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第6章 接触編 1.ファーストキス


 弘子は「頭が痛い」と言って寝込み、遥子とちょっとした約束をしていた日の部活をすっぽかした。学校を休んだと聞いて、遥子は帰りがけに見舞いに来た。

「何、頭痛いの? 風邪?」

 声をかけられても、弘子は布団をかぶったまま黙っていた。

「何よ、そんなに具合悪いの?」

 やっぱり弘子は黙っていたが、眠っていないのは明白だった。遥子はやれやれと思ってため息をついた。

「それとも、なんか落ち込んでるわけ?」

「…落ち込んでないもん」

 弘子の声が答えた。遥子は、ああやっぱり、と思った。

「そーいう反応をするときは、山根先輩のことだ。そうでしょ。何かあったの」

「別に、先輩と私の間にはナニゴトもなかったよ。ちょっと別れただけだよ」

 遥子は驚いたが、弘子の言い方に含みがあったので追及してあげることにした。

「なんで何事もないのに別れるのよ」

「私とじゃなくて、他の人との間にナニゴトかがあったんだよ。だからだよ」

「何よ。どのくらい何事かがあったのよ。妹さんと歩いてたのを浮気と間違えたなんて、そんな阿呆なオチはいやだよ」

「そんな簡単なことじゃないもん」

 また、弘子は真夏のカタツムリのように潜ったまましゃべらなくなった。遥子が、

「帰るよ~」

 と言うと、

「もうちょっと」

 と返事が返ってきた。

「アンタねえ、山根先輩にもその調子なんでしょ」

 弘子は答えなかった。ここで言葉をせかすとまた黙るので、遥子は弘子が話すのを待ってあげた。弘子は、物音がしないので遥子がまだいるのか気にかかり、そっと布団から頭を出した。

「ちゃんといるよ」

 遥子は言った。弘子はまたそろそろと布団の中に潜り、遥子に言った。

「ホテルに行ったんだって」

「はい?」

 遥子は、何を聞き間違えたのかと思った。

「…他の人とホテルでそーいうことしたんだって」

 弘子はそれだけ言うと、卵を産み終えて体力を使い果たした鮭のように黙ってしまった。

「えええ~?」

 遥子は驚き、次の言葉を待ったが、何も返って来なかった。さらにしばらく待って、

「アンタ、また何か勘違いとか早とちりとか、してるんじゃないの?」

 とも言った。

「違う。本人が言った。だから別れてって」

 弘子にそんな悲劇が降りかかったと思うと、遥子は返す言葉もなかった。

「はあ、だから、キスくらいさせとけばよかったのに。色仕掛けでとられるとはねえ」

「とられてないもん。まだ私が好きだって言ってたもん」

「…はあ。…つまり、山根先輩は弘子が好きなんだけど、つい他の女とやっちゃったんで、もう弘子とつきあう資格はないと。そんなところ?」

 事実とは微妙に違ったが、弘子が事実と認識している状況はそのとおりだった。弘子は布団の中で大きくうなずいた。

「他の女って、誰よ」

「なんか、昔の彼女らしい…」

 克彦が適切な解説を加えなかったので、弘子はそう思っていた。

「…許せないんだ」

「許せるわけないじゃん」

 弘子をかわいそうだとは思ったが、だからって自分が何をできるでもなく、遥子は部活の連絡事項などを話して帰っていった。


 遥子が翌々日、テニスコート脇を歩いていると、テニスコートのそばから、

「そこの吹奏楽部の人~。今日、斉藤弘子来てますか~?」

 と声がかかった。遥子は少し考え、弘子の親友のテニス部員だと合点した。

「弘子、カレシと別れたとか言って、落ち込んで寝込んでますよ」

「ええ!!」

 こうして今度は早速かおりが佳美を連れて見舞いに来た。弘子は克彦が来たときにも出した小さなテーブルを用意してちゃんと応対した。

「ホントなの? なんで? 理由は?」

 二人は自分のことのように、悲しすぎる顔をして弘子に詰め寄った。弘子は腫れて人相が変わった目をふせ、比較的落ち着いて答えた。

「先輩の名誉のために、黙秘」

 二人はなだめたり、すかしたり、脅したりしてなんとか遥子と同じことを聞き出した。克彦をよく知る二人には、信じられないニュースだった。

「そんなの、山根先輩に限って絶対ないよ。ホテルに『行った』だけで何にもしなかったとか、そういう話でしょう?」

 さすがの慧眼で、佳美はそんなことを言った。

「ちゃんとそーいうことしに行ったんだって」

「いや、だから、結果的にはしなかったとか」

「…そんなわけないじゃん」

 そう言いながら、弘子は、そうであってほしいと心から思っていた。

「なんか…男って結局男なのかしら。あの山根先輩が。がっかりだ。きたないわ」

 かおりが感情的にまくしたてるのをBGMに、佳美と弘子はしばし黙っていた。

 死んだように無表情の弘子に、佳美は訊いた。

「来月、テニス部のOB会があるけど、会ったら本当かどうか訊いてあげようか…?」

「いい。傷口を広げるだけだから」

 弘子は即答し、そのまま口を開かなくなった。二人はそう長居せずに弘子の家を出た。

「…ホントなのかな~」

「逆に嘘だとしたら、そうまで言って弘子と別れたかったってことじゃないの?」

 二人は無力さに打ちひしがれた。克彦に抱いていた憧れに傷がついたことも悲しかった。


 克彦は自己嫌悪の渦の中にいた。何よりも、最後に弘子が好きだと言ってくれたことがこたえていた。今になってみれば、弘子の愛情表現は折に触れて届いていた。別れに怯えて好きだと言えずにいたのだと思うと胸が痛んだ。

 ホテルのことは言ってしまったが、「最後の一線は踏みとどまった」と言い訳をしたい。けれどそんな機会はない。しかも、「キミを抱けるか不安だったから」なんて理屈は、どうしたってわかってもらえないだろう。

 大学が夏休みでもサークルはあったが、長期旅行のため休むと告げた。恵梨が気にするといけないから、変な気遣いなどではないと電話をしておいた。そうして、克彦は毎日自己嫌悪と一緒に部屋に閉じこもっていた。家族は心配したが、どうしても自分を取り繕うことができなかった。


 九月下旬になり、大学の講義が始まった。克彦はなんとか日常生活に戻ろうと講義にはちゃんと出ていた。そんな中、峯丘高校テニス部のOB会の日が来た。

 克彦は集合場所に向かった。佳美とかおりが来るのは間違いなくて、そう考えると足取りは重かったが、むしろ彼女たちに会いに行くつもりで歩いていた。

 集合場所に克彦が姿を見せたとき、誰もが一瞬目を疑った。そこには、やせて目が落ちくぼみ、顔色の悪い克彦がいた。川上京子は、折角再会した克彦がそんな状態だったので、

「どうしたの! 違う人みたい」

 とそばに飛んでいった。

 佳美とかおりは現役の部員たちと一団になってやってきた。そして、あまりに憔悴した様子の克彦に驚いた。

「すごいよ、人相変わってるよ。一瞬誰だかわかんなかった」

「やっぱり、弘子と別れたからかな」

 佳美は克彦に真相を質そうと思った。自分にもいくばくかの権利はあるだろう。宴会の後半、無礼講で入り乱れ始めてから、佳美は克彦のところに行った。克彦は話しかけづらい雰囲気を醸し出して、一人ぐったりと隅の方にいた。

