第6章 接触編 2.セカンドキス
「…なんか、何度もこうやって『一から出直し』になるね」
克彦は笑った。克彦が退院して、すべて元通りの日常が帰ってきたある日曜日だった。
「でも、もう『一から』じゃないですよ」
弘子は照れ笑いを返した。
二人の交際は一年もたったのに、やっと心がつながった気がしていた。克彦は自分の肩の力が抜けたのを感じたし、弘子は素直に克彦に甘えたいと思えるようになっていた。
「いろいろあったね」
「そうですね、主に先輩に…」
弘子はからかうように言った。克彦は肩をすくめて渋い顔をした。
「それは、弘子さんが全然その場所から動かないからだよ。冷たいんだもん」
弘子は、克彦が思っているほど自分は立ち止まっていないのだと思った。初めは克彦のことを物語の中の王子様のように感じた。特別な人に思えるようになっても、ドラマの中の恋愛のように現実感が希薄だった。まるで、一人だけ脚本を渡されていない、分不相応な役をもらった新人タレントのようだと自分を嗤った。でも今は、ドラマのワンシーンではなく、はっきりと自分の現実だと思うことができた。
弘子は今日、克彦のたくましい肩幅や太い腕にドキドキする自分に出会っていた。わけもなく手を伸ばし、掌に触れてみたかった。そこには不思議な感情があった。
弘子が手をまじまじと見ているのに気付き、克彦は、
「え、何?」
と訊いた。弘子は克彦の顔を見た。まだ少しやせていたが、優しい二重まぶたの澄んだ瞳が美しかった。弘子は、そのまぶたにも触れてみたいと思った。
「先輩の手を見せてもらってもいいですか?」
弘子はとても素直に言った。克彦はそんな風に見つめられ、興味を持たれることに照れた。そして、弘子もこんな風にずっと照れていたのだろうかと思った。
差し出しされた右手に、弘子は宝物のようにそっと両手で触れた。掌の向こうに一人の男性がいた。この掌のことだけでももっと知りたいと思った。
「掌、けっこう堅いんですね」
弘子は言った。
「ああ、それは、ラケット持つから…。左手は、もうちょっと柔らかいんだけど」
克彦は左手を出した。弘子は今度は左手に触れて、眺めた。指と、節と、掌のしわを指で触れていく。
「あ、あのさ、弘子さん…」
克彦が困った顔をして言った。弘子は顔を上げて、手を離した。
「すみません、なんだかすごく先輩のこと、不思議な気がして…」
「…いや、あのね、それはすごく嬉しいんだけどね、…」
克彦は照れて戸惑った表情で言った。
「そんな風にされてると、いわゆるね、…あの、感じちゃうんだよ」
弘子はまばたきをして、それからおもしろいくらい一瞬で赤くなった。克彦は、
「ゴメンね」
と肩をすくめてみせた。弘子に指を走らされるだけで体が熱かった。それから、こんな場面は今までなかったな、と一人でひっそり感慨にふけった。自分一人が一方的にスイートなだけで、弘子はいつも「観客席側」にいた。でも、今日は決してそうではなかった。
この日、克彦は「観覧車のある遊園地」を調べて弘子を連れてきていた。
(…セカンドキスって、案外難しいよね…)
弘子とは初めての時に二度キスをしていたが、「キスをするための、二度目のチャンス」という意味で克彦は「セカンドキス」と認識していた。こうして一緒にいても、なかなかチャンスはつかみにくい。セカンドキスにはファーストキスと違った緊張があった。
弘子が観覧車をじっと見上げているのに気付き、克彦は慌てて、
「観覧車は、帰りがけにしようよ。きっと夕焼けが綺麗だよ」
