第5章 トラブル編 1.海の一日
夏が近づいてきた。街には開放的な夏の恋の歌が流れ、水着やリゾートウェアの売り場の面積が爆発的に増えた。
弘子は吹奏楽部の後、今井遥子とお茶を飲んでいた。
「夏って、そんなに何かあるのかなあ。遥子はさあ、どう思う?」
「さあねえ。私は今まで特に何もなかったし。合宿で好きな人を見つけたりはするけど、それって夏だからじゃなくって、合宿だからだもんね」
去年の夏を思い出して、弘子は少しの間、黙った。懐かしいけれどなんだかとても遠い夏が記憶の中を通り過ぎていった。
「ねえ、私、カレシと過ごす初めての夏なんだよね。つきあい始めたの9月だから。夏って、そんなに何かあるのかなあ」
弘子は話を元に戻した。遥子は怪しい微笑みを浮かべて上目遣いで言った。
「弘子、期待してるんだ」
「バカなこと言わないでよ、我が身を心配してるんじゃない」
正直言って、迫られたらキスくらい許しちゃおうかな、なんて思っていた。
「弘子の彼氏も寛容だよね。よくまあ逃げ回らせてるよ。感心するよ。じゃあこの夏が勝負だね、彼も」
弘子はドキッとした。そして、それが顔に出たのが恥ずかしくなって平静を装った。
「だからさ、夏ってそんなに、何かあるのかな」
「アンタにはなかなか欲情できそうもないけど…」
「失礼ね。私、これでも彼氏に言われたんだから。抱きたいって」
弘子は自分で自慢しておいて赤くなった。弘子にとって、遥子は何でも、それこそこんなことまで話せる友人になっていた。
「でも結局、それから何にもしないんだ」
「なんか、かえってそんな話したからお互い照れちゃって」
「いや、もっと深刻な問題があって、彼氏も動くに動けないのかもよ」
「何よ、深刻な問題って」
弘子が訊くと、遥子はさらりと、
「不能とか、小さいとか」
と言った。弘子は真っ赤になった。
「何の話よ!」
遥子は、今度は100%真面目な顔で言った。
「結構深刻な問題らしいわよ。そういうの。だって、弘子にそういう話までしといて手を出さないなんて、ちょっと変じゃない?」
「変じゃないよ」
「それが、わかんないんだって。Hはね、恋愛みたいなわけに行かないんだって。ホントに、体の相性とかあるらしいよ」
「え、でも、そういうのは、愛があれば…」
「そうはいかないんだって。それに、優しい人がベッドで豹変する話とかも聞くよ~?」
「どこで聞くのよ」
「姉ちゃんたちのワイ談に混ぜてもらってるから」
遥子の2歳違いの姉は女子高に通っていた。一度「アンタ共学なら、合コンの男誘ってきてよ」という用事で姉の友人の輪に加えられて以来、時折仲間に入れてもらう。彼女たちは発展家で、男女の関係についてさまざまな情報を仕入れていた。
「大丈夫だよ、先輩は絶対にノーマルで優しい人だよ」
「そうだといいけどね」
「絶対平気」
「じゃあ、ま、夏にオトナになれるよう、頑張ってね」
弘子は慌てて手を横に振った。そして力強く断言した。
「何言ってんの、私はかわすよ。逃げきるからね」
その数日後、早速克彦から、
「再来週あたりから、あちこちで海開きがあるんだけど、どこか一緒に行かない?」
という電話をもらい、弘子はかなり緊張した。
「え、海ですか。寒くないですか?」
「大丈夫だよ、海開きなんだもん」
克彦はなるべくライトにいつものように誘えるように努力していた。もちろん、いろいろ考えないわけはない。しかも克彦には新兵器があった。クルマを買ったのだ。
「…泳ぐんですか?」
弘子は訊いた。「水着着るの?」という意味だった。
「泳ぐの、嫌い?」
克彦は答えた。「そりゃあもちろん」という返事だった。
「…どうしようかな、学校の水着しかないんですけど…」
「べつに、それでもいいよ」
克彦は新しい水着をプレゼントしてもいいと思ったが、下心にしか見えない気がしてとても提案できなかった。
「いいじゃない、行こうよ。今週末会うとき、リスト持ってくから。行きたいとこに連れてってあげるよ?」
「…え、でも…」
戸惑ったが、結局、弘子は海行きをOKした。行き先の選択も克彦に任せた。「逃げきる」自信もあったし、克彦がどう出るかを見てみたくもあった。
弘子はその次の日曜に遥子につきあってもらって水着を買いに行った。子どもっぽいデザインばかり見ている弘子に対し、遥子はセパレートの水着を持ち出した。
「えー! おなか出るじゃない、これ」
「ビキニは嫌でしょ。これならパレオもついてるし、あんまりHっぽくないしさ」