「山根先輩、お久しぶりです」

 佳美は克彦の隣に座った。克彦は、弘子のことを話してくれるだろうと内心喜んだ。

「やせちゃったんですね。どうしたんですか?」

 単刀直入に話題をふっかけるのはとりあえず避けた。

「うん、ちょっと胃をやっちゃってさ」

「神経性とかですか?」

「キミが考えてるとおりの原因だよ」

 一足飛びに克彦は答えた。弘子の賢い親友は適切な対処をしてくれるだろう。

 佳美は含みを正確に読み取り、話の核心に踏み込んだ。

「本当なんですか? 弘子が言ってたこと」

「どこまで聞いたの?」

「全部ですよ。私、山根先輩が弘子と誰かを真剣に迷うことはあっても、浮気するはずなんてないと思ってました。ホントなんですか?」

「全部ホントだよ。他の女の子とも何度も会った。ホテルも行った。逃げも隠れもしないし、ごまかしもしないよ」

 克彦はビールをあおった。

「なんでですか? 先輩はそういう人じゃないじゃないですか」

「買いかぶってくれてありがとう」

「冗談はやめてください。先輩が落ち込んでるのは見ればわかります。でも、弘子も落ち込んでるんですよ。先輩も死にそうかもしれませんけど、弘子だって死にそうですよ」

「…そうなんだ、弘子さん、落ち込んでるんだ」

 克彦ははかなげに微笑んだ。佳美はムッとした。

「何、喜んでるんですか?」

「弘子さんが俺のこと、そのくらいは好きだったんだなって思えるから。俺、自分がしたことはごまかさないけど、言い訳はしたいよ。だって、弘子さんは、俺が別れようって言うまで、一度も俺を好きだって言わなかったんだもん」

 佳美は少し眉根を寄せた。克彦は表情を読み、続けた。

「一度も好きだって言わなかったの。だから、他に俺を好きだって言ってくれる子がいることがすごく嬉しかった」

 佳美は克彦の重い淋しさを感じ取った。克彦にとって、女性からの「好き」という言葉なんて、不必要に、むやみに、多大に与えられてきたもののはずだ。なのにその言葉に飢えたのはどうしたって不自然だし、きっと弘子のせいなのだろう。

「呆れてものも言えない?」

 克彦は目を伏せた。佳美はすぐに言い返した。

「言えないですよ。なんで、だからって他の人とそんなことになっちゃうんですか? あまりに飛躍してますよ、おかしいですよ。山根先輩らしくないですよ」

 佳美を一瞥して、克彦は言った。

「弘子さんもそうだけど、みんな、なんか誤解してるよね。俺はただの男だよ。なんで、そんなに意外な顔するの。ただの男の中に、男のバカな一面があっちゃいけないの。俺らしいとからしくないとか、それはみんなが勝手に決めたことじゃない。俺だって、バカなことしたなと思ってるよ。でも、たまにはバカなことくらいするよ。させてよ。いつもいつもカッコつけてないといられないんじゃ、たまんないよ。

 俺の気持ちはどうしたらいいの。一生懸命好きでも、何も返ってこないんだよ。女の子が勝手に俺を好きになって寄ってくるのも、もうたくさんだよ。俺は弘子さんだけいればよかったのに、女の子はいろんなこと言って寄ってくるんだよ。俺はいつもバリアを張ってなきゃいけない。ちょっと心が弱ってたらすぐにこんなだよ。もう疲れたよ。ただの男でいいじゃない。勝手に、らしくないなんて決めないでよ」

 佳美は何も言えなかった。その様子を見て、克彦はまた自嘲気味に笑った。

「ゴメンね。今のは、弘子さんに言わなきゃいけなかったのにね。だから、たぶん、俺も彼女に心を開いてなかったんだよ。カッコつけてたんだ。嫌われたくないから」

 克彦はコップの中身を一気に飲んだ。傷んだ空っぽの胃に、ぬるい液体が不快な渦を巻いて降りていった。佳美は克彦の空になったグラスを漠然と見つめた。女の子たちに嫌な顔ひとつしなかった克彦がその裏でどれだけ気苦労してきたかをかいま見た気がした。

「そう思うなら、今からでもそれ、弘子に言った方がいいですね」

「そうだね、死ぬ前に一目でも会えれば、必ず言うよ」

 克彦はますます自嘲した。

「そのかわり、なにかひと言だけ伝えますよ」

 佳美は言った。克彦は、情けないことに、嬉しくて涙が出そうになった。未練がましいとは思ったが、出てくる言葉は一つだけだった。

「じゃあ、ホントは今でも愛してるって…それだけ伝えて」

 すべてが壊れてしまった中に残った克彦の気持ちを、佳美は大切に受け取った。

 OB会は散会し、大半のメンバーが同じ駅へ向かった。克彦も、佳美も、かおりもその群れの中にいた。揃って地下鉄の駅へ下りる途中、克彦は突然、無造作に下り階段に崩れ落ちた。すぐにその場はパニックになり、救急車が呼ばれた。

 やがて克彦は同じ代の元部長と川上京子に付き添われ、救急車で運ばれていった。慌ただしく、あっという間の出来事だった。

「とりあえず、今日はみんな帰って。心配だったら、各年の部長に連絡入れるから」

 幹事兼OB会長の男性が大きな声で伝えた。しばらく駅でざわめいていたテニス部メンバーは、やがて散っていった。かおりは携帯電話を取り出し、弘子に電話をかけた。

「弘子、今、山根先輩が倒れて、救急車で運ばれちゃったよ!」

 弘子は、かおりの興奮した声で克彦の容態が重篤なのではないかと思い、動揺した。

「あ、…連絡なんか、しない方がよかった…?」

「ううん、でも、…もう関係ないから…」

 かおりの気遣いに気後れして、弘子はついそんな風に答えてしまった。かおりは「そうだよね、ゴメン」と言って電話を切った。弘子は後悔したが、自分は実際「関係ない」のだと気づき、また傷ついた。

 最寄り駅の前でかおりと別れた佳美は、家に帰り着くとすぐ克彦の状態を訊こうとあちこちに電話した。しかし、まだ何もわからなかったので、伝言を届けるためだけに弘子に電話をかけた。

