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第3章 交際編 3.停滞


 克彦は、自分が急ぎすぎているのだと思うことにした。弘子のペースがもどかしくて切なかったが、何か起こったら弘子が腕の中から逃げていってしまうような気がした。

 弘子は、佳美に気を遣って、親友2人と恋愛の話をすることを避けていた。普段一緒にいる吹奏楽部の女の子たちには「好きな人はいない」と言っていて、恋の話に加わらずにいた。でも今、弘子は誰かに話を聞いてほしかった。

 だから、吹奏楽部の同学年女の子たちで恋愛話に花を咲かせてお茶を飲んでいるとき、弘子は意を決して、

「実は、私も最近彼氏ができたんだけど…」

 と打ち明けた。仲間たちはいっせいに驚き、「誰?」と訊いた。弘子は、相手が相手なので細心の注意を払って、

「去年の卒業生。ウチの部じゃないから、言ってもわかんないよ」

 と言った。どこの人、どんな人、と質問は続いた。

「友達の部活の先輩で、卒業してから電話もらって、会うようになって…」

 弘子はうまく答えた。

「デートとか、どこ行くの?」

「いつも、どんな話するの?」

 吹奏楽部の同学年の女の子は弘子のほかに5人いて、彼氏がいるのはそのうち1人だけだ。弘子は、できれば他の女の子たちが男の子とどうつきあっているのかを聞きたかったが、都立高校の地味な文化部の女の子たちはとてもそういう雰囲気ではなかった。相談はできなかったが、恋愛話に加われるようになっただけでいいことにした。

 帰りは、一番仲のいい今井遥子と方向が一緒だった。2人で歩いていると遥子が訊いてきた。

「弘子の仲のいい友達って、テニス部だよね」

 弘子は返事に詰まった。明らかに「弘子の彼氏」の話の続きだった。遥子は弘子の顔をまじまじと見て、

「私、弘子が男の人と歩いてるの、見たことあるよ」

 と言った。弘子は顔中がこわばった。

「なんか、言っちゃいけないのかなと思って、みんなの前では黙ってたんだけど、もしかして、テニス部のカッコいい人?」

「え、…いや、カッコいいかどうかは…」

 弘子はそんな風に言ってみたが、克彦をカッコよくないと言ったら絶対に嘘だ。

「あの人、なんていったっけ」

 遥子は考え込んだ。思い出さないでいてくれればいいと思ったが、あっけなく、

「あ、山根先輩だ」

 と言われてしまった。弘子は観念した。

「山根先輩とつきあってんの?」

 弘子は決まり悪そうに黙っていたが、その態度は雄弁だった。

「えー、山根先輩なんだ。へー。すごいじゃん。あの人、もてるんでしょ?」

「…うーん、そうね…」

 まるで克彦と一緒にいるときのように、弘子は言葉がうまく出なかった。

「えー、誰にも言わないから、教えてよ。ききたーい」

 遥子は副部長で、楽器はクラリネット。校外でバンドを組んでドラムをやったりもしている。人づきあいのうまい子で、ちょっと強引なところもあったが、それが嫌味にならない人当たりの良さを持っていた。