たしかに胸元もあまり開いていなかったし、股上も深くて露出度はあまり高くなかった。
「このくらいしなって。彼氏にサービスだよ。アンタ普段冷たくしてるんだからさ、たまにはカレシサービスでもしなよ。飽きられちゃうよ」
試着してみるとかなり可愛かったし、案外恥ずかしくもなかったので、結局弘子はそれを買った。でも、帰宅して自分の部屋で出してみると、やっぱりセパレートはまずかったかなと思った。どうしようかな、と思っているうちに海の日曜日はやって来た。
10時に家の前に出ててよ、と言われたので、弘子は時間を見計らって玄関を出た。
「弘子さーん」
克彦は弘子に手を振った。家の前の狭い道に止められた新しい車の向こうから、車に片肘をつくようにしてもたれて手を振る克彦は格好良すぎて、弘子は仰天した。
克彦は弘子を連れて助手席の方に回ってきて、
「どうぞ」
とドアを開けた。
「え、これ、先輩のですか?」
「うん。買ったの。ローンは当分あるけど」
弘子は恐る恐る乗り込んだ。中はあらかじめ冷房しておいたのか、涼しかった。
克彦は自分の手で力強くドアを閉め、なんだかうさぎを1羽つかまえたような、悪いことをしているような気がした。
克彦は運転席に乗り込み、
「冷房より、風の方がいいでしょ?」
と窓を開け、走りだした。弘子が水着を買いに行っていた日曜日、克彦は1日中車を乗り回し、新車に慣れておいた。
弘子にはなんだか現実感が希薄に感じられた。クルマでデートなんて自分にはちょっとカッコよすぎる。しかも隣で運転している男の人だって自分にはいささかカッコよすぎる。遥子に「幼稚園生みたい」と言われたひらひらのワンピースの水着にしなくてよかったと思った。
弘子は借りてきた猫みたいにおとなしく助手席に座って運ばれていた。克彦はまだ車に慣れきっていなかったから、弘子がしゃべらないならそれでもいいかと思って運転に集中した。カーナビまではお金が回らなかったので未搭載なうえ、弘子は地図でナビをするなんてことはまるっきり意識の外だった。克彦も道は完全に確認してあった。
海水浴場は混んでいたが、うまい具合に駐車場に空きを見つけた。
「弘子さん、着替えるよね」
「先輩は?」
「俺、脱ぐだけ。下に着てるの」
「私も着てます。多分、着替えるとことか、混んでますよ。ここで脱ぎましょう」
「弘子さんがそれでよければ、いいけど。でも、人から見えるから、後ろで脱いで」
車をバックで入れたので目の前は海水浴客たちの通路だった。克彦は、弘子が服を脱ぐ様子を絶対に誰にも見せたくなかった。
素直に後部座席に移り、胸元のボタンを外しはじめたとき、弘子は克彦が人から見えるのを気にした理由がわかった。女性が服を脱いでいる様子はやっぱり人目にさらすものではない。自分のことをお子様だと思ったし、克彦を紳士で大人だなと思ったし、その中には独占欲もあるのかなと思った。
克彦は、弘子が服を脱いでいる車内にいるのは失礼だと思って、ジーパンだけさっと脱いで車を出た。自分の車の中で弘子が服を脱いでいるのは感動的だったが、じっくり見るわけにいかなくて残念だった。
弘子は変な格好でずるずると足元からワンピースを脱いで、慌ててバッグからTシャツとパレオを出して身に着け、バスタオルを出した。日焼け止めは家で母に手伝ってもらって全身に塗ってきていた。
「すみません、お待たせしました」
ここで振り返る瞬間が克彦には一番の緊張だったが、弘子はTシャツを着て前にバスタオルを少し長くたらして抱えていて、極めて露出度が低かった。克彦はガッカリするよりもホッとして、トランクからレジャーシートを出して抱えた。
2人は海に向かった。日差しは強いけれど、刺すような真夏の光線にはまだまだ及ばない。海水浴場はほどほどに夏らしく混んでいて、けれど2人でいるのに狭苦しく感じないくらいにはすいていた。克彦は砂浜を見回し、見張り小屋のような少し高い建物の日陰にシートを敷いた
「弘子さん、日焼けしない方がいいでしょ? ビーチパラソルとか借りた方がいい?」
「いえ、このくらい日陰なら十分です。どうせ海の中ではパラソルは必要ないし」
2人はそこではたと黙った。水着にならないといけない。2人はまず自分のために黙りこくり、それから相手が同じように黙っているのに気付いてさらに気まずい思いになった。えもいわれぬ間に耐えかねて、克彦が口を開いた。
「…なんか、恥ずかしいね」
(あれ、この人もしかして、下心とか、何もなくて誘ったのかな?)
