第4章 接近編 1.バトル
月に2、3度しか会わないことを、克彦は物足りないと思っていた。平日だって夕方からは時間が合うときもあるのに、弘子はこのペースで満足しているようだった。克彦は週に1、2度くらいのペースで弘子の家に電話をかけていて、取次いでくれる弘子の母親と姉とはすっかりお馴染みになってしまった。
弘子が言うには、「あまり会っていると飽きる、終わりが早くなる」ということだった。克彦は「そんなことないよ」と反論した。けれど、弘子はいつも「でも、その『会いたい』と思う時間が貴重だとは思いませんか?」と言った。克彦は会っている時間のほうが大切だった。
しかし克彦も、親の会社ではなく、近所にあるチェーンの書店でアルバイトを始めたため忙しくなった。間もなく訪れるクリスマスに、親のすねかじりの延長でもらっているアルバイト代でなく、自分だけで稼いだお金で弘子にプレゼントを買いたかった。
弘子も編み棒で毛糸玉をこねくり回したりしてみたが、いびつでウェービーな物体が生成されるばかりでとてもプレゼントにできそうにない。何度もほどいて毛羽立ってよぼよぼになった毛糸がたくさんできたので、当分練習して、上達したらプレゼントを編むことにした。その年のクリスマスには間に合わなそうだった。
「ねえ、クリスマスはどこに行こうか?」
克彦は、待ちかねたデートの日、弘子と渋谷を歩きながら嬉しそうに訊いた。
「でも、どこも混んでますよ」
弘子はわざとつまらない言い方をした。街はもうクリスマス一色で、人ごみで手をつないで歩きながら甘ったるい話をするのは恥ずかしかった。
「どうして、そんな風に言うの~。だって、初めてのクリスマスだよ」
「だって、どこも混んでるのは本当じゃないですか」
克彦と2人で歩くようになって、もう半年がたつ。弘子は、去年、他の男の子にあげるプレゼントを買っていた自分を思い出して不思議な気がした。
弘子が有名チェーンのスイーツの話をしたので、そのままその店に入った。
「ここがそうなんだ」
「先輩、来たことなかったんですか。ミントのパイがおいしいんですよね」
「弘子さん、この店がなんで有名なのか知らないの?」
その時店員が水を持ってやってきたので克彦は慌てて黙った。そして店員が去ってしまうと、乗り出して小声で弘子に言った。
「弘子さん、ここ、男は、制服目当てで来るんだよ」
弘子はきょろきょろと周りを見回し、店員の一人を見つけるとじっと見つめた。超ミニのスカートもさることながら、胸をしゃくりあげるようなカットのエプロンが目を引いた。
「…先輩、制服マニアなんですか?」
弘子は小さな声で言って克彦をにらんだ。克彦は慌てて、でも小声で言った。
「ちがうよ、男の間では有名な店だけど、俺はそういう趣味はないよ。前にサークルの男連中が行こうって言ってたけど、男だけで来たら見えすいてるし、恥ずかしいから俺は来なかったの。ホントだよ。今日は女の子と一緒だから入れたけど…」
「あ、じゃあ私がダシなんですね?」
「どうしてそんなふうに言うの~。弘子さんがおいしいって言ったから来たんだよ?」
「でも、じゃあ、ああいうの、嫌いですか?」
克彦はうーんと考え込んだ。そこに店員がパイを持ってやってきた。2人はすましてパイが置かれるのを待った。店員が去ると、克彦は、
「…まあ、そりゃあ嫌いじゃないけど」
と小さな声で言った。
「やっぱり」
不満げな弘子をのぞき込むように、克彦は言った。
「弘子さんがそう答えてほしそうだったから、男らしくひっかかってあげたんだけど」
「そんな変な誘導尋問、しません!」
「…じゃあ、興味ない。でも、もし弘子さんが着てたら全部好き」
「絶対似合いませんから。それに、変な想像しないでください」
弘子は赤くなって紙おしぼりを克彦に投げつけた。
「食べようよ、おいしいんでしょ? ミントのパイなんて、珍しいよね」
ふてた顔のまま、弘子は無言で食べ始めた。そしてあっさり、3口めには機嫌が直っていた。
隣のテーブルに店員がコーヒーのおかわりを持って来たので、克彦は少々店員のコスチュームを観察した。弘子が着ているところを想像してみると、脚はちょっと太めだが、意外と胸もあるし、似合ってかわいいんじゃないかと思った。
「せんぱい、なに見てるんですか?」
弘子が冷たい上目づかいで克彦を見ていた。すぐに克彦は店員から視線を外した。
「え、べつに…」
言いながら、克彦はつい弘子の胸元に視線を落としてしまった。弘子は脇に置いていたカバンを抱えて胸元を隠し、克彦をにらんだ。
「ゴメン、だって、キミが着たらかわいいだろうなって…」
弘子はしばらく克彦に厳しい眼差しを向けていた。克彦はひたすら「ゴメン」を連呼した。しばらくして、弘子が訝しみつつも渋々パイに戻ったので、克彦はちらっと、もう少しだけ弘子の胸元を盗み見た。ぽてっとした体形にちょうど合いそうで、心から可愛らしいと思っているのだが、きっと弘子には変な妄想にしか思われていないのだろう。