と言った。ここぞというところで使いたいし、デートの半ばでキスにたどり着いてしまうと、夕方になったらもっと別のことをしたくなりそうな気がした。
弘子は、克彦の思惑を何となく察知した。そしてそれを嬉しいと思った。
やっと日が暮れ始めた。
「結構疲れたね」
克彦はとうとう切り出した。これだけですでに緊張していた。
「そうですね」
弘子も緊張を感じたが、何も気付かないふりをした。
「そろそろ帰ろう。最後に観覧車に乗ろうよ」
克彦は妙な興奮と緊張に包まれた。無我夢中の最初のキスの方が、余計なことを考えないでできたような気がした。
観覧車の中でも、克彦はいろいろなことを考えすぎていた。幸い、観覧車はとても大きくゆっくりで、時間は十分にあった。頂点まで上る間が異常に長く感じられた。弘子は克彦の様子に気付きながらも完全にしらばっくれていた。どんな風に迫ってくれるのか楽しみだった。
二人の乗ったゴンドラが頂点に達し、克彦の中でセカンドキスの時報が鳴った。
「…弘子さん」
克彦はかしこまって声をかけた。弘子は外の景色に夢中なふりをした。
「あ、あれが東京タワーですか? ライトアップの時間ですね、すっごい綺麗ですよ」
上りはあんなにゆっくりだったのに、下りはやけに速く感じる。行動あるのみだ。克彦は意を決して椅子から立ち上がり(とはいえ頭をぶつけないようやや屈んで)、弘子の座る側に移った。ゴンドラが少し傾いた。弘子は驚いたふりをした。
「…弘子さん」
克彦は弘子を抱き寄せ、顔を近づけた。弘子は、わかっていたはずなのに動揺した。身をすくめて、克彦の腕を少しだけ押し返した。それでも克彦がひるまなかったので、弘子は覚悟を決めて目を閉じた。
弘子の着ている白いブラウスの胸元が、脇を締めた腕に押されてやや開いていた。克彦は的を外さないために目を開けていたので、その箇所をかなりいい角度で覗き込むことになり、ドッキリして気を取られた。その間はほんの数秒だったが、不自然さに気づいた弘子は薄目を開け、克彦の不自然な視線の行方を追った。ギュッと寄せられた胸の谷間が自分でも見えた。
弘子は慌てて克彦を突き飛ばして胸元を押さえ、必死の形相で非難の視線を向けた。せっかくキスを許したのに、克彦が別のことに気を取られたのがしゃくに障った。
「ゴメン、ゴメン、ゴメン、つい、その、…ゴメン」
克彦が必死で謝ってもあとの祭りだった。弘子はもはや、てこでも動かなかった。そのままゴンドラは下りていった。
二人は観覧車を降り、弘子はずかずかと克彦をおいて先へと歩いた。
「ゴメーン、弘子さ~ん」
克彦が慌てて追うのを見て、観覧車の若い係員二人は、「あのカップル、男の方が迫り損なったんだね」と笑った。
(なんで、キスしてくれないの)
弘子はとても残念だった。でも克彦はそんな気持ちに全く気付かずに、胸元を覗き込んだのを責められているとしか思っていなかった。
「身の危険を感じるので、帰ります」
克彦はそう言って怒る弘子をなんとかなだめて夕食に誘うことはできたが、セカンドキス第一回は、失敗に終わった。
次のデートもキスのチャンスはなかった。人目をはばからずにどこでもキスしているカップルを見ると、克彦は心からうらやましいと思った。
見えすいていると思いながら、克彦はデートの帰りがけに弘子に提案した。
「あのさ、久しぶりに、次は車で出かけようよ。折角秋なんだし、紅葉の綺麗なところはどうかな。北の方とか、標高が高いところなら、もう紅葉が始まってるだろうから…」