弘子はうかつにもそう思った。
「とりあえず、座ろう」
克彦がレジャーシートに座ったので、弘子もとりあえず座った。そしてサンダルだけ脱いだ。克彦は、弘子がサンダルを脱ぐしぐさにもドキドキした。
海にはすでにたくさんの人たちが泳いでいた。まだ少し水は冷たいらしく、波打ち際で体に水をかけて悲鳴をあげている子供がいる。
2人は新しい車について少し話をして、また妙な間の後、
「でも、ここでずっと話してるわけに、いかないよね」
「そうですね…」
という会話をして、シャツを脱ぐことにした。克彦はあっさりと脱いだ。弘子は、克彦が脱ぎ終わってから自分だけもぞもぞやっているのが恥ずかしかったので、同じタイミングで慌てて脱いだ。でもやっぱり恥ずかしかったので、Tシャツを胸元に抱えた。
「なんか変な言い方だけど、見てもいい?」
克彦が訊いてきたので、弘子は微妙にふてくされた。
「そんな風に言われる方が、なんか困っちゃうんですけど」
弘子の言い方が「NO」ではなかったので、克彦は盗み見るように弘子を見た。あいにくTシャツを抱えた手で隠されていて胸元はあまり見えなかった。それから視線を下に下ろしていくと、水着がセパレートだったのでびっくりした。それからパレオがあって、太もものラインで克彦はドッキリして視線をそらした。でもそれからまた恐る恐る視線をつま先に向け、戸惑いながら脚先を見た。克彦があんまりのろのろと視線を動かしているので、弘子は困惑した。
「…あんまり見ないでください」
「ゴメン、どうしていいかわからなくって」
克彦は困ってひざの間に顔を埋めた。
「先輩、こういうのは慣れてるんじゃないんですか?」
弘子はちょっとイジワルに言ってみた。
「慣れてないよ、女の子と海に来たりしないもん」
「部活とか、サークルの合宿とかはないんですか?」
「高校の部活の合宿はテニスの集中練習しかしなかったよ。サークルは…わかんない、去年は山…っていうか高原だったよ。弘子さんは部活で海に来たりするの?」
「そんなアグレッシブな部じゃないですよ。森の中とか、川原とかで、音出ししてます」
またえもいわれぬ間があり、弘子がそれを振り払うように明るく言った。
「あの、泳ぎませんか? …ちょっとずつなら、見てもいいですから」
克彦のためらいや戸惑いが心地よくて、自分でも意外なくらい大胆になれた。スタイルには自信がなかったが、ドギマギさせる程度にはきっと女の子らしいだろうと思えた。
Tシャツを胸元から外す前に、水着をちょっと上に引っ張った。
「泳がないんですか?」
弘子の声に、克彦ははじかれたように立ち上がった。
「泳ぐよ」
弘子は、克彦が戸惑ったり焦ったりしているのがとても心地良かった。でも、克彦の方を見てみる大胆さはもてず、目だけは伏せたままだった。
「恥ずかしいから、ちょっと前を歩いてください」
そう言って弘子は克彦の半歩後ろを歩いた。
足先に海が触れた。6月の水温はまだ低めだった。克彦は弘子に声をかけるきっかけが見つからず、黙って自分に水をかけた。海に誘うときはいろいろと思惑があったのに、弘子に主導権を握られてしまった自分が情けなくなった。
「まだちょっと、冷たいですね」
「そうだね。大丈夫?」
そっと振り返ると弘子の全身が見えた。弘子は決して太ってはいないが幾分ぽてっとした体形なので水着がわずかに食い込んでいて、脚もちょっと太めだったし、ウエストのくびれもほどほどだった。胸はそれなりくらいにはあるから、ちょっと水着に押さえられて窮屈そうだった。なんだかそんな全身がとっても弘子らしくて、克彦にはとても魅力的に見えた。
「凝視しないでください」
弘子は両手で胸元を押さえて克彦をにらんだ。
「ゴ、ゴメン」
克彦は前を向き、後ろに手を差し出した。弘子は自然にその手を握った。克彦はそれだけで息が詰まりそうになった。まるで思春期の少年だな、と自分で苦笑した。
克彦が弘子の手をひいて振り返りもせずに少しずつ海に入っていくと、弘子が笑っているのが掌からわかった。
「え、何かおかしい?」
「だって、なんか心中するみたいだから。黙ったまま手に手を取り合って、覚悟の入水って感じです」
「だって、キミが見るなって言うから…」
克彦は振り返って弘子の腕を強めに引いた。そこへ波が来て、克彦の腰までを濡らした。克彦の腰までは、弘子の胸元までだった。弘子は思わず驚いて声を上げた。
