第4章 接近編 3.もっと
クリスマスが過ぎ、新年がやってきた。克彦と弘子は一緒に初詣に行った。克彦は弘子と生涯一緒にいたいと願い、弘子は今年一年を克彦と一緒に過ごせるようにと願った。
手をつないで歩き、ときどき克彦が弘子を抱きしめる、そういうつきあいが続いた。抱きしめると弘子は決して逃げなかった。克彦はそれに気付き、デートの帰りがけにはできるだけ気持ちをこめて抱きしめるようにした。時折、髪を撫でるふりをして首筋をそっと指でなぞったりして、少しだけわからないように性的なアクションを加えることもあった。弘子の反応がないことに克彦はガッカリしたが、弘子は本当は、ちょっとだけ気づいていた。けれど、あまり性的なことを考えたくなかった。自分が何かしら考えていることじたいがみっともない気がしていた。16歳は、絶対に子供じゃない。気付いていないと思ったのは克彦の女性に対する認識不足だった。
もたもたしていると2月になり、バレンタインデーが近づいてきた。克彦は例年になく余裕をみせていた。彼女がいることがあちこちに知れているので厄介なことにはならないだろうし、なんたって今年は好きな女の子から特別なチョコがもらえる。
(チョコはチョコで嬉しいけど、キスくらい、そろそろくれてもいいんじゃない?)
克彦は、イベントごとに何かを期待している自分が可笑しかった。ある程度は自分でチャンスを作れるはずなのに、そういう努力をすることからは逃げていなくもなかった。
克彦はだいぶ自信がついていて、自分が弘子の中でトップの地位を確立していることはよくわかっていた。けれど、弘子の中で、恋愛の対象として、恋心を感じているラインを越えている自信はなかった。「ファーストキスを与えていい存在」にまで自分が至っているかわからない。克彦は勝手に弘子のキスを「ファースト」と決めていて、まあ果たしてそれは事実だったわけだが、ファーストキスとなるとおいそれと自分の気持ちだけでは奪えなかった。
(…俺のこと、好き?)
それが心の中でのいつもの質問になった。以前訊いて弘子を悩ませたことがあるので口に出して訊くのは躊躇したが、もういい加減好きかどうかくらいハッキリしてもらいたい。バレンタインデーは絶好のチャンスだった。必ず弘子の気持ちを聞き出そうと思った。
一方、弘子は、もう克彦を好きになっている自分を認めざるをえなくなっていた。いつも克彦のことばかり考えていたし、会えない週末は寂しかった。本当はもっとずっと前に自分の気持ちに気付いていたが、認めたくなかった。でも、もう認めずにいることなんてできそうになかった。
それに、弘子は、どうしても自分の中から消せない「カッコいい人とつきあっている優越感」がとても嫌いだった。その感覚は排除できなかったし、今後もできないだろうとも思った。
(山根先輩が私をかなり一方的に好きだから成立している恋愛だよね…。先輩は、私が好きになっていることを知ったら、今度は逃げに回ってしまうんじゃないかな…)
魅力に乏しい自分が必死で追いかけている恋愛はみじめだ。そして、弘子は克彦のことを、優位に立ったら案外簡単に冷めるのではないかと案じていた。つれない女の子を一生懸命追いかけるのが好きなタイプの人がいることは知っている。もしも克彦がそういう性格なら、少し「つれない」くらいの態度をとっていないといけないような気がした。
バレンタインデー、本当は家に呼んでみてもいいのかもしれないが、弘子は2人きりで屋内にこもることを避けた。案外ムードに流されやすいらしい自分を警戒していた。
弘子は、「アイラブユー」という意味を成す言葉以外でバレンタインのカードに書いてちゃんと格好がつく文言を探し、結局「これからも、よろしくおねがいします」と書いた。これだって弘子としてはかなり頑張ったつもりだった。
克彦は自分からバレンタインデーの話を出すのはみっともないので黙っていた。弘子はいつものように克彦の方から「次はバレンタインデーの頃」と言ってくれないかと期待したが、克彦はそんなそぶりをちらりとも見せない。忘れているはずなんか絶対にないのだから、やっぱり自分が言わなきゃいけないのだと覚悟して、2月はじめのデートの帰り際になってやっと、弘子は言った。
