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第1章 片想い編 2.片想い


 4月とはいえ、花冷えでまだまだ寒い。彼女たちの高校生活は緩やかなスタートを切っていた。弘子は部活経由でフルートを買った。学校から部に出る補助金があるので、部を通して買うと一部を負担してもらえる。新入部員が三十人を超えるテニス部はラケットもジャージもユニフォームも自腹だったので、佳美とかおりは文句を言った。

 その日は、弘子のフルートが届く日だった。職員室にとりに行くと、顧問の先生は新入生たちに楽器の手入れの仕方などをいろいろ教えてくれた。吹奏楽部の新入生達は職員室の一角で少し長めの楽しいひと時を過ごした。

 職員室を出て皆で帰ろうとすると、渡り廊下で声がした。

「ヒロコー、一緒にかえろーよ、もうすぐ今日終わるからー」

 かおりが手を振っていた。弘子は皆と別れ、そこに残った。

「練習中に、ムダ話をしない!」

 かおりは先輩に注意された。弘子はくすくす笑い、少し離れた花壇の近くにあったベンチに腰を下ろした。

 30分がたち、弘子は読みかけだった本を読み終えてしまった。

(かおりの「もうすぐ」はあてにならないなあ)

 親友二人、坂巻かおりはお調子者で楽天家、池内佳美は真面目なインテリだ。まっすぐで単純ながらあまのじゃくで意地っ張りの、子供みたいな弘子とは三者三様で、いいトリオだった。

 弘子はしばらくぼんやりとテニス部の練習を見ていた。友人たちはタマ拾いでしかなく、退屈していたら、さっき受け取ったフルートを触ってみたくなった。

 弘子はカバンからフルートを出した。真新しいフルートは、決して高級品ではないけれど、使い方もわからない吹き手にはもったいない輝きをみせていた。ほんの少し、吹いてみたい。幸い屋外だし、テニス部の掛け声もにぎやかだし、少しだけ空気を送り込んでみるのなら、騒音にはならないだろう。弘子はそろそろとフルートを口に持っていった。

 フルートが反射させたほんのかすかな光が目に入り、後輩たちの練習を見ていた克彦は顔を上げた。背もたれのないベンチに座っている弘子の後ろには花壇があり、ピンクのチューリップがたくさん植えられていた。ピンクの広がる真ん中でフルートをそろそろと口に運ぶ姿は、夕暮れ近い淡い黄色の日差しに照らされて、絵本のようだった。

(春の妖精…かな、イメージとしては?)

 克彦はそんな風に思った。

(あれ、そういえば、あの子見たことあるな…)

 そう、克彦が思った瞬間だった。

「ピュワーーー!!」

 やかんの口か、盗難防止アラームかというような甲高い音が鳴った。テニス部の練習がその音にびっくりして一斉に止まった。皆、一斉に弘子を見て、そのまましばらく空白の時間が過ぎた。

 弘子は適当に吹いてみたのだが、音が出なかったのでもうちょっと強めに吹いてみた。でも音が出なかったから、もっと深呼吸して、それでも口をあまり開けないように控えめにしたつもりで思いっきり強く吹いてみたら、そんな音が出てしまった。

 立ち尽くすテニス部員の中で、佳美とかおりだけが肩を震わせ、うずくまって笑っていた。弘子は顔を真っ赤にしてすっくと立ち上がり、大きな声で、

「…失礼しました!」

 と言ってお辞儀をした。それから勢いよくベンチに座りなおし、フルートをもりもり片付けた。

 弘子は赤い顔のまま平静を装って、読み終えたばかりの本を取り出し、適当なページを開いてまた読み始めた。逃げ帰りたいほど恥ずかしかったが、ここで逃げるのはもっとみっともない気がして、頭に入らないまま活字を追い続けた。部員たちは何事もなかったように練習を再開した。佳美とかおりもタマ拾いに復帰した。

