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第5章 トラブル編 2.昔の彼女


 克彦は複雑怪奇な気分で家に帰り着いた。弘子が自分と海に行くために水着をわざわざ新調してくれたこと、しかも弘子にしてはちょっと冒険したらしいセパレートだったこと、それから必要以上に抱きついてくれたこと、それから、めいっぱい努力してくれたらしい言葉を反芻した。

『私、誰とでもこんな風に2人っきりで海に来たり、しませんよ』

『私にとって、先輩は特別な人なんですから…』

『…今の私にとって、先輩は一番大切な人です』

 さらに、押しつけられた胸、肩や背中の感触を思い出し、体が溶けるような気がしてベッドに倒れ込んだ。自分の下に横たわった弘子の様子を思い出すといたたまれなかった。

「何で俺、あれから引き返すなんてできたのかなー! もう!」

 克彦は布団を頭にかぶって一人で叫んだ。絶対に引き返すべきじゃなかったと思った。

「だって、泣くんだもん…」

 克彦はやるせない気持ちでベッドの上を転がった。そして枕を抱えて、

「弘子さぁん」

 とつぶやいた。

「泣きたいのは、俺の方だよ~。ホントは、好きなんでしょ~? 白状してよ~。一体、何を守ってるんだよ~」

 そこで、克彦ははたと動きを止めた。

(…好きだなんて白状したら、俺が弘子さんを押し倒すとでも思ってるのかな)

 なんだかそんな気がしてきた。弘子がちゃんと愛情表現をしてくれていたら、もっと全力疾走で弘子を求めてしまったかもしれない。弘子のファーストキスの相手は自分でいいのか…なんて遠慮していたが、交際している以上、普通ならいいに決まっている。なぜ気後れするのかというと、弘子からの愛の言葉がないからだ。

「正当防衛? ひどいよ~、弘子さーん…」

 克彦はえさを取り上げられた子犬のように、その夜はひとしきり吠えていた。


 弘子は呆然と部屋に戻った。克彦の唇の通った後を指でなぞった。なんだか、今までに感じたことのない切ない気持ちになった。弘子は、抱きついたときに克彦に触れたであろう胸のふくらみに手を当てた。克彦にどんな風に伝わったかがすごく気になった。

「そういうものなの?」

 男の人って大変だなと思った。だって、弘子が気持ちを隠しているみたいには隠しおおせない。今日だって克彦は隠しきれなかった。海から出られなくなるくらい。

「…そういうものなの?」

 自然なことなんだよ、と克彦も言っていた。

(じゃあ、車の中ではどうだったのかな…)

「鎮めるの、結構大変なんだ」と克彦は言った。何か明白な反応が起きてしまうなら、自分をごまかすこともできないだろう。弘子は克彦への気持ちをごまかして6月からずっと1年あまりを過ごしてきた。好きになっても認めず、やっと認めた今でも伝えていない。でも、男だったらそうはいかないのかもしれないと思った。

 そして、克彦にのしかかられて唇で触れられたときに感じた自分の不思議な感覚を、弘子は恐る恐る思い出してみた。でも、その感覚はあまりにも漠然としていて、なにを表しているのかわからなかった。

(…男の人は、そうはいかないもんね)

 自分に対してごまかしようのない証拠があるのは悲しい、と弘子は思った。

(認めたくないことだってあるのにね、たとえば…私が、こんなに山根先輩を好きなこととか、それから…)

 弘子は、克彦の唇が首筋に触れた瞬間に感じた熱くて切ない気持ちが、またこみ上げてくるのを感じた。もう一度、克彦に唇で触れてほしいと思った。

(そう、この気持ちとか…)


「で、どうだった? 海は」

 部活の休憩時間に遥子に意味深な顔で訊かれて、弘子は真っ赤になった。

「あ、なんかあったね? その顔は。教えて、教えて。後学のために」

「何もないよ!」

「うっそ。そんな顔して、よく言うよ。私が見立ててあげた水着の効果は?」

「ホントに、何もなかったよ。…結果的には」

「…ふーん、結果的には、ね」

 遥子にはかなわないな、と思いながら、その日は部活のあとに2人で喫茶店に行った。弘子はまたさんざん話すのを渋った。本当に、「めんどくさいオンナ」だった。遥子はやっとのことで聞き出すことに成功した。

