第3章 交際編 4.再出発
久しぶりに、弘子と佳美とかおりが一堂に会した。「いつもの」と言って差し支えないおなじみの喫茶店でお茶を飲んでいた。
「で? ヒロコはどうよ、山根先輩と」
佳美はパフェのバナナを食べながら言った。弘子は佳美の顔をちらっとうかがった。佳美は涼しい顔をしていた。弘子がちょっと言いよどんでいると、
「ヒロコ、気を遣うのやめて。私はもう今の彼氏とうまくいってるんだから」
と佳美がパフェを真剣に切り崩しながら言った。
「うん、私も知ってるし。別に、気、遣わなくても平気だよ」
かおりもプリンの上のクリームを浅くすくいながら言った。
弘子は佳美とかおりの顔を交互に見た。かおりがそれに応えた。
「佳美がなんか本気っぽいな~っていうのは、気付いてたんだよね、はじめから。でも、まあ気付かないフリをしてあげるのが武士の情けだと思って」
「そりゃあ、あれだけ一緒に山根先輩見てれば、誰だって気付くでしょ」
佳美はすましてパフェをつついていた。
「…いつの間にか、全部話は通じてるの?」
弘子はおそるおそる2人を見た。佳美はなんでもないようにさらりと言った。
「うん、私、アンタにばれたってわかったあと、かおりに電話してくだまいたから」
「だから、別に、もう佳美がどうだとか関係ないから、山根先輩とどうなのよ」
かおりが訊いた。うまくいっていたら言えなかったが、弘子はそれほど気負わずに、
「…今、断絶中」
とありのままを言った。
「なんで?」
2人は同時に言った。弘子は決まり悪そうに答えた。
「うん…あのね、私、まだ山根先輩のこと、好きなのかどうなのか自信がなくて。ちょっと距離をおくことにしたの」
「あんたね~」
2人はにらむように弘子を見た。
「山根先輩はそれでいいって言ってるの?」
「詳しく話しなさいよ。どうせまたアンタが勝手なこと言ってるんでしょ」
2人がかみつきそうな勢いで身を乗り出したので、弘子はやむを得ず話し始めた。
「…うん…なんだかね、俺のこと好き? って訊かれて、答えられなかったんだよね。そんな気持ちでつきあってたんじゃ、長く続かないよ。どうせ続かないなら今壊れちゃっても諦めるしかないし、自分の気持ち、考えたくて…。それでね、先週、電話かけて『しばらく会うのやめましょう』って言ったの」
2人は絶句して、そして少ししてから叫んだ。
「どうしてそういう結論になるのかな~、ヒロコは~」
弘子は反論した。
「そうは言うけどさ、私、…山根先輩に一方的に好意示されて、ずっと向こうのペースで引っ張られてきたんだよ? 少し、休ませてほしいっていうのも、あるよ…」
克彦に対して申し訳ないと思う気持ちのほかに、少しだけ恨んでいる側面があった。好きになってくれと頼んだわけではない。克彦の気持ちはいつも一方的で、弘子の気持ちを尊重しているようでいながら、実際は完全に自分のペースで進んでいる。
「アンタねえ…。ひっどい女だよね、あんなにカッコいい人に好かれてるのにさあ」
かおりが言うと、佳美が制した。
「でも、山根先輩だからかわいそうとか言ってるけど、ヘボい男相手だったらヒロコに同情するわけでしょ? その辺は、フェアにいこうよ。私たちはヒロコの友人なんだし」
佳美のまっすぐな言葉に、弘子は自分が後ろめたくなった。
佳美とかおりは順調に恋を育てていた。どうやら、弘子だけが暗礁に乗り上げていた。
弘子はなかなか自分と向き合うことができなかった。もとより克彦とは月に2、3度会うだけの関係だ。今週はたまたま約束がないのだと、自分をごまかすこともできた。
克彦は弘子のことを気にしないように、普段どおりの生活を心がけていた。けれど、家の電話が鳴ると、携帯電話に着信があると、弘子かと思って慌てて電話をとる。克彦はそんな自分が不思議だった。
