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第4章 接近編 4.周辺事情


 克彦は土曜日、サークルに行く前に大学の図書館へ本を返しに行った。図書館は学校の西門のそばにある。本を返して出てくると、聞き覚えのある声が聞こえた。

「離してよ!」

 恵梨の声だった。克彦は驚いて声のほうを見た。西門のガードマンが何事かと見に行き、しばらくして恵梨が走って門を入ってきた。

「あれ、山根くん」

 恵梨は何事もなかったように克彦に声をかけてきた。

「高田先輩、なにかあったんですか?」

 克彦が心配して訊くと、恵梨は決まり悪そうに答えた。

「うーん、また痴情のもつれ。さっき、恋一つ、終了しました。出るでしょ、サークル」

 恵梨は克彦の半歩前を歩きだした。

「痴情のもつれって…大丈夫なんですか? 最近、逆上して女性を刺したりするの、流行ってるじゃないですか、」

「たいがいは大丈夫でしょ」

 恵梨は気楽そうな口調で言った。それから半歩後ろを歩く克彦を振り返った。

「何よ、心配は以上で終了なの?」

「いや、そりゃあ心配ですけど、いろいろ訊いたりしても失礼だし…」

「そうね、人生いろいろあるからね。今回は悪いのに引っかかっちゃったわ」

 話しながら歩いていると部室に着いた。恵梨は着替えに行き、克彦は勇也にこっそり伝えた。

「なんか、高田先輩、また男と別れたみたい…。次の男がいるかどうかは知らないけど、とにかく、今日、さっき別れたばっかりらしいよ」

 勇也は黙ったまま、顔の前で手を合わせて「恩に着る」という仕草をした。

 その日の帰り、勇也は部員の群れの後ろを一人で歩いていた恵梨をつかまえ、飲みに誘った。恵梨はわずかに考えるそぶりを見せた後、

「山根くん、やまねくーん」

 と前方を歩いていた克彦を呼んだ。勇也は「まずいな」と思ったが、すぐにあきらめた。

「高崎くん、悩みの相談があるんだって。一緒に聞かない?」

 克彦は状況を察知した。そして、恵梨が「かわし」に入っているのにも気付いた。

「え、俺行ってもいいの?」

 克彦はわざと鈍感なふりで勇也に向かって言った。勇也は躊躇したが、

「あ、いいよ、じゃあ3人で」

 と答えた。4人目、5人目を呼ばれないようにとそれだけを祈った。

 解散後、克彦と勇也と恵梨は3人で輪を離れた。

「高崎くんのオゴリだよ。3人分ね。安い居酒屋にしてあげるから」

 恵梨はそう言って先頭を歩きだした。後ろで、克彦はそっと勇也に、

「俺、うまく途中で抜けるから」

 と言った。勇也は克彦がちゃんと悟っていたのでホッとした。

 しばらくは3人で飲んでいた。勇也は一刻も早く本題に入りたかったので少々イライラした。恵梨がトイレに立った隙を見て、克彦は、

「じゃ、俺はこれで。出て少ししたら、急用ができて帰るってケータイに電話するから。あ、後でちゃんとお金は払うから、請求してね」

 と言って店を出ていった。勇也は、この状況で「金を払う」と言われるとは思っていなかったので、克彦の真面目さに笑ってしまった。

 恵梨は、しばらくして勇也の携帯電話に克彦から「帰る」と連絡が入ったと知らされ、「やられた!」と思った。うかつにも克彦を信用していた。

 それから1時間もしないうちに克彦の携帯電話が鳴った。勇也からだった。克彦は、こんなタイミングで電話してくるようじゃダメだったんだなと思った。

「もしもし。俺。今日はいろいろありがとう。おかげで気持ちを伝えることはできたよ」

 言い方で首尾を確信した克彦は、「ああ…」とあいまいに反応した。

「お察しのとおり、玉砕。しばらく男はこりごりだって。エントリーには加えてくれって言ったんだけどさ、多分100番目くらいになるけど、いいか、だって。キビシイお返事…。なんか一人になりたくなくて、つい電話しちゃったんだけど」

