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第5章 トラブル編 3.お願いだから


「なんだか、久しぶりですね」

 弘子が言った。

「そうだね~。なんか、お互いに、試験、試験になっちゃってね」

 克彦は精一杯の笑顔を作った。そして、なんだか自分の言葉がぎこちないような気がして少し焦り、無理に言葉を続けた。

「弘子さん、そういえば受験なんだよね。ねえ、学部はどこでもいいから、慶尾大学においでよ。一緒のサークルに入ろうよ」

 弘子は首をすくめた。

「私、そんなに頭良くないですよ。テニスとかも苦手だし…」

 克彦はまるっきり提案に興味を持ってもらえず、ガッカリした。

 この日は、弘子から副都心の駅前を指定しての待ち合わせだった。克彦には、それが「クルマお断り」という意思表示に感じられた。

「ねえ、今日はどこ行こうか? なんだったら、車出すけど」

「近場にしましょうよ、この前遠出したから…」

 弘子の返事に、克彦はそっと肩を落とした。

「この近くって、何があるの?」

「一応、デパートの美術展が2、3良さそうだったから、待ち合わせをここにしてみたんです。先輩が他に行きたいところがあれば、それでいいんですけど」

「あ、それは弘子さんが見たい美術展なの?」

「そうですね、一応…」

「じゃあ、いいよ、そこへ行こう」

 克彦は、弘子との時間を、依里子と過ごしたこの前の夕方と比べている自分に気付いた。弘子は克彦の言葉を待って、やや消極的な答えを返すことが多かった。自然、克彦がおしゃべりになった。

「絵とか音楽とか、芸術系が好きなんだね。絵、描くの?」

「…昔、ちょっとイラストは描いたりしましたけど…、あまりうまくなくて」

「えー、見たいな。どういうイラスト描くの?」

「…動物とか、花とか…」

「スケッチブックとか、ないの? 見せてよ、それじゃなかったら、今度俺に描いて。なんでもいいよ。俺、部屋に飾るから。豪華な額に入れて」

「額がもったいないですよ」

「もー、すぐそういうこと言うんだから」

 克彦は弘子との時間にかすかな違和感を覚えた。弘子は克彦が必死で動かさないと動かない。依里子がくるくると楽しそうに動くのとは対照的だ。

(…そういえば、弘子さん以外にも、俺にとって特別な女の子はいたわけだ…)

 克彦は思った。昔の傷が心に深く刻まれている分、依里子は明らかに特別なひとだった。弘子が夕暮れに映える控えめの天然色なら、依里子はもの悲しくて懐かしいセピア色だ。

「せんぱい?」

 弘子はぼんやりしている克彦に気付いて振り返った。その瞬間に、克彦は久しぶりに弘子に片想いしていた頃のようなドキッとする気持ちを体験した。

「ああ、ゴメン、ぼんやりしちゃった」

 克彦は自分の中で起こりつつある変化に不安を感じた。今まで、弘子以外の可能性なんか何も考えなかった。けれど自分には他の可能性もあるのだと思った。例えば、それは依里子でなくても、身の回りのたくさんの女性の誰とでも…。

(俺は、弘子さんと別れて、誰かを探しに行くことがあるかもしれないの?)

 それは克彦にとって、発見でも感動でもなく、恐怖だった。

 また弘子が振り返るのが見えた。手を引いてあげていないことに気付いた。でも、思い出したように唐突に手を差し伸べるのにも違和感があるような気がした。

 弘子は、克彦の様子がどこかおかしいことに気付いた。なぜ、どう違うのかはわからない。考えられるとしたら海に行ったときのことだったが、それが克彦をどう変えたのかは想像できなかった。一秒ごとに不安が増えていくのを感じた。

(…やっぱり、時間がくれば魔法は解けるのかもしれない…)

 弘子はただ静かに、密やかに落胆した。

 克彦は自分の気持ちが揺らぐことに怯えていた。デパートの美術館で弘子と並んで絵を見ていると、依里子よりも背が小さいせいで弘子を物理的に少し遠く感じた。他のどんな景色も、初めから見えなければなかったことにできる。だから弘子だけを見ていられれば満足だった。でも、もう違う何かが見え始めているのをごまかすことはできなかった。