「佳美、山根先輩のことだったら、いいよ」

 弘子は心配で気もそぞろだったが、自分には何の権利もないのだからと暗い声でそう言った。佳美はその心中を察したが、やはり克彦の頼みを聞いてあげたかった。

「うん、わかってる。私、今日、山根先輩から伝言を預かってきたから、それだけ」

 弘子は一瞬凍りつき、それから慌てて、

「いいよ、何も聞きたくないよ、もう忘れたいんだよ、余計なお節介しないでよ」

 と言った。克彦からの変わらない愛情の言葉を期待している自分が怖かった。伝えられる言葉がそうでなかったら、まともではいられない気がした。

「弘子のためじゃないわよ。頼まれたからしょうがなくやってるだけよ。なんで、自分が惚れてた男からの『今でも愛してる』なんてくっさい言葉、伝えないといけないわけ?」

 佳美はそんな言い方をした。弘子が黙り込むのがわかった。

「弘子、愛してるなんて言葉、当たり前みたいにもらってるのね。…それなのに弘子は、何も言わなかったんだ」

 弘子は克彦からの伝言に戸惑い、佳美の言葉にもうまく答えられなかった。

「許せないかもしれないけどさ、今日、山根先輩、珍しく愚痴なんか言っててね、弘子さえいればそれでいいのに、なんで女の子は寄ってくるんだって…すごくつらそうにしてたよ。その言い方って、…ホテルのことも、女の子に連れ込まれたんじゃないのかな」

「…連れ込むなんて、どうやって」

 弘子はなんとか言い返した。そうして意地を張る言葉だけは簡単に言える自分に胸が痛んだ。克彦にもそんな態度ばかりとってきた気がした。

「お酒飲ませちゃうとかさ、ホテルの前で具合悪いってしゃがみ込むとかさ、いろいろワザはあるでしょうよ。男を連れ込む方が簡単だよ」

 弘子は男女のホテル事情なんか全然知らず、いまいち理解できなかった。

「でも、山根先輩は“そういうこと”をするために行ったって言ってたもん…」

「私だって先輩をかばおうなんて思ってないし、原因がどうあれ、結果的には弘子を裏切ったことに変わりないよ。ただね、…弘子がなんにも先輩に気持ちを伝えないで、淋しかったって言ってたよ。先輩、ボロボロだったよ。もうカッコつけるのは疲れたって、ただの男なんだからしょうがないじゃないって、弱音とか愚痴とか言ってて、…」

 佳美は気持ちが昂ぶって言葉に詰まった。佳美は、弘子の親友でもあったが、同時に昔克彦を好きだった一人の女の子でもあった。

「…佳美には、いろんなこと話すんだね」

 弘子は悲しい気持ちで言った。自分より佳美の方がずっと克彦のそばにいるような気がした。

「何言ってるのよ。アンタが山根先輩とちゃんと向かい合わないから、先輩だって話せなかったんじゃないの? アンタの気持ちがわからなくて、嫌われるのが怖かったって先輩は言ってたよ。アンタは悪くないの? 全然悪くないの」

 佳美は涙声になってしまい、慌てて言葉を止めた。弘子に譲った恋だった。昔のことだと割り切ったつもりでも、悔しかった。

 弘子は佳美にわからないように泣いていた。いつも視線をそらしてうつむいて過ごした自分。好きだと言えずに、逃げる言葉ばかり探していた自分。怖かった。いつかもっと克彦にふさわしい人が現れるような気がしていたから…。

 佳美は気を取り直して、言った。

「一度だけ許してあげなよ。つらいと思うけど、いつも一方的にもらうばっかりなの、いいかげんやめなよ。やりなおしてみなよ」

 弘子もいっそ、そうしたかった。けれど、どうしても耐えられないことがあった。

「…佳美、いろいろありがとう、でも…」

 弘子はためらい、それから自分の気持ちを確認して、佳美に告げた。

「私、他の女の人と…って思ったら、もう、手をつないで街を歩くのも嫌なの。その手が何をしたかって考えちゃうから。キスしていいかって聞かれたら他の人ともしたんだって思うし、それから、…その、Hとか、しようって言われたら、絶対に耐えられない。許すとか、許さないとかじゃないの。生理的に、もう嫌なの。だから、もう無理だと思う」

 それが弘子の結論だった。弘子にとって、体が結ばれるのは異世界の出来事だった。他の女性を通って別の世界に旅立ったのなら、克彦は、今はもう弘子にとって同じ世界の人ではなかった。今まで自分に微笑んでくれた優しいひとはもうどこにもいない気がした。


 克彦は病院で点滴を受けていた。

「急性アルコール中毒と、軽い栄養失調ですね。あと、胃潰瘍になってます。こんな胃に、アルコールなんか入れちゃいけません」

 医師は言った。母親は恐縮し、

「すみません、全然食べてくれないんです…」

 と言い訳した。

 克彦はぐったりと横たわっていた。

(…このまま死んじゃってもいいんだけどな…)

 捨て鉢な気分だった。体は重いというよりむしろ軽すぎて空気のようだ。体がある気がしない。無理やり注入される栄養と水を仕方なく受け入れていた。

 夏実も克彦の枕もとにいて、いつものようにナマイキな言葉を吐いていた。

「アニキあと三日、まだ未成年じゃん。何酒飲んでんだよ。つかまるよ」

 克彦はそのセリフにふと我に返った。病院の壁のカレンダーを見ると、誕生日が迫っていた。

「母さん、俺、いつ退院だって?」

「点滴外れるまでいなきゃダメだって。三、四日して胃が治ってきたら自宅でいいって」

「…あ、そう…」

 一夜明け、母親は克彦を病院に見舞ってすぐに会社へ行った。一緒に来た夏実はニコニコして母親を見送った。兄を独り占めできるのがいい気分だった。

「なんで、おまえはいるの」

「今日は学園祭の代休でーす。今日と明日が代休、あさってから土日。四連休」

「あっそ」

 夏実はカバンからなにやら四角いものを出した。

「アニキ、これあったほうがよくない?」

 机の上に伏せてあった弘子の写真だった。克彦は反射的に目をつぶった。

「ゴメン、今の俺にはない方がいいんだ、それ」

 克彦はぐったりと弛緩して、つらそうに言った。

「なんだ、また痴情のもつれなの? アニキがなんかバカみたいに落ち込んでるときって、みんなサイトーさんネタだね」

「そうね、今回は別れちゃったからね…」

 克彦も夏実のように明るく言おうとしてみたが、語尾がやはり悲愴な響きになった。

「えー、別れたんだ。なに、ふられたの。逃げられたの」

「…今回は話したくない…」

「あっそ。でもその様子じゃまだ好きなんでしょ? なんで今回は追っかけないの?」

 克彦は心を閉ざすように目を閉じて、

「…うん、全部俺が悪いから。もう会えないんだよ」

 とだけ言った。

 その日は夕方頃から、「急性アルコール中毒」と聞いた連中がからかい半分に見舞いに来た。大学の知り合いにはまだ伝わっていなかったので、克彦は、勇也と恵梨にだけは後で連絡しておこうと思った。荷物が自宅に引き取られて電話番号が手元になかったので、克彦は携帯電話を持ってきてほしいと夏実に頼んだ。