もうすぐ十一月。いい提案だと思ったが、弘子はさっと警戒した顔になった。
「ねえ、行こうよ」
克彦は自然体を装ってみたが、何も期待していないという顔をする方がもはやウソっぽかった。弘子はますます警戒して、怪訝な顔になった。
「山とか、嫌い? 渓流とか、綺麗だと思うんだけど…」
克彦は強気で押した。「わかってるんだったら、いいじゃん」と思った。
「何もしないって約束するんなら」
弘子は条件を提示してきた。
「え…」
何もしないつもりなんか全然ない。克彦が答えに窮して笑顔のまま硬直したので、弘子はますます怪訝な顔をした。
「約束できないなら車は乗りません」
弘子の頑なさは健在だった。克彦は観念した。
「あのさ、『何もしない』の『何も』だけどさ、…その、…キスもダメ?」
克彦が堂々と打診してきたので弘子は困ってしまった。キスはしてほしいけれど、OKの意思表示はしたくない。でも、ダメと言ったら本当に我慢されてしまうかもしれない。
「…考えておきます」
弘子が必死でそれだけ言って赤くなっているので、克彦はすぐに、
「うん、考えておいて」
と言ってあげた。それから、ダメじゃなさそうな気配に便乗して、
「あの、今日、今からでも…」
とダメ元で言ってみたが、弘子の返事はさっきとはまるで違う、棘の生えた、
「考えておきます」
だった。それは“絶対ダメ”と同義だった。
第二ラウンドは日光が舞台になった。克彦は弘子が山道で車酔いしてキスのチャンスがなくなる夢を見たので心配していたが、杞憂だった。紅葉狩りの客で道中がすっかり渋滞して、車に酔うような山道はまだまだはるか遠くにあった。
「すごい渋滞だね、一体いつ着けるのか予想もつかないね。当然、帰りも渋滞だよね」
「どこかでUターンして、別のところに行きますか?」
「そうだね、そうしようか」
それからさんざん時間をかけてUターンして、紅葉狩りはあきらめた。そもそも克彦は行き先なんかどこでもよかった。適当に車を流し、周辺のささやかな観光スポットに立ち寄りながら時間を過ごし、やっぱり夕方を待った。
弘子は、なんだかキスを待っているだけのような気がして納得いかなかった。だから、夕方の車の中で、憮然として克彦に言った。
「…先輩、今日、楽しかったですか?」
克彦は弘子の口調に驚いた。
「え、なんで?」
「気もそぞろだったように見えましたけど、何か気になることでもあったんですか?」
克彦は見透かされて返事ができなかった。どこでどう弘子に迫ろうかと、そればかり考えていた。
「また、他に好きな人でもできたんですか?」
わざと、弘子はそんな言い方をした。克彦は慌てて否定した。
「そんなわけないじゃない。それに、他に好きな人ができたことなんか、一回もないよ」
ふてくされた顔で弘子は克彦を一瞥した。克彦は素直に詫びた。
「ゴメン、俺、実は今日ね、弘子さんにキスしたくて、そればっかり考えてたの」
そんなこと、とっくにわかっている。弘子はますます憮然とした。
「私、そんなデートはお断りです」
「…ゴメン…」
「私といて楽しいとか、嬉しいとか、そういうの…このごろ、なかったんじゃないですか? 私、そんな、カラダ目当てみたいなつきあいは嫌です。」
克彦は消沈した。本当に男ってバカだな、と思い、
「わかったよ、ゴメンね。我慢します…」
と答えた。弘子は「勝った」と思ったが、おかげで自分もキスはお預けになった。
それから二度、キスのないデートが続いた。克彦は反省しておとなしくしていたが、弘子は、自分が言いだしたことなのにイライラする気持ちが募っていた。心の中で、克彦に「意気地なし」と言葉を投げていた。