「…あの、そろそろ、バレンタインだと思うんですけど、…どうしましょうか」
克彦はやっと弘子が言い出してくれたのですごく嬉しかった。それでも、
「いいよ、無理しなくても」
とさらっと言ってみた。
「…わざと言ってませんか?」
弘子はちょっとふくれた。克彦はそのままの口調で、
「ううん、ホントに、義理ならいらない。『彼女だから当然』っていうのもいらない。気持ちがこもってなきゃ、いいよ、別に」
とあっさり言った。「じゃあやめときます」と言われたらどうしようとちょっとドキドキしたが、そうしたら謝って、ちゃんともらうことにすればいいやと思った。
言葉に詰まってしまった弘子を、克彦は横目で盗み見た。
とりあえずなにか言わないといけないと思い、弘子はなんとかいい言い方を探し、
「先輩は、私を試してるんですか?」
と言ってみた。克彦は、弘子がそう言いながら何かを迷っているのを見て取った。本当は弘子は「好きだけど、そうは言えない」から困っていたのだが、克彦は弘子の恋愛感情にまだ迷いがあるのだと受け取った。
「うん、試したの。弘子さんが俺にくれるバレンタインのチョコが義理なのか本命なのかわからないんだもん。弘子さんは、俺のこと、好き? 好きじゃないの?」
克彦は素直に訊いたが、弘子は逃げた。
「そんなふうに訊かれたら、答えられないですよ。なんか強制されてるみたいじゃないですか。じゃあ、バレンタインは、会ってくれないんですか?」
克彦は仕方なく投了した。
「そういう言い方するんだ。…ひどいよ、チョコもらいたいと思ってること、わかっててそういうこと言うんだもん」
結局ちゃんと2人は、バレンタインデーに会う約束ができた。
たしかに克彦にとって、その年のバレンタインデーはまれに見る不作だった。
「…先輩、チョコレート、たくさん集まりました?」
弘子はやや不機嫌そうにいちごヨーグルトドリンクを飲みながら訊いた。バレンタインデーの喫茶店はほとんどの席がカップルで埋まっている。克彦と弘子もその風景の一角だった。
「ううん、今年は、俺あちこちで彼女がいるって公言してるから、全然だよ」
克彦は潔白を証明しようと必死に訴えた。
「…全然、っていうのは…いくつのことを言うんですか?」
弘子はグラスをストローでガラガラとかき回した。克彦は縮み上がった。
「あのさ、あのね、弘子さん、俺がもらう数を決められるわけじゃないんだよ? そんな風に、浮気調査みたいな顔して訊かないでよ。ねえ、俺自身は、絶対に弘子さん一筋なんだからさ、怒らないでよ」
「参考までに聞きたいだけです。いくつもらったんですか?」
その時点で、朝、駅で高校生くらいの見知らぬ女の子に黙って渡されたのが1つ、大学でクラスが一緒の女の子から微妙なのが2つ(そういえば、クラスでは弘子のことは知られていなかった)、あとはバイト先の清香とテニスサークルの恵梨から。清香は結婚して福岡に行くことが決まり、仕事も福岡の支店に転勤になった。だから、餞別代わりに「ありがとう」とプリントされた小さなチョコケーキをくれた。恵梨は、大学ですれ違ったときに、同じ紙包みのチョコがいっぱい入った紙袋から1つを取り出し、「愛しのテニスサークルメンバーにプレゼント。本命と間違えないでね」と投げるようにして寄越した。そんなわけで合計5個だった。
克彦は弘子を上目づかいに見て、訴えた。
「…5個だけどさ、2個は相手のちゃんといる人からだし、あとの3個は、1つは見知らぬ女の子からだし、あと2つは世間話くらいしかしたことないクラスの女の子からだよ。あのね、なんかありそうなのは、受け取るときにちゃんと『受け取れないよ』って断ってるの。ホントに突っ返したら失礼だから結局は受け取るんだけどさ、ちゃんとそれなりのジェスチャーはしてるから、伝わってると思うよ。だから心配しないでよ」
弘子は氷をつつきながら口をとがらせた。
