第4章 接近編 2.クリスマス
クリスマスイブは、17時に待ち合わせて街のクリスマスイルミネーションやライトアップを見に行ったあと、19時からの予約で食事に行くことになっていた。弘子は親に「ちょっとだけ、遅くなるかもしれない」と言ってあった。
克彦は小さなうさぎがピンクのサンゴ玉を抱えているホワイトゴールドの指輪を買った。弘子はありきたりかなと思いながらもマフラーを買い、手作りのクッキーを添えて包んだ。
ところが、午後遅く克彦が身支度をしている時に電話が鳴った。バイト先の書店の社員、松田清香からだった。
「店長が、まだ遅番に来てないのよ。なんとか連絡はとろうとしてるんだけど…。山根くん、店長がもし来なかったら、夜…、本当に申し訳ないんだけど、頼めないかな。他のバイトくんたちは全然つかまらないか、断られちゃって…」
遅番は13時出勤のはずなのにすでに15時半過ぎだ。店長は真面目な人なので、何かあったとしか考えられない。しかし、清香は婚約の挨拶で相手の実家に行くため、19時発の博多行きの新幹線に乗らなければならないという。この後の博多行きはないから、時間を遅らせることもできない。そんな日でも早番で仕事に入るくらい、清香は真面目で仕事熱心だ。社員は店長と清香の二人だけ、あとは全員アルバイト。遅番で入っているバイトはフリーターの二十代の女の子だから、もう一人は男性が入ったほうがいい。この状況で、「自分はバイトだから」とドライに割り切ることは克彦にはできなかった。
「店長から、何か連絡は…」
「全然、ないのよ。家も誰もいなくて、携帯もつながらないの」
弘子にプレゼントを買うために始めたバイトのはずだったのに、皮肉すぎて笑いも出てこない。まずは清香に時間があるうちに店長の自宅を訪ねることにして、克彦は電話を切った。それからしばらく呆然としたあと、気を取り直して弘子に電話をかけた。
「弘子さん、ゴメン」
「…え? どうしたんですか…?」
耳に届く弘子の不安そうな声が、胸をかきむしりたいほど苦しい。それでも克彦は呼吸を整えて神妙に言った。
「あのね、バイト先でね、今ちょっとトラブルが発生してて、…なんとかするけど、待ち合わせの時間には、ちょっと…行けそうにない。また連絡するよ。なるべく早く」
弘子は、仕方ないと思いつつも言葉が出てこなかった。克彦はそれを感じ取った。
「ゴメン。でも…俺だってつらいんだよ、わかって…」
「いえ、大丈夫です、仕方ないです。待ちますから」
「なんとかするからね。絶対に、会おうね」
克彦は弘子と話しながら店長の家に向かっていた。店長は書店の近くに住んでいる。克彦は途中まで一緒に帰ったことがあり、そのときの記憶を頼りに家を見つけた。
門の呼び鈴を押しても反応はなかった。もう一度押し、やはり出てこなかったので玄関まで行ってチャイムを鳴らし、ドアを叩いた。けれど反応はなかった。克彦が門まで戻ってくると、近所の人らしき訳知り顔の女性が様子を見ているのに気がついた。
「あの、すみません、職場の者ですが、ここのご主人は…」
訊くと、女性は事情を察したような顔で答えた。
「なんか、交通事故にあったとか言って、奥さんがどっかに飛んで行ったよ」
(交通事故?)
