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第5章 トラブル編 4.ホテル


 それでも依里子との約束の日は訪れる。克彦は寝不足の頭で真夏の待ち合わせ場所に向かった。依里子と待ち合わせるのは夕方からが多く、この日もそうだった。夕暮れの日差しは日中よりまだマシだったが、まともに食らうと倒れてしまいそうだ。克彦は待ち合わせの5分前に来て依里子を待った。

 依里子は時間どおりに来て、克彦がもう来ているので驚いた。克彦は、いつものように依里子のペースになってしまうのを避け、口を開くとすぐ、

「俺、もう、君とは会えないよ」

 と告げた。依里子は凍りつき、そしてゆっくりとうつむいた。

「…そうなの…」

 しばらく沈黙した後、依里子は静かすぎる声で言った。

「家に食事の用意してあるの。…最後の晩餐、食べていってくれないかな。一人じゃ食べきれないよ」

「でも…」

「今日2人で食べようと思って、一生懸命作ったの。一人で何日もかけて食べたら、何日も悲しいから」

 克彦は、また依里子を泣かせることになる自分を悔いた。

「…食事はいただくよ」

 これで、依里子の泣く回数が1回だけでも減ればいいと祈った。2人は依里子のマンションへ向かった。

 依里子がなべを温め返したりして準備している間、克彦はじっと依里子のワンルームマンションの片隅に座っていた。部屋の本棚には心理学関連の本が並び、壁にはカラーチャートが貼ってあった。何冊か「色相心理学」という文字の見える本があった。依里子は大学でこういうことを学んでいるのかと思った。弘子は文学部に進んで現代小説を専攻したいと言っていたな…と思って、克彦は弘子に対しても、依里子に対してもすまない気持ちになった。

 料理は申し分なくうまかった。依里子が忘れたように快活にしゃべったので、克彦も楽しく食事することができた。

「もうちょっとゆっくりしていってよ。私、片付けちゃうから。そしたらお茶いれるね」

 依里子は克彦にテレビのチャンネルを預けてテーブルとキッチンを何度か往復した。克彦は遠慮なくテレビのチャンネルを回し、適当な番組を見ていた。

 克彦は、客観的に見て依里子は意外と素敵な女性なのではないかと思った。顔の出来は多分、平均より上だろう。きゃしゃな手足はちょっと細すぎる気もしたが、世の中の女性たちはこのくらいが美しいと思っているのではないだろうか。背も160センチくらいあって服が綺麗なシルエットを見せている。胸は唯一の欠点かもしれないが、洗濯板ほどではない。大きな黒目は潤んで見えて時折男性を幻惑する。ストレートヘアはシャンプーのCMに出られるくらい綺麗だ。そして、一途でひたむきだった。それから今日知ったことだが、料理も上手かった。

(大丈夫、君なら誰からでも愛されるよ)

 克彦は残酷な言葉を胸に抱いて依里子の背中を見ていた。そして、エプロンをした背中を、

(これが弘子さんだったら…)

 というもっと残酷な気持ちで眺め、テレビの方へ向き直った。

 しばらくして、依里子がお茶をいれてテーブルに戻った。克彦は、まるで依里子の夫ででもあるかのように、一瞥しただけで黙ってお茶を受け取った。弘子といるときよりリラックスしている自分を感じた。けれど、以前弘子も言っていたように、「友達といる方が、気が楽ですよね」ということなのだろう。依里子に対しては何も必死な部分のない自分がいた。

 克彦は気の重い話を始めることにした。依里子に忘れ物を届けなければならない。

「あのさ、別れたときのことなんだけど…」

 依里子は正座して座布団の上にバランスよく乗り、手元のお茶を眺めたまま聞いていた。

「あの時、君の方が別れようって言ってきたよね。でも、俺の中では、もう勝手に終わっちゃってたんだ。あのまま君が連絡してこなくても、そのままになったと思う」

 依里子は静かに、

「…そうなんだ」

 とだけ言った。克彦は話を続けた。

「別れる前の、『どうして何もしてくれないの?』って君が言ったこと…俺、すごく恥ずかしい話だけど…体の関係とか、そこまでいかなくても、そういうものを求められたと思っちゃったの。君も、後でそういう誤解しないでって言ってきたけど、やっぱり俺も男だし、そういう解釈をしてた。そういう時って多分、男は積極的になるところでしょ? …でも俺、その時そうはいかなかったんだ」

 克彦は緊張で深く息を吸った。この話を人にするのは初めてだ。

「…俺、中学生のとき、女の人に、ちょっと…性的なイタズラをされたことがあるんだ」

 依里子は驚いた。克彦の顔を見てはいけない気がしてそのまま手元を見ていた。

「そのことを思い出して、急に嫌になっちゃったんだよ。…誤解だったのにね」

 沈黙が流れた。克彦は昔の不愉快な事件を案外落ち着いて話している自分が意外だった。けれど、弘子を相手に話すならこうはいかないだろう。

「あの時は事件からまだ2年も経ってなかったし…まだ恋愛できる心の状態じゃなかったみたい。だから、結局、自分の心のゆがみっていうか、それで別れたの。そのことを話す機会がなくて…」

 克彦は依里子に向かって小さく頭を下げた。

「もっと親しくなりたいって思ってくれたのは嬉しいし、変な意味に取ったのは俺のほうなのに、なんだか君がいけなかったみたいになっちゃって…傷つけただろうなと思って、謝りたかったんだ。俺に特殊な事情があって、そのせいで、そのまま放ったらかすようにして別れちゃって…本当にゴメン」