「車の中でね、シートごと倒すのよ。ぱたっと。あれは画期的だったよ」

「へー、勉強になるわ~」

「でも、遥子はそんなワザ、知ってても使わないじゃない」

「何言ってんの、自己防衛に使うのよ。男を襲うために使うんじゃないわよ」

「あ、そうか」

 克彦が緊急事態で海から上がれなくなったことは、後輩たちの憧れの人であり、かつジェントルマンで通っている克彦の沽券にかかわるので話さなかった。

「で、その、ぱたっといってどうしたわけ」

「うん、大丈夫だった」

「大丈夫って」

「キスもされなかった」

「なんだってえ?」

 遥子は呆れ返った。弘子は「何もされなかった」という話をするのがとてもいい気分だった。大切にされているという実感がわいた。

「…弘子、やっぱり山根先輩、何か問題があるんだよ」

「ないよ」

「え~、だって、夜の真っ暗な森に車の中で2人っきりでしょ。弘子自身だって、ちょっとくらいはなにかあってもいいと思ってたでしょ」

「え」

「思ってたくせに」

「…まあ、キスまでなら…」

「それ未満で踏みとどまるかね~。そうかあ、あれだけカッコよくて女に見向きもせず、あげく弘子みたいな幼稚なのを選んだと思ったら、問題があったのか…。なるほど…」

「勝手に納得しないでよ、遥子は変なの詳しすぎだよ。先輩は普通だもん。ただ、ちょっと…」

 弘子は嬉しそうに口ごもった。

「なによ、気持ち悪いわね。『ただちょっと』、何よ」

 遥子が追及すると、弘子はすました顔をして言った。

「…まあ、ちょっと私を大切にしすぎてるだけだよね」

 そんな調子だったものだから、その日、喫茶店の勘定は弘子が払わされた。

 一方克彦はというと、躁鬱状態で暮らしていた。海で、身体的にはかなり進展した気がした。弘子が無防備に水着の体を預けてくれるとは思わなかった。そして、一度押し倒した以上、次回そういうこともアリだと思った。しかし、結局弘子が逃げきったことも事実だった。克彦はいつもそこでつまずいた。

 克彦はサークルの片隅で、周りの歓声にまぎれて高崎勇也に相談した。

「…やっぱり、押し倒したらやめちゃダメだったと思う? 泣かれても…」

「うーん、いや~…。やめられるなら、やめといた方がいいだろ…」

「そうかなあ。やっぱ、俺は正しかったのかなあ」

「そうね、俺だったら途中でやめるなんて無理だと思うけど。エリ先輩とそーいう状況になったら、俺、絶対にやめないよ」

 克彦はうーんと考えた後、

「あのさあ、俺も、相手が高田先輩だったら、やめないかもしれないよ?」

 と言った。

「え、どう違うのよ」

「だって、俺の彼女、絶対にはじめてだもん。それなりに恋愛経験のある人なら、そういう状況になる以上、何かしら自覚ってありそうじゃない。でも、彼女はちょっと…」

「夜に男の車に乗り込んでた分際で、自覚なかったもないでしょ」

「ないよ、あの子。俺さ、海で困った状態になっちゃって、先に上がってって言っても全然悟ってくれないんだもん。おかげで俺、これこれこういう状況で、今海から上がれません、って説明するハメになったんだよ。しかもそれだけで怯えてたし…ぜーんぜん何もわかってないの。それで俺もなかなか、思い切ったことができなくってさ」

「…ふーん。…彼女高校生だっけ?」

「うん、高校2年」

「そんなもんかねえ。何もわかってないなんてこと、あるかなあ」

「あるよ。彼女、地味な都立高校の、地味な文化部だもん。地味な友達に囲まれた、真面目な子なの。勉強ばっかり頑張って来た、遊びの苦手な人ばっかり集まってる高校なの」

「そう、おまえみたいなオクテな奴ばっかり集まってるわけね」

 勇也が笑ったので、克彦は、

「…まあ、一概にそういうわけじゃないけど…。比率として…」

 と渋面を作って言った。確かに自分にも当てはまる気がした。

 そこで急に、勇也は思い出したように言った。

「おまえ、試験明けの交流試合、行くの?」

 克彦はあからさまにいやな顔をした。もうすぐ試験期間なので2週間サークルは休みとなり、休み明けの午後から他大学のサークルとの交流試合がいくつか組まれていた。最初は女子大が相手だった。