「きゃっ、冷たい!」
「あ、大丈夫?」
腰までしか濡れなかった克彦は平気だったが、弘子は急に体の3分の2までが水に浸かって全身が冷えていた。
「わざとでしょ、先輩」
「え、違うよ、弘子さんが心臓麻痺起こしたら困るじゃない」
「先輩も浸かってください。ちょっと背が高いと思って、ずるいですよ」
弘子は水をかけ、克彦はうまく避けた。克彦は笑顔になりつつ、弘子のそんなしぐさに内心ぼうっとしていた。
(やっぱり、来てよかった…。かわいい…)
ところが、2人とも同時にはたと気がついた。
「…あのさ、弘子さん。こういう風に2人で海に来たら、何して過ごすのかな」
「実は私も今そう思ってたんです。だっていきなりクロール100メートル競泳とか、あの島まで遠泳だとか、やらないですよね」
「でも、温泉みたいにこうして浸かってるだけなのも変だよね」
2人は周りを見回した。ビーチボールをやっているカップル、浮き輪に2人でつかまって語り合っているカップル、水辺で追いかけっこをしているカップルが目に付いた。
「大したことやってないね。海の家で、ボールとか借りる?」
「いえ、…なんかそういうこっぱずかしいのは、…」
「うーん、たしかにね、なんか…そういうノリは俺も、ちょっと気合がいるかな…」
「友達とは海に来ないんですか?」
「そういえば、来ないね。プールに行ってひたすら泳いだりはするんだけど。弘子さんは、友達と海に来たりはしないの?」
「そうですね…。中学のときなら、ウチの親に車で連れてきてもらって、佳美と、かおりと泳ぎましたけど…」
「そういうときって、何してるの?」
「うーん…浮かんだり漂ったりしながら語ってます。あとは、砂遊びとか磯遊びとか。でも、先輩と砂で山作ったり湖作ったり、川作ったりするのは、なんか変…」
「そう? それはそれで、楽しそうだけど」
遠くの方に磯遊びをしている子供たちが見えたので、そっちに向かって海の中を歩いた。克彦は腰から下しか水に浸かっていないが、弘子は胸元まで水に浸かっている。克彦が何気なく歩いているのに、弘子は全身で水をかかなければ進まなかった。
「先輩、もうちょっとゆっくりにしてください」
克彦が振り返ると、ボロボロの弘子がいた。
「あれ、…ゴメン」
「水の抵抗が全然違うんです。私、ほとんど水の中ですから」
「ゴメンね。やっぱり手をつないで歩こう」
2人は水中で手をつないで、ゆっくり歩いた。はじめは弘子が半歩後ろを歩いたが、波音で話がしにくいので横に並んだ。克彦は、身長差のせいでかなり高い位置から弘子を見下ろすことになり、胸の谷間がよく見えて慌てて目をそらした。
岩場に上って潮溜まりをのぞいて回った。小さなカニや、取り残された小さな魚がいた。弘子はフナムシに驚き、克彦に飛びつきそうになって慌てて踏みとどまった。
ゆっくり戻ってきて、海の家の食べ物で遅めの昼ごはんをとった。それからレジャーシートに戻り、バスタオルをかぶって少し横になった。並んで横になっているのはドキドキした。髪が濡れて、克彦の綺麗な顔は存分に男の色気をたたえていた。弘子はそれを見て困惑しすぎて対処に困り、無邪気なふりをして無防備に目を閉じた。克彦は、このまま覆いかぶさってキスをしようかと思った。
横になったままいろいろな話をして、しばらくしてまた海に入った。でも、やっぱりやることがなかった。克彦は弘子の手を両手で持って引っ張りながら後ろ向きに歩き、弘子は足を浮かせて水の中でバタ足をした。
「ホント、海って実は、やることがないね」
2人は笑った。弘子が目の前に伸びる克彦の腕をしげしげと眺めているので克彦は足を止めた。弘子も足をついた。結構深かったので弘子はヒヤッとした。
「え、何?」
「腕の太さが違うような気がしたから…」
「うん、違うよ。ラケット持つから、右の方が太いの」
そう言って克彦が弘子から手を離し、両腕を揃えて見せたとき、大きな波が来た。やっと顔が出る深さで立っていた弘子はあっけなく飲み込まれた。
「わっ、弘子さん」
克彦が弘子の頭のてっぺんの位置をたよりに手を出すと、弘子がしがみついてきた。
「ゴメン、手離しちゃいけなかったね」
「水飲んじゃいました。しょっぱい…」
弘子は克彦の腕にしがみついたまま少しむせた。波が来るとまた沈むので、弘子は克彦に支えられて浮いていた。そこにまた波が来て、克彦は慌てて弘子を支えたまま浅い方へ少し移動した。弘子は強くしがみついた。