 依里子はずっと息を止めていたように静かに大きく息をついた。

「そうだったんだ…。でも、私も、卑怯だった気がするから。手をつないで歩くことに満足しているみたいな顔をして。もっと、腕を組んだり肩を抱かれたりしたかったし、本当は『キスしてほしい』くらい思ってた。Hしたいとかはなかったから、確かに誤解はあったけど…当時の山根くんにつらいことを求めてたのは間違いないと思う」

 高校時代の記憶が古い映画のようにぼやけて、二人の記憶の底で再生される。

「いきなり、全部まとめて『何もしてくれない』って不満言っても、意味わかんないよね。たぶんお互いに、子供だったんだよ。…今ならわかること、たくさんあるもんね…」

「そうだね…」

 克彦は優しく答えて、これで弘子のところへ戻れると思いかけた。それから、もう戻れないかもしれないと思い直した。たったひと言の愛の言葉も与えずに自分を飼い殺してきた弘子を恨めしく思う気持ちが心に根を張っていた。

 ふと、決意をこめた瞳が向けられていることに気づき、克彦はハッとした。

「今なら、私が同じことを言っても大丈夫?」

 依里子は静かに立ち上がって克彦の後ろに回り、そっと克彦の背中を抱いた。

「もうお互い子供じゃないから、誤解はないよね。最後になるなら一度だけ言わせて。どうして、…部屋まで来ても、やっぱり何もしてくれないの?」

 細い腕が切なげに克彦の体を強く抱き寄せた。

「…お願い、思い出でいいから…、一度だけでいいから…」

 克彦の肩をゆっくりと依里子の左手が滑り落ちた。そのまま切ない動きで克彦の左手を探り当て、指を絡めた。

「ずっと好きだったの…。ちゃんとお別れする。思い出だけ、ほしいの」

 ため息のように切なく、依里子の声がこぼれた。

 克彦は依里子の指を握り返した。一度だけと依里子は言った。弘子を待っていても、いつそうできるかわからない。それに、初体験を弘子と迎える自信がない。いつも自分に異常なところがあるんじゃないかと危惧していたから…。

 それなら、と克彦は思った。「一度だけ」の願いを叶えることが依里子への償いでもあるような気がした。

 依里子の腕が緩んだ。克彦は振り返り、何も言わずに胸に依里子の上体を抱え込んだ。そしてゆっくりとカーペットの上に依里子を横たえ、折り重なった。依里子は髪を床に靡かせ、ゆるく目を閉じて待っていた。

 綺麗だ、と克彦は思った。弘子以外の女性に対して、初めて、心から本当に美しいと思った。けれど、とても美しいそのシルエットは別のことを克彦に思わせた。

(…はじめてじゃないんだ…)

 車の中で、南極に放り出された子犬のように必死で震えていた弘子を思い出した。自分の下で同じ姿勢をしているのに、弘子と依里子は別の生き物のように違って見えた。弘子がこんな様子で克彦を待つことは決してない――そう、どんなに好きになってくれたとしても。それは生き物として違う種類だから。

「少女と女は違う生き物」という恵梨の教示が理解できた。依里子の「ずっと好きだった」の間に次の恋があったことを理解した。克彦は冷静さを取り戻していった。

『…先輩は、そういう人だったんですか?』

 弘子の声が聞こえるような気がした。克彦は体を起こし、依里子に背を向けて座った。

「ゴメン」

 依里子は押し倒された姿勢のまま目を開けた。

「俺、…今、つきあってる子がいるんだよ。黙っててゴメン」

 克彦は徹底的に依里子を傷つけ続ける自分に嫌気がさした。関われば関わるほど傷つけてしまう。多分、依里子とはそういうめぐり合わせなのだろう。

 依里子はそのまままた目を閉じて言った。

「うん、知ってた」

 克彦は驚き、少しだけ振り返った。

「知ってたよ。定期入れに写真が入ってるでしょ。ゴメン、二度目に会ったときだったかな…ちらっと見えたから、山根くんが席を立ったスキに、カバンのポケットの定期入れ、こっそり見ちゃった」

 返す言葉がなかった。

「可愛い人だね。峯丘高校の制服着てる。後輩なの?」

 克彦は間を置いて、やっと、

「…そうだよ」

 と答えた。情けなくてどうかしてしまいそうだった。

 依里子はゆっくり起き上がり、少しだけめくれたスカートのすそを直した。克彦はゆっくりと立ち上がり、依里子とはあえて向かい合わない斜めの位置でまた詫びた。

「結局、君を傷つけるばかりでゴメン。…でも、会えてよかったよ。それは本当」

 克彦は静かに最後の言葉を選んだ。

「でも、もう自分の意思では君に会わない。君の意思でも会うわけにいかない。勝手な言い方みたいな気がするけど…」

「ううん、いいの」

 依里子も静かに立ち上がって、克彦の背中に触れない距離でそっと寄り添った。

「彼女いるの知ってたのに、ゴメン。ずっと勝手に思いつめて、急にたくさんのことふっかけちゃうのも、結局あの頃とおんなじだね…。ゴメンね」

 しばらくそのまま時間が過ぎた。そしてゆっくりと、克彦が離れた。

「…帰るね。…今までありがとう」

 克彦は荷物を拾って静かに玄関へ歩き、靴を履き、ドアを開けた。依里子はそのまま立ち尽くしていた。

「元気でね。…さよなら」

 克彦は依里子の顔を見ながらゆっくりとドアを閉めた。

 後は、逃げるようにその場を離れた。一度その気になりかけた興奮が少しだけ体に残っていた。その体の熱さを、心の部分だけでも弘子に受け入れてほしかった。会いたかったが、時刻は22時を回っている。先日夜に押しかけたばかりで、また訪ねるのは憚られた。声だけでも聞きたいが、弘子の家に電話をかけるには遅い。それに今の混乱を抱いた気持ちのままで、冷静ぶって言い訳をして電話を家の人に取り次いでもらう気にもなれない。まるで壁があるみたいに弘子が遠く感じられた。