「5個って、『全然』なんですか~。去年までの様子が目に浮かびますね~」
「正味3個でしょ?」
「私、男の子に好きだって言われたことなんか全然ないですよ。今年の新人だけで3人もいるなんて、すごいですよね…」
弘子は、数で比べるのは失礼だと思いつつ、やはり釣り合わないと思った。自分は16年の人生で克彦1人からしか好意をもたれていない。3人もの人に好意を持たれて「全然」という感覚が腹立たしかった。
「弘子さん、あのね、俺、…こういう言い方嫌みに聞こえるかもしれないけど、もてようと思ってもててるわけじゃないんだよ。キミだってさ、俺にこんな風にかなり一方的に好意もたれて、いろいろ気苦労とか厄介なこととか、めんどくさいこととかあったでしょ? それが何人もあちこちから来てさ、その中に一人も好きな子がいないっていう状況が、どれだけ大変かわかる?」
克彦は大きく息をついた。
「それでも傷つけないように気を遣って、同じ部活とかだとホントに面倒なんだから。2人も3人もいて、どっちにどういう風に答えたかって、それでカドが立つことだってあるしさ。絶対に好きになる気がない相手に『いつまでも待ちます』とか言われて、キミだったらどうする? なんか一生懸命手作りしたらしい贈り物とか、返せる? でも、受け取ったら受け取ったで、責任みたいなものが発生するんだよ? それから一日だけでもいいからデートしてくれとか、そういうのどう対処する? あのね、キミが考えてるほど、いいものじゃないんだよ。俺は、キミが俺を好きでいてくれれば、他の女の子の気持ちなんか全然いらないの。誰かが俺を好きになってくれるのは嬉しいとは思うけど、キミっていう彼女がいる以上、俺だって困るんだよ。そうやってキミはふくれるしさ、かといって『彼女いるから、こんなもの要らない』ってチョコ返すわけにいかないし。それとも、返しちゃえばいいって思う?」
克彦は必死で訴えた。弘子は口ごもるようにごにょごにょと答えた。
「…返されたら、すごく悲しいですね」
片想いの悲しさはよくわかる。一生懸命のプレゼントは、とりあえず受け取るだけ受け取ってほしい。でも、実際に自分の彼氏が他の女の子からバレンタインのチョコをもらってくるのはいい気持ちではない。
「そうでしょ? 俺、気持ちには応えてあげられなくても、それを捨てさせるようなことはしたくないんだよ」
「ご立派ですね。誰にでも優しくて…。もっと、私くらい、普通の人ならいいのに」
「普通って…」
「先輩は、カッコよすぎるんです。どこにいたっていっつも目立ってて、女の子に囲まれてるじゃないですか」
「あのね、…俺、そういうの、どうしたらいいのかな、もう…」
弘子は自分が筋の通らない言いがかりをつけているとわかっていた。でも、なんだかむなしさと悲しさを感じてしまっていた。所詮世界が違う気がした。
弘子が黙ったので、克彦はため息をついてから、
「他の女の子がどうのこうのじゃなくて、俺は弘子さんが好きだよ、それじゃ嫌なの?」
と言った。弘子は、相変わらず臆面もなく言うなあと思い、やっぱり赤くなってしまった。
「…私だって、言いがかりだなって自分でわかってます」
「俺が、女の子が来るのは大変なんだよっていくら言っても、誰もわかってくれないんだよね…。せめて弘子さんにはわかってほしいな…」
弘子は切ない声にドキッとした。もてる人は当然もてることを喜んでいると思っていたが、克彦の顔を見て、声を聞いて、そう画一的に判断してはいけないのだと思った。
「…だって、私、もてないから…わからないですよ、そんなの…」
それでもこんなことしか言えない自分を情けないと思い、しばらく逡巡してから、
「でも、まあ、…先輩のせいじゃないってことくらいは…、わかりました」
と弘子は言った。克彦の顔が晴れた。
「ありがとう」
克彦の笑顔に、弘子はもっと気後れした。好きだよ、ありがとう、ゴメンね、そんな言葉を克彦はとても素直に口にした。弘子はそういう言葉がなかなか口に出せない。克彦のまっすぐな性格はまぶしくて、ますます弘子の劣等感は増した。
「…あの、それで、これ…」