 絵の前で、絵を見るでもなくただ立ち尽くしていた克彦は、急に手を握られてびっくりした。弘子が寄り添うように近づいて、自分から手をつないでいた。今にもほどけそうなかすかな力を感じて、克彦は慌てて強く握り返した。

「…どうしたの?」

 克彦は戸惑った。弘子のほうからつかまってきたのは初めてだった。

「私は、こうしちゃダメですか?」

 弘子は小さな声で言った。

「ううん、すごく嬉しい」

 克彦は心の底から答え、弘子の手の感触を確かめた。

(やっぱり、他の女の子と会ってちゃダメだよ。だって、話があるって言ってたけど、それらしい話は何もなかったし…ただのデートだったら、弘子さんへの裏切りだよ)

 克彦は、依里子に次に会ったらすぐ「会うのはよそう」と言うことを決意して、いつもの自分に戻った。

「ここ出たら、どこに行く? 疲れてたらこの上のレストラン街でお茶でもいいし…」

 いつもの笑顔とやさしさに包まれても、弘子の心に不安の種は残った。

 帰り際、弘子は公園に行きたいと言った。

「座りませんか。ちょっと、足が疲れちゃった」

 並んで座って、弘子は抱き寄せられるのを待った。

「サンダル脱いでていいですか?」

「いいよいいよ。やっぱりそういうのって、けっこうきついもの?」

「ものによりますけど…、今日のは、長く履いてたらちょっときつくなりました」

 弘子はサンダルのボタンを外して脱ぎ、足を上に載せた。その様子は可愛らしく無防備だった。

「それだと、走って逃げられないよ」

 弘子に促されている気がして、克彦は弘子に腕を回した。弘子はゆっくりと体を委ねた。

「逃げるときは、逃げますよ。裸足でも」

 克彦は胸が苦しく、切なくなった。もう一度弘子を押し倒して、その上に自分の体を重ねたい。抱き寄せる手に力をこめた。そしてどこか不安な自分の気持ちをもう一度確かめるために、出会った頃から今までをゆっくり思い出した。

 あの日フルートに当てた唇は、あの頃はあんなに遠かったけれど、今は、もしかしたら手に入るところにある。克彦は自分の気持ちがたかぶるのを感じた。

「…ねえ、俺のこと、好き?」

 答えてくれなくてもいいからただ訊きたかった。俺はこんなに好きだよと心の中で強く訴えた。

 弘子は、海からの帰り道、好きだと言おうと覚悟したことを思い出した。答えなくっちゃ、と思った。でも、勇気を高めようとしていると、克彦の方がまた早かった。

「答えられないなら、それでもいいから…違うもので応えて」

 弘子の背中に回った克彦の腕に力がこもり、空いていた方の手が弘子の頬に触れた。弘子はキスを覚悟した。

 克彦はそっと顔を近づけた。弘子はぎゅっと目をつぶった。

 克彦は、顔を近づけるごとに弘子に回した腕が重くなっていくのを感じた。弘子は、逃げているつもりなんかなかったが、無意識に体が後ろへ倒れていっていた。克彦の心にふと陰が落ちた。水曜日に依里子と会うことになっている。

「…怖いの?」

 克彦は途中で弘子を胸元に抱き寄せた。弘子はホッとした。

「まだ、怖い?」

 もう一度訊かれて、弘子は小さくうなずいた。でも、決して拒絶はしなかったのに克彦が進まなかったことは気になった。

 弘子はそっと克彦を見上げた。克彦はその瞳に不安が宿っていることに気付いた。心を見透かされた気がして、言い訳をした。

「だってさ、弘子さん、どんどん後ろによけてくんだもん。腕がつって倒れそうになっちゃった。こんな人前で押し倒すわけにいかないでしょ?」

 弘子は赤くなって、克彦をつっけんどんに押し返した。克彦は心の中で小さくため息をつき、笑った。

(…水曜日、俺の過去にカタがついたらね)