 克彦は勇也の携帯に電話をかけた。自分のみじめさを、情けなさを、誰かにぶちまけたい。一人になんかなれそうもない。一人で反芻するのはつらすぎる。

 勇也は電話をとらなかった。待っても折り返しかかってくる様子はなく、徒にキーをいじったらすぐ恵梨の名前が出てきた。リストには高崎勇也の次に高田恵梨が入っていた。

 克彦は発信ボタンを押した。しばらくして恵梨の声が電話をとった。

「高田先輩、山根です」

 そう言うとホッとした。大学は依里子のいた高校時代ではなく、現在の居場所だった。

「あれ、珍しいじゃない。なによ。どうしたの」

 恵梨は克彦からのはじめての電話にご機嫌だった。克彦はふっと自嘲して、

「昔の彼女と別れました。それだけ報告しようと思って」

 と言った。

「あ、そう。純愛青年に戻るのね。よかった、もうこれで彼女と大丈夫ね?」

 恵梨の声は克彦への親愛の情に満ちていた。克彦は温かい気持ちになり、しかし問いかけに答えようとして気が塞いだ。

「…大丈夫、ではなさそうです。かなり壊滅的かもしれません…」

「え、なにかやっちゃったの?」

「他の子と会ってたらどうする? なんて言ったら、悟っちゃったみたいで」

 もう信じられないと言った弘子の声が蘇り、克彦はまた途方にくれた。

「バッカねえ。どうしてそんなこと言っちゃうの」

「彼女の気持ち、確かめたくて…。バカな電話してすみませんでした、これから頭冷やします」

「キミ今どこにいるの?」

「えー…と、青山一丁目、ですね。どうやら」

 しばらく間があり、それから恵梨は、

「今から渋谷に出て来ない?」

 と言った。

「え、もう10時過ぎてますけど」

「終電まで飲めるでしょ。タクシーもあるし。キミの分のタクシー代くらい持ってるよ」

「でも、夜中に外出していいんですか?」

「私、一人暮らしよ。モトカノと別れたの祝ってあげるから、出ておいで」

 克彦も誰かと話したかった。自分をコテンパンに責めてくれそうな恵梨と話をするのは、あるいは丁度いいのかもしれないと思った。

 克彦と恵梨は22時半に渋谷で落ち合った。

「すごい時間から遊びに出るんですね」

「大学生ってそんなモンでしょ。ああ、中高生も遊んでるか」

 恵梨は笑った。そのまま二人で歩いていき、駅からやや離れたショットバーに入った。恵梨は座るなり、思いっきりあきれたため息をついた。

「なんで、好きでもなかった昔の彼女なんかに引っかかっちゃったの? バカみたい」

 克彦は自己嫌悪を容赦なく突き刺す言葉を心地よく聞いた。

「いいんですよ、俺、弘子さんに関しては徹底的にバカなんです。弘子さんが俺を好きだって言わないから、他の女の子の好きだって言葉が嬉しくって…」

「しかし、君の彼女も変わってるよね。なんでそんなに引っ張って楽しんでるんだろ。それで逃げられちゃ元も子もないじゃないね」

「それなんですけど、俺、ずっと彼女が俺を好きじゃないから言わないんだって思ってたんですよ。でも、最近他の可能性もあることに気がついたんです」

「何?」

「自己防衛、なんじゃないですか。女の子として、男から身を守ろうっていう…」

「あら。別に守んなくたっていいのにね。好きな人なら」

「いや、結婚するまで純潔を守るとか言い出しても不思議じゃない子ですから…」

 克彦はひとしきり弘子がどういう子なのかを語った。それは説明というより、克彦の愛情の吐露にしか聞こえなかった。恵梨は克彦の感情を見るにつけ、納得いかなかった。

「あのさあ、…そんなに好きなのに、山根くんはなんで他の女に手を出したの?」

「うーん、その辺は、淋しかったというか…いや、それよりも、正しくは前の彼女に対する後ろめたさかな…うーん、俺のトラウマから話さなきゃならないんですけど。俺と前の彼女が別れたきっかけが、彼女が『どうして何もしてくれないの?』って言ったことで…」

「なんでそれで別れちゃうかな。山根くん、その頃なんかコッチに問題でもあったの?」

 恵梨はそう言ってテーブルを指した。つまりテーブル越しに下半身を指していた。

「高田先輩、そういう言い方は、あんまり女性がするべきじゃないですよ」

「また、真面目なんだから」

「とにかく、話を聞いてください。当然、俺はその言葉をそーいう意味に取りましたよ。でも、その頃、俺とその彼女は手を握るくらいだったんですよ。プロセスが飛びすぎてると思いませんか?」

「手を握るだけのつもりがそのまま押し倒しちゃった、とかでも別に驚かないけど」

「…俺としては飛んでるんです。で、案の定、彼女はせいぜい『なんで肩を抱いてくれないの?』という程度の話をしていたわけです。でも、俺はそうはとりませんでしたから」

「押し倒して殴られて別れたの?」

「違います。…これは、高田先輩を信用して話すんですから、人に言わないでくださいよ」

「大丈夫よ、私は、友人が男と別れたからって速攻他の男を手引きするような人じゃないから」

 克彦はしばし渋い顔をした。恵梨が先を促した。

「で?」

「…俺、中学のとき、女の人にちょっと…チカンみたいなこと、されたことがあるんです。それで、性的なことがすっごく嫌になっちゃって。だから初めてつきあった子が高校1年生で自分からナニカを求めるなんて、ショックだったんです。相手の子は中学で真面目な優等生だったのに、高校生になって男とつきあったらイキナリそういうことになるのか…って思ったら、すごく恋愛が嫌になっちゃって。でも実は全部俺の勘違いで、俺だけ勝手にHな話になってただけ。でも、それを正直に言って謝るのも恥ずかしすぎるし、関係を必死で修復するほど真剣にもなれないし…だから、俺は、彼女を放っておきました。決着は彼女がつけました。本当に情けないです。そういう申し訳なさを引きずってたんです」