弘子は話題を変えるように紙袋を胸に抱え込んだ。克彦の顔が嬉しそうに紅潮した。
「一応、作ったんですけど、…あの、切るわけにいかなかったんで、味見ができなかったんです。だから…まずかったら、すみません、言ってください、作り直しますから…」
弘子が、マチの広い紙袋を持ってきていたので、実は克彦は、中身をはじめからだいぶ楽しみにしていた。
「ううん、なんでもいいの。ね、…あのさ、なにか、言葉はないの?」
弘子は思いきり顔を引きつらせた。
「なんでもいいんだよ。今、キミが俺について思ってること、正直に教えてほしいの。だって、これ、…俺のことなんとも思ってなかったら、くれないでしょ?」
克彦は優しく言った。しかし、そんな言葉はますます弘子を困らせ、頑なにしてしまった。そこに克彦は追い討ちをかけた。
「ねえ、俺と恋愛としてつきあうのをOKしてくれてから、もう5ヶ月たってるんだよ。まだ、俺のこと好きだって言ってくれないのは、どうして?」
弘子は、好きだから言葉に詰まった。何度もあったような沈黙がまた2人の間に流れた。
「まだ好きになれないなら、それはそれで答えて。そしたら俺、もっと弘子さんを幸せにできるように頑張るから。俺、ちゃんとキミの気持ちが育つまで待とうって決めたんだよ。だから、気にしないで答えて」
弘子はなんとかひと言、
「…あの、…中に、カードが入ってます。それに書いてあります」
と言った。また逃げてしまった自分を情けないと思いつつ、仕方ないとも思っていた。
「え、じゃあ、今開けてもいい?」
克彦は受け取った紙袋に手を入れようとした。弘子は慌てて、
「あっ、ダメです、ケーキが崩れちゃうから絶対にダメです、家で開けてください!」
と言った。ケーキのせいにしたが、克彦がカードを見てガッカリすることが明白だからだった。しかし、克彦はそれをいい方に期待した。
「そうなの? …じゃあ、…ウン、家まで我慢する」
その日、ケーキの紙袋を大切に大切に抱えて帰っていく克彦を、弘子は後ろめたさと気まずさで見送った。克彦が駅の改札を抜けるのを見送ると、弘子は逃げるように小走りでその場を離れた。
案の定、家に帰って飛びつくように弘子のメッセージを見た克彦は、複雑な表情で立ち尽くした。
『これからも、よろしくおねがいします』
「…また、うまく逃げられたわけ? 俺って…」
今後も一緒にいたいと思っている弘子の気持ちはもちろん嬉しいけれど、克彦はその前提となるとても簡単なひと言がほしかった。
沈む気持ちを無理に切り替えて、克彦はケーキを切って一切れ食べ、おいしいことを確認してから家族の食卓に半分だけ提供した。
「あれ、これ…」
夏実はすぐに気付いて克彦をからかうように見つめた。母親は、
「珍しいわね、克彦がこういうのくれるなんて。バレンタインにもらったのでしょ?」
と言った。父親は、
「おお! さすがに食べきれなくなったか?」
と大げさに驚いてみせた。
「これはね、特別なの」
克彦がそう言って喜色満面になったので、父親は興味津々に息子の顔を覗き込んだ。
「あれっ、なんだ、特別な子からもらったのか?」
「そんなとこかな~」
克彦が答えると、夏実がここぞとばかりに、
「これ、彼女からのでしょ?」
と言った。母親も負けじと、
「あら、克彦、机の上の写真の子?」
と言った。母と妹は、克彦をめぐるライバルでもある。父親はほうと感心して、
「なんだ、克彦は、プレイボーイはやめたのか」
と言った。克彦はプライドをかけて否定した。
「俺、プレイボーイなんかやったことないよ。まだ紹介するチャンスもないんだけど、とにかく、俺、今すごく大切な女の子がいるの。それだけ、まあ、その、…知っておいてほしいっていうか、…なんていうか」
「斉藤さんっていうんだよね、アニキ」
夏実がまた、ここぞとばかりに言った。父親が、
「夏実は知ってる子なのか?」
と訊くと、夏実は、
「ううん、一度見かけただけ」
と答えた。父親は克彦の方に向き直って、
「斉藤、なにちゃんって言うんだ?」
と訊いた。克彦はちょっと照れて反応が遅れ、夏実が横から口をはさんだ。