 弘子は目を閉じてくれた。きっともう遠慮は要らないのだろう。ただ、今の自分には弘子に触れる権利はないのだと自らを戒めた。


 水曜日は憂鬱だった。また依里子に「別れ話」をするのは気が重い。克彦は5分遅れて行った。依里子は同じ場所で同じように待っていた。

「ゴメン、お待たせ」

 克彦は気が変わらないうちに話を切り出そうと思った。でも、依里子は克彦の重い足取りでその気持ちに気付いていた。

「ねえ、こんなの手に入ったんだ。せっかくだから、行こうよ」

 依里子は克彦が何か言い出すより先に、チケットを1枚克彦に押し付けた。遊園地の夜間招待券だった。

「ここから電車1本で行けるから、すぐだよ」

 依里子は勝手に駅に向かって歩き始めた。克彦は追いかけて「話がある」と言おうと思ったが、人通りの多い道だったので黙って後をついて歩いた。

(…遊園地だって、話はできるよね…)

 弘子を思うと早く決着をつけたいのに、依里子を目の前にするとなぜか決意は揺れた。

 電飾に飾られた夕方の遊園地はとても綺麗だった。2人は、乗り物には乗らず、瞬く電飾の中を歩いた。依里子が話して、克彦が答えた。

(まるっきり逆だな…)

 克彦は思った。愛されても応えない昔の自分は、今の弘子だ。依里子を今の自分みたいだと思った。好きな人と一緒にいるのが嬉しくて、饒舌になって、はしゃいだ。「ずっと好きだったの」と彼女はあの頃何度も言った。克彦は時々「過去形だね」と言って依里子をからかった。依里子は「すっと好きだったし、今はもっと好き」と言った。でも、克彦が依里子に好きだと言うことは最後まで一度もなかった。

 あの頃、女の子と並んで歩いているのがどこか誇らしく、楽しかった。恋愛的かつ性的な意味で進展することについて、男の子だから当然期待もあったが、「そういう経験をしてみたい」という自分本位かつ軽薄な情熱は最終的には克彦を動かさなかった。それは弘子を切実に求める恋の情熱とは違って、至極打算的なものだった。克彦は当時の自分を軽蔑した。

「山根くん、ここは入りたい」

 お化け屋敷の前で依里子は立ち止まった。克彦はひるんだ。別に怖いわけじゃない。コンニャクとか悪趣味なものは勘弁願いたい。

「なんでわざわざ夏の夜に、お化け屋敷に入るわけ?」

「何言ってるの、それがシーズンなんでしょ!」

 依里子はチケットを出して入口に向かい、克彦を振り返った。克彦も後を追った。

「怖いね」

 依里子は楽しそうに言った。

「あんまり、怖くなさそう。楽しそうだけど?」

「怖くなかったら楽しくないでしょう?」

 依里子は克彦の腕をそっとつかんだ。克彦は、依里子が初めからこうするつもりだったことに気付き、可笑しくなった。お化け屋敷の極めてスタンダードな使い方だ。

 仕掛けに驚くたびに依里子は克彦の腕に抱きついた。克彦は、海で弘子がしがみついてきたことを思い出した。

(弘子さんも、こんなふうに、俺にくっつきたかったのかな?)

 多分そうなんだろうと思った。そうでもなければ、弘子ともあろうものがそんなスキを与えるはずなんかない。あの時の弘子が、今の依里子と同じ気持ちならいいと思った。

 最後の方では、依里子はずっと克彦の腕につかまっていた。克彦はふと、「今の」依里子の気持ちはどうなんだろうと思った。ずっと過去の依里子と対峙していたが、今、この瞬間の依里子の気持ちは一体何なんだろう。

(案外、俺って変わってないのかもしれないね…)

 目の前に依里子がいてもちっとも見ていない。今、彼女がどんな気持ちで克彦と会っているのか、どんな気持ちで腕を抱いているのか、考えもしなかった。自分はあくまでも過去の延長で、置き去りにした何かを探すためにここにいる。だけど依里子はどうなんだろう。