 克彦はもう一度時計を見て、「今から行くよ」と勇也に言うと、親に断って家を出た。

 勇也はせまいワンルームマンションに一人暮らしだった。勇也は飲み物を持ってきて座り、克彦にソファを勧めた。勇也はしばらく愚痴っていたが、

「おまえも、なんか悩みとかあるの?」

 と話を向けてきた。克彦は微妙な笑いを浮かべて答えた。

「…悩み? いろいろあるよ」

「今度は俺が何か力になろうか?」

 勇也の申し出に、克彦は自虐的に笑った。

「無理だよ。悩みの根っこは全部、彼女が俺のこと好きかどうかわからない、ってことだから。つきあってるのも、俺の熱意に負けただけとか…、案外、彼氏がほしいっていうだけだったりしてね」

「何、何。おまえ、そーいう状況なの?」

「そーいう状況なの。彼女は、俺のこと好きだって言ってくれないの。だから、キスもできないの。俺が多くを望まなければ、うまくいってるのかもしれないけど…」

「キス、まさか、まだなの? え、つきあってどのくらい?」

「ええと…OKもらったのが9月だから…7ヶ月くらいかな」

「ありえない…。まさか、まさかと思うけど、相手は全然そのつもりなくて、おまえが一人でつきあってるってカンチガイしてるとか、ないよな?」

「うーん、俺がちゃんと気持ち伝えて、OKしてもらったから大丈夫なはずだけどね」

 そのまま2人は明け方近くまで話をした。そして、勇也は今にもおかしくなりそうな失恋の痛手から少しだけ救われ、克彦は弘子への想いをさんざん吐露した。


 次の土曜日、勇也はサークルに顔を出すだけ出して、微妙に「用があるから」と語尾を濁して早々に帰っていった。その日はコートが取れなかったので、数人が漫然と部室で過ごしていた。

「山根くん」

 座ってテニスの雑誌を読んでいると、頭の上から恵梨の声がして、克彦は驚いた。

「キミさあ、先週はやってくれたじゃない」

「え、なんのことですか?」

 克彦はとぼけた。

「キミのことは私が助けてるんだから、私にはキミのほうが助け舟を出してくれてもいいんじゃないの?」

 恵梨はそう言って部室の椅子を勢いよく引き寄せ、どっかりと座った。

「…でも、あいつも、いい奴ですよ。先輩のこと、本気だし」

「余計なお世話。私は、男は自分で選ぶの」

「でも、候補には入れてみてもいいんじゃないですか?」

「いいの、しばらく男は要らない。でも、『彼氏』は要らないけど、恋はしていたいなあ。久しぶりに、片想いとかしたいな~。物陰からそっと眺めたり、プレゼント渡したりさ。少女の頃に戻りたいよ。女って、少女とは違う生き物なんだもん。悲しいよね」

 恵梨はそう言って淋しい笑顔になった。

「違う生き物って? どう違うんですか?」

 克彦が不思議がって訊くと、恵梨は意味深な表情に変わって、

「山根くんの彼女は、少女のままだよね。いいなあ。女は少女には戻れないのよ」

 と言った。克彦にはちっともわからなかった。

「山根くんには、永遠にわかんないわ。女にしかわかんないのよ。少女にもわかんないの」

 そう言い残して、恵梨は「コートないから、今日は帰る」と出ていった。

 恵梨が男と別れたことがわかると、またサークルはちょっと落ち着かない雰囲気になった。恋愛ご法度のサークルだが、人の心までは制御できない。克彦は、恵梨が「恋愛はサークル終了後に」を標榜するこのサークルを選んだ理由がよくわかった。背後で先輩たちが「エリって、デート誘ったら来ると思う?」と話している声が聞こえた。ご面倒なことで、と克彦は恵梨に同情した。