(今、「クリスマス、俺の家に来ない?」なんて言ったら、絶対に嫌われるよな…)
でも本当は、弘子はそう悪く思ってはいなかった。というより、本当は嬉しかった。店に入った時点で、克彦が男の子らしい発想に向かうことは折込み済みだ。弘子だって16歳、克彦が思っているほど子供ではない。クリスマスになにかあったら…なんてことを考えながら、弘子はパイを食べていた。何事かを許す気はなかったが、何かを起こそうとされてそれを断るくらいのことは、あってもよかった。
結局、2人はお互いに幼稚な誤解と探り合いをしながらデートを重ねているばかりで、実際には何事も起きなかったし、何も進展しなかった。弘子は、克彦に対する好意が「恋愛感情」かどうか…という命題について、いまだに「保留」のままにしていた。
クリスマスの前に、ちょっとした事件が起こった。
弘子が帰りがけに渡り廊下を歩いていると、中庭のテニスコートから「弘子ちゃん」と川上京子に呼び止められた。弘子は、京子の名前は思い出せなかったが、「去年卒業した、みんなを下の名前で呼ぶ先輩」だということはすぐに思い出した。
「あ、どうも…。今日はテニス部にいらしたんですか?」
弘子はちょっと遠慮気味にあいさつをした。テニス部の人は、克彦を筆頭に、まったく弘子のことをよく覚えている。
「うん、ちょっとOGヅラして、教えに来たの」
京子はそう言ってにこっと笑った。それからちらっとベンチの方を見て、
「ねえ、ちょっと座らない?」
と言った。弘子はわずかにいぶかったが、京子に連れられてベンチに向かって行き、座った。そこは、かつて弘子がフルートを吹きそこなった思い出の場所だった。
「まさか、アナタとはねー」
京子はいきなり切り出した。弘子は何のことかわからなかったが、戦々恐々として様子を見ている佳美とかおりに気付き、状況を把握した。
「山根くんとつきあってるの、弘子ちゃんなんでしょ?」
ズバリと問われた。弘子は、はっきりハイと答えるべきか、それとなくわかるような態度で答えようかを迷った。
「…え、それは、…あの、一応」
歯切れの悪い弘子の様子に、京子はそのまましばらく黙っていた。弘子は何を言われてもいいように身構えた。
「山根くんが、弘子ちゃんのことを好きだったんだよね」
京子はテニスボールを目で追いながら言った。弘子はとても答えられなかった。またしばらく沈黙が流れ、京子はわざとらしく大きな伸びをしてみせた。
「そっかー、弘子ちゃんだったのか~。わからないわけだ~。私ね、山根くんのこと好きだったの。もしかして、とっくに知ってたかな」
「いえ…」
弘子は小さく答えた。
「そっか、そんなこと、言わないか。あの男は」
京子は満足そうに言って、弘子を気遣う口調に変わった。
「ゴメンゴメン、ジャマしてやろうとか文句言ってやろうとか、そういうんで呼んだんじゃないから。もう山根くんにふられてから半年以上たつし、そんな執念深くないよ」
「いえ、そんな風には思ってないです…」
弘子は、克彦とつきあう以上、一度はこういう修羅場があるだろうと覚悟していた。ついに来たな、という気分だった。京子は妙に明るい口調で続けた。
「私ね、1年生でテニス部に入ったときから、山根くんのことずっと好きだったのよ。でも、ライバルの子とか、みんな山根くんに『女の子と付き合う気が全然ない』ってふられてて、だからなんにも行動できなかったんだよね。でも、3年になって、それまで誰と何のウワサをたてられても気にしなかったくせに、私とつきあってるって言われたら顔色変えちゃって…あ、ゴメン。私、思い出話してるだけだから、気にしないでね」
弘子が遠慮がちにうなずくと、京子はまた話を始めた。
「告白したとき、好きな人がいるって白状されちゃった。多分、それが弘子ちゃんだよね」
答えられなかったが、弘子は多分そうだと思った。
「この前、山根くん、弘子ちゃんに会いに学校まで来てたんでしょ? ウチの女の子が、山根くんが女の子追っかけてたの見たって言ってて…どんな子だったーって聞いて、地区大会に来てたあの子だ、弘子ちゃんだってやっとわかったの。見かけたら絶対に話してみたいなって思ってたんだ。山根くんはどんな子が好きだったのかなって」
弘子はそのまま京子のとりとめのない話を黙って聞いていた。克彦は大学でもどこでももてるだろう。そういう女性たち全員にとって自分は邪魔者でしかない。弘子は、これから何度こんな試練があるのだろうと思うと気が塞いだ。
「ゴメンね、こんな話されても、困るよね」
弘子は慌てて顔を上げた。
「えっ、あ、いえ」