 ただ一人、克彦だけが呆然と弘子のことを見ていた。弘子の奏でた音、その失敗したおかしな音が、彼の心に春の訪れを告げていた。


(何が気に入った、と訊かれても困るんだけど…)

 克彦は自分と会話しながらぼんやりと帰りの電車に揺られていた。女の子たちがすべて画一的なモノクロの存在だったはずなのに、花壇の側で座っていた彼女には色がついて見えた。春のやわらかい日差し、夕暮れ近い時刻の淡い黄色に花壇の周りの新緑の黄緑、それから日差しで少し黄色味がかって見えるピンク色のチューリップ、そして風が彼女の黒い髪をかすかに揺らして、その空間をフルートの金色がきらりと横切る。それから、真っ赤になってお辞儀をしたときの、怒ったような顔。慌てたように、八つ当たりするようにフルートを片付けるしぐさ。そして何事もなかったようなふりをして必死の形相で本を読んでいた表情。

 自分でもよくわからない衝動に突き動かされ、克彦はベンチのフルート少女のことを延々と思い出していた。背の小さい、平凡な子。なんでもない普通の子。自分でわかっているのは、自分が、初めての感覚に戸惑っていることだけ。

 彼女の名前はなんだろう?

 たしか一年生の誰かが彼女に声をかけていた。だから一年生だろう。テニス部の新入生の友達で、フルートを持っていたのだから吹奏楽部だ。

 1年の、何組だろう? どこに住んでいるんだろう?

 中学校はどこだったんだろう? 同じ中学だったりするだろうか?

 克彦は、まだ名前もわからない彼女のことを延々と考えつづけた。彼女の名前は…

(春の妖精?)

 自分で考えて、苦笑した。

 なぜか落ち着かなくて、いても立ってもいられない気がした。焦りに似たもどかしい気持ち。部活が終わったとき、何で声をかけなかったのだろう。いや、自分はそんなに簡単に女の子に声をかけるようなタイプではない。でも、なにかひと言くらい、かけられたんじゃないか?

 そしてこのとき、ちょっとだけ、克彦は思った。

(だけど、俺なら、他の男よりはもうちょっと、可能性あるよね?)


 その翌日から、克彦は休み時間に校舎を歩き回る人になった。休み時間ごとにやるとあまりに不自然なので、なるべく間隔はあけたつもりだが、友人の一人はすぐに異変に気がついた。

「おまえ、休み時間、何やってんの?」

「え、べつに、外の空気吸いに行ったりしてるだけだけど」

 克彦は何食わぬ顔で答えたが、高校1年からずっと親友格を担ってきた友人の八坂和宣はそう簡単に引き下がらなかった。

「おまえ、周りの女どもがうるさいって、教室出るの嫌ってたじゃん」

「そんなこと、言ったかな」

 歩いているだけで注目されたり、恋のアプローチをかけられたりするのは、けっこううっとうしいものだ。人目に触れることを好まないはずの克彦が積極的に廊下をウロウロしているなんて、大幅な路線の変更だった。

「そんな言い方はしないけど、遠回しにそう言ってたよ。でも、ここんとこ、いっつもいなくなってないか?」

「気のせいだと思うけどなあ」

 和宣は「ふーん」と聞き流すふりをして、克彦のしらばっくれた顔を横目でちらりと見ると、いずれシッポをつかんでやろうとかすかに笑った。

 克彦は、必死の努力のかいあって何度か遠目に弘子を見つけられたが、ただ通り過ぎるのを視線で追うだけで、何らかの情報を得ることはできなかった。しかも、もしクラスがわかったとしても、唐突に話しかけに行くわけにもいかない。吹奏楽部をのぞきに行くのもおかしいし、廊下で突然呼び止める勇気もない。

(チャンスどころかきっかけもない自分に、いったいどういう可能性があるんだろう?)