克彦はお礼を言い、駆けだした。走りながら克彦は書店に電話を入れた。
「松田さんですか、山根です。なんか、店長、交通事故にあったとかいう話で…」
「ええ…。やっぱり、私…、ここで博多行きは、マズすぎるよ…」
清香の力ない声に、克彦はあわてて言い返した。
「ダメですよ、ちゃんと行ってください」
清香と自分では重大さが違いすぎる。克彦は腹をくくった。
「…あの、もう、いいんです。彼女にも、もう断りを入れちゃったから」
嘘だったが、あとで連絡して弘子に謝ろうと思った。
「え、でも…」
「それに、店長だって、重傷かどうかわからないんですよ。この後、来るかもしれないじゃないですか。とりあえず俺そっちに行きます。松田さんは、明日明後日いないんですから、なにかあれば引き継いでおいてくださいね」
克彦は電話を切り、店長の家の電話と携帯電話に、店に連絡するようメッセージを入れておいた。そして弘子に電話した。
「ゴメン、…もしかしたら行けないかもしれない。店長が事故にあったとかで、状況はまだハッキリしないんだけど…遅番がもう一人どうしても入らないといけなくて、放っておくわけにいかないんだ」
自分も単なる大学生のアルバイトだけど…と思い、克彦は苦笑した。
「そうですか…」
弘子はそっと自分の唇に触れた。朝、姉の美佐子に、出勤前の忙しい時間を割いて軽くメイクをしてもらい、唇には淡いピンク色がひかれていた。弘子は一日中、メイクを崩さないように緊張して、食事もせずに過ごしていた。
「…ゴメンね…」
「あの…」
弘子が何かを言いかけたとき、克彦の目に書店が見えてきた。克彦は歩調を遅くした。
「いえ、いいんです。お仕事じゃ、しょうがないです」
弘子は「会いに行ってもいいですか」と言おうとしたが、やめた。黙って行くことにした。忙しそうだったら、顔を見るだけで帰ればいい。
書店は駅ビルの側面に作りつけてある。克彦は電話を切り、職員用のドアに暗証番号を入力して中に入った。もしも店長が来ていたら…と期待したが、控え室には誰もいなかった。店内をのぞくと、バイトの女の子が棚整理をして、清香がレジを打っていた。
「松田さん」
克彦は店員のエプロンを着け、客が切れるのを待って清香に声をかけた。
「あ、…山根くん、さっき店長の奥さんから電話があってね、すぐに電話できなくてすみませんって。なんか、結構重症だったらしい。まだ安静なんだって」
「そうですか、じゃあ、今日は無理ですね、これから来るなんて…」
あきらめたつもりだったが、やはり声は沈んだ。清香が何か言おうとしたので、克彦は慌てて、
「いえ、こういう時は、お互い様ですから」
と言った。時計を見ると16時半を回っている。清香が仕事を終えるはずだった13時からもう3時間半以上経っていた。
「松田さん、あとは代わります」
「…ゴメンね、ホントに。これからデートだったんでしょ?」
清香のすまなそうな口ぶりに、克彦は笑ってみせた。
「大丈夫ですよ、わかってくれる子だから」
本当は弘子とそんなに磐石な関係ではないが、この状況を知っていて弘子と楽しく過ごせるような性格ではないし、弘子もきっとそんな男は好きにはならないだろう。
レジに客が来たので、克彦は「いらっしゃいませ」と笑顔を作った。清香は慌てて「じゃあ、お願いします」と言ってその場を離れ、店の奥にいたフリーターの里中愛李にこれから上がると告げに行って、支度を済ませると恐縮しながら慌ただしく帰っていった。
外は次第に暗くなり、駅ビルの方からクリスマスソングが聞こえる。店内は2人連れが多く、克彦は少し胸が痛んだ。自分の分と、弘子の分の痛みだった。
(弘子さんに電話しなきゃ。それから、…食事も、電話してキャンセルしないと…)
克彦は愛李を呼び、少しの間レジを代わってもらうことにした。
「山根さんとか、今日デートはないんですかぁ~?」
愛李に訊かれ、克彦は悲しい笑顔で答えた。
「あのね、今日こうなっちゃったから、これからキャンセルの電話入れなきゃいけないの。すぐに終わるから、ちょっとその間、一人でゴメンね」
「えー、ホテルとってたんですか~」
克彦は、違う違うとジェスチャーで返しながら控え室に入り、弘子に電話を入れた。本当は仕事が終わってからでも会いたいが、深夜までかかるかもしれない。であれば、真面目な女の子を呼び出すような時間ではなくなってしまう。
「はい、斉藤です」
中年の女性の声がした。弘子の母親だ。
「あの、いつもすみません、山根ですが、弘子さんは…」
「あら、さっき、出て行っちゃったんだけど…」
「えっ…」
克彦は思いがけない返事に驚いた。
(どこへ行ったのかな…)
克彦は気になったが、とりあえずレストランにキャンセルの電話をかけ、仕事に戻った。
弘子は、その頃そっと外から店内をうかがっていた。緑色のエプロンをつけた克彦が控え室から出てくるのが見え、慌てて隠れた。
(いた…)
そんなはずはないのに、京子に言った言葉が克彦に伝わっているような気がしていた。弘子は、片想いの男の子をのぞき見るようにドキドキした。
ガラスに書かれた営業時間は、「10:00~21:00」。
(9時まで…)
弘子は時計を見た。まだ18時前だった。
(何時までいなきゃいけないんだろう?)