 同じ日の夕方、弘子の姉の美佐子は、すごい剣幕で帰ってきた。ドアを勢いよく閉め、靴を放り投げるように脱いでドスドス音を立てて居間へと現れた。

「あら、出かけたばっかりじゃない」

 母親は目を丸くした。美佐子はデートだと言って1時間半ほど前に家を出たばかりだった。

「別れた。もう知らない、あんなオトコ」

 美佐子はソファにハンドバッグを投げ捨て、冷蔵庫を開けてビールを取り出した。

「あら、あら、ごはんの後にしなさい」

 母親の言葉が終わるのと同時に、弘子が帰ってきた。

「ただいまー」

 美佐子は弘子の声のする方をにらんだ。そして、何も知らずに入ってきた弘子を見るや、

「ちょっと、アンタのオトコ頂戴よ」

 と言い出した。弘子は面食らった。

「何よ、いきなり」

「アンタ、弘子のくせにいいオトコとつきあいすぎよ、私のオトコはあげるから、アンタのオトコを頂戴よ」

「なんで、そうなるのよ」

「この、赤い口紅を塗ってやる。アタシのカレシは、自分でプレゼントしておいて、これを似合わないと言ったのよ。これは不幸の口紅だわ。塗ってやる」

 美佐子は弘子に迫り、本当に口紅を振りかざした。

「カレシとキスができなくしてやる~」

「えー! 元から、しないよ!」

 弘子は母親に助けを求めた。

「おかあさーん、お姉ちゃんがおかしいよ~」

「ケンカでもしたんでしょ。あと、おなかがすいてるのよ。もうちょっと待ってね、ごはんできるから」

 美佐子は弘子を追ってきて、突然台所をのぞき込んで、

「ごはん、いつできるの!」

 と怒った口調のまま訊いた。弘子は吹き出した。美佐子はじろりと弘子をにらみつけ、二階へ上がっていった。

 母親はニコニコして弘子に言った。

「山根先輩、今度、連れてらっしゃいよ」

 弘子は驚き、あわてた。

「え! 嫌だよ」

「いいじゃないの。お母さん、じっくり見てみたいのよね」

「お母さんだってお父さんだって、見たじゃん。それでいいじゃない」

「見たのと会うのは違うわよ」

「姉ちゃんの彼氏だって、見たことないでしょ」

「そうねえ。だって、連れてこいって言ってる間に、相手がかわっちゃうんだもの」

 そこへ美佐子が戻ってきた。

「ごはん、いらない」

「え?」

 母親は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。弘子もあっけにとられた。

「今から、彼が迎えに来る。デートのやり直し」

 美佐子は上機嫌でハンドバッグと携帯電話を拾い、洗面所に入ると「不幸の口紅」で念入りにメイクを直した。そして携帯電話が鳴るのを待ち、「行ってきまーす」と出ていった。弘子は呆れつつ、そんな姉を可愛いと思った。

 弘子は食事を終えて自分の部屋に戻り、一人でぼうっと考えていた。美佐子の口紅の赤はとてもきれいだった。あの赤は、多分弘子に似合わない。化粧栄えのする美佐子のきらきらする唇を思い出していた。なぜか、克彦とのキスを意識した。

(…山根先輩とキスするの、嫌?)

 自分に訊いてみた。まぶたに綺麗すぎる克彦の顔が浮かんで、弘子の胸が甘くうずいた。恥ずかしくなって机にうつぶせた。

(素敵かも…)

 顔に手をかけられて、唇が近づいた瞬間を思い出した。夢のような場面に思えた。

(…でも、そしたら、どうなっちゃうんだろう)

 弘子の心を不安がよぎった。

(山根先輩は、私に飽きないでいてくれるかな。私がキスを許した途端、魔法が解けて王子様に戻ってお城に帰っちゃったりして。…それとも、逆かな。…もっと積極的になって、私のことをどうにかしたがるかな。佳美みたいに、悩まなきゃいけなくなるかな。…それってつまり、キスがHに変わっただけで、単なるエンドレスじゃないのかな。私はそこまでは絶対に許すつもりはないし、結局同じじゃないかな)

 そう考えると、やっぱり今のままでいるほうがいいような気がした。弘子は現状に満足していたし、何も変えたくなかった。


 克彦は2週間ぶりに弘子と会えるのでそわそわして駅で待っていた。遠くに弘子が見えたとき、切なさのかたまりが胸を貫いた。弘子は克彦を見つけ、走ってきた。克彦は迎えるために早足で弘子に歩み寄った。