「ヒロコさん、ヒロコさん。アニキいつもデレデレしてヒロコさんって言ってるもんね、ヒロコさんだよね」
「…うん。連絡とかあったら、失礼しないでよ」
その日は家族みんなで弘子の手作りケーキを食べた。弘子がそれを知ったら卒倒したかもしれない。
夕食を終えた後、克彦が自分の部屋で弘子のカードを見ながら複雑な気持ちをこねくり回していると、ドアにノックがあった。「どうぞー」と言いつつ克彦が弘子のカードを素早くしまうと、入ってきたのは父親だった。
「あれ、父さん、珍しいね」
父親はとても気さくな人だが、子供の部屋に入ってくることは近年なかった。
「いや、克彦もな、やっと真剣なおつきあいをする子ができたようだから」
父親の言葉に、克彦はため息をついた。
「まるで今まで真剣じゃないおつきあいをしてたみたいじゃない…」
「いや、そういう意味じゃないんだけどな」
父親は所在なさそうに克彦の部屋を見回してなんとなくうろうろしていた。
「何、何か用?」
克彦が不審に思って訊くと、父親は気まずそうに、
「いや、実はな。おまえに、ちょっと避妊について教えておこうと思って…」
と言った。克彦は人生で最大の飛距離で吹っ飛んだ。
「え、え、な、何、なんなの、急に!」
克彦がしどろもどろに言い返すと、父親は困ったように視線を右往左往させながら、
「いや、まあ、男同士なんだから、腹を割って話そう。俺にだって若い頃っていうのはあったし、そう聖人君子ぶる気はないから、人生の先輩だと思ってくれよ」
と言った。克彦はしばらく絶句したが、
「俺、まだ、そんなの必要ないよ、まだ、そういうのは全然なんだからさ、いいよ、ホントに、やめてよ、変に意識しちゃうよ」
と冷や汗をぬぐいながら言った。
「いや、その辺はな、男の責任だから…」
「だから、まだなんにもしてないよ、俺、臆病だから手出せないんだよ、ホントになんにもないんだよ、だから、いいよ!」
「でも、なんか母さんが、つきあい始めてからそれなりに経つって言ってたよ」
克彦は、ははあ母の差し金か、と了解した。
「あのね、ホントにまだなんにもないの。ホントに。そういう事態になるのは、まだ何段階も後なの。だから、やめてよ、俺、困るよホント」
父親はしばらく困ったような顔をしていたが、
「でも、今はまだでも、いつどんな拍子でそういうことになるとも限らないから…」
と言って、ポケットから避妊具の入っているらしい箱を出した。
「持ってろって。チャンスがあったとき、あると安心だから…」
「いいよ、そんなの持ってたらそれだけで嫌われちゃうよ。真面目な子なんだから」
「…そうか? うん、じゃ、ま…、くれぐれも、相手の女の子に失礼のないように、男の責任を自覚してうまくつきあってくれよ」
父親はまた箱をポケットに仕舞い、子供のように小さくなって部屋を出ていった。克彦は冷や汗で体中が水浸しになったような気がした。
(…そりゃ、いつかは必要になるかもしれないけど…)
そう思うと、猛然と恥ずかしくなった。弘子には、親にこんな風に言われたことなんか絶対に話せないな、と思った。
しかし、その翌日、克彦が大学から帰ってくると、父のメモとともに見覚えのある箱が紙袋に入って置いてあった。返しに行くのは恥ずかしいので、机のずっとずっと奥の方に紙袋を押し込んだ。
(…チャンスがあったとき、あると安心だから…か)
とはいえ結局、克彦は自分の机の中にそんなものがあることがどうしても落ち着かず、紙袋に入れたままあからさまにゴミ箱に捨てておいた。けれど、中身はこっそり1つだけ取り出して、隠しておいた。
(だって、自分で買いに行く度胸はないし、万一のとき、あった方がいいじゃん…)
克彦は、紙袋がゴミとともに回収されたのに気付いてホッとした。両親もそれ以上、克彦に注意を促すことはなかった。
もちろんそんなものを使う機会は訪れないまま春が来た。2人は相変わらず様子を窺い合って追いかけっこばかりしていた。
ある日、弘子は佳美に呼び出されて、かおりと3人で喫茶店に集まった。