その一方では、克彦だってそろそろ禁止令が解除されてもいいだろうと思っていた。しかも、弘子は許可しなそうなので、強行突破するつもりだった。男と女なんて、反目して見せつつも、本当は同じことを考えていることも多い。
「あのさ、次なんだけど…」
克彦はさりげなく切り出した。
「俺は弘子さんの部屋に上がったことあるじゃない。だからさ、今度は俺の部屋に来てよ。ちゃんと掃除しとくから」
弘子はついに来たかと焦ったが、この辺が譲り時だと思った。
「…どうしようかな…」
それでも一応渋ってみせた。克彦は、「家には妹がいるから、うかつなことはできない」と必死で言い募って弘子を説き伏せた。
ちょっと緊張気味に、弘子は克彦の家にやってきた。土日は両親がいるので気後れして、二人とも授業がすいている平日の午後にした。
「もっと早くから、平日にも会ってくれればよかったのに」
克彦は弘子に文句を言った。
「…たまに会うから、嬉しいんですよ」
弘子はそう答えたが、本当は自分だってもっと会いたかった。
「毎日会ったって、嬉しいよ」
克彦は大まじめに言った。
弘子は克彦の「金持ちそうな家」に初めて入った。家具の良し悪しは分からないけれど、多分高級なんだろうと思って委縮した。
「あ、ウチ、家はそれなりに広いけど、テレビでやってる豪邸みたいな家具とかは全然ないから、期待しないでね」
克彦は謙遜したが、弘子には十分高級品に見えた。
階段を上がるとすぐ克彦の部屋だった。夏実の部屋はその奥にあった。
「ね、妹帰ってきたら、必ずここ通るんだよ」
克彦は安心させようと思ってそう言ったが、弘子は念を押されることにかえって警戒心を募らせた。
克彦の部屋は十二畳ほどの広さがあって、自分の部屋が六畳しかない弘子は驚いた。部屋の隅のベッドがどことなく気まずさを誘った。
「お茶いれるよ。座ってて」
「あの、…おかまいなく…」
そんな会話をして克彦は部屋を出ていき、弘子は部屋を見回した。テニスのトロフィーのいくつか入ったガラスの棚があり、その脇にカバーのかかったラケットが立てかけてある。本棚にはかなりの数の文庫本と、大学で使っているらしい商学のテキストがあり、下の方には昔ながらの台紙に貼るタイプのアルバムが三冊あった。弘子はあとで見せてもらおうと思った。
克彦が紅茶を運んできた。座って少し話をして、それから弘子は克彦のアルバムを見たいと言った。克彦は嬉しかったが、中学の時のクラス写真に依里子が写っているのでこっそり気まずくなった。でも、やっぱり弘子に見てほしかった。
「うわー、子供の頃から格好良くないですか?」
「うーん、…可愛げない子供だったから…」
弘子ははしゃいだが、克彦はあまり昔の自分が好きではなかった。
「もう美少年じゃないですか。ここからは中学校ですか? ガクラン着てる~」
「ガクランだと、なんかおかしくない?」
「そうですか? いいじゃないですか、私、高校のブレザーの先輩しか見たことないし」
克彦は、弘子が一生懸命見ている写真にちょうど依里子が写っていてヒヤヒヤしたが、弘子はそれが「元彼女」だなんて知る由もなかった。克彦の母が熱心に写真を貼って作っていたアルバムは、中学校を卒業するところで終わっていた。
次に弘子は本棚に向かった。
「どんな本読むんですか?」
弘子に本棚を見せておき、克彦はわざと口実を作って部屋を出て、帰ってくるときに気付かれないようにドアに鍵をかけた。そしてそのまま座らずに弘子の側に立った。弘子は振り返り、本の背表紙を見ながら言った。