克彦に仕事が終わる時間を訊こうかと思ったが、レジの人の列はなかなか途切れる様子がない。そのまま店の外で歩き回って30分待った。克彦がずっとレジを動かないようなので、弘子は見つからないようにそっと店内に入ってみた。低い背を本棚に隠してもらって、レジに近いところで克彦の接客の声を聞きながら立ち読みをした。
女の子の「休憩に入りまーす」の声に顔を上げ、弘子は伸び上がってレジを見た。人の列が途切れたので、つい、弘子はレジの前に踏み出していた。恥ずかしくなって、克彦の顔を少し見てからおじぎをするようなそぶりをしてうつむいた。
「…弘子さん」
克彦がはじけるような笑顔を浮かべた途端、客が一人レジに向かってきて、弘子は慌ててレジから遠ざかった。客が途切れると、克彦は急いで弘子を手招きした。
「あのね、今の女の子が休憩から出てきたら、次は俺が休憩時間だから。10分しかないんだけど、俺が休憩入ったら、裏の職員通用口開けるね。そこから来て」
それだけ言うと、克彦は店員の顔に戻った。弘子は何気ないふりで本棚に向かった。
「おさきで~す」
愛李が出てきて、レジに入った。克彦は弘子に目くばせをして、外を回るジェスチャーをして控え室のドアを軽く指差してから、愛李に声をかけてドアに消えた。
弘子が店の外を回って職員通用口に立っていると、おそるおそるドアが開いた。
「入って」
克彦の声がして、わずかに開いたドアから、弘子は人目につかないように滑り込んだ。克彦は弘子に一番汚くなさそうな椅子を勧め、自分はさびかかったパイプ椅子に座った。
「弘子さん、ゴメン、俺、今日10時過ぎちゃうと思うんだ。それに、明日の早番、店長のかわりに誰が入るか決まってないから、閉店後に店長に連絡とらなきゃ…。とにかく今日はどうなるかわかんないんだよ、ごめんね」
弘子は、せっかく買ったニットのワンピースがコートに隠れていることに気付き、全然暖かくないのにさりげなくコートを脱いだ。その仕草がわざとらしかったかと思って、気をそらそうとするように、
「…いいんです、しょうがないです」
とうつむき加減で答えた。
克彦は真っ白な服に包まれた弘子をとても可愛いと思った。やわらかく浮き上がった体のラインについ目がいって視線をそらした。
その時、「レジが止まったんですけど~」という声とともにドアが開いた。克彦は慌てて立ち上がったが、弘子を隠しているヒマはなかった。
「あれ? あー、彼女でしょ~」
愛李は即座に状況を読み取った。克彦は気まずい気分で言い訳をした。
「ゴメン、デート中止になっちゃったからさ。ちょっと会ってただけ。すぐ行くよ」
「あの、じゃあ、私はこれで…」
弘子は慌ててコートを着て出ていった。
フリーズしていたレジはすぐに直った。
「すみませーん、せっかくクリスマスしてたのに~。彼女かわいいですね~」
愛李は言った。挨拶程度のものか、高校生の慣用句程度のものかとも思ったが、それでもその「かわいい」が克彦は嬉しかった。
「あはは、ありがとう」
だが、控え室に女の子を引っ張り込んだのはまずかった。克彦は話をそらした。
「キミは、今日予定ないの?」
「このあと彼宅にお泊まりですよ。だって、イブじゃないですか~」
「あっそう、彼氏一人暮らしなの? 同い年じゃなかったっけ」
「彼、親と一緒ですよ」
「…え? お泊まりって言わなかったっけ?」
「彼宅にお泊まりですよ。親公認だし」
克彦は質問をあきらめた。そういえば、今どきの子は親がいようが彼氏彼女の家に泊まりに行くらしい。自分や弘子とは文化が違いすぎる。けれどその一方で、来年のイブは弘子と泊まりで過ごしたいな…と思って克彦は一人で赤くなった。
弘子はまだ外から克彦を見ていた。暗くなった外からは明るい店内がよく見えた。閉店を待とうかとも思ったが、克彦が10時を過ぎると言っていたことを思い出し、やっぱり帰ることにした。
弘子は、公衆電話から克彦の携帯電話に留守電を入れておいた。
「プレゼントを渡し忘れてしまいました。明日の、クリスマスの日には渡したいので、また連絡ください」
弘子が家に着くと、母親がスリッパの音を立てて飛んできた。
「どこ行ってたの? 山根さんから夕方電話あったわよ?」
「うん、大丈夫、会った」
「ごはんはどうしたの?」
「…うん、食べる…。なんかある?」
もう唇のピンク色は必要なかったし、かなりおなかがすいていた。弘子は部屋で着替えてすぐに下りてきた。母親は弘子を思いやって、何も言わずに晩ごはんを温め返した。
食べ終わって自分の部屋に戻ると、弘子は椅子に脱ぎ捨てたワンピースを拾ってもう一度着た。綺麗にまとめた髪がくしゃくしゃになっていたので、もう一度綺麗に櫛でとかしてまとめなおした。顔を油とり紙で丁寧に拭いて、浮いてしまったファンデーションを指で目立たないようにならした。ピンクのリップは輪郭だけ残してなくなっていた。弘子はたどたどしい手つきでもう一度色をひいた。幸い輪郭が残っていたので、うまく形は整った。そしてもう一度姿身の前に立った。
「雪うさぎ」
弘子は自分でつぶやいた。ふわっとした服は軽そうで、ピンクのリップはうさぎの耳の内側の色みたいだった。
(もしも今日会えたら、街のイルミネーションを見て、ディナーを食べて。それから…?)