「俺、女子大はヤなんだよね…。どうせ対等な試合はできないし、その後絶対にコンパやろうとか言いだすでしょ?」

 勇也は顔の前で手を合わせた。

「山根~、お願い、コンパまでもってって。だって、エリ先輩、俺って100番目よ? 他を当たった方がいいじゃない?」

 恵梨の怒った顔が浮かんだ。勇也に望みはなさそうだ。だったら、新天地を開拓するのも道か…。だが自分が参加する必要性は感じない。克彦は勇也にそう言ったが、

「ひと肌、脱いでくれよ。おまえがいると俺も心強いし…あと、いい男で釣って、実は彼女います、ってなると可能性も上がるかなって」

 と熱烈に依頼されて渋々承知した。

「あのさあ、だったら、普通のテニスサークルに行って、合コンやってる方が早いよ?」

 克彦が言うと、勇也は急に真面目な顔になって、

「いや、他の時は合コンめんどくさい。普段のテニスは真面目にやりたいんだ」

 と答えた。やれやれと、克彦は思った。


 快晴のその日、克彦が部室に行くと、早速恵梨にからかわれた。

「あれ? 女子大相手なのに山根くんが来るなんて。彼女と別れて淋しくなった?」

「別れてません。女子大だから来たわけじゃないです。引き続き、モーションはお断りです」

 克彦は言い返した。恵梨の後ろから、勇也が「スマン」というしぐさをした。

 昼の1時から練習していると、やがてラケット状のものを持った華やかな女の子たちがやってきた。克彦はなるべく顔を合わせないようにした。後でさんざん顔を合わせるが、彼女たちがこの後、更衣室からすでに自分の値踏みをしている事態は避けたかった。