 夏実は家に帰って、克彦の部屋の充電器にさしてあった携帯電話を自分の部屋に持ってきた。アドレス帳の中に「斉藤弘子」はすぐ見つかった。

「別れた女なんか消しとけよ、アニキ」

 夜になってから夏実はそこに電話をかけた。弘子の母親が電話をとり、いつもと似た抑揚で「山根」と名乗る声が女の子なのを不思議に思った。弘子は「女の子、山根さんって言ってるけど、聞き間違えたかな?」と言われ、誰かわからないまま電話をかわった。

「もしもし、お電話かわりましたが…」

「どうも、山根克彦の妹です」

 弘子は聞くなり硬直した。夏実は愛想よく言った。

「一度お会いしてますよね~」

「あ、その節は、本当に、その、失礼しました…」

 弘子は肝をつぶしたが、なんとかとりあえず返事をした。夏実は気にせず、

「あのう、アニキ入院したの、知ってますか~?」

 と訊いた。弘子はあのあとかおりから電話で聞いて、だいたいのことは知っていた。

「…あ、…知ってます」

「お見舞いには、来てくれないんですか~?」

 夏実は何も知らないふりで言ってみた。弘子は返事に窮した。でも、黙ってしまうわけにいかず、なんとか答えた。

「あの、今、そういう立場にないんで…」

 弘子の返答を聞き、夏実は真剣な声になった。

「別れたって話は聞きました。事情はわかりませんけど、アニキがよっぽどバカなことをやって、失礼をしたんじゃないかと思います。ごめんなさい」

「え、そんな」

 佳美に続いて、克彦のために一生懸命な夏実の声を聞き、弘子は克彦がいろんな人に愛されていることをつくづく感じた。それは彼の生来の人柄だけでなく、真摯な努力の賜物でもあった。そんな克彦が「もうカッコつけるのは疲れた」と言っていたのなら、克彦のすべてを自分が壊したのだと思った。

「お見舞いに来てくれませんか。兄は、あさってまで病院にいます。もう会えないって言ってたけど、本当は、会いたいんだと思います。会わないと死んじゃうと思います」

「あの、でも…」

(…うかつに会いに行ったところで、もう、私は、先輩とはつきあえないから…)

 弘子は思ったが、夏実は有無を言わさず、

「アニキは、滋陽医師会総合病院ってところにいます。飯田橋から歩いて五分くらいのところです。五〇三号室にいます。ここは一人部屋で、一人部屋は五階だけなんで、名前は出てるから、一人部屋だって覚えて来てくれればすぐわかると思います」

 と言った。弘子がメモを取ってくれないことも考えて、覚えやすいように精一杯言い方を工夫したつもりだった。弘子はメモを取らないつもりだったのに、自分の記憶があやふやになりそうな気がして、思わずペンを手にしていた。

「お願いします。あさっての土曜日、アニキ、誕生日なんです。ハタチの…」

 夏実は最後にそう付け加え、病院と病室をもう一度繰り返して電話を切った。弘子はメモを見つめ、しばらく立ちつくした。


 土曜日、弘子は駅前の花屋でピンクの花束を買った。以前、克彦に「ピンクの花、好きなんだね」と言われたことがあった。弘子はピンクのスイートピーが好きだったが、九月の終わりの花屋にスイートピーはなかった。それから文房具屋でうさぎの絵のカードを買った。これも、以前克彦に「うさぎ、好きなの?」と言われたことがあった。

 それから地下鉄の駅に下り、電車に乗った。飯田橋の駅前で道を訊くと、病院の場所はすぐわかった。弘子は近くにあったファストフードの店に入り、買ったばかりのカードを開いた。いろいろ考えあぐねた末、「お大事に」とだけ書いた。バレンタインデーに年賀状の儀礼文のようなひと言だけで贈ったカードを思い出して、胸が痛んだ。

 弘子は名前を書かなかった。ピンクの花とうさぎだけでわかるのではないかと思った。もしわからないならそれでもよかった。もう克彦に会うつもりはなかった。

 時間が経つにつれ、弘子の中で、克彦が男として先へ進むために選んだ相手が他の女性であることが悲しくてたまらなくなった。頑なな潔癖意識の片隅で、克彦が他の女性とどうしたのかが気になったし、相手を自分に置き換えると胸に甘いものがこみ上げた。

 大切だとか、だから手を出せないとか、そんな風に思うより、ぶつけてほしかった。多分、本当にそうされていたら拒絶しただろうし、ショックを受けて傷ついただろうとも思ったが、こうなってしまった今、ならばその相手は自分でありたかった。

 今になって、海に行った日のことを思い出すと、女としての喜びのようなものを感じた。男の人が自分に欲情することをそんな風に思えるなんて不思議だった。克彦が結局、その対象に自分以外の人を選んだことが切なかった。

 頑なな少女から、いつの間にか弘子は抜け出そうとしていたが、それでも他の誰かを抱いたのなら、克彦を受け入れることはできなかった。

 弘子は病院にたどりついた。そしてエレベーターの「5」のボタンを押した。


 廊下で物音がしたので、夏実は病室のドアから外をのぞこうとした。

(…斉藤さんかな?)

 途端、ドアが開いて綺麗なお姉さんとハチ合わせた。恵梨が立っていた。夏実は弘子でなくてガッカリし、克彦は動揺して赤くなった。

「あら、元気そうね」

 恵梨は克彦を見て微笑んでから、夏実を見た。ははあ妹だなと思い、名乗ってあいさつをした。夏実は上目遣いに「どうも」と会釈をして、克彦をちらっと見た。やや伏し目がちな克彦の様子に、夏実はなにやら他の女と違うことを嗅ぎ取り、戦闘意欲を燃やした。

「あ、これ、お見舞いのお花。お願いしちゃっていいかしら」

 夏実は小さな花束を渡された。そう言われて放っておくわけにもいかず、夏実は家から持ってきたばかりの花瓶を引っ張り出して渋々流しへと向かった。

 その時、廊下の突き当たりのエレベーターが開き、恐る恐る弘子が顔を出した。そして、部屋番号と名前を見ながら奥へと足音を立てないように歩いていった。この病院は入院病棟に入る場合にビニールスリッパに履き替える決まりになっていて、足音を立てずに歩くにはかなりの努力が要った。弘子はのろのろと進んでいった。

「旅行の後は入院かあ。ねえ、山根くん」

 恵梨は皮肉たっぷりに言った。

「しかも、何、私を見たときの態度。不能だってウソ広めちゃうぞ」

「はあ、すみません…」

「何よ、えらいやつれてて。まさか、私のことまで彼女に言って、ひと悶着起こしちゃったんじゃないでしょうね」

 弘子は克彦のドアの外に花を置いて立ち去ろうとしたものの、やはり気になってドアに聞き耳を立てていた。声は聞こえるが、会話は聞き取れない。

(…誰かいるのかな。女の人の声だから妹さんかな…)

 そう思った瞬間、昔の彼女が来ているのではないかと思った。克彦が「彼女ともう会わないことにした」と言った言葉を簡単に信じていた自分の愚かさに気がついた。

 弘子は床に花を置き、それだけで帰ろうと、音を立てないようにそろそろとエレベーターに向かって歩きだした。やっと隣の部屋の前を通り過ぎようかというとき、後ろでいきなり、