 お化け屋敷を出ると、依里子は何事もなかったかのように自然に克彦の腕を離した。

「おなかすいたねー」

 スッキリした声で依里子は言った。

「そうだね」

「なんか、つまんないものでも食べる?」

「何、つまんないものって」

「遊園地の焼きそばとか、そういうのよ。つまんないものじゃない」

 そして依里子は周りを見回し、

「ねえ、あのへんに飲食店があるよ」

 と言って克彦の腕を引いた。

 その「つまんないもの」は案外おいしかった。

「最近は、ちゃんと遊園地も食べ物に気を遣ってるのかしら。これ、おいしいね」

 依里子はピタバーガーをちょっと恥ずかしそうにかじりながら言った。克彦はピザを食べていた。はじっこをちょっと交換したが、どっちもそう悪くなかった。

 食べ終わって一息ついて、目の前に輪投げのコーナーがあったので2人とも200円分ずつ投げた。克彦は一番下の段の小さなぬいぐるみのマスコットを当て、依里子にあげた。依里子はとても嬉しそうに受け取り、早速バッグにつけた。

「山根くんって、なにやってもソツがないよね。存在が嫌味だよ」

「なんで」

「何やってもそれなりに結果出しちゃうんだもん、輪投げだってそうだよ。たまには何か苦手なものとか、ないの?」

「輪投げでちょっと下の方に引っかかって、存在が嫌味まで言われるなんてあんまりだよ」

「他のことも、いろいろ含めて言ってるの」

 依里子はそう言ったが、克彦は自分の一番苦手なものを知っていた。

(輪投げなんかより、恋愛がもっとうまくできればいいのに…)

 弘子と依里子が交互に目の前を揺れた。もう、依里子に最後通告をしなければ…と思った。

 途端、依里子が克彦の胸元ギリギリに飛び込んできた。服をそっとつかんだだけで、体は触れない位置で止まった。

「…ずっと、好きだったんだよ」

 依里子は克彦の胸元でうつむいて言った。克彦は自分の立っている場所を見失った。周りには真っ暗な闇と、電飾の点滅だけが広がっていた。

「…もっと会いたい」

 依里子の声が告げた。

「好きだとか嫌いだとか、そういうのはどうでもいいから、もっと会いたい」

 克彦はいつか依里子に会えたら「別れたのは、君のせいじゃないんだ」と伝えて謝ろうと思っていたことを思い出した。連絡をとるすべもなくなり、弘子に出会い、いつかそんなことすら忘れてしまっていた。

「ずっと好きだったの。だからテニスサークルに入ったの。交流試合は慶尾にしてって部長に頼んでたの。会いたかった。…ただ会うだけでいいから、私にあの頃の時間を、もう少しだけ返して…」

 瞬くような電飾が時を刻んでいた。視界の隅に何度も点滅が繰り返されるのを感じながら、克彦は自分の掌をゆっくりと握りしめた。そっと息を継ぎ、できるだけ重くならないように口を開いた。

「じゃあ、次はいつ会おうか」

 驚いて依里子は顔を上げ、克彦を見た。その表情は5年前、克彦が「いいよ、つきあおうよ」と答えたときの依里子と同じだった。

 克彦は、今なら依里子の気持ちに応えられる気がした。依里子の気持ちが、今なら痛いほどわかった。


 依里子は失った時間を取り戻すように会いたがった。次の金曜日と、次の水曜日にも会った。克彦はその間、弘子とは会わなかった。後ろめたさから電話もかけられなかった。そして、弘子から電話が来ることは、いつもどおり、なかった。

 依里子は変わらず、ひたむきに克彦を想っていた。克彦はどうしても弘子と依里子を比べてしまっていた。依里子は惜しげもなく克彦に好きだと言った。一緒にいて嬉しいと言った。そして、克彦には何も言葉を要求しなかった。

 克彦は依里子といる時間に安らぎを感じた。弘子をずっと追いかけて過ごしてきた長く苦しい道より、愛される道は安らかだった。必死にもならず、つらくもならず、苦しくもならず、ただ優しくされ、そこに甘んじていればいい。

(弘子さんから気持ちが返ってこないなら、俺は、小岩さんに応えてあげるべきじゃないのか…?)