 恵梨と数名が彼女たちを更衣室に連れていき、長い着替えの後、女子大の子たちが団子になってコートにやってきた。

「顔合わせするよー」

 部長の声がして、克彦は重い腰を上げた。顔合わせの時点で絶対に何人かは自分に目をつける。憂鬱な瞬間だった。彼女たちから遠い、後ろの方に、興味なさそうに並んだ。

 部長の声で音頭がとられ、双方、

「よろしくおねがいしまーす」

 と頭を下げた。克彦はそそくさと背中を向けた。

「…山根くん」

 名前を呼ばれた気がして、克彦はしばらく立ち止まった。聞き覚えのある、そしてなにか自分にとって重要な人の声に思えた。克彦は振り返った。

「山根くん」

 そこには、テニスウェアを着た昔の彼女、小岩依里子が立っていた。克彦は息をのんだ。しばらく2人とも何も言えずに立ち尽くし、それから依里子が慌てて、

「あ、後で、話しようね!」

 と言って背中を向けた。克彦は呆然とその背中を見つめ、それからゆっくりと仲間たちのもとに歩いていった。テニスウェア姿の背中が最後のデートで見た背中と重なった。

 恵梨は、勇也をつかまえて囁いた。

「あの二人、知り合い? でも山根くんの様子じゃ、ただの知り合いじゃなさそうだね」

 勇也はかなりドギマギしながら答えた。

「そうですね。昔なんかあった子なんですかね」

 一方、依里子のところには2、3人の女の子がこっそりと寄ってきて囁いていた。

「小岩、誰よ、あれ。知り合いなの?」

「カッコいいじゃん。誰?」

 依里子はとても困った顔をした。そして、ぼそりと答えた。

「…昔、好きだったひと…」

「それだけにしては、なんか2人ともフリーズしてなかった?」

「なんかあったの?」

 依里子はもっと困った顔をして、

「…うん、私、告白してふられたから」

 と答えた。つきあっていたとは誰にも言わないことにしていた。皆が「悪いことを訊いたな」という顔をすると、部長があっと驚いて言った。

「小岩、あんた、交流試合やるなら大学は慶尾がいいって言ってたよね。慶尾、これで4サークルめだよね。もしかして、彼がお目当てだったんじゃないの?」

 依里子は悲しい笑顔をたたえてうつむいた。

「…彼が慶尾なのは知ってたから…テニスサークルかも、とは思ってました」

 その日の交流試合は、なんともいえないおかしな空気が漂ったまま進行した。

「小岩、彼と話したいんだったら、合コンいっとく?」

 部長が依里子に声をかけた。依里子はまた悲しい笑顔になってうなずいた。当初から女子大側は合コンに持ち込むつもりだった。

「小岩さん、カレシはどうしたの?」

「この前、別れたらしいよ」

「でも、なんでカレシいる時から、昔の人探して慶尾狙ってたの?」

「忘れられなかったんじゃない? カッコいいし」

 仲間のスズメたちの声を聞き流しながら、依里子はぼんやりと克彦を眺めていた。

(…変わってないね)

 依里子は本当に克彦と再会できるなんて思っていなかった。だから他の人と恋愛したりもした。でもずっと、もしもこんな風に再会できたらと思ってはいた。

(今、好きな人はいるの?)

 依里子はかみしめるように心の中で語りかけ、反対側のコートの隅にいる克彦の姿を、はるか遠くの美しい星を眺めるようなまなざしで見つめた。

 交流試合が終わり、あいさつを終えると、依里子は克彦のところに走っていった。

「…山根くん」

 克彦は足音で依里子に気付いていた。振り返って、月並みなあいさつをした。

「久しぶりだね」

「この後たぶんコンパやろうって話になると思うけど…、久しぶりに会ったんだもん、何か話、しようよ」

 依里子はまるで克彦をふっきったような微笑みを見せた。

「ね、コンパまで残っててね! 話したいこととか、たくさんあるから!」

 友達にでも言うように気軽に告げると、依里子は更衣室へ向かう女の子たちの群れに戻った。克彦は戸惑ったまま依里子の背中を見送った。依里子は一見おとなしそうだが、案外気の強いところがある。優しくて従順で、でも恋には果敢だった。

 コンパに移動する時から、なんとなく克彦と依里子は並んで歩いた。雰囲気ができあがってしまっていて、他の誰も立ち入れなかった。最後に店に入っていったせいもあって、二人は隣り合わせに座った。

 この状況では周りの連中がいたたまれない。自然に2人の周りの席は空いた。

「なんか、みんなあっちに行っちゃったね」

 克彦は承知のうえでとぼけた。

「そうね」

 依里子もとぼけた。

「こんなとこで会うとは思わなかったよ。テニス始めたんだ」

「うん、山根くんがやってたから…なんとなく」

 依里子は静かに、うつむいた横顔で言った。克彦は、依里子が自分のほうを向かずに横顔で話をするクセが健在なのに気付き、不思議な気分になった。

(…弘子さん)

 克彦は心の中で弘子の名前を呼んだ。ふと、このまま弘子との時間が消えてしまうような気がした。恋愛の話をするときには、必ずといっていいほど依里子の話が出てくる。それは大概、「好きじゃなかった」「恋をしていなかった」と語られたが、そういう形であっても依里子の存在はずっと克彦の中にあった。

「ねえ、今も、もてるの?」

 依里子は克彦の顔をのぞき込んだ。克彦は、

「え、そんなことないよ、…全然」

 と答えた。謙遜が効果的でないことは自覚していたものの、依里子に正直にそうだとは言いづらかった。

「ウソ。ウチの大学の女の子たちも、すぐに山根くんに目つけてたよ」

「そうなの? でもホラ、誰も来ないじゃない?」

 克彦はそらっとぼけた。依里子はちらっと恵梨の方を見て、

「今、私、山根くんのサークルの人ににらまれたりしてない? さっきから、あそこのキレイなひと、時々こっち見てるよ?」

 と言った。克彦は笑った。

「ああ、こういうコンパのとき、助けてもらう約束になってたから…」

「なに、悪い虫から?」

「…いや、…そんな言い方しないでよ」

 そこで、恵梨の方にアイコンタクトを送った克彦と、恵梨の目が合った。恵梨は首をかしげ、克彦は軽く掌を恵梨の方に向けて挙げ、「今日はいいです」とメッセージを送った。

「やっぱり、もてるんだ」

 依里子は笑った。

「…別に、結果的にそうなってるだけだよ。俺の意思じゃないよ」

 克彦はきまり悪そうに言い、ビールをちょっとだけ口にした。

「ねえ、あの頃の話って、してもいい?」

 依里子はうつむいたまま言った。克彦は、依里子が横顔でものを言う時は、ちょっと言いづらい、重要な発言なんだなと思った。そして、自分がさっき懐かしく思った時の横顔は、何を言っていたんだっけ…と思った。