「斉藤さん?」

 という大声がした。弘子が振り返ると、夏実が花瓶を手に持って立っていた。

「…弘子さん?」

 克彦は夏実の声を聞いて背筋が急に伸びた。恵梨はすぐにその名前を思い出した。

 弘子はスリッパの音を立てて逃げだした。しかしそこに階段はなく、エレベーターだけがあった。下へ行くボタンを押し、祈るような気持ちで待った。

「なんで行っちゃうの!」

 夏実は弘子を追いかけて走ろうとしたが、その瞬間手元から廊下に花瓶の水がこぼれ、足にかかった。ぬれたビニールのスリッパで廊下を走るのは勇気が要ったし、手にはまだ水の入った花瓶があった。夏実が躊躇する間に、恵梨は反射的に廊下へ飛び出して弘子のところまで走った。エレベーターが開いて弘子が乗り込んだ瞬間、恵梨はダッシュで飛び込んだ。二人を乗せて、扉が閉まった。

 弘子は突然の闖入者に戦々恐々とした。イメージしていた「昔の彼女」とはだいぶおもむきが違ったが、引け目を感じるには十分な、綺麗なお姉さんだった。

「ねえ、山根くんの彼女でしょ?」

 恵梨は弘子に声をかけた。

 取り残された夏実はあっけにとられてエレベーターが下がっていくのを見守り、それから廊下に置かれた花に気がついてそれを拾い、両手に花を持って病室に戻った。

「アニキ、今の女、何よ」

 夏実は克彦の鼻先に恵梨の持ってきた花を突きつけた。

「え、大学の、サークルの先輩だよ」

「ただの先輩で、なんであんなに焦るのよ」

「別に、焦ってないよ」

 克彦は、本当に弘子が来たのか気にかかっていた。廊下をのぞきこむように身を乗り出したりしてみたが、もう嵐のようなスリッパの二重奏は消えていた。

「これ、斉藤さんから」

 夏実はピンクの花束の方を突きつけた。克彦は間違いなく弘子からだと思った。受け取るとカードが見えた。慌てて手を入れ、花を傷めないようにそっと取り出した。

『お大事に』

 弘子の字だった。克彦は弘子を探すためベッドを降りようとした。

「ダメダメ。今行ったら血を見るよ。今ごろ、きっと修羅場だね」

 夏実は言って、克彦が手にしたピンクの花束にがさがさと恵梨の花束をぶつけた。

「大丈夫だよ。さっきの女の人は親友みたいなものだよ。でも、弘子さんが困惑するかもしれないな、と思って…」

 克彦は恵梨を信じていた。ただ、

(…頼むから、弘子さんに過激なお説教とかをしないでよね…)

 と祈るだけだった。

 しかし克彦の祈りは聞き届けられなかった。エレベーターの中では緊張に張りつめた会話が繰り広げられていた。

「私、彼女じゃありません」

「だって、あなた弘子さんっていうんでしょう?」

 弘子は答えなかった。恵梨はそれを肯定したと判断した。

「だったら彼女じゃない」

「違います」

 そこで一階に着いた。エレベーターを降りても恵梨がついてくるので、弘子は困って、

「別れたんで、もう、彼女じゃないんです。失礼します」

 と言って立ち去ろうとした。けれどすぐに恵梨に腕をつかまれた。

「ちょっと待って。別れたって、なんで?」

「関係ないじゃないですか。なんでそんなこと訊くんですか?」

 弘子は声ににじみ出る怒りを抑えられなくなってきた。克彦の周りには女性が多すぎる。一人で見舞いに来たらしいこの綺麗な女性がどういう人なのか、考えたくもない。

 恵梨はさすがの女性的嗅覚で弘子の懸念を察知して、すぐに自身の立場を伝えた。

「だって、私、山根くんの親友みたいなものだもん。それでいろいろ聞いてたから…」

「聞いてるんだったら、何が原因かくらい知ってるんじゃないですか?」

「…山根くんが他の人と…ってこと?」

 弘子の認識がどこまでなのかわからないので、恵梨は肝心のところを濁した。

「知ってるならいいじゃないですか、訊かなくたって」

 弘子は答えた。恵梨はさらに網を投げた。

「山根くんはそんな人じゃないし、アナタの勘違いかもしれないじゃない」

 あっさりと引っかかり、弘子はごく自然に言い返していた。

「本人がそう言ってるのに?」

「どう言ってるのよ」

 恵梨の挑発的な態度に弘子は簡単に乗せられ、怒りに任せて、それでもなるべく小さい声で言った。

「他の女の人とホテルに行ったっていうのが、いったい他にどういう意味があるんですか? どう、私が勘違いするっていうんですか?」

 恵梨はぐっとこらえて表情を崩さなかったが、内心では大いに慌てていた。

(あのバカ、なんでそんなこと言うのよ…)

「それ、誤解だよ。誤解。どうせ、山根くんがちゃんと説明しなかったんでしょ」

「誤解とは、どうやっても思えません」

 弘子は語気を強めてそう言いつつ、本当は誤解であってほしいと思った。恵梨は弘子の顔色の変化を感じ取った。

「ねえ、ちょっと話を聞いてよ」

 弘子は腕を引っ張られ、連れていかれた。二人は病院の中のティールームに入った。

「座ってて。逃げないでよ。逃げたら後悔すると思うよ」

 恵梨は弘子を脅して座らせた。そして、コーヒーと紅茶を買って戻ってきて、弘子の前に紅茶を置いた。恵梨が紅茶を選んだのが、弘子には子供扱いのように感じられた。

「さーて、何から話そうか?」

 恵梨は腕をまくるしぐさをしてみせた。弘子は困って目を伏せていたが、恵梨も、実は何をどう話そうか決めかねていた。とりあえず、

「あのさあ、山根くんからはなんて聞いてるの? なんか誤解があるんじゃない?」

 とふっかけた。弘子は変に勘ぐることなく、素直に話し始めた。

「…昔の彼女と会っていた、って聞きました」

 弘子はちらっと恵梨を見た。恵梨は意味するものを読み取った。

「私は違うよ。昔の彼女って、山根くんの中学のときの同級生でしょ?」

 弘子は克彦の「モトカノ」を高校の中で出会った相手だと思っていた。弘子が幾分驚いた様子だったので、恵梨は、

「中学のとき同じクラスだった子と、高校のときにつきあってたって聞いた気がするけど」

 と補足した。弘子は恵梨が克彦の親友だとやっと信じる気になった。もちろん、恵梨が美人なので心中穏やかではなかったが…。

「それから、その人とホテルに行ったって聞きました」

 恵梨は眉根を寄せたが、克彦はあの日、ホテルは初めてだと言っていた。元彼女とのことはガマンしたとも言っていた。記憶を検証しつつ、恵梨はヒアリングに努めた。

「それから?」

「その、ホテルに行ったっていうのは、もちろん、その、“そういうこと”をしに行ったんだって聞きました。それから、もう、その昔の彼女とは会わないって聞きました」

「そのホテルって、その昔の彼女と行ったって言ってたの?」

 何も知らないような顔をして、恵梨はさりげなく訊いた。弘子は、正確に思い出せば誤解の糸口が見つかるかと思って一生懸命記憶をたどった。最初はあんなに強情だった弘子が素直に応える様子を、恵梨はじっと見ていた。