「あっそう。で、彼女はキミに未練タラタラだったわけだ」

「いや、そんなことは…」

「何、いいカッコしてんの。交流試合の時からあっちがベッタベタにくっついてたじゃない。今日までその調子で押し切られてたんでしょ」

「…何でもお見通しですね」

「踏んでる場数が違うわよ。キミみたいなレベルの恋愛は、高校生で済ませました」

 やがて、かなり夜も更けて会話は壊れてきた。

「俺、これから弘子さんとどうしたらいいんだろう」

「有無を言わさず、やっちゃえば」

「そうできたらいいですけど、絶対やらせてくれない」

「それは、意欲が足りないからでしょう」

「意欲はあります。すごくやりたいです。でも、キスもさせてくれない…」

「それは、山根くんがしないからでしょう」

「だって…好きだって言ってくれるまでは待とうって、思ったりするじゃないですか」

「めんどくさいなあ」

 終電の時間は過ぎたが、もうちょっと話していることにした。克彦はそう弱くないつもりだが、ふらふらになった。一方、恵梨はウワバミだった。

 そして克彦は、勢いで、自分が一番悩んでいる部分まで恵梨に話してしまった。男相手には話せそうもなかったが、“場数を踏んでる”お姉さんに話すのは楽だった。

「俺、普通にそうゆうこと、デキるのかすっごい不安なんです」

「てことはやっぱり童貞なのね、山根くんって」

「大切に守ってきたんで」

「むやみに捨てるものでもないからいいよ、経験あるなんて言ってフーゾクだけってのもいるし。で、なんで不安があるの? 立たないの? 小さいの?」

「高田先輩…ホントに、歯に衣着せましょうよ。とにかく、過去の不幸な事件から、つきあってた子相手の性的進展に嫌悪感を覚えてしまったってことは、今の彼女とも、またダメかもしれないじゃないですか」

「なによ、この前、彼女のこと押し倒したんでしょ? その時は?」

「ホントに文字通り『押し倒した』だけで終わってますから。もっと進展したら、そういう嫌悪感みたいなのが出るかもしれないと思うと…怖くて」

「山根くん、今まで他に近い経験はなかったの? 未遂でも、真似事でもなんでも」

 克彦は言っていいものかどうか悩んだ。でも、この際話してしまおうと決意した。

「すみません、元彼女も、今日押し倒してきました」

「えー! 山根くん、暴走してない? なんで別れに行って押し倒してんのよ。まさか、ホントは今日、そっちのコとやってきちゃったんじゃないでしょうね…って、そしたら悩まないか。童貞も卒業だし」

「また我慢しました。俺がかわいそうすぎて、泣けてきます。これで今の彼女とめでたく結ばれる日にトラウマでヘド吐いて悲劇はクライマックスですね。やれないのもつらいし、やれるのも不安。でも好き。でも好きだって言ってもらえない。弘子さん、俺はアナタの何なの? 飼い殺すくらいなら捨ててよ。でも捨てられたら俺、やっぱり死んじゃうけど…」

 克彦は臆面もなく涙声になって愚痴った。恵梨は大げさにあきれてみせた。

「私、山根くんが乱れたの初めて見たわ~」

「今日は絶望的な気分なんです。…これからのことを考えたくない。こうまでして好きでいなきゃいけない理由が全然わかんない。…もう、別れちゃおうかな。つらすぎるから」

 克彦はそう言ってテーブルに伏せた。恵梨は克彦のその様子をクールなまなざしでじっと見ていた。山根克彦はどうしたって魅力的だ。それが恋愛未満のものであっても、好意はどうしても発生する。「親しい異性の友人」の歯車が狂うなんて、よくある話だ。もしも…と考えれば、抱かれてみたいと思わなくもなかった。抱かれる想像に身を委ねるのは生臭くて嫌だ。体のことを考えずにいられた頃に戻りたい。でも、自分はもう戻れないのだと、克彦の綺麗な顔立ちを見ていて恵梨はつくづく思った。

(少女と女は違う生き物なのよ。それは男にはわからないし、少女にもわからないわ)

 恵梨は克彦を揺り起こした。

「ちょっと、寝ないでよ。出よ」

 恵梨はカードでさっさと勘定を済ませ、克彦を肩に抱えるようにして店を出た。

「大丈夫? 山根くん、背高いんだから支えきれないよ、自分で歩いてよね」

 そう言いつつもテニスで鍛えた恵梨の右腕と右肩には力があった。足取りのおぼつかない克彦を支え、一番近くにあったホテルの前になんとかたどりついた。

「ちょっと休んでいく?」

 恵梨の質問に、克彦は重い頭で答えた。

「何言ってるんですか、それはマズイでしょ」

 恵梨は内心、「こういう状態でも、クソ真面目なんだから」と舌打ちをした。

「だって、キミ、相当重いのよ。駅までなんか歩けないわよ、私」

 恵梨は克彦の耳元に唇を寄せて、そっと言った。

「…試してみる?」

 克彦は一生懸命動かない頭でその言葉の意味を考えた。違う意味もあるだろうと考えてみたが、別の意味には受け取れなかった。

「大丈夫よ、最後までやらなきゃいいじゃない。最後の一線は彼女のためにとっておいていいから、山根くんがちゃんとできるかどうか、確かめてみようよ」

 克彦はゆっくりと視線を動かしていって恵梨を見た。恵梨の顔はちょっと上気していたが、これが酒だけの効果でないことはなんとなくわかった。

「でも…俺は、あなたを愛していないですよ…」

 克彦は回らない頭でなんとかそれだけを搾り出した。自分の体は重すぎてすぐにでもベッドに倒れ込みたいし、自分が女性を抱けるのかどうか確かめたい。場数を踏んでるお姉さん。もしかしなくても、これはとんでもないチャンス。克彦は恵梨が「それでもいい」と言ってくれるのを待った。愛はないと言っておけば自分の責任ではない気がして…