克彦が感触にドキッとしてそっと見ると、弘子の胸が当たっていた。さらに、手が弘子の脇腹の生肌に当たった。克彦は弘子を浅い方へおろして体を離した。惜しかったが、このままでは自分の体がどうにかなる危険があった。
「ゴメンね、弘子さんには深いの、気がつかなくて」
克彦は謝った。弘子は顔にかぶった髪を指でそっとはらった。
「すみません、大丈夫です」
まとめてあった長い髪が少しほつれて、濡れた髪が顔にかかっていた。童顔の弘子でも幾分色っぽく見えた。
次の波は弘子を無事通過したが、その次の波は大きかった。弘子は慌てて克彦の肩に逃げ、克彦も慌てて弘子に腕を回した。肌が触れ合い、弘子の胸が自然に当たった。克彦は今度は自分に勝てなかった。
「すみません、私、コンタクトレンズなんで、流されたらと思って、焦っちゃって」
弘子は言い訳をしたが、克彦に抱きついた腕を離さなかった。全身が水の中なので、誰からも見えないし、自分で自分を見て見ぬふりができた。やっぱり克彦は格好よかったし、魅力的だったし、好きでいてくれるのはうれしかったし、「水が…」なんて言い訳があったらちょっと積極的になってみたかった。
「弘子さんって、目、悪いんだ」
克彦はマヌケなことを言いながら、いつもとは逆に、弘子が腕を離してくれないかと思っていた。お年頃の皮膚は敏感に弘子の全身を感じ取ってしまう。意識の大半がそちらに持っていかれそうになり、克彦は理性的に振る舞うのがやっとだった。
「コンタクト、流れちゃうよ」
また波が来たので、そう言いつくろって浅い方へと弘子をそっと押し、体を離して鎮めようとした。
克彦が普通にしていた(と、弘子は思っていた)ので、弘子は内心とても不満だった。
(たまにくっついてあげたら、全然積極的じゃないんだから)
「口の中がしょっぱいんですけど、一度上がってジュースか何か買いませんか?」
弘子は浅い方に向かって歩きだした。克彦は弘子を追って一応歩いたが、水面が腰のあたりになるとそれ以上進めなくなり、なすすべもなく立ち尽くした。
(…まさか、男性特有の事情で水から出られません、なんて言えないし…)
克彦が困っていると、弘子は、
「どうかしたんですか~?」
と戻ってきた。克彦は「戻ってこないで…」とか細く思ったが、少女は残酷だった。
「ちょっと、先に上がっててもらっていい?」
克彦はわけありげに言ってみた。弘子に「男の事情」はわかるまいが、「何か」あるのではないかと察してほしくて、幾分困った視線を投げた。
「え? なんでですか?」
弘子が何も悟らず、しばらくぼけっと待っているので、克彦は逃げ場を失った。脳内でいろいろ考えはしたが、結局開き直ることにして、弘子に近づいて体同士があまり触れないように抱きしめた。弘子はすぐに緊迫した雰囲気に気がついた。
「ねえ、弘子さん。…あのさ、男って、欲情したときどうなるか知ってる?」
克彦は容赦なく言った。弘子はショックと恐怖にかられ、反射的に克彦から離れようとした。けれど、克彦は強く弘子をつかまえて離さなかった。
「俺、キミが可愛いから、体が反応しちゃったんだよ。だから先に上がってて、って言ったの。でも、わかってくれないんだもん…」
弘子は性的なことを意識するのが怖くて、克彦の腕を押し返してぎゅっと目をつぶり、一生懸命後ろに逃げ出そうとした。
「言いたくなかったんだけど、でも、なんでもない顔して上がっていくのもできないし…。男ってこういう風にできてるんだよ。誰でもいいわけじゃないよ、弘子さんだから可愛いと思うし、弘子さんだからこうなったりするんだよ。そういうの、嫌だとか、怖いとか思わないで。男って、こういうの一生懸命我慢してるんだよ」
かおりと佳美が「自然なこと」だと言っていた。弘子はそのことを通じてなんとなく理解した。なんとなくだったが、それは画期的な進歩だった。
弘子がおとなしくなったので、かえって克彦は心配になった。
「…わからなくてもいいから、そういうものなんだって思って。怖いことじゃないんだよ」
力ない声を聞いていて、弘子はなんだか気の毒になってきた。そして、克彦の腕が緩んだので、えいっと勢いよく逃げ出した。克彦は慌てて顔を上げた。弘子は伏し目がちに笑顔を作って、
「先にあがってますね~」
