。

「あのね、実は…、俺、話しておかないといけないことがあるんだよ…」

 克彦は、弘子がこんな事件に遭ったことを、まるで自分のことのように感じていた。今まで誰も言わずに秘めていた事件が記憶の底から浮かび上がってくる。

「…俺ね、…中学2年の時に、誘拐事件にあったんだよ…」

 克彦は震える声を必死でつないだ。

「覚えてないかもしれないけど、俺、昔、女の人に変なことをされたってちょっとだけ話したことがあったよね。あれ…もっと、すごく嫌な話なんだよ。今まで、ホントのこと、誰にも話せなかった。…どんな話でも、聞ける? 聞いてくれる? 話して、弘子さんが俺のこと、イヤになっちゃったらどうしようってずっと思ってた。でも今なら、俺、話せるよ」

 弘子は穏やかな声で、静かに答えた。

「聞きますよ。何でも…」

 さっきの怖い出来事はすべて夢で、克彦に会いに来て、そのまま克彦に抱きしめられているような気がした。もう怖くなかった。弘子は克彦に感謝した。

 克彦はもう自分の遭った事件のことを忘れるつもりでいた。弘子と結ばれて、なんの問題もなく生きていけるつもりだった。けれど、弘子の身にこんな事件があったことで、今後生きていくうえで傷口が痛むのを恐れた。だから話し始めた。

「誘拐事件っていっても、どこにも報道されてない。犯人も罰せられてない。事件は、なかったことになったんだよ。俺を誘拐したのは、19歳の女の人4人。動機は…いわゆる『遊ぶ金欲しさ』で…19歳だから名前も報道されないし、少額なら大ごとにならない、って思ったみたい。200万の身代金を請求して、一人50万ずつ分けて、バッグとアクセサリーがほしかったんだって。社長だから200万くらいのはした金はすぐ出すだろうし、19歳のうちにやっておかないとね、だって。翌日には解決したよ。ほんの17時間。ほんとに、バカバカしい事件だった。それでね、犯人の親御さんが、事件をなかったことにしてくれってうちの親に泣いて頼んだらしい。幼稚で子供な娘を許してほしいって。俺がひと言、ハメを外して遊んでただけで、誘拐されてないって言えば事件にならないだろうって。だから…」

 克彦は弘子の胸に顔を埋めたまま語り続けた。時折、克彦の肩は震えた。そのたびに、弘子は抱きしめる手に力を込めた。

「俺は、あの女たちを追及しないでほしかったから、なかったことにしてやったよ。両親も、俺を心配して、早く終わりにしてやりたいってカタをつけてきた。示談っていうか、相応の罰みたいなものは何かしら与えたみたいだけど、そのことは親にいっさい聞いてない。この事件は、我が家全体でも『なかったこと』になってるし、警察の記録にも事件の扱いでは載ってない。でも、そのせいで俺の中学時代は最悪だった。俺、ずっと、怯えて暮らしてたんだよ。あの女たちが、いつか、誰かに話したらどうしようって…」

 克彦の肩が強く震えた。弘子は克彦の髪を撫でた。克彦は肩を大きく上下させ、深呼吸をした。

「俺、学校の帰りに、家が火事だから大変だよって騙されて、車に乗ったの。そのままどこかわからない古い家に連れて行かれて、椅子に縛られて、しばらく彼女たちは俺を無視してくだらない話をしてた。夜になって、彼女たちは交代で寝ることにしたんだけど、…2人交代で俺を見張るの。そしたら、そのうちの1人が、…」

 克彦は突然言葉を切り、そのまま強く弘子を抱きしめた。苦痛が克彦を黙らせたのだと思い、弘子は愛情をこめて髪を撫でた。克彦はその力に支えられて、話を続けた。

「…俺のこと、『カワイイ顔してるじゃない、将来いい男になるよ』みたいに言って、…それで、…それでね、『今のうちにサービスしといてあげる』って…」

 克彦の指に力がこもった。弘子が髪を撫でようとすると克彦の顔が苦悶しているように揺れた。弘子が頬に触れると、涙が指を濡らした。

「弘子さん、俺…」

 克彦は顔を上げて、おびえたように弘子を見た。弘子は克彦に、

「話してください。話した方がいいですよ。私、ちゃんと聞きますから…」

 と優しく言った。克彦は弘子の顔をじっと見つめた。弘子がそこにいるのを感じると、現実に引き戻されていくような気がした。

「俺、重くない?」

 克彦は唐突に訊いた。弘子は笑った。

「重いですよ。でも、あの、…慣れちゃいました。こういうの」

 克彦はその笑顔にホッとして、弘子の肩にもう一度顔を埋めて、一番話したくない部分をなんとか話し始めた。18歳以上はプロの仕事に就ける、彼女たちはそういう職場の仲間だった。椅子に座ったままの克彦に、1人が「サービス」をして、もう1人がそれを笑って見ていた。いわゆる「本番」はなかったが、絶望的な悪夢の記憶。克彦の手に痛いほど力がこもった。弘子はどうしていいかわからず、その手に掌を当ててそっと撫でた。

「助け出されてから、もしあの女たちが取り調べされて、俺にしたことをしゃべったらどうしようかって…親や警察の人に知られたらどうしようって思って…、だから、何事もなかったことにしたかった。でも…あいつらが警察につかまらないのは許せなくて、悔しくて…。初対面の男にあんなことができる女の、何が幼稚で子供なの」

 克彦が誰かに対して暗い負の感情を向けるのを見たのは初めてだった。弘子は克彦がずっと抱えていたもの、耐えてきたものを共有してあげたいと思った。ひたすら花のように優しく甘い人だと思っていた。でも、こんなに深い傷を心に秘めて、一人で耐えてきた克彦の強さを感じた。