「…えっと…昔の彼女と会ってたから別れようって言われて、それから…正確には…『他の女の人とホテルに行った俺を許せるの?』って言った…ような…」

 たどたどしい記憶を伝える弘子の言葉で恵梨は状況を把握した。弘子の中で交錯しているだけで、事実は自分が知っているとおりだ。そして、二人が別れた原因が「昔の彼女」でなく、結果として自分にあることも了解した。

(うわ、私、責任重大だよ…)

 恵梨はにっこり笑って言った。

「うん、どこがどう間違って伝わってるか、わかった」

「え…」

 弘子の顔が期待に紅潮した。恵梨は胸が痛んだ。

「そもそも、昔の彼女と山根くんは、ホテルなんか行ってないわよ。『他の女の人と』って言ったんでしょ? そこに誤解があるの」

「え、でも」

 誰と行ったにしても同じだ、と弘子は思った。恵梨はもっとにっこり笑って、

「だって、彼とホテル行ったの、私だもん」

 と容赦なく言った。弘子は慄然として恵梨を見つめ、「冗談だよ」という言葉を待った。

「ホントよ」

 恵梨がそう言うと同時に弘子は席を立った。その瞬間、恵梨は弘子の手首をつかんだ。

「まあ、座って聞いてよ」

「離して下さい、帰ります」

「だから、誤解だってば。ホテルに行ったのは本当だけど、アナタの解釈は間違ってる、誤解だって言ってるの。このまま帰られたら、私と山根くんがやっちゃったってことになるでしょ? 私だって、それは困るのよね」

 弘子は自分をとてつもなく情けないと思いながら、どうしても真相が気になってもう一度座ってしまった。

「山根くんもウソは言ってないわよ。私、彼がべろべろに酔ってるの見て、ホテルに連れ込んじゃおうと思ったのよ。だって、彼ステキじゃない? それにさあ、彼女――って、アナタのことよ――が、やらせてくれないって愚痴ってたし。アナタ、つきあってて、好きだとも言わなかったんだって?」

 克彦があちこちで同じことを愚痴っているので、弘子は渋い顔をした。

「山根くん、ホントはアナタとやりたかったのよ。私、やりたいってさんざん愚痴られたんだから」

 恵梨はわざとそんな言い方をした。弘子は真っ赤になったが、悪い気はしなかった。

「でね、最後までやらなければいいじゃんとか、彼女とやるときのためにとか適当なこと言って、私、山根くんをホテルに引っ張り込んじゃった。私も酔っぱらってたし、傷ついたイイ男を慰めてあげたくなっちゃったのよね。もうそんな可愛くないカノジョなんか捨てちゃえよ、私みたいなイイ女とヤッてスッキリしとけって思って。…で、バカ真面目な山根くんは、酔ってたとは言え断りきれなかったから『これは、自分にもその気があったんだ』とか思い詰めて、アナタに誤解させちゃったと思うんだけど」

 弘子は黙って聞いていたが、やっぱり「ホテルに行った」のは厳然たる事実としか思えなかった。

「でもね、私たち、デキなかったの」

「…え」

 弘子の顔が輝いた。けれど、弘子は自分が恵梨のあからさまな言い方に反応したことが恥ずかしくなって、決まり悪そうに下を向いた。恵梨はあえて過激に爆弾を投下した。

「あのね、有り体に言っちゃうとね、彼、立たなかったのよ」

 弘子は吹っ飛んでひっくり返りそうになった。わからないふりでもしたかったが、この真っ赤な顔ではごまかしようがない。容赦せずに、恵梨は追い討ちをかけた。

「私、めちゃくちゃ傷ついたなー。女性が裸で待ってるのに、それってないと思わない?」

 弘子は目鼻がわからなくなるほど赤面した。恵梨は内心でそっと舌を出した。

(ま、ウソじゃないけどホントでもないかな、まるでダメだったわけじゃないし)

「ねえ、ちゃんと聞いてるの?」

 恵梨は弘子をのぞき込んだ。弘子は真っ赤な顔で、

「…え、ハイ…」

 と答えた。パニック状態で、まだちゃんと飲み込めていなかった。

「それにねえ、すっごいショックなことは、他にもあるのよね」

 恵梨は、心に秘めていたことを弘子に告げることにした。

「風俗のルールわかる? 私も働いたことはないから正確には知らないけど、『キスOK』とか『キスダメ』とかあるらしいの。キスは、普通のクチとクチでする奴。どーいう意味か知ってる?」

 弘子は両手と首を勢いよく横に振った。混乱した頭がいっそうシェイクされた。

「風俗の人でも、お客さんとクチとクチでキスするのは嫌なんだって。で、キスはダメ、っていうのがルールなところとかあるらしいのよ。ココとかコッチはよくても…」

 恵梨は胸とそのずっと下のあたりを指さした。そして唇を指さして、

「ココは心の入口だから、嫌なんだって」

 と言った。弘子もちょっと理解できるような気がした。

「でね、山根くんの話に戻るんだけど、私、彼にキスしようとしたら、よけられたのよ。さりげなくだけど、結構あからさまによけたと思うな。つまり、私とヤルにしても、『キスダメ』なわけよ。心は無理、ってことよね?」

 恵梨はあの日克彦がキスをよけたことに気付いていた。その時「オトしてやる」と意地になったが、結局は勝てなかった。そのことを悔しいとは思ったが、不思議な爽快感を覚えてもいた。

「つまり山根くんは、私とキスができなかった。それから、私とHができなかった。じゃあ、いったい何があったっていうの? 私の方が聞きたいわね」

 恵梨はかいつまんで嘘をつかずに上手く説明し、弘子を煙に巻いた。弘子は、一生懸命考えたが、知識不足もあってあまり具体的に考えられなかった。

「だから山根くんは『ホテルに行った』『その気があった』くらいのことしか言ってないはずだよね。他の女とヤッたなんて絶対言ってないでしょ? 彼、純愛青年だから、ホテルに行っただけで、もうとにかくこれは裏切りだ、別れようとかなっちゃったんでしょ。でも、アナタは、山根くんが他の人とHしちゃったと思ったから別れたんでしょ?」

「だって、あんな風に言われたら、誰だって…」

 必死で反論したが、弘子の心には安堵と嬉しさが広がっていた。恵梨は付け加えた。

「それから私、なんで立たないんだって訊いたのよ。そしたら彼が言うには、アナタじゃないから、ダメだって」

 弘子はあまりにオトナな話すぎて驚愕したり困ったりもしたが、佳美に対しても、目の前の綺麗な女性に対しても、いつだって弘子を愛する男であり続けていてくれることを知って幸福を噛みしめた。