 依里子は今もまっすぐ克彦を見つめたまま立っていた。克彦は、今ならそれを、もっとうまく受け入れられるような気がした。

 弘子を想うと切なかった。愛しくて、淋しくて、悲しかった。抱きしめて、壊してしまいたかった。弘子を追いかけるのに疲れきっている自分に気がついた。依里子が好きだと言ってくれるたびに心に痛みが走った。弘子からもらえない言葉がこんなに簡単に自分に向けられることが悲しかった。

(…ねえ、弘子さん…。俺を、止めてはくれないの?)

 依里子に会うたびに切なさが増した。依里子は、弘子を想う克彦の分身だった。

 弘子は幸せなのだろうかと思った。想うことが、単なる自分のわがままに思えた。

 克彦といるだけで幸せそうな依里子の笑顔が胸に迫った。


 その週末、克彦が部室に行くと、恵梨がいつになく真剣な顔で声をかけてきた。

「私、今日は友人として、あるいはキミのお姉ちゃんとしてでもいいわ、話があるの」

「え、…なんですか?」

 恵梨の怒った顔に、克彦は依里子のことを言われるのだなと直感した。

「今日は、ちょっと私につきあいなさい。サークルはお休み!」

 そして恵梨は克彦の腕を力いっぱいつかみ、部室の外に連れ出した。

「今日は、山根くんと逃避行するわ。戻るかわかんないから、ほっといてね」

 部員に言い残すと、恵梨は克彦を引きずって学生食堂へ下りていった。

「何飲む?」

 恵梨は不機嫌そうに訊いた。克彦は、

「アイスコーヒー…」

 と力なく答え、財布から丁度の金額を出した。恵梨はそれを突き返した。

 端のほうの4人がけの席にどっかりと座り、恵梨は爆撃を開始した。

「キミさ、純愛の彼女はどうしたの?」

 克彦はほっと力が抜けた。ずっと一人で抱え込んでいたが、恵梨の言葉で張りつめていた何かが切れた。

「…彼女? ここんとこ、あんまり会ってないですよ。彼女、受験生だしね」

「山根くん、キミまでそういう人だとは、私は思いたくないわけよ」

「そういう人って?」

 恵梨は軽蔑したような目をして克彦を見た。

「アンタね、私の家、自由が丘にあるのよ。そのおしゃれな街並みを、彼女以外のオンナと腕を組んで歩いてるってのは、いったいどういうことよ」

 克彦は諒解した。

「ああ、先輩って、自由が丘に住んでるんですか。でも、よく気付きましたね。俺は全然気付かなかったのに」

「あのねえ、あのへんのおしゃれな喫茶店の窓辺で、友達と4時間も粘ってしゃべってりゃ、デートしてたカップルの全員をチェックできるわよ。だいたい、山根くんは目立つんだからさ、ちょっとはうまくやったらどうなの。気付いたの、私の友人の方よ。『お、いい男。でも女連れか』なんて言うから、いい男、どれどれと思って見たら、キミのことじゃない。例の彼女の顔でも拝んでやろうと思ったら、並んで歩いてるの、この前の女子大の子だし! しかも腕まで組んでて、3度びっくりよ」

 克彦は何も言わなかった。腕を組んできたのは依里子の方だし、恋愛として会っているのも依里子の方だけということになっている。でも、そんなのは言い訳だ。

「初恋の純愛じゃなかったの。別れて乗り換えたなら仕方ない話だけど、別れてないんでしょ? キミまでそういう人だったら、私、何を信じればいいのかしら」

 恵梨は克彦をにらみつけた。克彦は目を伏せて力なく笑った。

「俺、もう、彼女、…あ、これは、つきあってる彼女のほうで、弘子さんっていうんですけどね。もう弘子さんを好きでいるの、あきらめちゃおうかなって思って」

 克彦は小さくため息をついて、続けた。

「弘子さん、いまだに俺のこと好きだって言ってくれないんです。もう、ひと月くらい前になりますけど、俺結構勝負に出たんですよ。暗い道に車止めて、俺のことどう思ってるか答えてくれなきゃ帰らない、どうされても知らないよって言って、答えてくれないから押し倒したんです。そこまでして、何にも答えてくれなかったんです。俺は、そうまでして、なんで弘子さんを追っかけてなきゃいけないんですか?」