「弘子ちゃんのほうは? 地区大会見に来たのは、山根くんに興味があったから?」
「…え…あの…」
全然興味がなかったと言ったら嫌味な気がして、弘子は口ごもった。
「山根くんになんて、興味なかった?」
「あの、テニス部にはカッコいい人がいるんだなー、ふーん、くらいにしか…」
「…ねえ、なんか嫌みな質問みたいになっちゃうけど、一つだけ聞いてもいい? …弘子ちゃんは、山根くんと、なんでつきあってるの? カッコいいから? それとも、ちゃんと好きだから?」
弘子はぎくりとした。だが、京子がどこかで克彦と弘子の恋愛を否定したい気配も感じ取った。だからマイナスな答えを返したくはなかった。
「あ、言いたくなければ答えなくてもいいよ」
京子の声に弾かれて、弘子は口を開いた。
「私、はじめの3ヶ月は友達の延長線上で山根先輩と会ってました。でも、…今は自分でも、友達のつもりはありません」
弘子の強い意志のこもった口調に京子は少し驚いた。
「…あとから好きになっちゃいけないですか?」
弘子は顔を上げて京子をまっすぐに見た。そして、自分のプライドを守りたいだけなのかもしれない…と自分自身で思いながら、
「私、山根先輩のこと、好きですよ」
とはっきり言った。
京子はしばらく弘子の目を見ていた。弘子の気持ちを心の奥まで読み取ろうと思ってじっと見た。弘子は目をそらさなかった。京子が先に視線を外した。
「…そっか。良かった」
少しの間張りつめていた空気が元に戻った。
「弘子ちゃんは迷惑だったかもしれないけど、私は、…なんていうか、救われたな。ありがとう。せっかくだからもうちょっと待って、かおりと佳美と一緒に帰ったら? 2人とも、心配してるみたいだよ」
そう言って京子が指さした方向を見ると、佳美とかおりが遠慮がちに見ていた。
「…そうですね。そうします」
「そう。うん、ゆっくり見てって」
京子は部活に戻った。そして、克彦が弘子を追いかけていた場面を見ていた二人の女子部員のそばを通るとき、
「あの子がこの前の子でしょ? あれ、山根くんの彼女だよ」
と言った。二人は「えー」と残念そうに言い、弘子を見た。
(…私が山根先輩の彼女だったら、いけない?)
弘子は半ばケンカ腰でそこに座っていた。
佳美は満足そうにかおりに囁いた。
「ヒロコも、ちょっとは変わったみたいね」
かおりは呆れたように笑った。
「さすがにいい加減、先輩のこと、好きになってきたでしょ~」
佳美は目を伏せ、大人の口ぶりで言った。
「ヒロコはもうとっくに山根先輩のこと、好きだったと思うよ。かおりはずっと前に、ここで誰もいないテニスコートを見てたヒロコの背中を見てないから…」
やっぱり妬けた。もう昔の恋ではあっても、もしも自分なら、弘子よりずっと克彦に尽くせるのにと唇を噛んだ。
練習が終わり、テニス部員が更衣室に行った後、弘子はしばらく一人でテニスコートを見ていた。克彦がテニスラケットを持っているところは二度しか見ていない。一度目は入学してすぐの新入部員勧誘のデモンストレーション。二度目は地区大会。どちらも弘子にとって克彦は「知らない人」で、印象も、幾分マイナスの意味合いで「カッコよかった」程度にしか残っていない。弘子は、克彦がテニスをしているところを見たいと思った。他のたくさんの女の子が知っている克彦の姿を、そんな風に希薄にしか知らない自分が淋しかった。去年なら、克彦はずっとここにいたのに…。
なぜだろう。「あなたたちって、せいぜいそんなものでしょう?」と思われるのは悔しかった。高校時代に、出会っていたのに他人のままでいたことが今更惜しまれた。
「ヒロコー、おまたせー」
「ねー、川上先輩と、なに話してたの~??」
2人が着替えて戻ってきた。弘子は我に返った。
「うん、いろいろ…」
弘子がそう答えると、2人はあきれたような苦笑いを浮かべた。
「ヒロコ、私らもバカじゃないんだから…」
「大した話じゃないよ。みんな、私が山根先輩のことを好きかどうか、気になるんだね」
「そらーアンタが先輩に冷たいからじゃーん」
「キミたちが勝手にそう思い込んでるだけです~!」
弘子は反論したが、すぐに佳美に黙らされた。
「で…なんて答えたの? ヒロコ」
「え…」
「好きだって言ったんでしょ~、白状しなさいよ~」
「あ、私たちより先に川上先輩に白状するなんてひどーい」
2人の追及に、弘子はカバンを不必要に振り回しながら口をとがらせた。
「プライドの問題なの~。まだ気持ちの整理してる最中だけど、負けられないじゃん。私にだって、意地はあるの~」
『あとから好きになっちゃ、いけませんか?』
『私、山根先輩のこと、好きですよ』
3人ではしゃぎながら帰る道は楽しくて、弘子のなかでまたひとつ氷が解けた。そして、自分が口にした言葉が、自分の中で何かを変えようとしている気配も感じていた。