(…弘子さんなんかいないほうが、俺には俺の幸せがあるんじゃないか…)
気付くと弘子のことを思い出していたが、それを必死で振り払った。克彦にとっても、自分の気持ちと対峙する機会になっていた。
そのまま2週間がたった。
克彦は、弘子の態度に幾分腹を立てていたはずが、2週間でその気持ちも単なる切なさに変わってしまった。弘子は誠実に時間も割いてくれたし、うわべを取り繕うこともなく、不器用に正直だった。そして、今弘子が揺れているなら、気持ちを迫ったうえにキスをしようとした自分のせいだ。必死に付き合ってくれる弘子が可哀想に思え、無性に会いたかった。悩んでいられるうちはよかったが、待ち始めると途端に苦しくなった。
久しぶりに克彦は夏実の部屋をノックした。「なーにー」というふぬけた声がしたので、ドアを開けた。夏実はベッドにうつぶせになって漫画を読んでいた。克彦は夏実の椅子の背もたれを前にしてまたがった。
夏実は漫画から目を上げずに、
「またうまくいってないんでしょ、ごはんあんま食べないもんね」
と言った。
「食べたくないんだよ。のどがつかえるの。俺、おまえみたいに、男と別れても普通にごはん食べられるくらい図太くできてないの」
克彦が言い返すと、夏実は、
「え! 何、別れたの?」
と叫び、漫画を閉じてベッドの上に起き上がった。
「あ、いや、そうじゃなくて、うん、うまくいってないだけ」
「だけって、一大事じゃん」
「…うん、まあ…」
克彦は力ない笑いを浮かべた。サークルで恵梨に相談してみようかとも思ったが、弘子の生真面目で恋愛に慣れていなそうな様子に対して、恵梨はあまりに華やかすぎた。自分一人でなんとか切り開こうともしたが、試行錯誤の中でミスを起こしたらと思うとやっぱり怖かった。それで夏実に訊きに来た。
「今、弘子さんと会ってないんだよ。連絡もとってない。弘子さんがそうしてくれって」
夏実のほうがこわばった顔になった。
「アニキ、それってもう終了なんじゃない??」
「一応、俺とのことを真剣に考えたいって言ってるけど…」
「関係を切る口実だったりしない? なんでわざわざそんなこと言うの?」
「…うーん…あのね、ちょっと真面目すぎる子なんだよ。ただ会って楽しいとか、だからそれで恋愛だとか、彼氏がいるだけでハッピーとか、そういう風にいかないの」
克彦はそう言いながら、自分の真剣すぎる気持ちを押し付けて、弘子に同等のものを期待していたのは自分だと思った。
「ふうん。なんか、地味で暗そうな子だもんね」
「暗くないよ、真面目なだけ。でさ、あのさ、ちょっと訊きにくいことなんだけど…、おまえ、今まで何人くらい男とつきあってたっけ」
「え~、そんなこと訊くの?」
夏実は指を折って数え始めた。3本目、4本目の指が折られると、克彦はオイオイと思った。夏実は高校2年、弘子と同い年だ。
「何、その顔。答えてあげないよ」
克彦がけげんな顔をして指を見ていたので、夏実は顔をしかめた。克彦は慌ててわざとらしいすました無表情を作った。
「大丈夫、まだ7人だ」
「充分多いよ」
「しょうがないじゃん、もてるんだもん」
「俺だってもてるもん」
「そんなこと訊きにきたの?」
克彦は言いにくそうに夏実から視線を外し、ちょっと咳払いをしてから、意を決して、
「あのさ、大体平均して、キスまでどのくらい待った?」
と訊いた。夏実は不快そうに答えた。
「私、キスしたことないよ。許したことないもん」
「…え、だって、7人? 誰とも?」
「アニキにウソついたってしょうがないよ。お父さんになら嘘つくかもしれないけど」