 あきらめようとか忘れようとか、消極的な結論に向かおうとすると苦しくなった。そして、これまで恋をしてくれた女の子たちの気持ちを思い、必死で想いを伝えようとしていた小岩依里子を思い出して、胸が痛んだ。


 あとはテニス部の後輩が頼みの綱だった。しかし出会った日以来、彼女がテニスコート脇のベンチに座って友達を待つことはなかった。

 5月の下旬に3年生の出る最後の大会がある。克彦は当然のように選手に選ばれた。練習には異様に力が入った。最後の大会だから全力を尽くしたい。でも、それだけではきっとこんなには頑張れない…そんな不思議な力を克彦は感じていた。

(地区大会で優勝して、全国大会に出て、学校の話題になれば、彼女は俺の存在に気付いてくれるかな…?)

 あるいは彼女がテニス部の友達に会いに来るかもしれない、ここを通りかかるかもしれない…そう思うと、自分の中から不思議な、何かいたたまれないような熱さのエネルギーが湧き上がった。

 地区大会まで一週間をきったとき、克彦は少しだけ行動を起こした。大会に部員として入れるのは選手と補欠、マネージャーや顧問に限られ、他の部員は一般の観客席に席を取る。テニス部では、(特に春は)部員が多いため「来場して応援すること。大会の後の全員ミーティングには出ること」だけが決まりで、大会の日の大半は自由行動になる。だから克彦は、1年生の女の子たちに、

「なるべく大勢で応援に来てよ、友達とかも誘って」

 と言って回った。できることは何でもやってみたかった。

 克彦は、祈るような気持ちで当日を待った。


「ヒロコも行かない? テニスの試合」

「ええ! 冗談でしょう!!」

 テニス部の佳美とかおりは、見事に克彦の思惑どおり、弘子を誘っていた。しかし、弘子はフルートでテニス部の注目を浴びてから、テニス部恐怖症になっていた。

「絶対に嫌だよ! 私、あの時のフルート女だとか思われたらやだよー」

「みんな覚えてないよ、ヒロコ自意識過剰だよー」

 テニス部の2人は、“かっこいい先輩”に言われたから弘子を誘ったわけでは決してなかった。弘子は気にしていなかったが、佳美とかおりは弘子と少しずつ離れていくような気がしていた。高校で部活が違うと生活時間がずれて、放課後一緒に過ごす機会がなくなっていく。それぞれ別々に部活の友人ができていく。仲良し3人組だったはずが、最近では弘子とだけ、物理的な距離ができていた。

「だって、最近あんまり3人で一緒っていう日、ないじゃん」

 佳美が少し神妙に言った。その語調で、弘子はやっと友人たちの心中を察した。

「…どうしても、行かないとダメ?」

「来ないとダメ」

 かおりが嬉しそうに言った。

「えー、でも、部外者っていてもいいの?」

「部員が行かないのはまずいけど、部員以外が来るのはいいの。試合も3人で一緒に見られるよ。一緒に行こうよ」

 こうして、克彦の魂胆は見事に成功した。


 大会の日、克彦は選手なので朝早くから集合していたが、選手以外の部員がやってくる時刻が近くなると、「外を走ってきたい」と言いだした。「私も一緒に」と声を上げた女子部員もいたが、「一人で集中したい」と言いくるめて逃げた。

 大会は郊外の運動公園で行われる。四面テニスコートに二千人ほどが収容できる客席を備えていて、簡素なものだが照明施設もあり、夕方過ぎくらいまではプレイできる。

 克彦は会場の外周を走り始めた。駅から運動公園まではまっすぐな道で、テニス場はその延長線上にあるから、一方向に遠くまで気を配っていれば来る人の姿を見逃すことはないだろう。見えすいているな、と思って克彦は苦笑した。

 一人で走っていると、その間に何人もの“観客席部員”がやってきて、「山根センパーイ、がんばってくださーい」と声をかけていった。克彦は一人一人に笑顔で会釈して応えた。

 ウォーミングアップの度をやや超すくらい、克彦は走った。それから走るのはあきらめて見晴らしのいい場所に軽く腰をかけ、休憩するふりをして道をずっと眺めていた。じっとしていると開会式の時刻が気になってきた。まだ少し時間はあるはずだが、勝手な行動をしている自覚があって気持ちは急いた。

 その時、まっすぐ伸びるアスファルトの広い道の先に、3人の女の子が見えた。

 2人は明らかに今年の新入部員、そして、もう1人は…?