「すみません、お待たせしました」

 弘子が息切れですこしむせ、口元に手を当てたのを見て、克彦は唇がほしくて切なくなった。不意にベッドの引出しの中にあるもののイメージが浮かび、克彦は弘子の肩に腕を回して身長差という物陰に隠れた。

「あのさ、…キミの家か、俺の家に行かない? 弘子さんの部屋も見たいし、俺の部屋も見せたい」

 克彦は弘子と2人っきりになりたかった。そして、一歩でも先に進みたかった。しかし弘子は控えめに答えた。

「ウチ、きたないから…。私の部屋も片付いてないし。それに、先輩のおうちだとご家族がいらっしゃいますよね。ちょっと、まだ、乗り込む気にはなれないです…」

 克彦は素直に、

「…2人っきりになりたい」

 と言った。弘子は困惑した。煮詰まりそうなところには行きたくなかった。

「でも、どこへ行くんですか?」

「弘子さんって、俺と2人っきりになりたいとか、思わないの?」

「じゃあ、ボートに乗れるところに行きませんか? あれは2人っきりになれますよね」

 そうじゃなくて、と克彦は思った。もちろん、弘子もかわすための苦肉の策だった。

 それでも、2人は本屋で調べて、ボートに乗れる大きな池のある公園へ行った。

「ねえ、弘子さん」

 克彦は岸を離れると、真剣な声になった。

「…あのさ、俺、…もう待てないよ」

 弘子は、逃げが失敗だったことに気づいた。広い池の真ん中の「二人っきり」は、誰にも聞かれないで煮詰まった話をするには丁度良かった。

「ねえ、俺のこと、どう思ってるの? ねえ、なんとも思ってくれないなら、別れようよ。俺、淋しいんだよ。こんなにキミのこと好きだって言ってるのに、どうして答えてくれないの? 弘子さんって、ただ誰でもいいから彼氏がほしいだけなの?」

 弘子は目を伏せた。答えはとっくに出ている。

「俺は、弘子さんのこと、女性として愛してるんだよ。だから、抱きしめたいし、キスもしたい。弘子さんにも俺のことを愛してるって言ってほしいし、弘子さんからも抱きしめてほしい。それって、おかしいと思う?」

 弘子はやっぱり黙っていた。

「…ねえ、どうして何も言わないの? 黙ってるなら、俺のこと嫌いなんだって思うよ。嫌いなの?」

 弘子は心の中で何度も好きですと答えていた。でも、一度口に出してしまったら後戻りできないと思い、どうしても勇気が出なかった。

「つきあってて、『好きでも嫌いでもない、普通』とかいうの、ナシだよ。俺、好き以外の答えなら、身を引いてもいいと思ってるんだよ。俺の片想いなら、もういいよ」

 克彦はそこまで言って黙った。自分が言葉を続けている限り弘子は答えないだろう。じっと待ったが、弘子はじっと固まってしまっていた。克彦は、弘子が口を開くきっかけを探そうとボートをこいでゆっくりと流した。

「…私、今のまま変わりたくないんです」

 弘子はやっと口を開いた。

「先輩は、私を追いかけてるのが楽しいんじゃないかなって、思うことがあるんです。私が応えたら、すぐに冷めちゃうんじゃないかなって気がするんです。私だって、どうでもいい人とつきあうような不真面目な奴じゃないですよ。でも…」