「え、だって、一番長くつきあってたのって?」
「半年~」
「え、ウソ。おまえ、なにやってんの?」
克彦は驚愕した。夏実は華やかな青春を送っているようだから、世の風潮から行けば、もう男を知っている可能性は大きいとすら思っていた。
「迫られたら全部殴ってるもん。それでも迫る奴は別れるもん。おあいにくさま~」
「あ、そう。…おまえって、案外、弘子さんに近かったの…?」
「斉藤さんも、そういうの何もない人? そんなことわかんないじゃん。私のことも、そうやって全然わかってないくらいだし」
克彦は、弘子に以前つきあった人がいたかもしれないという、一度は振り払った不安が蘇ってくるのを感じた。
「好きならいいってもんでもないし。逃げたから恋してないわけでもないし。それに、アニキはずっと斉藤さんのこと好きで、高校のときから写真飾ったりしてるけど、斉藤さんの方はいつからアニキが恋愛の対象になったわけ? 彼女の方が後からなんでしょ?」
「多分、この6月まで、弘子さんは俺のことなんか知り合いにも数えてなかったと思う…」
「てことは、斉藤さんはまだアニキの存在を認識して5ヶ月でしょ? 出会って5ヶ月の人とそういう気持ちになれないのは、仕方ないんじゃないのかな~」
克彦はしばらく目をしばたたかせて夏実に見入っていた。
「夏実、おまえすばらしいよ。難しい数学の証明問題を解いてくれたみたいだよ。俺、感動したよ。すばらしい講義だったよ。ありがとう」
克彦は、やっと簡単な数学の答えがわかった気がした。自分は、弘子に出会って5ヶ月たった頃、果たしてキスをしたいとまで思っていただろうか。しかも、自分は出会ったときから弘子に恋をしていたが、弘子は本当に文字通りの「出会って5ヶ月」でしかない。
「斉藤さん、かわいそうだよねー。アニキが一人で勝手にふられたとか騒いで引きこもったりするし、自分の欲望だけでキスしようとかするし」
夏実は、弘子に同情したわけではなく、兄に偉そうなことを言いたくて攻撃的な言い方をしてみた。だが、克彦は深々とうなずいた。
「うん、わかった。俺が絶対悪い。ありがとう。やっぱり弘子さんはいい子だよ」
克彦は上機嫌で夏実の部屋を出て、自分の部屋に戻った。
(「出会ってから」たった5ヶ月か…)
もちろん、出会って5ヶ月で結婚する人だっている。けれど、弘子は明らかに恋愛にうといし、恋の道を歩く速度も遅い。克彦は急ぎすぎた自分を心から反省した。
また1週間が過ぎた。克彦は自分の中の綱引きと戦っていた。一刻も早く会いたかったが、仕方なくとはいえ弘子に「待つ」と言った以上、会いに行ってはいけないと思って我慢していた。
弘子はその頃、なにひとつ変わらない自分の気持ちに向かい合っていた。会いに行けば必ず振り向いてくれる気がした。そんなに甘くはないよと自分に言い聞かせても、失うかもしれない緊張感が欠けていた。
あれから、正確にひと月が過ぎた。その日付が「ひと月」に含まれるかどうかは微妙なところだ。弘子はそれに甘えることにして、克彦に連絡をしなかった。克彦は携帯電話を手に夜中まで待っていた。でも、とうとう弘子からの連絡は来なかった。
翌日、克彦は大学の4限をサボり、高校の正門が見える位置で弘子を待った。授業が終わるチャイムが鳴ってぱらぱらと高校生たちが帰宅を始めると気が急いたが、克彦は視点を定めて自分を落ち着かせ、弘子を探した。弘子が視界のどこに入っても一瞬で見分ける自信があった。高校最後の1年間、弘子の姿だけを追ってきた成果だった。
しかし、物陰からちらちら見ていたら、校門を出てきたテニス部の女の子とうっかり目が合った。その2人組がまっすぐ向かってきたので、仕方なく克彦は姿を見せた。