「そういうガッカリするようなこと、言わないでくれる?」

 恵梨は口をとがらせ、克彦を支えていた肩を外した。

「自分で歩いてよね。恥ずかしいじゃない」

 2人はホテルの入口をくぐった。

 克彦は「これは治療なんだ」と自分に言い聞かせた。初体験は弘子としたい。けれど、もしもその時にできなかったらと思うと怖い。恵梨は「最後の一線は彼女のためにとっておいて」と言ってくれた。途中までできればいい。そうすれば、長い間苛まれていた悩みからきっと解放される。

「こういうとこ、初めて?」

 部屋に入って恵梨は訊いた。克彦はうなずいた。

「そりゃあそうか」

 恵梨は「シャワー浴びるね」と言って浴室へ消えた。克彦は冷蔵庫が自動販売機になっているのを見て、小銭を入れてスポーツドリンクを買った。

(弘子さん、俺、何やってるんだろうね。ダメになっちゃうのかもしれないね、俺たち…)

 弘子と海に行ってから、克彦はずっと弘子を求めて苦しかった。恵梨が「欲求不満じゃないの?」と言ったのは図星だった。「好き」と言わない弘子に自分の想いだけで手を出すことなどできなくて苦悶した。依里子と再会したのはそんな時だった。弘子を抱きたくてたまらない自分を忘れたかった。

 願いがかなう日のことを考えるといつも不安に苛まれた。弘子と結ばれる歓びを、あの日の嫌悪感が叩き潰してしまうんじゃないか…。自分はどうでも仕方ないが、弘子の大切な初体験を壊して心を傷つけてしまうのが怖かった。

 弘子と別れ、依里子とつきあって…そうしたらもっと楽になれそうな気がした。弘子よりも確実に、しかも優位に恋愛のプロセスを進められそうで、…そして、もしかして自分が性的な問題を抱えていたとしても、弘子を傷つけることに比べたら罪悪感ははるかに軽く済みそうだった。それは醜いことだと自覚はしていたが、自分への不安がそれに勝った。依里子を押し倒したとき、心の奥で「試せる」と思った。抱ければ、いつか同じようにして弘子を抱けると思った。けれど、踏み越えたら弘子との未来はないことも知っていた。結局、弘子を選んだ。

 なのに恵梨とこんなところに来てしまった。おそらく、このどうしようもない性的不安は、弘子でない誰かと解消しなければならないものなのだろう。だから、克彦はもう、案外落ち着いていた。弘子だと思って恵梨に触れようと思った。恵梨はそれでいいと言った。勇也には黙っていればいいだろう。酒の上の事故だ。そういえばこのタイミングで勇也から折り返しの電話がかかってきたら困る。克彦は携帯電話の電源を切った。

 シャワーの音が止み、恵梨がタオル一枚の格好で出てきた。克彦はいささか慌てた。

「シャワー浴びてきなよ」

 恵梨は言い、なんだか悲しい気分になった。克彦を体で感じたいと思うこと、そのために克彦の事情を言い訳に使うことが虚しい。体が先行してしまうのは堕落かもしれない。けれどもう、既成事実は形をなしはじめている。

 克彦はぬるい温度でシャワーを浴び、慣れてから水にかえた。頭をはっきりさせたかった。なんでこんなことになったんだろう…と、水をかぶりながら思った。

(もしも、今日これから…うまくいったらどうするんだろう?)

 このまま女性の体に溺れてしまったら…。流れる水が体を冷やしても、頭は冷えなかった。けれど、克彦はいろんな考えをすべて捨てた。男の人生には、こんな風に根拠もなく女性と関係するような事件が起こるものだと割り切った。ずっと格好をつけて生きてきた。一晩くらいかなぐり捨ててもいいだろう。

 克彦は浴室を出た。もう充分に言い訳は用意した。あとは身を委ねるだけだった。

(…弘子さん…)

 心は最後にひと声だけ、泣いた。

 克彦はベッドに腰掛ける恵梨の隣に並んで座り、裸の肩に腕を回した。恵梨は克彦に唇を近づけた。克彦の唇は恵梨の唇ではなく、首筋に落ちた。克彦の手が恵梨のバスタオルを払った。2人はベッドに倒れ込んだ。

 克彦は、自分が欲情に流されていくのを快く感じていた。嫌悪感は起こらなかった。むしろ自分の認識の甘さと戦っていた。最後の一線を越えないなんてできそうもない。耐えても切なさは増すだけだ。弘子と依里子に対して止めきれたことで、恵梨に対しても同じように中断できると思っていたが、それは間違いだった。踏み越えてから立ち止まるのは難しい。踏み越える前なら何度でも立ち止まれたが…。

 恵梨は、男が前戯だけで満足できるはずなんかないと知っていた。克彦がはじめてなのをいいことに、罠を張っただけだった。

「…つらかったら、最後までしてもいいよ…」

 恵梨の声に克彦は夢中で首を横に振ったが、その強い意志をほどくように、恵梨は克彦を導いた。大人の女にかかればひとたまりもなかった。流されて、最後のラインを越えようとした――瞬間、克彦が長く恐れていたのとは違う地雷が爆ぜた。

(…どうして弘子さんじゃないの?)