「山根くん、そろそろミーティングやるから、戻ってきなって」

 急に後ろから声をかけられ、克彦は心臓が飛び出るほど驚いた。

「川上さんか、びっくりした」

 3年生、女子ダブルス選手の川上京子が立っていた。

「ああ、今行くよ。もうちょっと休ませて」

「えー、せっかく呼びに来たのに。戻ろうよ」

 京子は克彦をせっついた。

(邪魔しないでよ、もしかしたら彼女が来るかもしれないとこまでがんばったのに…)

 克彦は京子に腹を立て、そんな自分に驚いた。たかだか好きな女の子が通る可能性がほんのわずかにあるだけで、なんてひどい自分勝手をするんだろう。

「あれー? 川上センパーイ」

 かおりが遠くから大声で京子に声をかけた。京子が振り返るとかおりが駆け寄ってきた。そして克彦に気がついて、嬉しそうな声になった。

「あれっ、山根先輩も。開会式、何時でしたっけ? 大丈夫なんですか?」

「9時開会。あと20分あるけど、山根くんが単独行動してるから呼びに来たの。さ、戻ろ」

 京子は克彦の腕を取り、引っ張った。克彦はなんとか間を持たせようと思い、

「キミは1人で来たの?」

 とかおりに訊いた。かおりは喜色満面で答えた。

「センパイが大勢で見に来てって言ってたから、友達連れてきました。1人だけど」

 克彦の心臓が、ドキリと強く波打った。

(…あの日、テニスコートで彼女を呼び止めたのは、この声じゃなかったっけ?)

「ちょーっとー、遅いよ佳美、ヒロコ~」

 かおりは振り返って、後ろから来る二人を大声で呼んだ。

「川上先輩、山根先輩、おはようございまーす。頑張ってくださいね」

 小走りに近寄ってきたのは佳美だった。京子と佳美に隠れて後から来るもう一人が見えなかったので、克彦は立ち上がった。

 佳美の頭の向こうに、弘子がてくてくと歩いてくるのが見えた。その瞬間、克彦は心臓が止まるような衝撃を味わった。

 弘子は淡い緑のパーカーにジーンズの他愛ないいでたちで、長い髪をポニーテールの高さでひとつにくくり、お弁当の入ったバッグを下げていた。克彦は凝視していてはおかしいと思い、慌てて目をそらした。

「ありがとう、頑張るね」

 克彦は後輩たちに取り急ぎ声をかけ、今気づいたようなふりをして弘子のほうを見て、

「…あ、わざわざ、見に来てくれた子?」

 と訊いた。平静を装うのがつらいほど心臓が高鳴っていた。

「はい、吹奏楽部の子なんですけど、ムリヤリ連れてきました。斉藤といいます」

 佳美がそう紹介し終わった時、弘子が丁度群れのそばに到着した。そして2人の先輩に「あ、どうも…」とお辞儀をした。

(彼女、サイトウさんっていうんだ。下の名前は…さっき、なんて呼ばれてたっけ?)