「私、後からね、バカだったなあ…って思って」

 依里子の横顔が淋しそうに笑った。

「どうして何もしてくれないの、なんて、言われたらびっくりしちゃうよね」

 克彦は答えられなかった。

「なんで私、山根くんとつきあうの諦めちゃったんだろ」

 依里子がどうであっても別れただろう、とは言えなかった。克彦の胸が痛んだ。

「私がもっと努力すれば、違う展開もあったと思わない?」

「…わかんない。そうかもしれないけど…」

 でも多分、俺はキミを嫌になってしまったと思うよ、と克彦は心で付け加えた。そして一瞬「当時はね」と思い、もう一瞬だけ「じゃあ今は?」と思った。

 2人は、ときどきちょっと危険な昔の話を蒸し返しながら時間を過ごした。依里子は、自分の気持ちのどれだけが燃え残りの恋心で、どれだけが過去の仕返しなのかわからないとも思った。そして、今なら2人とも少し成長して、やり直せるんじゃないかとも思った。

 コンパが散会した。依里子は、克彦の横に立って、

「ねえ、また会えない?」

 と訊いた。弘子の顔が浮かび、克彦は戸惑った。でも、なぜかすぐに「NO」とは答えられなかった。

「本当は、まだ話したいことがあるの」

 依里子はそう言ってから、ゆっくり克彦を見上げた。依里子の瞳が本当に潤んでいたのか、ネオンのいたずらだったのか、克彦には依里子が泣いているように見えた。

 克彦は、依里子のそんな表情に吸い込まれるように、

「いいよ」

 と答えていた。とても静かで、不思議な気持ちだった。

「…じゃあ、いつ?」

 依里子は克彦を強い瞳で見つめた。克彦は戸惑った。依里子は淋しそうな笑顔でまたうつむき加減に視線をそらした。

「今決めておかないと、山根くん、逃げちゃう気がするから」

 克彦と依里子は、3日後の水曜日に待ち合わせることにした。


 たまたま、しばらく弘子と会う予定がなかった。2人で海に行った日から次の2週間は克彦が大学の前期試験、その次の週は弘子が大学受験の模擬試験で、そんな中で落とし穴のように訪れた依里子との再会だった。

 克彦は、依里子と会うことにした自分を責める気になれなかった。恋愛感情で会うわけではなく、お互いに心に傷を残してしまった思い出に片をつけに行くつもりだった。そこに大きな忘れ物があるような気がしてならなかった。

 依里子との待ち合わせは夕方で、克彦は、弘子と待ち合わせるときに10分前に着くことを考えて、あえて5分遅れていった。

 依里子は先に来ていた。ノースリーブの、まっすぐなシルエットの白いワンピースを着ていた。

「どうしようか。映画でも見る?」

 依里子は言った。この前言っていた「話したいこと」は言わないのかと克彦は思ったが、

「いいよ。映画でも」

 と答えていた。

 高校1年生のとき、克彦から電話をかけて待ち合わせだけを決めると、依里子が行きたいところをいくつも用意していた。克彦はその中から一番気が向くところを選んだ。いつも、依里子は嬉しそうに克彦を案内した。

「山根くん、こっちだよ」

 依里子は高校のときと同じ笑顔で言った。克彦はめまいを感じた。まだ弘子に出会う前の自分がいる気がした。

「…山根くん?」

 克彦がゆっくり歩くので、依里子は道の真ん中でまっすぐ克彦のほうを向いて待っていた。

「遅いよ。映画の時間調べてないから、ちょっと急ごうよ」

 依里子は克彦の手首をつかんで歩き始めた。本当は、あの頃なら手をつないでもよかった。掌を合わせるわけにいかないお互いの関係が、あの頃と違っていた。

 映画の最後の上映回は25分後だった。

「すごーく中途半端だね。どうしようか」

 暗くなり始めた夏の夕方に依里子の白い服が映えた。依里子はびっくりするほどまっすぐで綺麗なセミロングの髪を自然にたらしていた。肩口から露出している腕はとても細かった。首もほっそりと長くて、まっすぐなラインのワンピースがよく似合っていた。克彦は、依里子がこんなに綺麗な女の子だったことに驚いた。