 やっぱり、好きだとは言えなかった。

「なんだか、私が好きになったら、この関係が終わっちゃうような気がするんです」

 弘子はそれだけ言って黙った。ボートの櫂のきしむ音と、水の音が交互に響いた。

「…じゃあ、今は俺のこと、まだ好きじゃないの?」

 克彦は静かに言った。弘子はちょっと考えて、…好きと言わずに気持ちを伝える方法を考えて、

「私、先輩にいなくなってほしくないんです」

 と言った。

 克彦は弘子の気持ちをなんとなく察したが、確信は持てなかった。思い上がりのような気もした。だから、弘子を追い詰めて、言葉を引き出したかった。

「じゃあ、好きだって言ってくれたら、いなくならない。でも、このまま弘子さんがそんな風に俺から逃げつづけるんだったら、俺はもうあきらめる」

 でも、克彦の勝負をかけた言葉に、弘子は神妙に、

「…それなら、それで、仕方ないです」

 と答えた。克彦の、少しだけ期待していた気持ちがあっという間に消えた。

「私、先輩が私にガッカリしていくのを見たくないんです。私が先輩のことを追いかけたら、先輩は冷めちゃうんじゃないかと思うんです。それなら、先輩が私のことを好きでいてくれるうちに終わった方が、いい思い出になると思うんです」

 克彦はしばらく言葉が出てこなかった。

「…あのさ、弘子さん、俺たちって、アルバムに貼る写真を作るためにつきあってるわけじゃないでしょ? なんで、思い出を美しくするために現実を不幸にすることを考えるの? それより、一緒にいて、一緒に幸せになった方がいいでしょ?」

「だって、恋愛はいつかは終わるんですよ」

「結婚するかもしれないじゃない」

「だって、私まだ16ですよ。5年経っても21ですよ」

「10年経ったら26だよ」

「10年もかかるんですよ。そんなに長く、うまくいくとは思えないじゃないですか…」

「何でそれを、今決めるの? 俺はずっとそばにいたいよ。5年でも、10年でも、ホントは一生一緒にいたいって言いたいよ。嘘くさくなるからまだ言わないけど、できれば、一生って言いたい。俺も、いつか終わるかもしれないと思うと怖い。でも、弘子さんが立ち止まってたからって、その分長く続くわけじゃないよ。実際に俺、弘子さんのこと、あきらめるしかないのかなと思ってるよ。

 そうじゃなければ、弘子さんにとっての俺って、単なる『彼氏がいる』っていう自己満足なの? いてほしいけど好きじゃないっていうのは、そういうことなの?」

「彼氏がいることじたいは、やっぱり、嬉しいです。でも、誰でもいいから彼氏がほしいとは思わないし、誰でもいいんだったら、先輩に6月に初めて電話をもらったときに、簡単にOKしてます」

「ねえ、6月って言ったでしょ。もう4月だよ。もう9ヶ月以上たったよ。ちゃんとつきあい始めてからも、7ヶ月たったんだよ。保留とか、考えてるとか、そんなの言い訳だよ。好きになれないか、好きだけど言ってくれないか、どっちかなんでしょ? どっちなの?」

 どっちかなんて決まっている。でも、克彦がなぜ自分を選んだのかわからないから、何に自信をもっていいのかわからない。自信がないから、弱みになる気持ちはさらけだせない。けれど、もう好きになってしまった。だから弘子は臆病になっていた。