「意外、推理小説読むんですね。けっこうありますね」
「うん、謎解きが好きなんだよ」
克彦はしばらく弘子を泳がせた。そして、チャンスのタイミングで重々しく、
「…弘子さん」
と声をかけた。弘子の動きが止まり、背中に緊張が走った。
克彦はそろそろと後ろから弘子の肩に手をかけ、一歩前に出て、弘子の背中を胸に抱き寄せた。弘子は全身を硬直させた。でも、NOのサインではなかった。克彦はゆっくりと弘子の肩を引き、自分の方を向かせた。弘子が少し後ろに逃げるのを感じたので、両肩をしっかりつかんで本棚に押しつけ、ゆっくりと唇を近づけた。
克彦はやっと、弘子の唇にそっと触れた。弘子は一瞬ぴくりと体を震わせたが、おとなしくキスを受け入れた。克彦は唇を離せなかった。触れ方は次第に濃密になっていった。弘子は動転したが、全く動けなかったので観念するしかなかった。いきなりの濃密さはショックだった。なのになぜか頭がぼうっとした。
克彦が離れると、弘子はゆっくりと本棚にそって座り込んだ。克彦は弘子をゆっくりと支え、そっと座らせた。その様子を見て、克彦は何度も心の中で弘子に問いかけながら、弘子の胸元にそっと手を伸ばした。
突然触れてきた掌に、弘子は驚いて目を開けた。視界の半分は克彦の肩に覆われていた。必死に目を閉じ、手さぐりで克彦の指の一本一本を外そうと格闘した。でも、克彦の掌は止まらなかった。
そのまま克彦の手は弘子の抵抗を逃れて胸周りとスカートの中を侵略した。弘子はパニックで泣きそうになって身動きがとれなくなっていた。
(…弘子さんがかわいそうだよ。もう、やめてあげないと…)
思っても克彦の掌は止まらなかった。弘子が首をかすかに横に振るのを肩口に感じ、やっと克彦は手を止め、優しく抱きしめた。
「…ゴメン、びっくりした?」
克彦がそう言って髪を撫でて窺うと、弘子は黙ったまま涙を流していた。
「ゴメンね。約束破っちゃったね」
克彦はじっと弘子を抱きしめ、弘子はそのまましばらく泣いた。落ち着いた弘子が克彦の背中に恐る恐る腕を回すと、克彦はもっと強く弘子を抱きしめて、子供をあやすように背中をゆっくり優しく叩いた。
長い間そうしてから、やっと二人は少しだけ離れた。克彦はもう一度、
「ゴメンね」
と言った。弘子は戸惑うだけで何も言えなかった。
「今日は、いきなりすぎたかもしれないけど、俺の気持ち、わかって。それから、『もう二度としない』なんて言えない。そう言って安心させてあげたいけど…」
克彦は弘子に優しい声で一生懸命語りかけた。
「体が目当てとか思わないで。弘子さんを女性として愛していて、その結果なんだよ。俺、誰でもいいわけじゃないんだよ。わかって」
弘子の目が自分を見上げるのを見つめて、克彦はもう一度、
「…わかってね」
と言った。弘子はしばらくぼんやりしてから、小さくうなずいた。
克彦は弘子から反応が返ってきたのでホッとして、それから、
「お茶、冷めちゃったね」
と何でもないかのように装ってテーブルに戻った。弘子もゆっくりと立ち上がってゆっくりとテーブルに戻った。でも、そのあと二人はほとんど会話を交わすことができなかった。セカンドキスは、キスどころか、だいぶ先まで突っ走る結果になった。
弘子はショックを受けていた。本当は二度目のキスをして終わりのはずだった。お風呂に入ろうとして脱衣所で足を止めると、鏡に自分の裸の上半身が映っていた。
(…自然なこと?)