 克彦が弘子をぼうっと見ていると、かおりがけらけら笑いながら言った。

「この子、花壇のとこで、ものすごいフルート吹いてテニス部を笑いの渦に巻き込んだ子ですよ~」

 弘子は真っ赤になって、かおりめがけてバッグを振り上げた。

「その話は出さないって言ったじゃない! ウソツキ!」

 それから弘子は慌てて先輩2人に向き直り、

「あの、その節は、もう、ホントにご迷惑を…」

 とごにょごにょ言い、深々とお辞儀をした。京子は、

「あー、あの時の子! また、フルート持って遊びに来てよ!」

 と大ウケした。克彦は、まだ「彼女の下の名前…」と思ってぼうっと待っていた。

「時間、いいんですか?」

 佳美が時計を見ながら心配して言った。すると、京子が、

「あっ、そうだよ山根くん。行くよ! じゃあ、佳美、かおり、それと…なにちゃん?」

 と訊いた。克彦はハッとした。京子は後輩全員を下の名前で呼んでいる。

「あ、ヒロコです」

 佳美とかおりは弘子を指して同時に言った。京子はにっこりして、

「それとヒロコちゃんか、3人とも今日はありがとうね。頑張るから」

 と言った。3人は京子に向かって、同時に、

「はい、頑張ってくださーい」

 と言った。克彦は今聞いた弘子の名前を忘れないよう必死に脳に記銘しつつも、尻馬に乗って、

「あ、俺は、俺は?」

 と言ってみた。テニス部の2人は、普段クールな克彦がちょっとおちゃらけた言い方をしたのでいささか不思議に思ったが、即座に、

「山根先輩も、頑張ってくださーい」

 と笑顔で言った。弘子は出遅れ、戸惑いながら、

「あ、頑張ってください」

 と言ってお辞儀をした。

 克彦はそのまま京子に連れて行かれ、さりげなく二度、弘子を振り返った。そして、「サイトウヒロコ」と声に出さずにつぶやいた。

(頑張ってくださいだって。頑張ってくださいって、ちゃんと、俺に…)

 克彦は、しばらく余韻を楽しんだ後、恩人の京子に、

「川上さん、がんばろうねー」

 と満面の笑みで言った。

「山根くん、今日、朝から変だよ」

 京子はいぶかしげに克彦を見て、彼の腕を引っ張る両手に力をこめた。

(言われなくたって、頑張るよ。山根くんと一緒に出られる最後のチャンスだもんね)


 所詮は高校の地区大会、会場はすいていた。佳美とかおりは特定のコートそばの客席を目指してまっしぐらに進んだ。

「あ、なに? ウチの学校、コート決まってるの?」

 追いかけながら弘子は訊いた。

「男子シングルスがこっちなの」

「え?」

「山根先輩の試合、いい場所から見なくっちゃ!」

 弘子は絶句し、「女の先輩にも、ガンバレって言ってなかったっけ」と呆れ返った。2人は程よいポジションを選び、座った。弘子も仕方がないからそこに座った。客席は椅子ではなく長いベンチになっていた。

「ねー、弘子も、山根先輩、かっこいいと思わない?」

 かおりが訊いてきた。弘子は顔色ひとつかえずに「うん、かっこいいね」と答えた。

「ヒロコ、全然そう思ってなーい」

 佳美が弘子の顔をのぞきこんで言った。弘子は涼しげに、

「いや? ホントにそう思うよ。かっこいいよ」

 と言い返した。

「…沢井のこと、まだ気にしてるの?」

 かおりがニヤニヤして言った。弘子はため息をついた。

「あのねえ、もうそんな過去は忘れました。でも、この情けなくてバカな私が金輪際騙されることがないように、もてる男は排除することに決めたの。だから、山根先輩って人は充分かっこいいと思うんだけど、私とは関係ないし、ずっと関係ないままでいたいの。せっかく他人なのに」

「関係なくたって、観賞用よ、観賞用!」

「他人でいようと努力しなきゃ…みたいに思ってるヒロコのほうが、よっぽど『可能性ある』と思ってるよねー」

 弘子はぎくりとした。理屈ではそういうことになるのかもしれない。

 説明会のようなあっさりとした開会式のあと、第一試合はいきなり克彦の登場だった。

「きゃー、やまねせんぱぁーい」

 佳美とかおりは黄色い声をあげ、克彦は、珍しく…というよりはじめて、観客席に向けて手を振った。

「いやーん、手ふってくれたあー」

 2人は感激した。克彦が本当は誰に対して手を振ったかなど、知る由もなかった。

 川上京子は、コート脇の控えエリアで自分の試合を待ちながら、克彦の態度に眉をひそめた。

(なに、手なんかふってんの。朝から落ち着かないし、変だよ。…誰か特別な子が応援に来てるの…?)