母親にはちょっと遅くなるかもしれないと言ったが、克彦には遅くなってもいいなんて言わなかった。結局、遅くもなんともならなかったけれど…。
(もし遅くなっても大丈夫って言ったら、先輩はどうしたかな?)
一方で、じゃあ自分はどうしたいのかと思って自分を笑った。
弘子は押入れから敷き布団を出し、横になった。やがて、いつの間にか眠りに落ちた。
克彦は結局、片付けや翌日の出勤調整までするはめになり、23時近くまで書店に残っていた。やっと仕事を終え、携帯電話の留守電を聞いた。真っ白な服を着ておしゃれをしていた弘子のことを思い、胸が痛んだ。ポケットのプレゼントが急に存在を主張しだした。
終電までまだあと1時間以上あることを確認して、克彦は弘子の家に向かう電車に乗った。そして、電車の中で気がついた。
(弘子さんはケータイ持ってないんだから、直接呼び出せる方法がないじゃないか…)
23時過ぎに家に電話はかけられない。弘子の部屋の窓に小石を投げるというレトロな方法も考えたが、弘子の部屋の位置すら知らなかった。でも、とにかく行くだけ行ってみようと思った。
克彦が弘子の家の前に着いて見上げてみると、部屋の様子を窺うどころか、すべて雨戸が閉められていた。克彦が逡巡しながら携帯電話と弘子の家の窓を交互に見ていると、すぐそばで低い声がした。
「どなた?」
慌てて見ると、少し小柄な、眼鏡をかけた中年男性が立っていた。輪郭がやや丸くて、どことなく弘子に似ていた。克彦はとにかくお辞儀をして、自分が不審者でないことを証明しようとした。
「あの、僕、斉藤弘子さんの友人なんですけど、今日、渡したいものを渡し損ねたので、それで、もう夜も遅いし、どうしようかなと思って…」
克彦は思わず「僕」という一人称を使ってしまって恥ずかしくなった。それに、言っていることも変だ。渡したいものを渡し損ねたからって、こんな時刻にこんなところで立っていたら、結局は不審者だ。
小柄な男性は言った。
「…私、弘子の父親です。ちょっと待ってていただけますか。あ、あと、…お名前は?」
克彦は自分が名乗っていなかったことに気付き、慌てて、
「あ、失礼しました、山根克彦といいます」
と言い、また頭を下げた。弘子の父親は軽く会釈をすると玄関を入っていった。
(お父さんか…。いきなりみっともない出会いかたしちゃったな…)
克彦は渋い顔で弘子の父親の背中を見送った。
父親は家に入ると、母親に「弘子は」と訊いた。
「部屋で寝ちゃってる。今日ね、デートがダメになっちゃったのよ。それでガッカリしたみたい。起こさないであげてよ」
父親は渋い顔をして黙った後、
「…その男、来てるぞ、外に。起こしてきてやってくれよ」
と言った。
「え?」
母親が聞き返すと、父親は照れを隠して面倒くさそうに、
「山根ナントカって名乗ってたけど、それだろ?」
と言った。
「あら、あら大変」
母親はスリッパの音を気にもせずに階段を上がり、弘子の部屋を勢いよく開けた。