 何かで思いっきり頭を殴られたように現実が落ちてきた。この先に進んだら弘子とは永遠にお別れだという緊急信号が命がけでわめき散らす。克彦は目を開けた。恵梨も異変に気づいて目を開け、克彦の顔をじっと見つめた。

「山根くん? …まさか、出ちゃったの? トラウマ…」

 克彦は、そうだと言って逃れようかと思った。その方が恵梨を傷つけない気がした。

「すみません」

 克彦はそう言って恵梨の上から降り、ベッドの縁に腰掛けて頭を抱え、うずくまった。

(俺、何やってるの? 弘子さんじゃないのに。この人は、弘子さんじゃないのに…)

「ねえ、大丈夫?」

 恵梨が起き上がるのがベッドの沈みでわかった。克彦は振り返れなかった。

「大丈夫? ダメだった? かえってマズかった?」

 恵梨は克彦の心の傷をえぐってしまったかと狼狽した。克彦は少し落ち着いて、やっと恵梨に言葉をかけられるようになると、まずは心配をほどいてあげたくて、結局は正直に気持ちを言った。

「…すみません。トラウマは大丈夫です。それは大丈夫でした、でも…やっぱり、彼女以外の人とそこまで、できなくて…」

 恵梨はしばらく呆然として、それから自虐的に笑った。不思議な安堵がこみあげた。

「ホントに、すみません、…俺、…」

 克彦は後悔した。結局こうなるなら来るべきじゃなかった。結果的に恵梨に恥をかかせてしまった。やがて、この後にはもっと過酷な弘子への罪の意識が訪れるのだろう。

 恵梨はバスタオルを拾ってまとい、克彦の隣に座った。そして優しく肩を抱いた。

「だったら、いいじゃない。大丈夫だったんでしょ。それを確かめに来たんだから。あとは彼女と本番勝負で、大丈夫よ」

「でも、カレシでもない男とこういうの…させちゃってすみません。それも…できないとか、なんか、それも失礼だし…」

 恵梨は克彦の肩に回した手で背中をたたき、可笑しくなって、笑った。

「ゴメン、山根くん。謝るのは私の方だよ」

 克彦はうなだれていた顔を上げた。

「私だって、キミのための慈善事業でなんか、こんなとこ来ないわよ。私が、山根くんとしたかったのよ。変な女だと思わないでね。キミはやっぱ、女性を惹きつけるものがあるのよ。正直、酔ったらちょっと欲情しちゃった。どうせ世間にはロクな男もいないってふてくされてたし、山根くんが彼女との関係にそこまで悩んでるんだったら、寝取って、しばらく恋人やってもいいかな~なんて思って」

 自分自身を哀しく笑って、それから恵梨は克彦をからかうようなまなざしで見つめた。

「だから、気にされたら、困っちゃうなあ。山根くんが彼女のことが好きでできなかったっていうんだったら、それはそれで私は別にいいよ」

「でも…」

 克彦は戸惑った。恵梨は困った顔をした。

「もしかして、私が山根くんを愛してて、身を引くためにお芝居してるとでも思ってる? それか、私が一世一代の覚悟でキミとホテルに入ったとでも思ってる? オトナのオンナにはこういうの、そんなすごいことでもないのよ。あんまり重大に考えられちゃうとこっちが困る。前に言ったよね、少女と女は違う生き物だって。キミの彼女と違って、女っていう生き物になっちゃったら、ちょっとステキな男が相手だと、抱かれたいと思うことだってあるのよ」

 克彦は、「少女と女の違い」という恵梨の言葉をあらためて反芻した。少女はそれを求めない。でも、女なら、求めることもある。

「酔った勢いってことで、忘れた方がいいわよ。キミにとって、今日のコレってやっぱり必要なプロセスだったと思うし、彼女に対して悪いと思う必要はないと思うよ。秘密にさえしてあげれば。キミが彼女を大切にしたいって思ってたからこそ、ここに来ちゃったんだし。…だって、意味はあったじゃない。大丈夫、だったんでしょ?」

 克彦はうなずいた。女性への嫌悪感なんて全然なかった。相手が弘子なら躊躇なくその先へ進めただろう。自分にとって決定的な答えが出たと思えた。

 恵梨は立ち上がって、浴室のドアに手をかけて克彦を振り返った。

「じゃあいいじゃない。私も、正直、悪くなかったし…途中なのは困るけど」

 克彦は赤面して下を向いた。恵梨は克彦の反応を面白がって笑い、浴室に消えた。

 ホテルの部屋で、克彦は一人になって考えた。

(弘子さんには、このことは黙っておこう…)

 恵梨の言ったとおり、これは自分にとって必要なプロセスだったような気がした。ここに来なければいつまでも自分の過去が怖かった。治療と割り切ることはできるだろう。むしろ依里子のことが自分自身でわだかまっていた。弘子は今も疑っているだろうし、「恋愛を意識して他の女性と会っていた」のは間違いない。弘子はもう傷ついている。今の自分が弘子に愛情を求めるのは卑怯だと思った。

 恵梨が浴室を出て「汗、流したら?」と言った。克彦は「スミマセン」と軽く会釈をして、入れ替わりに浴室へ入った。

 ホテルを出た2人はタクシー乗り場に向かった。

「どんなに遅くなってもちゃんと帰宅すると何事もなかった気分になるし、反対に、何もしてないのに朝帰りするとまずい気分になるから、まっすぐ帰ってね」

 恵梨が言い、克彦はうなずいた。

「今日のこと、なんかあったみたいな顔しないでよ。もし私の顔見て変な顔したら、『ホテル行ったら不能だった』ってウワサ流しちゃうからね。ちゃんと彼女と上手くやってね」

 恵梨はそう言い残し、タクシーに乗り込んだ。遠ざかるタクシーを見つめながら、克彦は淋しい笑顔になった。

(…彼女ともう、上手くはいかせられないと思います…俺自身が…)