 京子は観客席を見た。新入生の女子はみんな男子シングルスのコートに陣取っている。

(あいつら、ミエミエじゃない。ホント、春はユーウツ…)

 ひとしきり見渡したが客席に手がかりはなく、京子は無理やり不安を飲み込んだ。

 克彦はいきなりサーブをフォルトで始めてしまった。手堅いサーブを中心に、基本に忠実なプレイをする克彦の思いがけない失敗に、部員たちは「あれっ」と驚いた。

「山根、アガってんのか~」

 克彦をリラックスさせようと男子ダブルスの選手がヤジった。

(…よく見えるところに陣取ってくれたなあ…)

 克彦はひどく緊張していた。佳美とかおりが克彦の顔のよく見える位置に座ったせいで、弘子が真正面に見えている。あぶなくブレイクされそうなところを、なんとかほうほうの体で1ゲームめをキープした。コーチが克彦を思いっきりにらんでいるのが見えた。

 テニスに青春を賭けてきたわけではないが、それでもやっぱり高校時代にずっと打ち込んできたものにはちがいない。最後の大会、結果はどうあれ「よくやった」と、自分に対しても――そして彼女に対しても誇りたい。克彦はボールの黄色だけを見ることに決めた。

 2ゲームめからはいつもの克彦に戻ることができた。心の中に常に雑念はあったが、それは、あと一歩を飛び込むことに、もう一瞬早く反応することに、もっと強く打ち返すことに使うパワーに変えた。そして、1ゲームごとの20秒ずつの合間に、一瞬だけ弘子の方を盗み見ることをご褒美にした。

 テニス部のエースが揺れる心を抱えて試合に臨んでいることなどまったく知らない弘子は、あくまでも「ウチの学校」を応援しながら試合を見ていた。だからもちろん克彦がスマッシュを決めれば喜び、サーブを決めれば拍手し、相手に点が入ればガッカリした。ただ弘子も、閉じた心が時々ドキッと弾むほど克彦が輝いて見えることは否めなかった。

(…こうして、女の子は次々不幸になっていくのだわ)

 弘子は横で黄色い声をあげっぱなしの2人をちらりと見て、ふうとため息をついた。


 大会1日目、峯丘高校は3時に男子ダブルスが終わり、その日はそれが最後の試合だったのでそのままミーティングをして解散になった。男子ダブルス、女子シングルスが2回戦敗退。女子ダブルス、克彦の男子シングルスは勝ち残っていた。弘子はミーティングの間、近くの無料休憩コーナーで佳美とかおりを待って一緒に帰り、三日間とも三人で大会を見に来ることにした。

(サイトウヒロコ…)

 克彦は、選手だけが残ったミーティングの後、やっと一人になった帰り道で、やっとわかった彼女の名前を反芻していた。

(彼女は明日も見に来てくれるだろうか? いや、それは確かめないでおこう。来てくれているものと思おう。決勝まで残って、勝たなくちゃ…)

 優勝は自分自身のために。克彦は勝利への思いを新たにした。


 結果から言うと、克彦は優勝した。前の年に唯一の2年生として出場して準優勝していた以上、まあ順当な結果だった。

 克彦は、優勝が決まった瞬間、その日はじめて観客席を見た。席がかなり埋まっていて、弘子はなかなか見つからなかった。がっかりしかけたその時、客席で見ていたテニス部の新入部員一同から、