「…やっぱり、自分では決めないの?」

 依里子は、ぼけっと立っている克彦を見上げた。

「なんだか、私ばっかりしゃべってるみたい。あの頃もそうだったけど」

 依里子はちょっとふくれてみせた。

「そうだっけ?」

「そうよ。山根くん、私と会ってるとき、いっつも消極的でつまんなそうだったよ。私、いっつも帰り道で落ち込んでたの。もうきっと電話はもらえないな、って」

「知らなかったよ。俺は別に、つまんないとか思った記憶はないんだけど…」

「え、本当? そうなの? なんだ、私、ずっと損してたのね」

 依里子は両側から口元に手を当てるようにして、

「でも、よかった」

 と言ってひっそりと笑った。

 克彦は、高校1年生のとき、依里子のことを全く見ていなかった自分に気がついた。依里子のクセらしきいろいろなしぐさにまったく見覚えがない。でも、たしかに依里子はこんな子だった気がする。ただ、自分が見なかっただけだ。

 そして、いつになく無口な自分にも気がついていた。弘子といるときとは違っていた。

「ねえ山根くん、あと25分、どうやって過ごすの? だって、喫茶店とか入るには中途半端でしょ?」

「そうだね、どうしようか」

「もう。そんなこと言ってる間に、映画、始まっちゃうよ」

「それなら、それでいいじゃない」

「…そりゃあ、そうだけど」

 依里子は諦めたのか、克彦のすぐ後ろにあった植え込みにハンカチを敷いて座った。克彦もその隣に座った。

「変わらないね。ホントに」

 そんな依里子の言葉は、克彦には意外だった。弘子といるときの自分とは全然違う、知らない自分がいた。

「俺って、そんなに冷たかったの?」

 克彦は訊いた。

「冷たい、と思ったことは、ないけど…」

 依里子は肩幅くらいに足を開いて前へ投げ出した。

「なんか、のれんに腕押し、ぬかに釘。反応ないし、しゃべらないし。でも、優しかったよ。私、タバコと冷房ダメだったじゃない。山根くん、いっつも冷房の風の当たりを確認してから私に席を勧めるんだよね。タバコ吸う人に近いと、席替わってくれたし」

「よく覚えてるね」

 克彦が感心すると、依里子はくすっと笑ってうつむき、投げ出した足の先を見ながら、

「だって、好きだったんだもん」

 と言った。克彦は過去の自分が責められたような気がした。依里子はしばらく黙って横顔で克彦の表情と様子を探り、切ない笑顔を一瞬だけ浮かべた後、立ち上がった。

「山根くん、あと20分ちょっとだし、上映開始の少し前に席に入れるだろうし、中の売店とか見て待とう」

 克彦は追って立ち上がった。依里子が振り向いた。

「山根くん、ワリカンでいいよね? それとも私が出そうか?」

「何言ってるの、俺が出すかどうか、でしょ?」

 克彦は言った。依里子は笑った。

「じゃあ、ワリカンにしよ。払わないとまずいかな、むしろ払うほうがまずいのかな…って微妙に気まずそうにするのも、変わらないんだね。いいじゃない、あの頃とおんなじで」

 依里子は大人一枚と窓口に告げた。克彦も隣の窓口でチケットを買った。

『だって、好きだったんだもん』

 克彦は依里子の後ろ姿を見ながらさっきの言葉を思い出した。ずっと好きだったの、と言われた5年前の言葉が一緒になって蘇ってきた。

 上映10分前の開場と同時に客席に座り、小声でおしゃべりをしながら上映を待った。

「…なんだか、すごく嬉しい」

 依里子はまた、口元に両手を当てて言った。克彦は、ちょっと首をかしげて依里子を見た。依里子はもっと嬉しそうになった。

「だって、山根くんとこんな風にまた過ごせるなんて、思わなかったんだもん。なんだか今日のこの時間で、今までの悲しい思い出が全部バラ色になった気分」

 依里子は目を輝かせて、でも克彦のほうは見ないで言った。

(また、横顔だな…)