 克彦は静かに熱弁をふるった。

「で、あの子は何なの。この前の女子大の子」

 恵梨はいくらか冷静になって問いかけた。

「昔のカノジョですよ。好きじゃなかったけどつきあった子がいたって話しませんでしたっけ。その子です。昔の彼女がずっと俺のことを好きだったって言ってくれたのに、なんで弘子さんは好きって言わないんですか? そういうのってアリですか?」

 恵梨は少し黙って、しばらく首をかしげてから口を開いた。

「ちょっと話を戻してゴメン、一箇所聞きそびれたところがあるんだけど、山根くんは車で彼女を押し倒して、それからどうしたの?」

 克彦は情けなさの極みみたいな顔をして返答した。

「…何もしませんでしたよ。笑ってください」

「あっそう! すごい、すごい。ガマン大会優勝間違いなしじゃない! なんだもったいない、彼女その気だったかもしれないのに」

「絶対、ないですね。泣いてましたから」

「へー。処女相手は大変だね~」

 克彦は渋い顔をした。こればかりは「勝手に決めないでください」なんて言えない。

 恵梨は真面目になって言った。

「つまり、昔の彼女と会ってるんだ。それで今の子はどうすんの。二股かけるの」

 克彦は疲れ果てたようなため息をついて答えた。

「…昔の彼女と会ってるのは、ただ、なんとなく…っていう感じなんですけどね…。でも、あっちは俺のこと好きだって言ってるし、それを承知で会ってたら言い訳なんかできないとも思いますけど。どっちかは片をつけないとね。それで、最近は思うんです、愛しても報われない道を選んでみんなが不幸になるより、俺は愛してくれる人を幸せにしてあげるべきなんじゃないかって…」

「キミの場合、愛してくれる子全部幸せにしてたら、体が持たないわよ?」

「そうじゃなくて、昔の彼女だけですよ」

「あら、今の卑猥なジョークよ。わかんなかった?」

 恵梨はにっこり笑った。克彦は赤面した。オトナの会話にはついていけない。

「でもさ、山根くん、キミ、昔の彼女、愛してるの?」

 克彦は答えられなかった。

「恋心っていつかは冷めるじゃない。昔の彼女だって、山根くんに対する恋が終わる日って来るかもしれないじゃない? まあ私は必ず来るとか言いたいんだけど。それでさ、その子の恋が終わったとき、キミはどうするの?」

「え、…どういうことですか?」

「2人の女の子がいて、2人ともキミに対して好意を持って『いなかった』なら、キミは今の彼女と、昔の彼女、どっちをとるのかってこと」

「それは…」

「私、オトコを選ぶとき、よくそうやって考えるの。人ってついつい、愛されるとほだされちゃうじゃない。でもさ、本当は、自分の好きな方を選ぶべきなのよね。愛してくれるから応えてあげて、相手が冷めたら悲惨よ。その時、人ははじめてそれが愛ではなく、同情だったって気付くの。そして本当に好きだった人はもう帰ってこない」

「…それ、自分の体験談ですか?」

 克彦が訊くと、恵梨はシニカルに笑ってみせた。

「そうじゃなきゃ、こんなに説得力のある話、できるわけないじゃない」

 その問いへの答えは明白だった。依里子のことは愛じゃなく、同情ということか…と克彦は淋しく思った。

「別に私は、山根くんがプレイボーイだろうがスケコマシだろうが色魔だろうが関係ないといえば関係ないんだけどさ」

「…色魔は、あんまりじゃないですか?」

「なんにしても、二股なんかやめなよ。私にとっても、山根くんって憧れだったのに。カッコよくてピュアな純愛青年。ホルマリンに漬けて標本にしたいくらい貴重じゃない? 私はその美しいものを守りたいの」

「それは、ほめ言葉なんですか…?」

 克彦はけげんな顔で言い返した。すっかり恵梨のペースにハメられて少し気が晴れた。

(そうだよね、俺は結局、弘子さんが好きなんだよね…)