「やまねせんぱーい、優勝おめでとうございまーす!」

 という大きな掛け声がかかった。克彦は応えようと右手を挙げた。その群れから一歩離れたところに立って拍手に加わっている弘子が見えた。

 克彦はテニス部の皆に手を振り、最後の3回くらいは弘子に向かって手を振った。

(全国大会の時には、彼女に、個人的に俺を応援するために来てほしいな…)

 そんなことを考えて、克彦は一人で勝手に照れた。

 そのあと、祝勝会と残念会を兼ねて、テニス部は全員で食事会に出かけた。弘子は一人で帰っていった。


 大会が終わると、女子ダブルス地区大会ベスト4のテニス部3年生の川上京子が、克彦に対して積極的なアプローチを開始した。

 克彦は、3年生でたった一人、全国大会出場のために引退せずに残っていた。引退したはずの京子はテニス部に来て個人のマネージャーのように克彦の世話を焼いた。部活のない日でも、廊下で克彦を待って「一緒に帰ろうよ」と声をかけた。

 京子は大会での克彦の態度が気になっていた。克彦は女の子に興味がないと言っていたし、分け隔てなく優しいかわりに必ず適度に他人行儀だった。一人になりたいと言って単独行動をしたこともなかったし、試合で客席に熱心に手を振るなんて絶対になかった。そんな克彦の変化への焦りが、京子を積極的にした。

 和宣が、横目で見上げるように克彦を見て、探るように言った。

「おまえとテニス部の川上がつきあってるって話、聞いたけど、いいの?」

「ああそう。どこで?」

 いちいちそんな噂につきあってはいられない。克彦は面倒そうに聞き返した。

「廊下で、映画に行く約束してたらしいじゃん」

「断ったよ」

「じゃあ、その『映画行こうよ』のとこだけ、誰かが聞いてたんだろ」

「断ったことまで面倒見きれないよ。いいよ別に」

 そう言った瞬間、克彦は凍りついた。

(斉藤さんたち、仲良し3人組はなんて思ってるんだろう?)

 突然落ち込んだ克彦を見て、和宣は確信を持った。

(やっぱこいつ、絶対に、そう思われたくない誰かがいるんだ)


 部活のとき、克彦はなんとか佳美とかおりと3人だけになれるチャンスを探した。そして、「『手伝って』と言って部室に連れていく」という、以前自分が使われたテを使わせてもらった。

 克彦はテニス部の部室で、無理やり見つけた用事を佳美とかおりに頼んだ。

「ここにあるボールの予備、この前いくつか不良品があったから、全部チェックしといてほしいんだ、悪いけど」

(なるほど、恋をすると、こうして変な言い訳で人を呼び出す必要性が発生するわけだ…)

 克彦は苦笑した。これまで多くの女の子たちがあまりに怪しくてあからさまな口実を次々に作り上げてきた理由がやっとわかった。

 それから、嬉々としてボールの硬度を確かめている2人に、できるだけさりげなく、

「あのさー、実は、気になってることがあるんだけど」

 と切り出した。

「なんだか、最近、俺に関してなんかウワサが流れてない?」

 2人は同時に「え」と言ってピタッと手を止めた。沈黙のあと、克彦が、

「…できれば、なんて流れてるか、教えてくれない?」

 とさらに言うと、少しためらう間をおいて、かおりが気まずそうに答えた。

「いや、その、川上先輩とつきあってるらしいって」

 やっぱり、と思って愕然とした後、克彦はここぞとばかりに強く否定した。

「それ、ウソだから! 絶対違うから。違うって、皆に言っといて。お願い」

「…そうなんですか?」

「センパイ、女の子にもてたいから、秘密ですか?」

「もてたくないし、秘密じゃなくて、存在しないことなんだよ。なんなら直接川上さんにも訊いてよ、違うって言うから」

 2人は内心「怖くて訊けるか」と思ったが、克彦が困っていることは理解できた。噂にガッカリもしていたので、表情に出さずに内心で喜んだ。

 克彦はこれまでに、どこの誰とつきあっているとか、女が好きじゃないなら男が好きとか、いろいろな噂を流されていたが、それらのすべてをなんとも思わなかったし、何の対処もしなかった。けれど今は、ほんの少しだって弘子に噂が伝わってほしくはなかった。