なぜか、今はそう思えなかった。自分の体から目をそむけ、弘子は浴室に入った。けれど体に残る克彦の掌の感触は消えなかった。
弘子は戸惑っていた。キスで脚の力が抜けていったのは緊張や動揺ではなかった。熱くて溶けるような気持ちになったから、座り込んでしまった。
(自分の中に、誰かがいる)
弘子はそう思った。
(…次にキスをするときは、どうなっちゃうんだろう…)
不安が心を覆った。もう、あと二度三度会ったらすべてを奪われる気がした。
(進んだら、永遠に引き返せない…)
弘子は怖くなった。克彦も怖かったし、自分も怖かった。ホテルの事件の時、克彦に抱かれたかったと思ったことを覚えている。多分、進むのは幸せなことなのだろうと頭では思った。けれど、永遠に引き返せない世界に踏み入るのはどうしても怖かった。
克彦はこれからのことを考えていた。弘子の中に少しだけ受け入れる気持ちがあったなんて、全く考えていなかった。
(…まずかったかな。今頃、苦しんでないかな。大丈夫かな…)
こういうとき女性がどう思うのかを恵梨に聞いてみたいが、以前体に触れたことのある女性に聞くのはあまりにデリカシーのないことだ。もちろん夏実に訊くわけにもいかない。
不思議だった。自分はロマンチストだと思っていたし、ゆっくり進んで、少しずつ体に触れて、順次一つ弘子が手に入るはずだった。プロセスを楽しみにしたかったはずが、いざとなると激情に流された。自分がそんな男だったことに驚いた。
中途半端に触れたことは克彦を苛んだ。その先の感触は恵梨でしか知らない。折角手に入れた弘子の記憶を手掛かりに、唯一知っている恵梨の記憶に頼って想像を進めていくのは不本意だった。嫌なら弘子のことも考えないようにするしかない。けれど、考えずにはいられなかった。
十二月が近づいていた。あれ以来弘子に触れる機会はなく、何事もなかったような顔をして弘子と会い、手をつないで歩き、肩を抱き寄せ、抱きしめたりもした。けれど、それ以上のことをする機会は全くなかった。時折克彦はチャンスを作ろうとしたが、弘子にかわされた。克彦はあまりそういう方面に熱心になって嫌われたくなかった。
克彦の心の中は飢えに泣いていた。なんだか、自分がいつも同じ状態にいる気がした。片思いの時は弘子とのかすかな関わり合いを求めて飢え、二人で会えるようになってからは特別な関係になりたくて飢えた。つきあい始めたら弘子の愛の言葉がほしくて飢え、それを手に入れたらキスに飢え、キスを手に入れたらその先を求めて飢えた。克彦は途方に暮れた。せめてクリスマスにはもっと近づきたかった。
その年、クリスマスのことは弘子が先に口にした。
「今年はうちに来ませんか? 私、何か作りますから」
「…え? …いいの?」
弘子にしては素直な言葉に克彦は戸惑った。
「もっと別の何かを考えてるんでしたら、いいんですけど…」
気後れした弘子を見て、克彦は慌てて真剣な顔で答えた。
「ううん、弘子さんがそれでいいなら、是非そうしてほしい」
弘子もこのままお互いにしらばっくれているのはよくないと思っていた。けれど、克彦と二人っきりになるのも怖かった。克彦が怖いのではなく、自分が怖かった。本気で嫌だったら、殴ってでも突き飛ばしてでも蹴ってでも抵抗しただろう。迷ったのだから、きっと半分は肯定していたのだと思う。でも、わずかでも先に進むことを許したと思われたくなかった。
だから弘子は、誘われる前に自分の部屋に克彦を呼んだ。母親が家にいるからうかつなことはできないだろうし、自分も母親の目を気にして冷静でいられるだろう。でも、うかつじゃないことまでは、されてもいいと思った。
約束のクリスマスイブがやってきた。
弘子は前日から一生懸命母親に教わって料理を作り、本を一生懸命読みながらちょっと難易度の高いケーキを焼いた。料理の方は母親の手でフォローされたが、ケーキは個性的な出来になった。弘子は一度作り直したが、同じ出来になったのであきらめた。
約束の時間丁度に克彦はやってきた。夕方の六時に弘子の部屋を訪ねるのは、ちょっとばかり期待して、緊張しなくもなかった。弘子が呼んでくれたのも嬉しかった。克彦は「傘を返しに」来た日と同じように、大きな花束を抱えてきた。