「佳美が相談なんて、珍しいね」
弘子は言った。佳美は困ったような笑顔を見せた。
「何、何? カレシとうまくいってないの?」
かおりが訊いた。佳美はますます困ったような笑顔になった。
「…なによ、気味悪いなあ…」
弘子がそう言うと、佳美は目をそらして、言いにくそうに言った。
「うん、実はさ、…なんか立ち入ったことを訊くのもまずいかなと思ってたんだけど、あのさ、…2人とも、カレシとどこまで進んでる?」
そういうことか、と合点して、かおりと弘子も困ったような笑いになった。
「ちょっとさ、その辺煮詰まってるんだよね、最近」
佳美は目を伏せて言った。かおりは、
「私、つきあい始めてもう1年になるんだよね」
と真っ先に語り始めた。
「佳美はどのくらいだっけ」
「ヒロコとほとんど同じだよ。…7ヶ月になるかな?」
かおりは軽くうなずいたあと、できるだけ普通の会話みたいな言い方で言った。
「まあ、だから私が一番の先輩になるわけじゃん。特に話はしなかったけど、結構前から、まあそれなりに、そういうつきあいをしてるんだよね。佳美、そういうのでしょ、要は」
「うーん、ま、…そういうところ。まあそろそろいいだろうと、向こうは言うわけよ。でもさ、どうなのかなあ、早いのかなあ、とか思って」
と言った。弘子は自分1人だけ2人のはるか後方にいることに気付いた。
「早くはないでしょ、私、7ヶ月くらいたったときはもうそういう関係だったもん」
「あ、そう…? でもね、なんとなく。高校生だし」
「うーん、…高校生っていうけど、世の中の高校生ってみんなもっと男関係は派手なんでしょ? 私たちは真面目なほうでさ」
「でも、マスコミが言ってるだけで、私たちの周りってそんなにいないと思わない?」
「まあ、ね、そりゃ、都立高校でしかも進学校じゃ、各中学校から真面目な人集めてきたようなとこだもん、平均的な高校生よりは遅れてるでしょ」
かおりと佳美で話が展開するのを、弘子は居心地の悪さを感じながら聞いていた。
「ちょっと、ヒロコ」
かおりは弘子に矛先を向けた。
「あんた、なんでまた黙ってんの。ホント、タチ悪いんだから」
「私と『カレシいる歴』同期なんだから、ちょっとは参考になってよ。どうなのよ」
佳美も攻撃に加わった。弘子は気まずそうに、
「だって、私じゃ参考にならないもん…」
と言った。えもいわれぬ間があって、かおりと佳美は顔をしかめた。
「いいから、何、どういう状態なの?」
2人が迫ったので、弘子は重い口を開いた。
「…えー…だって、まだ、…手つないでウロウロしてるだけだもん…」
「えー!」
「ちょっと、友人に、嘘つこうっていうんじゃないでしょうね」
弘子は顔の前で必死で手を振った。
「え、絶対ホントだよ。全然進展してないよ」
「正確に言ってよ。人が真面目に相談してるのに、大ざっぱに言ってごまかしてない?」
佳美は乗り出した。弘子は、2人の足元にも及ばないので平気で答えられた。
「肩を抱かれるとか、抱きしめられるとかは、ときどき、あるかな…。一番何かあったっていうのは、クリスマスに、ここに…」
弘子は生え際のあたりを指で押さえた。それでも、ちょっと照れた。
「…軽くキスされたくらい…。あとは、ホントに何もない。ウソじゃないよ」
佳美は呆れた顔をした。かおりが横から言葉をはさんだ。
「ホントに、アンタって山根先輩を苛めてるわね…」
弘子は困ってひたすら笑顔で黙っていた。佳美の相談のはずが、なんで自分の話になったんだ…と思っていた。
「ヒロコ、アンタが断ってるの? それとも先輩が何もしないの?」
佳美が真面目に訊いてきたので、弘子はやむを得ず答えた。
「まあ、私が断ってるってことになるのかな~…」
「なんで断るの? 嫌なの?」
「まだ、そこまでの気持ちになれないから…」
弘子はそう答えながら、森林公園でのことを思い出していた。頭で考えている気持ちと本当の心の中にある気持ちは、実は違ったりもする。そこまでの気持ちになれないというのは、頭の中の単なる理屈なのかもしれない。
「そこまでの気持ちって、アンタもう7ヶ月つきあってんでしょ~?」