「はい、話は以上。山根くんが女とホテルに行った…の真相はこういうことなのよ。私、ウソ言ってないわよ。こんなみっともない話作ってわざわざ人の彼女にお知らせするほど物好きじゃないもん。でも、私が出来心でホテルに連れ込んだせいで、山根くんが彼女と別れちゃうし倒れて入院しちゃうし、すっごく反省してるの。山根くんのことを好きだったわけでもないし、たまたま最近独り者で淋しかっただけだし。だから…」

 恵梨はひざの上に手を揃えて、深々と弘子に頭を下げた。

「ゴメンなさい。お願いだから、山根くんのところに戻ってあげてください」

 弘子は慌てた。恵梨は顔を上げて、弘子を見据えて続けた。

「今回のことは、ほとんどは誤解だから、戻ってあげて。今すぐお見舞いに行って、気が済むまでひっぱたいて、許してあげて。あ、私のことも叩いとく?」

 弘子は慌てて首を振った。


「アニキ、いつまで外見てるの」

 夏実は漫画を読みながら言った。克彦は恵梨と弘子がどこへ行ったか気になって、窓からずっと建物を出てくる人の姿を見ていた。

「よっぽど話し合われたらまずいことでもあるわけ?」

 夏実は横目でちらりと克彦を見た。克彦は渋々ベッドに戻り、しばらく鬱々としていた。

 廊下でスリッパの足音がして、ドアにノックがあった。克彦はびくっとしてドアに目を向けた。夏実が「どうぞー」と言うと、ドアが開いて、恵梨がおどけた顔を見せた。

「ただいまー」

 克彦は慌てて何か言おうとした。恵梨は弘子を引っ張って自分の前に出し、病室に押し込んだ。

「お届けもの」

 恵梨は笑った。克彦は呆然と弘子を見つめ、それから思い出したように恵梨の顔を見た。恵梨は人差し指を唇の前に立て、弘子にわからないように「しーっ」というジェスチャーをして、それでも不安だったので唇の前で×印を描いてみせた。そして、

「じゃ、私はこれで~」

 と軽くウインクしてドアを出ていった。恵梨が消えると、夏実は、

「あ、私も、ちょっと出かけてこなきゃ。斉藤さん、しばらくアニキを見ててもらっていいですか~? 時間がかかっちゃったらすみませんね~」

 と大仰に芝居がかったセリフ回しをして出ていった。夏実はナースステーションで紙とペンを借りて大きく「面会謝絶」と書き、勝手に五〇三号室のドアに貼った。そして、克彦の見舞い客を追い返すためにエレベーター脇のロビーで漫画を読み始めた。

 五〇三号室の中では、夏実がそれだけのことをする間じゅう沈黙が流れていた。

「…弘子さん…」

 克彦は、弘子を前に自分がすべてくずおれていくような気がした。力の抜けた声でなんとか弘子に言葉をかけた。

「あの…、お見舞い、ありがとう…」

 弘子は、この期に及んでまた黙ったままでいる自分を情けなく思った。自分のこの態度が克彦を追い詰めたのだと思い、ドアの側から克彦の近くへパタパタと歩いていった。

「あ、あんまり見ないで。昨日も一昨日もお風呂に入ってないんだよ。ずっと寝てたから」

 克彦は恐縮した。午前中に体を拭いてあってよかったと心から思った。

「あの、体は大丈夫なんですか?」

 弘子はやっと口を開いた。克彦は気まずくうつむいた。

「ゴメン、なんか…心配かけちゃって。大丈夫だよ。毎日栄養の点滴ばっかりされて、だいぶマトモになったよ」

 たしかに、肌荒れやくま、病的なやせ方は少し回復した。風呂に入っていなくても、三日前に顔を合わせるよりはマシだと克彦は思った。

「あの、さっきの人…」

 弘子はゆっくりと口を開いた。克彦はビクビクして弘子の顔色を窺った。

「な、なにか言ってた?」

「ホテルに行ったの、あの人なんですね」

 弘子は落ち着いて言った。克彦は愕然として、うかつな反応はできないぞと思い、視線を落として戦々恐々と弘子の様子を視界の隅で探った。

「ちゃんと、先輩の口から言ってください。あの人と、ホテルに行って、そういうこと」

 弘子は言った。克彦はしばらく逡巡したが、はじめから正直に話すことに決めた。もし恵梨が話したのが弘子をつなぎとめようとしてくれた嘘でも、今自分がしなきゃいけないのは事実をちゃんと弘子に話すことだと思った。

 真剣な表情でめいっぱいの深呼吸をして、克彦は告白をはじめた。

「…俺、昔の彼女と会ったって言ったよね。連絡を取ったわけじゃなくて、偶然再会しただけだけど、その子は、ずっと俺を好きだったって言ってくれたの。言い訳をするつもりはないけど、俺、彼女には別れる時に申し訳ない態度をとっちゃったし、謝りたいこととかもあって…それに、弘子さんに好きって言ってほしくてつらかったから、彼女が好きだって言ってくれたのが本当に嬉しくて。でも、キミが好きだった。それだけは間違いなかったけど…つらくて報われない恋愛より、想ってくれる彼女に応える方がいいのかなって、気持ちが揺れたんだよ。

 さっきの人は大学の先輩で、姉貴みたいな存在でね、そのことを話したら叱られた。そんなの、昔の彼女の気持ちが冷めたら何も残らないでしょって。だから、俺はやっぱり弘子さんが好きだって思って、昔の彼女には『もう会えない』って言ったの。そのすぐ後に弘子さんに会いたかったんだけど…もう夜も遅くて…だからとりあえず、先輩に電話で報告したの、ちゃんと昔の彼女とは別れましたって。それで二人で飲みに行った。深夜だったけど、ホントに、その時はお互いに変な気持ちは全然なかったんだよ」

 克彦は、その後のホテルの話をどこまでしようかと迷って少し間を置いた。でも、正直に話そうと、もうカッコいい自分はやめだと覚悟を決めた。全部ぶつけても弘子がまだそこで話を聞いてくれていたら、初めからやり直してほしいと言おうと思った。

「それで、だいぶ愚痴聞いてもらってね、弘子さんが俺をどう思ってるかわかんないとか、キスもさせてくれないとか、それとか、…まあ、いろいろ、…変なことも聞いてもらって」

 弘子は、その「まあいろいろ」の部分は恵梨に聞いたのでわかっていた。

(私とその、…そういうことをしたいとか、言ってたんですよね?)