と言い、ざばざばと水をかき分けて海から上がっていった。
克彦は海の中に一人残された。自分の情けなさに涙が出そうだった。でも弘子がちょっと笑ってくれたのでホッとした。とりあえず、頭と体を冷やそうと肩まで水に浸かった。
弘子は砂浜に上がると努めて今の会話を忘れようと気持ちを切り替え、砂に埋めておいた小銭入れを掘り出してジュースを買いに行った。しばらくメニューを眺め、ついソフトクリームを買ってしまった。食べながら歩いていると、一人で沖を見つめてぼうっと海に浸かっている克彦の背中が見えた。ぽつんとして、頼りなくて、寂しげだった。
(…男の人って、結構、可愛い生き物なんだな…)
弘子は思わず笑ってしまった。
レジャーシートに戻ったらなぜか見知らぬ犬が寝そべっていた。弘子がかがんで犬をのぞき込み、指でちょっとだけソフトクリームをあげたら、背後で犬を呼ぶ声がした。弘子が振り返ると、見事に日焼けして長髪にピアスのおニイちゃんが立っていた。派手な風貌に弘子は一瞬、身構えた。
「すみません、その犬、ウチのなんです。逃げちゃって…」
彼が手にしていた切れた紐を見て、弘子は警戒を解いた。
「すみません、迷惑かけて。ゴンベー、行くよ。ホラ、ゴンベー」
派手な飼い主さんが犬の素朴すぎる名前を連呼したのがおかしくて、弘子は笑顔でその様子を見ていた。ゴンベーは日焼けした腕に抱え上げられて観念した。
「すみませんでした~。ソフトクリーム、溶けてますよ。じゃ!」
「わあ!」
弘子が溶けたところを慌ててなめたら、いつの間にかすぐそばに克彦がいて、去っていく犬と飼い主さんの後ろ姿を呆然と見送っていた。
「あれ? 先輩。上がってきたんですか」
弘子は驚いたが、ソフトクリーム救出作戦を続行した。
「弘子さん、今の、ナンパとかじゃないの?」
「は?」
「…俺、弘子さんがナンパされてると思って、慌てて飛んできたんだけど…」
「犬が逃げたんだそうですよ」
弘子はソフトクリームの溶けた部分をきれいに整えることに成功した。克彦はレジャーシートにどっかりと座った。
「なんだ…。心配しちゃった。犬だって、ナンパのダシってこともあるでしょ?」
克彦は膝を抱えてすねたように言った。弘子は犬と飼い主に感謝した。あんな会話の後でどうやって顔を合わせようかと悩んでいたのだが、見事に意識をそらしてくれた。
「私、ナンパなんかされないですよ」
弘子は克彦の隣に座り、海を見ながらソフトクリームに立ち向かった。
「…そんなことないよ、可愛いもん」
「そんな風に言うの、先輩だけです。それに、そんなに簡単にナンパされるような軽薄な人種のつもりもないですけど」
「わかんないもん。このまま俺から逃げちゃうつもりかと思った」
弘子は呆れたような、困った笑いを浮かべて、「もー」と一言だけ言った。
それからもう一度海に入って、体も冷えてきたので帰ることにした。克彦は情けない気分でいっぱいだった。たしかに弘子にそういう方面の話をするにはいいきっかけだったかもしれないが、それにしたってあんまりだ。
(…だって、弘子さんがあんな格好でくっついて来るんだもん…)
思い出すだけで体がうずいた。克彦は「海の家」と書かれたほったて小屋の小さな個室で、シャワーの温度を「水」にしてかぶった。
「すみません、お待たせしました」
待っていると、弘子が海の家の更衣室を出てきた。ほどいて下ろした濡れた髪は、弘子を艶やかに魅力的に見せていた。克彦はすぐに車に戻り、荷物をしまって弘子を乗せた。
克彦は車を出し、来たときの高速道路には乗らずに車を走らせた。弘子は来たときと道が違うことなんか全然気付いていなかった。
「ねえ、弘子さん。…今日、少し遅くなったら、ダメかな」
克彦の声が深刻そうだったので弘子は驚いた。もう十分「夏らしい冒険と、ちょっと大人への道」をやってのけたつもりでいた。
「まっすぐ帰らないで、海沿いをドライブしようよ。ゆっくり帰ろう」
「え、でも…男の人と海に行ったの、母とか知ってるから、あんまり遅いと…」
「大丈夫だよ、夜中にはならないよ」
克彦の口調は有無を言わせなかった。ハンドルを握れない弘子には選択権がない。男性の車に乗るとこういう圧倒的な力の差が生まれることを初めて知った。
弘子がかなり緊迫しているので、克彦は少し笑って、