 でも、と克彦は思った。何度か自分で結論は出している。だけどいつも依里子を前にすると揺れる。好きだと言われていたい。

「山根くんの彼女、絶対に山根くんのこと好きなはずだよ。キミはいっつも自信なさげに言うけど、私はやっぱり両想いだと思うよ」

 恵梨の真剣に叱ってくれる声には克彦への愛情があった。耳に痛くはあったが、やはりうれしかった。


 弘子は克彦の変化に悩んでいた。会っているとき時折ぼうっとするくらいで、別に明白な変化なんかなかったが、どことなくいつもと違う。「なんか、声が聞きたくなって」という電話も途絶えていた。理由はわからない。どうしたらいいのかも考えようがない。

 ある夜、弘子が自分の部屋でぼんやりしていると、玄関の呼び鈴が鳴った。それからしばらくして、母親が上がってきた。

「弘子、山根先輩が見えてるけど、どうするの?」

 時計を見ると、21時半だった。

「あがってもらったら。これから出かける時間でもないでしょ」

「あ、うん…ちょっと待ってもらって」

 弘子は慌てて部屋を片付けて掃除機をかけた。8月に入って連日夜になっても暑く、タンクトップに短パンという格好だったので、かぶるだけのシンプルなワンピースに着替えた。

(でも、部屋に2人っきり…?)

 最近克彦の態度がおかしいのに、そういうことだけはやっぱり心配だった。でも、弘子の部屋は布団敷きなので、布団さえ片づいていればそういう雰囲気にならない気がした。

「どうしたんですか、急に」

 弘子は玄関に出て克彦を招き入れた。

「ゴメン、こんな時間に。どうしても会いたくなって」

 克彦の答えに、弘子の顔がそっとほころんだ。

 廊下の途中で居間の脇を通ったので、克彦は弘子の母親に、

「すみません、夜遅くに」

 と、めいっぱい誠意をこめて詫びた。母は克彦に「いいえ」と微笑み、弘子に、

「後でお茶入ったら呼ぶから、下まで取りにいらっしゃい」

 と言った。克彦は、母親が気を遣ってくれているのを感じ取り、弘子をちらっと見て「いいムードになんかならないけどね、多分」と残念に思った。

 克彦は、弘子の部屋に初めて入った。

「…弘子さんの部屋か~。感激だな~」

 克彦が見回すので、弘子は、

「散らかってるし、家具も古いから見ないでください」

 と言って克彦の背中を押し、座布団のところに座らせた。弘子の部屋はシンプルで、ちょっとだけぬいぐるみが置いてあった。本棚だけはやたら大きくて目立っていた。

 克彦はこの時、依里子に会った帰りだった。「会うのをやめよう」と言えなかった。自己嫌悪に耐えられなくなって、克彦はまっすぐ弘子の家に来た。自分の中の弘子の姿が消えてしまいそうで、とにかく会いたかった。