「事件は終わったけど…俺は性病がうつったりしてないか、ずっと怖かった…。中学生が性病の心配してたんだよ。今でも当時の自分がかわいそうでたまらないよ。病院に行くなんてすごくつらいことで、でも、結局耐えられなくなって、検査しに行った。保険証持っていって親に連絡されたりしたら困るし、だから俺、貯金おろして、保険なしで、みんな自分で払ったんだよ。偽名使って、18歳って嘘書いたけど、…どう見たってそんな年齢に見えなくて、病院中の人に『こんな若いのに』って顔されて、お医者にも『見かけがいいからって女の子と遊びすぎるな』みたいなことを言われて、ものすごく傷ついた。検査が大丈夫だったとき、やっと安心できてめちゃめちゃ泣けたよ。

 …そんなことがあって俺、ずっと誰も好きになれなかった。女性に興味がもてない自分をおかしいと思うたびに、原因はあの事件じゃないかって怖かった。前の彼女と別れた理由も、その事件のせいで彼女のことがイヤになっちゃったからなの。でも、…俺はキミに出会ってやっと普通に恋することもできたし、多分キミのこと、普通に抱けると思う。それだけで、本当に、俺は…救われたんだよ。

 だから、弘子さんが今日、変な男に襲われたって夏実に聞いて…相手が俺だって弘子さんはあんなに怖いのに、どうしようって…怖かった。弘子さんが傷ついて、永遠に幸せになれなくなったらどうしようかって。泣いてるけど、男のクセにって思わないで。弘子さんが無事でよかったし、俺も…俺の事件のことも、ずっと、つらかったんだよ…」

 克彦の長い独白が終わった。克彦が落ち着くのを待って、弘子はそっと克彦に言った。

「私は大丈夫です。…それから、先輩も、…大丈夫ですよ」

「俺のこと、嫌にならない? 汚いとか、穢れてるとか、思わない?」

「思わないですよ。私、ずっと、先輩のこと、すごく心の綺麗な人だと思ってたんです。その気持ちは今も変わらないですよ。私なんかより、ずっと、ずっと優しくて、素敵な人です。だから、私…」

 弘子は少しだけ、緊張して息を止めた。

「だから大好きです。…先輩を愛してます」

 そう言って弘子は克彦をもっと強く抱きしめた。自分に甘えるように抱かれて涙を流している背の高い男の子を、自分と同じ大きさで感じられる気がした。ずっと克彦に感じてきた引け目は消えていた。克彦には自分が必要だと、心から感じることができた。

 克彦は弘子の言葉に心を震わせた。切なくてもどかしい幸せが心をしめつけた。

「ありがとう…。それから…聞いてくれてありがとう…。俺…こんな話、したら弘子さんに嫌われると思ってた…」

「私だって、もう、やみくもに男の人の性的なことを怖がったりはしません。先輩はつらい思いをしただけで、悪いことをしたわけじゃないんですから、誰かにどうこう思われるなんてこと、あったらいけないと思います。そんなの、間違ってます」

 弘子は強い、強い思いを込めて言った。

 頑なでウソが嫌いな弘子の言葉は、決して社交辞令ではないし、その場しのぎの気休めでもないと、克彦は心から信じられた。そして、だからずっと弘子を想ってくることができたのだと感じた。融通の利かない意地っ張り――でも、そんな弘子が告げてくれるなら、自分はもう大丈夫だし、本当に弘子に愛されていると信じてもいい…。

 克彦は少し体を起こし、自分の涙を拭って弘子を抱きしめた。

「ゴメンね、…弘子さんが怖くてショック受けてるときに、俺、こんなことしちゃって…」

 克彦が詫びると、弘子は照れて答えた。

「私、なんだか、ずっとこの部屋で先輩に何かされてたような気分です。自分の身になにかあった気がしないんです。だから、…いいんです」

 2人はベッドの上で強く抱き合ってもう一度キスをした。唇を離すと、克彦の唇がもう一度弘子をつかまえた。弘子は熱いキスに応じた。

「あのさ、弘子さん…」

 克彦の瞳が逡巡して揺れた。

「…続き、しちゃダメ?」

「あ、あの」

 弘子は困った。夏実に借りた服はややきつめで、克彦はそれをどうにかしようと一生懸命とっかかりを探りはじめた。

「あの、破いたりされたら、困ります。返すんですから…」

「無理なことはしたりしないから…、お願い…」

 克彦の吐息まじりの声に、弘子は覚悟して、

「…待ってください、あの、自分で脱ぎますから…」

 と答えた。夏実の服に支障が生じたら困ると、そればかりが気になっていた。

 弘子が自分で脱ぐのは初めてだった。克彦はその様子をじっと見ていた。「見ないでください」と弘子は言ったが、克彦は聞き入れなかった。

 それから、もう二人とも慣れてきた、熱い時間が訪れた。

 やがて克彦は静かな決意をこめて弘子を見つめた。弘子はその様子に気づき、熱に浮かされたような潤んだ瞳で、溶けそうなまなざしを克彦に返した。

「弘子さん、お願い、最後までさせて…」

 克彦は乱れた息を押し殺して告げた。事件でも、事故でも、誰にも渡したくなかった。

 弘子の唇がそれを追ってゆっくりと動いた。

「…私も、…今日は…そうしてほしいと思ってます」

 弘子は目を閉じた。克彦は思わず息をのんだ。

「もう、今日みたいなことがあったら嫌だから…。先輩以外の誰にも、されたくないから…。だから…抱いてください…」

 想いを伝え終わった唇がかすかに震えていた。克彦は喜びで全身が震えた。

「ありがとう…」

 もう二人とも、その先に進むことに、迷いも不安も何もなかった。

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