「大丈夫だよ、とって食おうとは思ってないよ。ただ、今日はキミが俺のことをどう思ってるか、答えてくれるまで帰さないだけだよ」
と言った。弘子は、それはそれでもっと困った。
「…なんでそんな風に、言葉にこだわるんですか? 私、誰とでもこんな風に2人っきりで海に来たり、しませんよ」
「うん、わかってるよ」
「だったら…いいじゃないですか、私にとって、先輩は特別な人なんですから…」
弘子は、自分の中でめいっぱい、最大限の誠意を見せた。たったひとつ、好きだという言葉は、パンドラの箱の封印のような気がして言えないだけ…。
「うん、弘子さんにとって俺が特別な人になったのは、去年の9月から知ってる」
妙にさわやかな笑顔の克彦を横目でそっと感じて、弘子はますます怖くなった。
克彦は半分やけっぱちの上機嫌でハンドルを握っていた。カゴの中にはうさぎが1羽。今日の仕返しをしたい狼と一緒。
「あ、ホラ、弘子さん、鳥がいっぱいいるよ」
すっかり黙ってしまった弘子に、克彦は声をかけた。
「ホントだー、すごい数ですね~」
弘子はできればこのままなんでもなく都心に戻って、不穏な気配をうまく流してしまいたかった。しばらくは楽しいドライブを続けた。
途中、トイレと休憩を兼ねてファミリーレストランに寄った。そこを出ると、19時を回っていた。しばらくしてから、克彦は笑顔で、
「これから都心に入っても、帰るまでに結構時間かかるんだよね。道混むし。遅くなって弘子さんのご家族に嫌われたくないから、今のうちに煮詰まっとく?」
と言った。弘子は哀れな囚われのうさぎだった。
「別にいいじゃない。素直に俺のことを好きって言ってくれればいいだけだよ」
克彦は海沿いの大通りをそれて、山に近い方向に進路をとった。弘子は、つくづく自分が男を甘く見ていたと思った。
車が止まった。森の中の小道で、前方に「立入禁止」という札が立っていた。克彦はエンジンを切ってキーを抜いた。ヘッドライトが消えたらほぼ闇だった。
「ね、…弘子さん、俺のことどう思ってるの?」
今までに何度も繰り返された克彦のセリフが静かに響いた。
「俺、淋しいんだよ。いつまで、こんな風に片想いでいればいいの?」
片想いなんかじゃない。でも、好きだという言葉だけが弘子の中で頑なに凍ってしまって出てこない。
「ねえ、それでも言わないの? 言ってくれるまで、帰らないって言ったはずだよ?」
弘子はうつむいた。
「…俺が淋しいって言っても…キミはなんとも思わないの? どれだけ待てばいいの? 俺一人が一生懸命で、弘子さんはそれを楽しんでるだけなの?」
そんなことはないと弘子は言いたかった。でも、言いたいだけだった。
「キミが口を開くまで、絶対に車出さないから」
克彦はハンドルにもたれて窓の外の方に顔を向けた。真っ暗な森が見えた。このままおかしくなって、弘子を殺してしまうんじゃないかと思うくらいに怪しくて怖い森だった。
弘子は困り果てた。唇を湿らせて、やっと声を出した。
「…だって、こんな状況で何を言っても、本当かどうかわかんないですよ。早く帰りたくて、嘘をつくかもしれないし…」
「じゃあ、嘘でもいいよ」
克彦はそのままの姿勢で言った。弘子はひるんだ。
「嘘でもいいよ、もう。ごまかして、家に帰るためだけにでも、好きだって言ってよ。もう、気持ちなんて嘘でもいいよ。俺、こうしてキミといる理由がわかんないんだよ。なにかキミが俺にここにいてほしい理由を教えてよ。俺はキミの何なの? 好きじゃないならそう言えばいいじゃない」
弘子はその剣幕に押され、また黙ってしまった。
また長い沈黙が訪れた。克彦はいたたまれなかった。弘子がここまで黙っている理由がわからない。ささやかに抱いていた自信は消えかかっていた。
「…それとも、一晩中、ここで一緒にいようか」
克彦は最後のカードのつもりで身じろぎもせずに厳かに言った。闇の中、弘子が不安げに身を震わせるのだけがわかった。
「黙ってるってことは、それでもいいの?」
弘子は、黙っていたら本当に何事か起きてしまうと思い、慌てて月並みなことを言った。
「…私、先輩を信じてますから」
「男なんて信用しちゃダメだよ。俺だって、何するかわかんないよ」
「大丈夫です、先輩はそんな人じゃないから…」
克彦は皮肉な笑い顔になった。
(そんな言い方も、挑発になるんだけどね…。そんな人か、そうじゃないか、教えてあげてもいいんだよ?)