 心の中でそう補足して、胸がキュッと締まるような不思議なときめきを感じた。

「実は俺、…恥ずかしい話なんだけど、男としての、そういうの自信がなくて…。あの…まだ俺、誰ともそういうこと、したことないから…。あと、中学の頃に女の人に変なことされたことがあって、女の人全体に対して不信感みたいなものもあって、不安で…」

 あの事件のことはかなり端折った言い方にした。今の二人に必要な話ではない。

「…その…怒らないでね、弘子さんと、ちゃんと…Hできるのかとか、そんな話をしてたの。それで…これもいろいろあって、その、結果的にホテルに行く話になってた。言い訳は全然できない」

 克彦は、恵梨のほうが誘ったという事実を自分の弁護に使うつもりはなかった。一方の弘子は恵梨の告白をもとにこの「いろいろ」も補足して聞くことができた。正直に言えばいいのに…とも思ったが、克彦が恵梨のせいにしなかったことをうれしく思った。

「一つだけ、言い訳をさせてもらえるなら…最後まではしないっていう約束で入ったの。俺、弘子さんと、いきなり、初めてするのが怖かったから…弘子さんとの予行演習…なんて言ったら、嫌われちゃうのかもしれないけど…」

 弘子はほんの少し克彦に視線を送った。腹立たしさもあったが、気持ちは甘くうずいた。

 克彦はその先を、清水の舞台から飛び降りるような気持ちで告白した。

「最後まではしなかったけど、何もしなかったとは言わない。彼女の体には触った。…ゴメン」

 弘子の中で恵梨と克彦の証言がパズルのピースのように入り乱れた。キスはしなかった、Hはできなかった。それから、体には触った。なんとか弘子は理解したつもりになった。でも多分、千分の一くらいしか理解していなくて、でも多分、この時はこれで充分だった。

 克彦は、それでも弘子が逃げないので驚いた。

「…あんまり、驚かないんだね…」

 驚くことすらできないほど呆れているのか、それとも、もう自分に対して何の感情も抱いていないから冷静に聞いているのか…。必死で様子を探っても、弘子は静かに目を伏せていて表情は動かなかった。

「それから、…ちゃんと話してください」

 弘子は、恵梨にだいぶ叩きのめされて変な度胸がついてしまった自分を可笑しく思った。しかも、恵梨と克彦の証言は一致していた。…今のところは、一応。

 なぜ聞いてくれるのか、弘子の気持ちを量りかねたが、克彦は素直に吐き出した。

「俺…、キミとの時のために、絶対に彼女とは最後までしないつもりでいたんだよ。その気持ちは信じて。でも、…男って本当に情けないなって思ったんだけど…、いざとなったらもうどうにもならなくって、最後までいっちゃおうと思ったの。…」

 克彦は咳払いをするふりをして、脳裏に蘇ってきたリアルな感触を振り払った。

「なのに急に『この人は弘子さんじゃない』って思ってね、…これは、言い訳でもなんでもないんだよ。それで…生々しい話で恐縮なんだけど…あの、ダメになっちゃってさ。…あのね、男って、反応が起こるじゃない。…わかる?」

 弘子は恵梨に強烈パンチを見舞われていたので、克彦の言い方はもはや全然問題にならなかった。だから、克彦が表現に困っているのを見て、

「…わかります。あの、海で…教えてくれたじゃないですか」

 と言ってあげた。でもさすがに勇気が要ったので、言い終わって真っ赤になった。克彦もみっともない話を蒸し返されてかなり赤面した。

「うん、そういうことなんだけど…。そうなったら、何もできないわけ。情けないし、みじめだし、女の人には申し訳ないし…」

 克彦は言いながら、抱えた掛け布団をずるずると上に引っ張った。

「それで…信じないかもしれないけど、そこまででやめて、二人でホテル出て、タクシーで帰ってきた。でも、他の人とホテルに行ったし、昔の彼女と会ってたし、それでもう俺はキミといられないって思ったの。キミだって俺のこと許せないだろうし、俺も…好きになってくれないキミを許せないと思ったんだよ。だから終わりにしようって言ったの」

 弘子はやっぱりじっと聞いていた。だから克彦は、心から素直で情けない告白をすることに決めて、下を向いて一気に言った。

「弘子さん、俺、キミのことずいぶん恨んだし、二度と会わないって思ってたのに…やっぱりダメみたい。今更どの面下げてって思うけど、…俺を許してください。もう一度だけチャンスをください。俺、やっぱり弘子さんが好きです。もう迷わないから、少しでも俺のこと好きな気持ちが残っていたら…、側にいてください」

 弘子は表情を緩めかけて、またぐっと頬を引き締めた。

「あの、もうひとつ、訊かないといけないことがあるんですけど…」

 克彦は何でも答えようと思って顔を上げた。

「その…ホテルでは、キスはしたんですか? あ、ホテルでに限らず、私以外の人と、どこかでキスしたり、したんですか?」

 恵梨の言った「心の入口」が自分のものなのか、弘子は気になっていた。問い詰めてはみたものの、自分の質問が恥ずかしくて慌てて窓の方を向いた。

 克彦はもっと厳しい尋問を覚悟していたので拍子抜けした。

「俺、ファーストキスは弘子さんじゃなきゃ嫌だよ。誰とも、絶対、しない」

 無言の弘子の背中から力が抜けたように感じた。克彦は思いを込めて訴えた。

「ねえ、…俺はもうみんな答えたよ。弘子さんの答えを教えてよ。…ダメなら、ダメって言って。許してもらえる条件があるなら何でもする。俺、ストーカーの裁判で負けるまで弘子さんのこと好きでいるから。…だから、答えて」

 弘子の答えを聞くのは怖かった。でも、これで胸の奥にあるすべてを吐き出せたと思えた。

「先輩、今日、誕生日なんですよね」

 弘子は克彦に半分だけ体を向けて、別の話を始めた。

「また、弘子さんは、そうやって逃げるの?」

 克彦が憮然として言い返したので、弘子はくすっとかすかに笑った。

「プレゼントがあるんですけど、受け取ってくれないなら答えません。受け取ってくれたら、その後に答えます」

 途端に克彦の顔が緩んだ。

(プレゼントを用意してたっていうのは…もしかして、弘子さんも初めから、俺とやり直すつもりだったのかな…)

 克彦が期待をこめてもの欲しげに見つめるので、弘子は怒った顔をして、

「目をつぶっててください。それから、掌を揃えて、前に出してください」

 と言った。克彦は「ちょうだい」の姿勢をとって、目をつぶった。

 弘子は深呼吸をした。そして、克彦の掌の上に自分の掌を重ねて体を支え、ベッドの上に乗り出した。

 弘子の唇がそっと近づき、克彦の唇にかすかに触れた。

 克彦は驚いて思わず目を開けた。目を合わせるのを避けるように弘子が抱きついてきた。

「…私も、先輩が好きです…今も…」

 弘子は必死でそれを告げると、突き飛ばすように克彦から離れて窓の方を向いた。素直になるのはとても苦しくて、どうしても克彦のようには言えなかった。

 克彦の声を待っていると、ベッドのきしむ音が聞こえた。弘子は耳を澄ませたが、届いたのは声ではなく、体温だった。背後に克彦が立っているのがわかった。

「ありがとう」

 克彦の声がして、弘子がわずかに振り返った瞬間、克彦の腕が強く弘子を抱き寄せた。克彦の掌が頬に触れ、弘子の唇に熱いものが触れた。弘子からのかすかなキスに対して、克彦からのキスはクラクラするほど情熱的で、熱かった。

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