「…好きになるのが怖いんです」

 克彦は弘子の答えをため息混じりに糾弾した。

「じゃあ、まだ、好きになってないってことなの?」

 弘子はうつむいて一生懸命言い訳した。

「それは、…どこまでが好意で、どこからが好きなのか、わからないから…」

「そんなに難しく考えないでよ…。弘子さんは、きっと、俺のこと、好きだよ。考えすぎてるだけだよ」

 克彦は弘子の気持ちを決めつけてみた。

「…あるいは、そうなのかもしれません」

 弘子は最大に譲歩してそう答えた。克彦はホッとして笑顔になった。

「じゃあさ、もっと単純に、簡単に考えて、俺のこと好きだって言って」

「だから、そんな風にインスタントには、いかないんです」

 弘子は相変わらず困った顔をしていた。しばらく待ってみたが、弘子が追い詰められてしまうのが怖くて、克彦が折れた。

「じゃあ、今日はこのくらいにしとこうか」

 きっと俺のこと好きだよ。克彦はもう一度心で繰り返した。

 夕方、別れ際、克彦はいつものように弘子を抱きしめた。

「ホントは、キスしたいんだよ。でも、弘子さんのために我慢してるの。ずっと我慢してるの、知ってるよね?」

 もちろん知っていたが、弘子は恥ずかしくてうなずけなかった。

「…我慢しなくてもいい?」

 克彦の緊張が伝わってきた。弘子は息が詰まるほど驚いた。このところそういうピンチが訪れなかったので慢心していた。そして、胸に甘い疼きを感じた。

「ダメって言わないと、キスしちゃうよ?」

 弘子は「どうしよう」「どうしよう」と心で連呼した。許してもかまわないと本当は思っていた。好きだと言わないかわりに唇を許そうかと思った。

 克彦は、弘子がじっとしていて、しかも迷っているようなので、ちょっとした発見をした気がした。

(OKしようかなっていう気持ちはあるわけだ?)

 しかし、身長差を詰めていき、なんとか顔が近づいた途端、弘子は伏せた目を上げて克彦を正視して、いきなり我に返ってしまった。弘子が慌てて克彦の胸に潜り込んだので、克彦はどうにも対処できなくなった。

(なんで、逃げちゃうんだろう…)

 弘子はちょっと残念に思った。けれど、いざとなるとやっぱり怖い気がした。

 逃げられはしたものの、克彦はいい気分だった。キスする気がないのではなく、迷っているだけだ。今回は、ダメならダメと答えるのは簡単だったはずだ。

「こんな風に、つきあいが進展するのって怖い?」

 克彦に訊かれ、弘子はしばらく黙って、それから小さくうなずいた。

「俺がこんな風にしたがるのって、おかしいと思う?」

 弘子は小さく首を横に振った。

「うん、…わかってね。今まで誰ともつきあったことがないんじゃ、やっぱりそう簡単には先に進めないのかもしれないし、俺だってキスしたことないからすごく緊張するよ。でも、つきあうってことは、少なくとも俺はキスしたいと思うし、…それにね、…ホントは、俺、キミを抱きたいと思うこともあるんだよ」

 克彦の告白に弘子は硬直した。言葉の意味はわかったが、「どういうこと?」と頭で繰り返していた。うまく飲み込めず、言葉だけがカラカラと頭の中を回った。

「あ、もちろん、すぐそうしたいなんて言わないよ。ずっと先だとは思ってる。でもね、俺がそういう気持ちになるんだってことは、わかっててほしいの。俺だって男なんだよ。なんだか、弘子さんにはそういう認識がないような気がして、不安だよ。まだまだ子供っぽいところも好きだけど、俺の気持ちは、普通の男として、普通にキミを一人の女性として愛してるの。キミは俺のこと、そういう対象にしてくれてるのかな。男だと思ってる? 俺がいつか、キミのことを体ごと欲しいって言いだすかもしれないってこと、わかってる? 男とつきあうって、そういうことだよ」

 弘子はただ聞いているだけで、身じろぎひとつしなかった。完全にキャパシティをオーバーしていた。親友2人もこんな道を通ってきたのかなとだけ思った。

 呆然としている弘子を見て、克彦は慌てて、

「ゴメン、驚かせちゃったかな…」

 と言って優しく髪を撫でた。

「無理して理解してくれなくてもいいから、知っていて。…大丈夫? 俺のこと、怖くなった? ついていけなくなった?」

 弘子はゆっくりと首を横に振った。親友たちの言っていた可能性がこんなに身近にあったとは思わなかった。でも、友人たちからそんな話を聞いていた分だけなんとか免疫ができていた。もしいきなり言われていたら、話半ばで逃げ帰っていたかもしれない。

 弘子は、克彦がこんな風に丁寧に諭してくれる人でよかったと思った。いきなり濁流に流されるように進展していたら困惑しただろうとも思った。けれど弘子にとっては、案外流されてしまった方が楽だったのかもしれない。

 克彦は、弘子が思いのほかおとなしく聞いていてくれたのでホッとした。でも、弘子がちっとも「恋愛」「男女関係」という認識をしていないような気がしてもどかしかった。

 この日の会話はしばらくお互いに意識しないようにした。けれど、忘れたようなふりをしながら、2人の心の中に少しずつ何かは育っていた。避けて通れない大人への道が前方へ伸びていた。

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