 克彦は思った。そして心の中で依里子の言葉を繰り返した。

 依里子は、一緒に過ごした時間を「悲しい思い出」と言った。当時はわからなかった依里子の喜びや悲しみが、時間を超えて克彦に伝わってきた。交際をOKした時、依里子がどんなに嬉しかったかを今は感じることができた。克彦がささやかな言葉に反応しなかったときの淋しさも、ちょっとした優しさをもらったときの喜びも、恋をあきらめたときの悲しみもわかるような気がした。

 いつの間にか周りの席は埋まっていた。上映のブザーが鳴って、場内が暗くなった。

「始まるね」

 依里子はそう言って、克彦を見て本当に嬉しそうに笑った。克彦の心を鋭い痛みがえぐった。多分、この表情を見るのは初めてではなくて、昔、何度も見ていたはずだった。一緒にいることを純粋に喜んでくれる笑顔に気付かず、素通りしてしまった。この笑顔が向けられることがどんなに嬉しく、そして誇らしいことかわからなかった。

 そして依里子は腰の位置を浅くして頭をやや低くする「映画の体勢」をとった。これは依里子のクセだった。その様子を思い出すことができて、克彦はホッとした。

「なに、見てるの?」

 依里子は小声で訊いてきた。克彦も小声で答えた。

「そうやって映画を見るの、変わってないんだなと思って」

「あれ、山根くんでも、覚えててくれることってあるんだ」

 依里子は声を殺して笑った。克彦はまた胸が痛んだ。一体、自分はあの頃どれだけ依里子に優しくできたんだろうと思った。

 映画が終わって場内が明るくなると、依里子は伸びをした。

「大学の講義の後に映画だと、疲れるね。アクション映画じゃなきゃ寝てたかも。…ねえ、まだ、帰らなくていいよね? ご飯くらい食べてこうよ」

「いいよ」

 克彦はそれだけ言った。依里子は何秒かして、振り返った。

「もう、何が食べたいとか、そういうのはないの?」

「別にないな…。いいよ、小岩さん、好きなとこ選んでよ」

「えー。じゃあ、和食。太りたくないから」

「少し太ってもいいんじゃない? 君さ、充分細いと思うよ?」

「そう? 胸は細いけど」

 克彦は返事に困って「マイッタナ」という顔をした。

 駅ビルの上の和食屋に入り、2人とも魚を食べた。克彦は、依里子が醤油を白い服に飛ばさないかとハラハラした。ワンピースは無事生き延びた。

 2人はエレベーターで地下1階に下りて、地下鉄の改札近くに着いた。

「今日は楽しかったね」

 依里子は言った。

「ん、そうだね」

 克彦は答えた。

「なんか、実感こもってないね」

 依里子は少しふくれた。

「そんなことないよ。本当に楽しかったよ」

 克彦は真面目な顔で言った。

「本当に?」

 依里子はななめに克彦の顔をのぞき込んだ。

「本当、本当。ホントに」

 克彦は、精一杯の気持ちをこめて言った。その中には、5年前の詫びも含まれていた。

 依里子はしばらく黙って、それからおもむろに言った。

「あのさ、…また会わない?」

 克彦は戸惑い、返事ができなかった。

「あ、やっぱりつまんなかったの?」

 依里子はガッカリした声になった。克彦は慌てて言い返した。

「楽しかったって言ったじゃない」

 克彦は自分が高校1年生なのか、大学2年生なのかわからなくなった。依里子の声がさらに克彦の世界を揺らした。

「ねえ、また会おうよ。また、水曜日に。今日と同じところで、同じ時間に」

 依里子のななめ横を向いた顔は髪でほとんど隠れてしまっていた。克彦は、映画館で見た嬉しそうな笑顔を思い出した。依里子の心地よい言葉を思い出した。

『だって、好きだったんだもん』…『…なんだか、すごく嬉しい』…

 克彦は、小さく息を吸い込み、できるだけなんでもないことのように答えた。

「いいよ。来週の水曜、今日と同じところで」

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