「弘子ちゃん、大変、山根先輩来てるってよ、外に」
弘子は飛び起きた。
「え、何寝ぼけてるの? 何時だと思ってるのよ、今」
「寝ぼけてるのは弘子の方でしょう。今お父さん帰ってきて、外に山根って人が来てるって言ってるのよ」
「ええっ!? お父さんが?」
父と克彦が遭遇したという事実に驚き、弘子は跳ね起きた。幸い服も口紅もさっき直したので、寝乱れた髪を急いで整え、すぐにプレゼントの包みをつかんでダッシュで階段を下りた。食卓に父の背中が見えたが、まずは克彦だった。
勢いよく外に出ると、街灯に照らされて背の高いシルエットが見えた。
「…先輩ですか?」
克彦は弘子の声を聞いてゆっくりと歩いてきた。
「弘子さん、夜遅くに、ゴメン…」
弘子は夢かと思って何度もまばたきをした。
「今日は、ホントにゴメンね…」
克彦は弘子の至近距離に立った。弘子は抱きしめられるのをそっと待った。しかし克彦はしばらくためらった後、
「弘子さんのお父さんって、娘のことすごく気にする人?」
と訊いた。
「え、普通のお父さんですよ、仕事ばっかしてて、帰ってきてもあんましゃべんないし…」
「それ、普通なの?」
「…普通じゃないんですか?」
「だって、ウチの父さんは家族のムードメーカーだよ。家の中で一番しゃべる人。俺は父親ってそういうものだと思ってたんだけど」
「そういうほうが珍しいと思いますが…」
「そうなの?」
克彦は弘子を見下ろした。抱きしめようとして近づいたはずが、父親の存在が気になって変なタイミングで立ち止まってしまった。弘子は真上を見るような姿勢になり、ちょっと照れたのと首が疲れたのとであごをひいた。
「…お父さん、見てないよね…」
克彦はそう言いながら弘子をそっと抱きしめた。弘子は片手をプレゼントの包みから離し、克彦の背中に浅く手をかけて服をつかんだ。顔の化粧が服に移るんじゃないかと心配したが、そのまま動けなかった。
「メリークリスマス」
克彦が言った。弘子は答える代わりに克彦の服から手を離し、背中に深く回した。
克彦はそっと弘子の唇を探そうとした。しかし、身長差がありすぎ、弘子の頭のてっぺんが見えただけだった。
「…弘子さん」
それではどうにもならないので、克彦は弘子を少しだけ胸元から離した。そして、唇のピンクの輝きに照準を合わせ、弘子に対策を考えさせないように急いで指で弘子の顔を引き上げて唇を近づけた。弘子が感情にうっとりと流されていればうまくいっただろうけれど、片手で持っていたプレゼントが落ちそうになっていて極めて冷静だったせいで、弘子はぱっと克彦の懐にもぐって逃げた。克彦の敗因は身長差にもあった。32センチも近付かなければならない。
克彦は「イジワル」とつぶやいて弘子の額(というより、ほとんど生え際付近)にキスをした。弘子はちょっとびっくりして、3か月半でおでこにキスは、早いのか遅いのか…と考えた。けれども弘子の中でもうひとつ、別の価値観がそっと働いていた。
(包みが落ちそうになってなければ、私、どうしてたかな…?)