今度はかおりが乗り出して、佳美が例によってそれを制した。
「7ヶ月だからどこまでじゃなきゃいけないなんてことはないよ。でも、それがヒロコの本当の気持ちならね」
弘子はぎくりとした。佳美は弘子に諭すように言った。
「あのさあ、アンタが頑ななのも結構だし、山根先輩もそういうヒロコがよかったのかもしれないし、だからいいんだけどさ、でも、もちろんわかってるよね、つきあってるとそういう方向に発展していくんだってこと」
かおりも加勢した。
「まさか、私のこと、ふしだらだとか信じらんないとか、思ってないでしょうねえ。あのね、つきあってれば、自然とそういう風になっていくのよ」
弘子は強いまなざしを二人に返した。
「そういう風にしか、発展ってできないのかな。そういう方向じゃなくて、もっと信頼し合えるとか、言わなくても伝わるとか、そういう心のつながりの方に発展できないのかな。2人が自然にカレシとそーいう方向に発展できたんだったらもちろんいいことだと思うけど、私はもっと、精神的な方向に発展したいな。発展ってそういう、そんな方向にしかないのかな」
かおりは困った顔をして、佳美はしばらく黙った後、落ち着いて続けた。
「ヒロコも、だんだん考えざるを得なくなるよ。私だって、考えてなかったもん。でも、男の子ってどうしてもそうなっていくし、しかもそれがすごく自然なことみたいなんだよね。だから、私も、カレシの気持ちがなんだかわかって、ああ、だったらいいのかな…って、最近は思わなくもないのよ。でも勇気は出ないから…」
かおりがうなずいて、付け加えた。
「うん、なんか自然に、そういう風になるんだよね。私も自分で直面するまでわかんなかったから、ヒロコも全然わかんないのかもしれないけど、でも、悪いことじゃないし、普通のことだし、すごく幸せなことだよ」
弘子が飲み込めずに難しい顔をしていると、佳美とかおりは弘子をそっちのけて悩みについて語り始めた。
「うーん、でも、なんか進んじゃったら引き返せないと思うと、躊躇しない?」
「でもさ、いつかは訪れることじゃん」
「だからって、今である必要はないよ」
「だって、佳美だって、いいのかなとは思ってるんでしょ?」
「でも、やっぱり、取り返しはつかないから…」
弘子は二人の話を聞きながら、自分と克彦のことを懸命に検証していた。
(山根先輩って、私とそういう風になりたいのかな?)
しばらく考えて、勝手に結論した。
(そうは見えないな。キスしたいって言うだけで、その他は別に何も言わないし…。それ以前に私がまだ、好きだって言ってないんだけど…)
弘子は克彦がそういう関係を求めているとは思わなかった。もちろん、ほんのちょっとそういう気になることはあるかもしれないが、実際問題として検討しているとは思えなかった。
「ヒロコ、少しは大人になってあげないと、山根先輩が大変だよ」
佳美は別れ際、弘子にそう言い残した。
自然とそういう風になっていく――。弘子は一人になってからその言葉を反芻した。でも、どうしてもピンと来なかった。克彦の紳士的な態度や見かけからはあまり男性的な生々しさを感じられない。克彦に抱きしめられること、キスを求められることは、弘子の中で映画のように美しい光景でしかなく、現実感が薄かった。けれど、その先にあるはずの体の関係はとてもグロテスクで、怖くて、遠いものに感じられた。
(でも、かおりはもう、そういうのがわかるんだ。そして、佳美ももう現実にそういうことを考える必要に迫られてるんだ)
親友が「オトナ」になることは、なんだかリアルな現実に感じられた。けれど、それを自分や克彦に置き換えて考えることはどうしてもできなかった。
(私と山根先輩には、まだまだ遠い世界のことだと思うな。それこそ、あと5年経って、結婚を考えるとかそういう話になったら、何かあるかもしれないけど…)
弘子は考えるのをやめた。考えているだけで自分が恥ずかしいことをしているような気がした。克彦がベッドの引出しに隠したもののことなんて、弘子には知る由もなかった。