静寂が流れた。克彦は弘子が自分におびえていない――ように見えるだけだったが――ことにイライラした。そして、答えないということは、やっぱり本当に好きではないのかもしれないと思った。弘子の性格なら、好きでもない男には、命と引き替えても好きだなんて言わないだろう。
「ねえ」
克彦の声は怒っていた。
「もしかして、俺が思い上がってるだけで、弘子さんは、本当は俺のこと、全然好きじゃなかったりするの? 例えば、他に、本当は、好きな人がいるとかさ」
弘子は「脅し」を通り越した克彦の本気の声に焦った。怒らせるつもりはなかった。
「そんなことないです、…今の私にとって、先輩は一番大切な人です」
弘子は一生懸命告白の言葉を口にした。これだってとても重い言葉だった。
「それは、消去法で?」
克彦は自虐的な口調で言い返した。
「なんでそんな言い方するんですか? 私、真面目に言ってるのに」
「じゃあ好きだって言ってよ。大切だなんて、家族に対してだって、担任の先生が生徒に対してだって言えるよ。俺が欲しいのは、キミの、アイ・ラブ・ユーっていう意味の言葉なんだよ。優しいとか、信じてるとか、大切だとか、そんなのはどうでもいいんだよ」
弘子は答える覚悟を決めた。でも、いざ言おうとするとなかなか勇気が出なかった。弘子の唇は何度も空を切った。緊張しすぎてのども渇いていたし、体には妙な緊張で力が入って震えがきていた。何度も言おうとして息を吸い込んだが、ずっとずっとしまっておいたから、上にたくさんの荷物が載ってしまったような気がして、重かった。
「…それでも、弘子さんは何も言わないんだね」
克彦の声の方が早かった。克彦は助手席の方に倒れこむと、弘子に覆いかぶさるようにして座席の下のレバーを引いた。弘子が驚いて体を後ろに引くと、途端に背もたれが倒れたのでもっとびっくりした。弘子もそのままバランスを崩してひっくり返った。
「それとも、俺が鈍感なだけで、弘子さんはこうしてほしかったのかな」
克彦がゆっくりと、平らになった助手席に上ってきた。弘子は、克彦がシートを倒したことにやっと気付き、感心した。
(へえ、車で女の子に迫る時って、こんなふうにするんだ…)
それは精一杯の現実逃避だった。
「何度も、言わないならこうするよって言ったのに」
克彦は弘子の手首をつかんでシートに押し付けた。弘子の手が震えていることに気がついた。でも、自分の手も震えていた。
弘子は、せめて意思表示だけはしようと思い、克彦の手を押し返そうとしたが、克彦が体重をかけていてカケラも抵抗できなかった。
克彦は、いくらか闇に目が慣れたうっすらした視界の中で、弘子の唇がかすかに動くのを眺めた。弘子の体は凍えたように震えていた。
「弘子さん…」
克彦は弘子の額にキスをした。それから頬の上の方、それから頬の下の方にキスをした。弘子は必死で何かを言おうとしたが、どうしても声が出ない。次は唇だと思って緊張した。克彦はその緊張に気付いて、もうちょっとうさぎを苛めてみようかと思った。唇に触れるようなふりをして、直前で止めてあごの方にそれてまたキスをして、それから首筋にキスをした。弘子は首をすくめて顔をそらした。ライオンの爪の下にいるうさぎのように、ただ震えて成り行きを感じることしかできなかった。
克彦は、そろそろ唇にキスをしようと、弘子の顔を上に向けるため頬に触れた。その時初めて、弘子が泣いていることに気がついた。
(やっぱりね…そうだよね、こんなの、ひどいよね)
克彦は、自分の中の欲望をなんとか押さえ込むことにした。厳しい戦いだったが、なんとか理性の方が優勢になった。
「…ゴメンね、なにもしないよ…」
そう言って弘子の肩のあたりに顔を埋めた。
「もう少し、このままでいさせて…。鎮めるの、結構大変なんだ…」
克彦は深いため息をついた。弘子は濡れた目でまばたきをした。克彦の肩が苦しそうにゆっくり息をしているのがわかった。弘子は、克彦の背中に腕を回したいと思った。なぜかはわからなかったが、自分が克彦を愛しいと思っていることはわかった。
「弘子さんは、ずるいよ…。結局、知ってるんだよ、俺が何もできないこと…」
克彦はなんとか起き上がり、運転席に戻ってもう一度助手席の方に身を乗り出し、弘子を抱き起こしてから座席を元に戻した。弘子はぼんやりしたまま涙をタオルでぬぐった。体は震えすぎて筋肉に疲労がきて、なんだか力が入らなかった。
結果的に弘子の「そんな人じゃない」が正解だったことに克彦はガッカリした。そのままじっとハンドルにうつぶせて、自分の興奮を鎮めるのにゆっくり時間をかけた。
一番長い沈黙の後、克彦はふっきれたようなため息をついて、
「…帰ろうか」
と言った。そしてエンジンをかけ、ライトをつけた。
「嫌いになった?」
暗い道を走りながら、克彦は訊いた。
「信じてるって、言ったはずですけど」
弘子はやっと少し笑顔になった。
「…信じてるっていうのはさ、『いい人』って言われるのと同じくらい、男にとって情けないんだけどな」
(何をしても、俺の負けなんだもん…。実力行使もダメなら、一体どうしたらいいんだ?)
克彦は途方にくれた。でも、組み敷いて首筋に口づけたときの感覚を思い出すと、今日の収穫はなくもなかったような気がした。
弘子の胸に、『自然なことなんだよ』と言っていた親友たちの言葉が重く響いた。克彦の唇が首筋や胸元に触れたとき、自分の体が熱くなった気がした。けれど、自分が大人になるなんて、考えたくなかった。
克彦は弘子を家まで送り、降りようとする弘子を引き止めて、真剣に、
「愛してる」
と告げた。今日一日、結構弘子に狼藉を働いたことへの言い訳だった。
弘子は、「私も」と言いかけて、ちょっと戸惑った。でも、結局、やっぱり言えずに車を降りてしまった。
「今日は、ありがとうございました。じゃあ、また…」
弘子はそれだけ言ってドアを閉めた。