弘子はプレゼントの包みを持ち替え、わざとふてたような声で、
「今日、ドタキャンされたうえに、そんなことOKするわけないじゃないですか」
と言い返した。でも、弘子がちっとも怒っていないことは克彦に伝わっていた。
「残念だけど、もう、帰らなくちゃね…」
克彦は弘子の背中を優しく撫でながら言った。
「そういえば、終電は大丈夫なんですか?」
「うん、そろそろ気になるから…」
弘子だって残念だった。克彦の腕の中にいたかった。
「あの、じゃあ、これ…だいぶ、袋がしわしわになっちゃったんですけど…」
そう言って弘子はプレゼントを渡した。
「あの、中身は買ったマフラーです、…ホントは編もうとしたんですが、はじめてなんで…、失敗して…」
「なんだ、失敗作でも良かったのに」
克彦の笑顔に弘子は大きく首を振った。きっと、どうしようもない失敗作でも喜んで身に着けるだろう。そんなの、冗談じゃない。
「ありがとう。…じゃあ、俺も…」
克彦はコートのポケットに手を入れ、今にもひよこが孵りそうな卵のように小さな箱を優しく取り出し、弘子の前にそっと出した。
「…指輪…。なんだか大げさかもしれないけど、別に、将来を約束してとか、そういう意味じゃないから…」
弘子も、ひよこのようにそっと両手で受け取った。子供の頃からこんな光景に憧れていたような気がした。相手はこんなに素敵な男性でなくても全然かまわなかったのに。
弘子は箱を両手で大切に包み、克彦は紙包みを胸に抱きしめた。
「じゃあ、帰るね。弘子さんも家に戻って。寒かったでしょ。ちょっとだけど、ここで見送ってるから」
弘子は自分が見送るほうに回りたかったが、薄着で寒かったので門を入った。克彦の終電の時間を心配しながら、ほんのわずかに手を振り、静かにドアを閉めた。
父親が食卓でお酒を飲んでいる背中が見え、弘子は声をかけた。
「お父さん」
父は振り返らずに、「ん」とだけ答えた。
「あのね、…ありがとう」
父が返事をしなかったので、弘子はおずおずと続けた。
「あの人、カレシなの。いきなり会わせることになるとは、思わなかったんだけど」
「ああ」とだけ言って、父親は黙っていた。弘子は、少し待ってみても父が何も言わなそうなので、おやすみを言って立ち去ろうとした。すると父親は、
「真面目な人か?」
とだけ訊いた。弘子はうれしくなって答えた。
「うん、真面目すぎるくらい、真面目な人だよ。見かけでいろいろ誤解されることは多いけど、ホントに真面目で、誠実な人だよ」
「…そうか。よかったな」
「うん。いい人だよ」
弘子は「じゃあ、おやすみ」と言い残して部屋に戻った。
克彦は早速マフラーを紙袋から取り出して首に巻いた。クッキーも入っていることに気付き、夕食を食べていないのを思い出した。克彦は行儀が悪いと思いながら、歩きながら包みを開けて、クッキーを口に入れた。
(あ、手作りだ)
克彦は手作りクッキーをもらうことに関してもうベテランなので、市販品か手作りかはすぐわかる。自然に顔がほころんだ。好きな女の子からもらう、はじめての手作りだった。
駅からはまだデートの終わらないカップルがたくさん出てきていた。克彦はその流れを逆に進み、最終電車に乗った。
弘子はプレゼントの指輪をしたまま深い眠りについた。克彦の腕の中にいる温かさと布団の温かさを時折錯覚しそうになりながら、幸せそうに眠っていた。
克彦は眠れなかった。夕方からいろいろあって疲れたはずなのに、ベッドの中で悶々として、眠ってなんかいられなかった。
(弘子さん、男のこういう気持ちは、汚いと思う?)
克彦は一人、心の中で弘子に語りかけていた。弘子を抱きたいと思うのは初めてではない。けれど、その気持ちが夢ではなく、次第に現実に近付いてきているように感じた。
(俺、…自分が普通にキミにこういう感情をもてたことが、とても嬉しいし、ホッとしてるんだよ。俺、自分って、普通に女性とそういう関係にはなれないんじゃないかって怖かったんだ。…でも、俺は最後まで「普通」なんだろうか? もしも嫌な気分になってしまったら、どうしたらいいんだろう)
プラスとマイナス。弘子に対して感じる強い愛情と、その結果生じる欲情はどこまでもポジティブで、弘子にもいずれは理解して受け入れてもらえると思っていた。けれど、自分の中にある過去のある嫌な記憶からくる心的外傷と女性への嫌悪感は、どこに埋まっているかわからない地雷のようだった。弘子とやっと結ばれるときが来たとして、そこに地雷は埋まっていないのだろうか…。克彦は弘子を傷つけてしまうことが何より怖かった。
(…弘子さん、俺はあるいは、キミをこういう悩みにつきあわせるべきじゃないのかもしれない。ちゃんと経験もあって、こういうことを普通に恋愛上のひとつの出来事だって認識できる女性と乗り越えるべきなのかもしれない。まだ恋愛自体もはじめてのキミに、俺の、どこに地雷が埋まっているかわからない男としての部分を、一緒に歩いてもらうのはあまりに過酷なのかもしれないね。でも、…俺はキミと歩いていけたら、そして乗り越えられたらどんなにいいだろうと思ってるの。…勝手かな。だから、まず、俺を心から好きになって。そうしたら俺だってワガママになれるし、甘えられる。俺、キミじゃないとダメなんだよ。いつか抱かせて。そして、俺が昔のことをキミに話して泣けるまで、俺を守って…)
疲れた体から立ちのぼってくる眠気にとらえられ、克彦はやっと眠りに落ちた。