 自分のことも許せなかったし、弘子のこともどこかで許せない気がした。好きだからこそ、弘子と傷だらけのボロボロの関係を続けていくのは嫌だった。

 克彦は真夜中に物音を立てないように家に帰り、倒れ込んで泥のように眠った。


 弘子は、それまでと変わらぬ様子でかかってきた克彦からの電話で呼び出され、日曜日の待ち合わせに向かった。

(…この前のこと、…どうなんだろう…)

 弘子はずっと悩んでいた。克彦に他の人がいないと信じる根拠はない。何かがあるという証拠を手に入れることはできても、何もないという証拠を手に入れるのは難しい。

 いつものように、克彦は待っていた。弘子がおずおずとたどりつくと、克彦は、

「どこ行こっか」

 と言って笑顔を見せた。今までに弘子が見た克彦の笑顔の中でも一番優しい顔だった。弘子は戸惑いつつ克彦について歩いた。克彦は弘子に手をさしのべなかった。弘子が態度を決めかねてそっと見ると、克彦はポケットに手を入れていた。

(もう、俺の手はキミに触れてはいけない気がするから…)

 恵梨の感触が残る手を弘子に触れさせないために、克彦はそうしていた。子供の頃に「行儀が悪い」と教えられたため、ポケットに手を入れて歩いたことはなかったが、今はそうして弘子を自分の掌から守るしかなかった。

「今日は、弘子さんの行きたいところ、どこにでも行くよ。食べたいものとか、プレゼントしてほしいものがあったら言ってよ」

 克彦は静かに、優しい微笑みを見せて言った。弘子は不安になった。克彦の笑顔は今までと違っていた。言うなれば、優しすぎた。

「…先輩」

 弘子は歩きはじめた克彦を見上げ、真意を訊こうとした。

「何?」

 慈しむような笑顔が振り返った。弘子は気後れして、何も言えなかった。

「…あの、別に、…どこって、考えてこなかったんです。…食べたいものとかも、別に…」

「じゃあ、銀座に行こうか」

 克彦は弘子を銀座のギャラリーに連れていった。以前二人で見たことのある、弘子の好きなイラストレーターの個展がやっていた。

「ネットで調べたらちょうどやってたの。きっと弘子さんが喜ぶと思って…」

 その優しさはいつもどおりのような気がした。ただ、落ち着いた静けさのようなものが克彦を包んでいた。弘子は喜んでみせたが、本当は不安でいっぱいだった。

(もしかして、本当に他に誰かいて、私とは今日でおしまいなのかな…)

 弘子は克彦の背中を見つめた。でも気持ちは読めなかった。

 ギャラリーを出ると、克彦はそこから電車で別のところに向かった。連れていかれたのは以前来たことのある喫茶店だった。

 克彦は、明るい声で大学の授業と試験の話をした。けれど、どこか静かな雰囲気があった。弘子はつきあい始めた頃のように、戸惑い、目を伏せるようにして話を聞いた。

「弘子さんは、受験勉強はどう?」

「…まあ、それなりに…」

「どうするの、いいとこ受けるの? うまくいきそう?」

「入れるところなら、それなりにありそうです…」

 それからひとしきり弘子の受験の話をした。弘子がいい大学に行けそうだと思い、克彦はホッとした。弘子の受験に悪い影響を与えたくなかった。

 喫茶店を出て、駅にたどり着いたとき、弘子は「あれ」と声を出した。克彦の携帯電話で佳美と話をした記憶の残る駅前の風景だった。

「あ、わかった? さっきの喫茶店、キミが俺とつきあうのを最初にOKしてくれたとこ。別のお店になっちゃってたね。…それから、ここがやっと本当にOKしてくれたとこ。懐かしいね」

 克彦は明るく言った。あれから1年もたっていないのに、とても昔の話のように思えた。こみ上げる熱くて悲しい気持ちを悟られないようにと祈った。

「弘子さんの駅まで送るよ」

 帰るなんて言ってないのに、と弘子は思った。どうしたって克彦は普段と違っていた。

 2人は電車に乗った。克彦は電車の中で口を開かなかった。弘子も何も言えなかった。

(やっぱり、他の人がいるから?)

 弘子は克彦を盗み見た。克彦はドアにもたれ、外を見ていた。夕暮れになり始めた日差しが克彦を照らしていた。憂い顔がとても綺麗だった。

(…あの時、私がやっぱり何も言わなかったから?)

 そんな気がした。好きだと言えないまま来てしまったことがいつの間にか克彦を遠ざけたのかもしれない。それならば今日、克彦にちゃんと想いを伝えようと決めた。

 駅に着き、克彦は、

「白鳥を見に行こうか」

 と駅前の公園に弘子を連れて行った。弘子は、克彦が時間を遡っているような気がした。そして、そのまま遡って、他人に戻るのだという気がした。

 ゆっくりと池を散歩した。白鳥は真夏の西日を避け、池のそばの木陰にいた。

「弘子さん」

 克彦は静かに切り出した。

「あのさ、今日で終わりにしようよ」

 弘子は事前の気配もなく投げかけられた言葉に驚き、足を止めた。克彦は弘子を置き去りにして3歩歩き、それから足を止めて振り返った。

(いなくなっちゃいやだ、私、山根先輩のこと、ずっと好きだったのに…)