「山根先輩ですかあ?」
2人は遠慮なく声をかけてきた。
「久しぶりだねー」
克彦は笑顔を装った。でもしっかり、弘子が出てきたら見える立ち位置はキープした。
「なに、してるんですか~?」
「待ち合わせしてるんだよ。キミたち、今日、練習は? 練習、ある日だよね」
テニス部の子がわいわい帰る日でないことはチェックしたはずだったが、あいにくこの二人は都合で部活を休んで帰るところだった。不運だった。
「せんぱい、テニス部寄ってってくださいよー」
「うん、今度来るよ。これからちょっと、用があるから…」
克彦はそんなやりとりもそぞろに正門のほうを見ていた。これ以上突っ込まれると困るな…という絶妙のタイミングで、弘子が一人で出てくるのが見えた。
「あ、ゴメンね、待ち合わせてた人が来たから」
そう言うと、克彦は挨拶もそこそこに走りだした。
「弘子さん!」
克彦は遠くから弘子の背中に声をかけた。振り返ると克彦の姿が見え、弘子は動揺して逃げようかと足を速めかけたが、迷っているうちにあっという間に追いつかれた。
「弘子さん、約束の1ヶ月だよ」
高校の知り合いが辺りに大勢いることを考え、弘子は、
「あの、後で話はしますから、離れて歩いてください」
と言ってそそくさと克彦から距離をとった。
「待ってよ、弘子さん」
克彦は簡単に3歩で弘子との距離を詰めた。
「あの、…知り合いとか、いっぱいいますから…」
弘子は短く言い、また小走りに距離をとった。克彦はまた追いかけた。
「弘子さんの彼氏が俺だって知れたら、みっともない? 恥ずかしい?」
「そうじゃなくて、逆です。私じゃみっともないんです」
また走りだそうとする弘子の腕を、克彦がつかんだ。
「なんで?」
これ以上押し問答をしていても仕方がないと思い、弘子は黙った。逃げるのもやめた。
「あの、手を離してください。逃げませんから。目立ちますよ」
「俺はかまわないよ」
「私はかまいます。高校でいろいろ言われるのは、私です」
「…ゴメン」
ほんの少し離れて、克彦は弘子の背中を追って歩いた。後ろから見ると弘子はとても小さくて頼りなかった。そんな相手に気持ちを押しつけたことを申し訳なく思った。
「ここじゃ落ち着かないでしょ。送るよ」
克彦の申し出を、弘子はぼんやりと受容した。電車に乗り、ドアの側に2人で立った。
「弘子さん、約束の1ヶ月だよ」
克彦はもう一度言った。弘子は、
「…すみません。今夜には電話をしようと思ってたんですけど…」
と言い、やはりぼんやりしていた。
電車がカーブして車両が揺れた。弘子は少しバランスを崩し、克彦がとっさに肩を抱きとめた。克彦は何気ないふりでそのまま掌を離さなかった。弘子に触れる手が熱かった。強く胸元に抱き寄せたかった。
「あの…誰がいるかわからないから…」
弘子が目を伏せて言ったので、克彦は肩の手を離した。
「…すみません。下校時刻だから…」
弘子はかすかにお辞儀をするように頭を下げ、うつむいたまま立っていた。
電車は弘子の降りる駅に着き、2人は改札を抜けた。
「今、話できるかな」
克彦は言った。弘子は答えた。
「…あの、私…、何も変わってないんです。ひと月前と同じで、先輩のことどう思ってるのか自分でもよくわからないし、なにも話すことがないんです」
「俺の方は、話があるんだけど…どうかな、話…したくないなら、今日は帰るけど」
克彦の言葉に、弘子は小さな声で、
「いえ、あの…ちゃんと聞きます。約束ですから」
と言った。いつもの池のある公園に向かった。
入ってすぐのベンチに並んで座った。弘子は少し克彦に距離をとるように座り直した。そのしぐさに気付き、克彦は胸に痛みを覚えた。弘子の気持ちは沈んでいる。何も変わっていないとは言っているが、ひと月前の弘子は少なくとも明るかった。