 階下から母親の声がして、弘子が下りていった。そしてお茶を持って上がってきて、小さなテーブルの上にお茶を並べた。克彦は改めて恐縮した。

「ゴメン、押しかけちゃって。ホントは、弘子さんが『ウチに来ませんか』なんて言ってくれればと思ってたんだけど…」

「…それは、…言わなかったと思います…」

 弘子はまるで恐縮したように縮こまって答えた。克彦はガッカリした。

 克彦がいつもと変わりなく見えたので、弘子は少しだけ勇気が出た。恐る恐る、

「先輩、このごろ、なんだか、変じゃないですか…?」

 と訊いてみた。克彦の心臓が一瞬止まった。

「え、なんで?」

 克彦は笑顔を一生懸命作った。

「わからないですけど、なんとなく…。この前会ったときも、なんかぼうっとしてたし…」

「そうかな、おかしかったかな」

「…私は、そう感じたんですけど…」

 静かに時間が流れた。弘子は克彦の言葉に違和感を感じ取っていた。

 克彦は、視界の隅で弘子の様子を探りながら、

「じゃあ、もしも、俺が他の女の子と会ってたらどうする…?」

 と言った。すぐに冗談だと告げるつもりで、弘子の反応から想いを知りたかった。

 弘子は何も言葉を発しないまま、指一本動かさずにじっとしていた。克彦は慌てて、

「ウソだよ。ウソ。変わってないよ。弘子さんが好きだよ」

 と否定した。

 弘子は心の中にさざ波が広がっていくのを感じた。克彦にしては気がきかなすぎる、残酷な冗談だ。絶対におかしい。手がかりを記憶の中で探したが、見つからなかった。

 克彦は焦った。依里子と会っていることを伝える気なんかない。まだ信じ合えるところまでたどり着けていない今、何もかもを正直に話すことはできない。

「冗談だよ。気にしないでよ。大丈夫だよ、弘子さん、…ホントに…」

 克彦が言うと、弘子はゆっくり顔を上げた。克彦が見つめると、弘子はゆっくりと、

「いつか、先輩が、私のこと、飽きると思ってました」

 と言った。そして克彦の目を、遠いものを見るようにじっと見つめた。

 克彦はテーブルの上の弘子の手をつかみ、テーブルを回って引き寄せ、無理やり抱きしめた。弘子は突き放そうとしたが、強く強く抱きしめられた。

「弘子さん、ゴメン、ウソだよ、大丈夫だよ、違うよ、聞いて」

 弘子の頬に涙がこぼれた。克彦はすぐに気づき、必死で語りかけた。

「ゴメン、この前ね、偶然昔の彼女と会ったんだよ。本当に、偶然。それでいろんなこと思い出したりしたけど、大丈夫だから。俺が好きなのは弘子さんだけだから…」

 弘子は高校でテニス部OGの川上京子に声をかけられた日のことを思い出した。「元彼女」なら、京子よりもっと克彦に未練を残しているような気がした。「どうして何もしてくれないの」と、克彦に素直に言えた女の子。自分とは違う。

(…そして、山根先輩は、今もその人に「何もできない」の?)

 車で押し倒されたことを思い出した。今、昔の彼女が「どうして何もしてくれないの?」と言ったら、克彦はやっぱり何もしないのだろうか。態度が変わったのは、もう何かがあったから…?

 弘子が力を抜いたので、克彦は少し抱きしめる腕を緩めた。途端、弘子は克彦を突き飛ばし、逃げた。克彦の心に絶望が広がった。本当は依里子と会っていたことを素直に話し、謝って、気持ちを話したい。でもまだそこまでの信頼関係はない。隠し事をするしかない自分が途方もなく虚しい。

 克彦は訴えた。

「…弘子さんは、俺の気持ち、信じてくれないの?」

 弘子は口をぎゅっと結んで克彦を見据えていた。

「俺、弘子さんのこと好きだよ。ずっとそう言ってるじゃない。さっきの言い方が悪かったのは謝るよ。でも、弘子さんがそんなに俺のことを信じてないなんて思わなかった」

 勝手なことを言っているなと、克彦は自分に呆れた。実際に他の人と会っているのにこんなことを言える自分…。信じてもらえないのは当たり前だと自覚した。弘子の強い瞳を見ながら、克彦は、自分が一体どれだけ誠実だっただろうと思った。

 それでも、克彦は弘子にすがるしかなかった。

「ねえ、弘子さん、…お願いだから、好きだって言ってよ。俺、もう片想いでいるのは嫌だよ。お願いだから、たったひと言、好きだって言って…」

 克彦は半身を乗り出して、テーブルの上に片手をつく姿勢のまま一生懸命弘子に助けを求めた。けれど、弘子はたった一言、

「…先輩のこと、なんだか信じられない…」

 と言った。克彦は体中から希望が失われていくのを感じた。

「ゴメン、俺…、自分勝手だね…」

 克彦はテーブルの上の掌をぎゅっと握りしめた。そして、もう元に戻らないのかもしれないと思った。弘子も、そして自分自身も。

「…ゴメンね、帰るよ…」

 克彦は憔悴した横顔で弘子の前を通り、弘子の部屋のドアを出た。

 弘子は克彦の態度がどうしても腑に落ちなかった。好きだと叫んだ言葉が本当だとしても、克彦が何かを隠していることだけは確かだと感じた。あとにはただ、克彦を失うのが怖くて何も訊けない自分がいた。階下から母親と克彦があいさつを交わす声が聞こえた。

(…先輩、いなくなっちゃやだ…)

 本当はそれを口に出さなければいけなかったのに、違う言葉を告げてしまった。それを後悔してももう遅かった。玄関の閉まる音が階下から聞こえた。

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