 弘子は言葉が出なかった。胸の奥でだけ叫び声がこだましていた。

「…なんでですか?」

 言おうと思っていたことがあったはずなのに、弘子は問いかける言葉を口にしていた。

 克彦は静かに目を伏せて話し始めた。

「この前、俺、キミの家で言ったよね。他の人と会ってたらどうするって。…ゴメン、あれ、本当なんだ。昔つきあってた子に偶然再会して、そのまま、何度か会ったんだよ」

 そして克彦は、少し躊躇してから、

「そうやって会ってて、恋愛感情が全然なかったなんて言ったら、嘘だよね」

 と言った。弘子は呆然とした。克彦は弘子に傷ついてほしいと思った。

 弘子はうつろな声で、

「それで…その人のところに、行くんですか?」

 と言った。悪い夢みたいな気がして、柵に手をかけて、やっとその場所に立っていた。

 克彦は小さく首を横に振った。

「それは、誤解しないで。俺、少し心は揺れたけど、やっぱり弘子さんが好きなんだ。それはわかったから、彼女とはもう会わないことにした。だから、二股をかけたとか、そんなこと思わないで。考える時間が必要だっただけ」

「だったら、どうして…」

 その後の言葉は声にならなかった。克彦は答えた。

「…俺、自分がイヤになっちゃったんだよ。自分をこんな奴だなんて思ってなかった。弘子さんだけを見ていられると思ってたのに、他の人と会うなんて…」

(でもそれは、キミのせいだよ…)

 克彦は心でそう付け加えた。

「だから、もう、キミのことはあきらめようと思ってる。他に、好きになれそうな人もいないけど、それはキミに会うまでずっとそうだったし、その頃に戻るだけだと思えばいいから。それに…やっぱり、弘子さんは、俺のことをそう好きじゃないみたいだから。俺、もう、疲れちゃったんだよ」

 克彦は、この期に及んで弘子に言葉を求めている自分に気がついた。本当は好きなんだと言ってほしかった。そして、弘子の唇が動かないのを見て、自分を嘲笑した。

「だから今日で別れよう。俺の方からこんなこと、言う羽目になってゴメン。それから、幸せにしてあげられなくってゴメン」

 弘子はたくさんの言葉がのどに詰まり、息もできずに立っていた。克彦は、弘子がひたすら何も言わないままなのを見ているのが虚しかった。

「…勝手でゴメンね。…じゃあ、俺、帰るから…」

 克彦は、みっともなく泣きだしそうな自分を必死で支えて、弘子に背中を向けた。弘子が背中に何か言葉を投げてくれないかとほんの一瞬だけ待ち、そして重い足を踏み出した。高校時代の依里子の背中が見えた気がした。

(今の弘子さんと同じくらい、俺って残酷だったんだ…)

 そう思ったとたん、背中に何かがぶつかり、腕が回ってきた。克彦は立ちつくした。こんな風に引き留めてくれることを望んでいた。

「先輩、ごめんなさい…」

 弘子の体が震えているのがわかった。

(…泣いてるの?)

 誤解でひと月会わなかった時、弘子が泣いてくれたことを思い出した。決意が揺らぐ。

 弘子は力いっぱい克彦を抱きしめて、ずっと言えなかった言葉を口にした。

「ホントはずっと、私、先輩のこと、好きでした。でも、私が好きになったら、先輩は私に飽きるんじゃないかと思って、怖くて、言えなかったんです。先輩に、いなくなってほしくなかったから、ずっとそばにいてほしいから、好きだって言うのが怖かったんです」

 克彦は弘子の突然の告白に驚き、感激し、それから激しい怒りを覚えた。ずっと好きだったなら、自分があんなに言葉を求めたとき、なぜ何も言ってくれなかったのか。その時素直にたったひと言言ってくれれば、自分は依里子と会わなかったし、恵梨ともあんなことにはならなかった。弘子だけを見つめていられた。それは盲目的な愛情なのかもしれないが、克彦はそれでかまわなかった。いや、むしろそうありたかった。

「他の人と会ってたことは、終わったなら忘れます。だからいなくならないで…」

 弘子の震える腕に、克彦はそっと触れた。その腕を乱暴にふりほどいて去ってしまいたいとも、優しくほどいて抱きしめたいとも思った。

「…でも、もう俺には、キミといる資格はないよ…」

 態度を決めかねて克彦は言った。別れることは必死で決めたはずだった。それなのに、弘子の告白で簡単に揺れる自分に腹が立った。そして、いつだって自分が背を向けるまで素直にならない弘子にも腹が立った。

「私といる資格は、先輩が決めることじゃ、ないじゃないですか…」

 弘子のくぐもった声が震えた。克彦は、その言葉に何より腹を立てた。資格があるというなら、それを告げずにずっと飼い殺してきたのはなぜなんだと思った。

 克彦は、弘子の腕をできるだけ優しくほどいた。

「…じゃあ、キミは許せるっていうの?」

 怒りに震えた声に弘子はたじろいだ。弘子のほうへと振り返った克彦の顔には皮肉な笑いが浮かんでいた。

 克彦は、すべてを壊すつもりで、吐き捨てるように言った。

「俺、他の女の人とホテルに行ったんだよ。もちろん、“そういうこと”をするために行ったんだよ。それでも資格があるの? それでも許せるの? それでも俺のこと好きなの?」

 言い終わって、克彦の表情は皮肉な笑いから悲しい笑顔になった。引き返す道が閉ざされたのを感じ、やっと終われたことに安堵し、やっぱり後悔した。

 弘子は克彦を見上げた姿勢でそのまま立っていたが、その目は何も見ていなかった。克彦は弘子の中で何かが砕け散ったのを確かめるようにその顔をじっと見つめ、そのまま黙って弘子に背中を向けた。

 弘子はその背中を焦点の合わない目でぼんやりと見送り、克彦の姿が視界から消えた頃に池へと向き直った。柵にもたれかかって、克彦が言った言葉を何度も繰り返した。

 涙も出ないまま弘子は呆然と池の水面を見つめ、それからゆっくり、ゆっくり歩いて家に向かった。

 いつか終わるかもしれないと思っていた。けれど、こういう終わり方は考えなかった。

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