克彦を座らせて、弘子は台所と自分の部屋を何度も往復して料理を運び、花束を花瓶に挿したものを運び、最後にケーキを運んだ。あまりに慌ただしいので克彦が「手伝おうか」と言ったが、弘子は聞き入れなかった。
「お母さんは下にいるんだ」
「いますよ」
克彦はひっそりとガッカリした。弘子はその顔色を読み、思惑どおり進んだことにそっと喜んだ。
でも克彦は、弘子の母親が部屋に突然入ってくることはないと知っていた。以前来たときに、弘子にお茶を取りに来るように言った声には「邪魔はしないから」という響きがあった。だから、弘子に了解を取りながら進めれば、何もできないことはないはずだ。
克彦は料理をほめたが、弘子はほとんど母の作だと言って恐縮した。ケーキはところどころムラがあり、うまくふくらんでいなかった。
「ううん、弘子さんが俺のために手作りしてくれたっていうだけで十分」
克彦は真剣に言った。弘子はますます恐縮した。
やがてテーブルの上が片づいて、お茶とケーキだけになった。
「先輩は、お酒があった方がよかったですか?」
「ううん、いいよ、お茶で。弘子さんは飲まないんでしょ?」
「私、ハタチまではちゃんと、飲まないんです」
「マジメだね~」
「親は勧めますけど…」
「そうだよね、親って飲ませたがるよね」
そんな普通の話をして、それからプレゼントを交換した。
「すみません、受験なんで、結局今回も編み物で四苦八苦している時間がとれなくて」
弘子はそう言って既製品のセーターをあげた。今年こそ編み物に挑戦と思ったのだが、二年目だから多少マシにはなったものの、ほんの少しを編むのに膨大な時間がかかるので受験を優先せざるを得なかった。
「いいんだよ、別に俺が手作りの何かをあげるわけじゃないんだから。それとも、俺が釘打って作った椅子とかあげた方がいい?」
克彦のフォローに弘子は笑った。克彦のプレゼントはネックレスとイヤリングのセットだった。
「弘子さんはピアスあけないのかな。勝手にイヤリングにしちゃったんだけど」
「ピアスはする予定ないんで、イヤリングじゃないと困るんです。よかったです。ありがとうございます」
克彦は「もうひとつ」と言って、二羽のペンギンがキスをしている飾りキャンドルを取り出して、持参したマッチで火をつけた。
「家から、わざわざマッチ持って来たんですか? うち、探せばあるのに」
「なかったらいけないと思って。弘子さんがタバコ用のライターを部屋に置いてるはずもないし」
「あ、でも、夏は蚊取り線香用にマッチが部屋にあるときがありますよ」
ふと会話が止まった。
「ねえ、弘子さん」
克彦の声色が変わった。弘子は「来た」と思ったが、気付かないふりをした。
「…そっちに行ってもいい?」
弘子が返事を迷っていると、克彦は立ち上がって隣に来てしまった。克彦が座ると同時に肩に腕が回り、弘子は一瞬でいろんなことを(それこそかなりいろんなことを)考えたが、克彦はそのまま動かなかった。ただ抱き寄せる腕に力を込めるだけだった。
「この前ウチに来たときに、いろいろしちゃってゴメン」
克彦は優しく囁いた。弘子は「今度こそ来たか」と思ってひたすら身を固くした。
「ホントはね、二つあるの。やっぱり、男としては、キミのこといろいろ触れたり、できれば抱きたいって思うの。…でもね、もう一つ、こうやって、じっと優しく触れていたいなとも思うの」
そのまま克彦は何もせずに肩を抱いていた。弘子は自分の体の力が抜けていくのを感じた。そして、克彦にゆっくりともたれかかった。克彦は腕に力を込めた。
幸せな時間だった。ろうそくがゆっくり溶けて、ペンギンがロウだらけになり、それからペンギンの姿があいまいになってきた。
「ペンギンが溶けちゃいますよ」
弘子は小さな声で言った。
「一緒に溶けるんだから、幸せだよ」
克彦は答えた。
ペンギンをぼんやりと眺めながら、二人はお互いの存在だけをじっと感じていた。ペンギンはくちばしを合わせたままゆっくりと溶け、ロウになって流れて燃えていった。とてもとても長い間、克彦と弘子は黙ったまま肩を寄せ合って、火が消えてしまう直前に引き寄せ合うように自然にキスをした。
克彦はそれ以上何もしなかった。ほんの少し迷いはあったが、今日はこの幸せで十分な気がした。弘子も、克彦が満足なのか少し気になったが、克彦の微笑みに安らぎと幸福を感じた。
二人にとって、とても素敵なクリスマスだった。