克彦は丁寧に話し始めた。
「ひと月、俺もいろいろ考えたよ。弘子さんは、何も変わらなかったって…本当に?」
弘子はしばらく黙って、それからゆっくり首をかしげた。何か言うかと克彦は少し待ったが、弘子はそのまままたうつむいた。
「キミに、俺に話すような変化が何もなかったんだったら、その方がいいんだ。あのね、俺、…キミに、謝ろうと思って来たんだよ。…なんか、前にも似たようなことがあったね。俺、ちっとも変わらないね。自分勝手だったなって思ったんだよ。本当に」
「え、そんな」
弘子は驚いて顔を上げた。自分勝手なのは自分の方だ。克彦が顔を近づけてきたとき、確かに目を閉じた。それでもいいと思った。具体的に言葉でそう思ったわけでなく、とても自然に閉じたまぶたがそう答えていた。心の奥にある素直な気持ちを知りたくて過ごしたこのひと月、克彦に背を向け、傷つけても、何も見つけられなかった。
「ううん、…ゴメン弘子さん。俺ね、…急ぎすぎてたみたい」
克彦は目を伏せて言った。弘子は克彦を見つめていた。
「妹にね、言われたんだ。弘子さんは、俺と出会ってからまだ5ヶ月しかたってないんだって。出会って5ヶ月って、『つきあい始めて5ヶ月』でもなければ、『好きになって5ヶ月』とも違うんだよね。俺、自分の気持ちばかり考えて、まるで…同時に知り合って同時に好きになったみたいな感覚でいたよ。ホントにゴメン」
弘子は克彦の顔をまじまじと見ていた。克彦はやっと視線を返した。
「…あの、私…」
弘子はそれだけ言って、言葉に詰まった。
「何?」
克彦は弘子に優しい目を向けた。弘子はその優しすぎる響きにかえって気後れした。けれど、なんとか口を開いた。
「私、このひと月で、何も変われなかったから…、このままでもいいですか…って言おうと思ってたんです。先輩の気持ちにちゃんと応えられなくても、このまま、こんな風に、一緒にいていいですかって…。そんなのはずるいかなって思ったんですけど…」
弘子は何度も克彦から視線を外し、目を伏せては克彦に視線を戻した。いつも克彦の顔を見ないで話をしていた弘子の、精一杯の努力だった。克彦にもそれは伝わった。克彦は弘子の手に手を伸ばし、強く握った。
「ゴメン。俺が結論を急ぎすぎただけだよ。ゆっくり行こうよ。…ときどき、また、弘子さんに無理を言っちゃうことは、あるかもしれない。でも、俺も正直に言うから、弘子さんも無理して応えようとしないで、正直に気持ちを教えて。ウソで好きだって言ってもらっても仕方ないし、弘子さんがつらくなったんじゃ意味がないよ。うまく言えないけど、これが正しいとか、どっちかが損をしてるとか、こうあるべきだとか、そういうの、よそう。自然に、このままの状態で、そばにいようよ。淋しいって、言っちゃうかもしれないけど。でも、無理して応えようとしないで」
弘子は、そう言う克彦の顔をじっと見ていた。真剣で、誠意のこもった強い瞳に、弘子は胸が高鳴るのを感じた。自分だけを見ている澄んだ瞳。弘子はしばらく、克彦にぼうっと見とれていた。
「え、え、何?」
弘子のまなざしの透明な熱さが胸を揺さぶり、克彦の方が照れてしまった。弘子はあわてて目を伏せ、自然に、素直に、
「…すみません、見とれました」
と言った。そんな言葉は、克彦にとって嬉しくもあったが、弘子の気持ちがわからない中では戸惑いでもあった。
「少し、歩かない? また、ここを1周しようよ」
克彦は弘子の手をとって立ち上がった。2人は歩きだした。
「いろいろね、あらためて、訊きたいこととかあるんだ。弘子さんって、今までに…つきあった人とか、いるの?」