 克彦がコートに戻ると、京子が早速声をかけてきた。

「どこ行ってたの?」

 奥様気取りの京子の態度に克彦はついカチンと来た。

(一体、誰のせいでこんな面倒なことになったと思ってるの?)

「…べつに、いいでしょ?」

 克彦がこんな言い方をしたのは初めてだった。京子はたじろいだが、逆に、頭に血が上った。

「だって、全国大会の練習中なのに、そんなぶらぶらしてる時間ないでしょ」

「じゃあ君は受験勉強でもしたら。テニスもしないで、部活に何のために来てるの?」

 克彦は憮然として言った。京子は何を言われたのかを理解して、顔が真っ赤になった。いつだってGentlemanかつGentlyだった克彦のこんなあからさまに冷たい態度は、京子にとって意外だったし、心を傷つける切っ先も鋭かった。

「なによ、人が心配して言ってるのに」

「…周りの皆が、俺と川上さんのことをなんか言ってるの、知ってるでしょ? 俺、そういうの、困るんだよね」

「私に文句、言わないでよ。私だって勝手に言われてるんだから」

「だったら、誤解されるようなことはやめてくれると助かるんだけど」

 克彦はなるべく優しく言おうとしたが、トゲは隠しきれなかった。

「あっそ。悪かったわね」

 ぷいと、京子はコートを出て行った。克彦には後味の悪さが残った。

 次の日から京子は部活に来なくなったし、笑顔で接しては来たがいくらかよそよそしくなった。傷つけてしまったことはわかっていたが、克彦に後悔はなかった。


 全国大会で、克彦は初戦敗退という憂き目を見た。全国クラスでは克彦は結局ただの人だった。優勝候補選手に初戦で当たったら、まったくの実力でかなわなかった。大会初戦が吹奏楽部の演奏会の日と重なっていて、弘子は見に来ないと克彦は知っていた。だからせめて初戦を勝ち抜いて、見に来てもらいたいと必死に全力以上の力を出したが、スポーツの実力差はその程度の頑張りで覆せるものではなかった。

 克彦のテニス部生活は終わり、毎日が受験勉強一色になった。弘子となにひとつかかわりなく毎日勉強をしていると、自分が一体なんで彼女のことをこんなに気にしているのかと不思議に思うこともあった。しかし、気付くと廊下で遠くまで目をこらして姿を探していたし、似ている子が通っただけで刺されるような衝撃を胸に感じていた。そして、ほんの遠目にでも見かけたときに激しく高鳴る鼓動は、決してごまかせなかった。

「あのさー、好きな子いるんなら、なんか力になろうか~?」

「えっ」

 唐突に和宣に図星をさされて、克彦は息をのんだ。和宣は「何か言えよ」とばかりに無限の沈黙に突入した。克彦はしばらく迷っていたが、やがて口を開いた。

「いや、まだ、そこまでは…。なんか気になるかな~、ってだけで」

「…ふうーん、誰? 新入生に可愛い子でもいた? よりによっておまえをオトすとは、どんな子かすっげえ興味あるな~」

「いや…その…べつに、普通の子だよ…多分美人とかでもないし…」

「その子、おまえに興味ないの?」

「…多分、…ていうか、まだ知り合いになってない…、いや、知ってることは知ってる、というか、うん…」

「何、ごにょごにょやってんだよ。おまえ、自分が好きになるほうは、全然ダメなのな。なっさけねー」

「…俺も、そう思う」

 結局何事も起こらないまま、夏休みがやってきた。

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