「え? いませんよ」
あまりにあっさり弘子が答えたので、克彦は拍子抜けした。
「え、そうなの?」
「いないですよ」
「あ、そう、…そうなの。うん、まあ…そうじゃないかな、とは思ってたんだけど」
「ええ、見てのとおりレベル低いですから」
弘子は克彦の言葉にガッカリした。克彦は焦ってフォローした。
「あ、そうじゃなくて、ホラ、俺と一緒にいて、あんまり慣れてなさそうだったから。レベル低いなんて言わないでよ、俺が変なシュミみたいじゃない」
「変なシュミですよ」
弘子はちょっとご機嫌を損ねたように、すねた口調で言った。
「もー、ゴメン。怒らないで。はい、次の質問。弘子さんの好みのタイプって、どんな男?」
克彦の質問に弘子は戸惑った。先日、遥子に訊かれて「こういう人がいいな」と答えたら、その特徴は克彦にピッタリ当てはまっていた。他に思いつかなかったので、それをそのまま言った。
「…明るくて、無邪気で、可愛くって、純粋な人」
「子供っぽい奴、好きなんだ。弘子さん、年下とかの方がいいの?」
「年下なんて…全然ピンとこないですけど…。なんか違う人種みたいで」
「じゃあ、年上の方がいい?」
「そうですね、年下よりは…。でも、あんまり男の人に縁がなかったんで、一番慣れてるのは同い年ですけど。クラスメイトとなら、話くらいしましたし」
「あのさ、弘子さん、1年生のとき、好きな人いたでしょ? …俺、偶然その話聞いちゃってさ。…そのへんとか、どうなの? 今は…」
「え? あ、知ってたんですか?」
弘子はびっくりした。克彦は、やっぱりいたんだ、と胸が痛んだ。
「もう忘れちゃいました。その人、彼女がいたんです」
弘子は多くを語らなかった。実際のところ、大基のことは本当に忘れていた。いい人だとは思っていたが、もう単なる部活の仲間だった。特に、克彦と会ったりするようになってからは急速に薄れていた。失恋は、次の恋が簡単に消してくれる。
「…忘れたって…本当に?」
克彦は素直に信じられなかった。以前つきあった依里子のことは、思う思わざるに関わらず、ことあるごとに蘇る。単純になんの影響もなくなったとは考えられない。
「そうですね…。一度、先輩より、その人と歩いてる方が気が楽かなって思ったことはありますけど…」
克彦はぎくりとして弘子の表情をそっとさぐった。けれど、身長差でやっぱり見えなかった。手を強く握ると、弘子がかすかに笑った気配が掌から伝わってきた。
「笑わないでよ、俺にとっては重大なのに」
克彦はすねた。弘子は「すみません」と言ったが、やっぱり笑っていた。
「でも、…友達と歩いてるのって、気が楽ですよね。そういうことなのかなって…」
克彦の顔がパッと晴れた。もう一度、弘子の手を強く握った。
その日2人は、いろいろな話をした。小さいときのこと、家族のこと、友達のこと。弘子は「カッコいい人」が嫌いだったのではじめから克彦に対して否定的な気持ちがあったことを話した。克彦は自分が女の子にもてること、恋をしたことがなくて女の子たちの気持ちをわかってあげられなかったことを話した。
ただ、克彦は、自分の中にある女性への嫌悪感やその原因となった事件のこと、依里子とつきあっていたときのことは話さなかった。それは多分に性的な要因が関係していて、まだ弘子と二人の間に持ち込むには早すぎた。
いつかもっと関係が深まったら話そうと克彦は思った。でも、あるいは自分の中にしまいこんでおくほうがいいのかもしれない。何もかも話すことがすべていいとは限らない。
2人は、新しくやりなおすことにした。弘子の歩くペースに合わせ、少し後戻りしたけれど、2人にとってこれはやっぱり「進展」だった。