「弘子、ウチ寄ってかない?」

「あ、でも、遅いから…。ごはんだし…」

 その時遥子の降りる駅に着いたので、遥子は、

「とりあえず、ホームまで降りて」

 と弘子を引っ張って降りてしまった。遥子は駅のホームから自宅に電話を入れ、弘子の分まで夕食を手配した。それから電話を切って、弘子の腕を引っ張って改札を抜けた。

 遥子の部屋でカレーを食べながら、弘子はやっとぽつぽつと話し始めた。

「…親友二人がテニス部で、二人とも山根先輩に憧れてたから、なかなか彼女たちには話しづらくてさ」

「そっか~。弘子が山根先輩につきあってくれって言ったの? 逆なの?」

 弘子は答えられなかった。自分で言うのははばかられたし、事実を言っても信用されない気がした。でも遥子はじっと返事を待っていた。仕方なく、小さな声で答えた。

「…信じないかもしれないけど…実は、向こうから…」

「うっそー! どうやって親しくなったの、テニス部とか通ったの?」

「親しくなんか、なかったよ。ホントだよ」

 肩をすくめて小さくなる弘子をじろじろ見ていて、遥子はふと思い出した。

「そういえば、私目撃してない? 山根先輩が弘子にアプローチしてるの。学園祭で、先輩、弘子に声かけてきたじゃん。隣歩いてたから覚えてる。弘子はびっくりしてたよね」

「…よく覚えてるね…」

「え、だって、山根先輩ってちょっとチェックじゃない? わっ、かっこいいなーと思って、それで覚えてるの」

 やっぱりそうなるのか、と弘子は気が重くなった。克彦はどこにいても目立つし、みんなが〝とりあえずはチェック〟する存在。

「いいないいなー。弘子、あやからせて~」

 そう言って遥子は弘子の腕を引っ張ってぺたぺた触った。

「なんにもご利益なんか、ないよ。私、なにもしてないもん」

「何もしてないのにカッコいいカレシができるんだから、なにか憑いてるよ」

 弘子は男女交際の進展のあり方について話をしたかったのだが、これではとても言い出せなかった。でも、ちょっと会話が途切れたとき、遥子の方から小声で、

「で、山根先輩とはどこまでいったわけ?」

 と訊いてきた。弘子は自分の心を読まれたかと思ってヒヤヒヤした。

「実は、その辺を相談できる人がいなくって…。テニス部の二人はカレシいるんだけど、中学とかから一緒だと具体的な話とかしづらくて。相手も山根先輩だし…」

「子供の頃から一緒にいると、大人になった話とか、しにくいよね。…で、弘子は大人になったの?」

「大人って、なによ!」

 弘子は慌てふためいて言い返した。

「あんただって、話したそうにしてるじゃん。いいから話しなよ。どうなの?」

 実際話したかったので、弘子はおとなしく従った。

「別になんにも、ないよ。一応デートのときは手をつないでるけど…」

「きゃー、すごい! だって、相手はあの山根先輩でしょ?」

「…だから、かえって困ってるのに…」

 弘子はため息をついた。うらやましいとかすごいとかは言われても、相手がカッコいいゆえに生じる深い悩みは誰にもわかってもらえない。

「なーんで困ってんのよ。山根先輩って、女グセでも悪いの?」

「全然、逆。浮いた話一切なし。テニス部でも、全部ノーだったんだって」

「それなら全然問題ないじゃん、何を困ることがあるのよ」

「あのね、ある日いきなりそういうカッコいい人からつきあってくれとか言われて、その日から好きになれる? キミは僕の天使だ妖精だってちやほやされて、恋愛モード入れる? 非現実だよ」

「体験したことがないからなんとも言えないなあ…。なに、山根先輩ってそんななの?」

「そこまで極端じゃないけど、ノリとしてはそんな感じ。俺のこといつか好きになってね、弘子さんの好きなところどこでも行くよ、みたいな…そんな状態」

「山根先輩ってロマンチストなんだ。カッコいいからいいけど、フツーの男がやったら微妙だね~。小学校のときクラスにいた女子女子した男の子が、そんな感じだったなあ」

「そういうのじゃなくて、もっと、外国映画の情熱家みたいなノリだよ」

「ふーん。でも、甘んじて受けておけばいいじゃん」

「…私、まだ、自分が山根先輩のこと好きなのかどうか、自信ないんだよね。つきあってるくせにって言われるかもしれないけど、カッコよすぎちゃって実感わかないし。すっごく素敵な人だとは思うんだけど、ステキと、スキって、ちがうじゃん」

「ふーん。まあ、弘子とカレシの状況はわかった。さて、弘子の今の悩みは?」

 弘子はごにょごにょと言った。

「それなんだけどね…この前…『キスしていい?』って訊かれて」

 遥子は聞こえなくて耳を近づけ、

「え? なに、聞こえない。そんなヤバいことなの?」

 と言った。弘子は渋々、ハッキリ言った。

「え、だから…キスしていいかって」

「きゃ~、はずかしー!!」

 遥子は背もたれにしていたベッドの側面に、思いきり倒れこんだ。

「恥ずかしいのはこっちだよ! 私、真面目に訊いてるんだから~!」

 弘子は赤くなって叫んだ。

「で、どうしたの、って…断っちゃったのか、何にもないって言ってたもんね。わー、もったいない、いいじゃん、そのくらい、減るもんじゃなし」

 遥子は起き上がってぐっと身を乗り出してきた。弘子は心なし後ろに下がりながら、

「減るよ、ファーストキスだもん」

 と言った。

「はじめてか~。そうだよね、そのくらいで大騒ぎしてるんだもんね」

「なんか、自分はもっと知ってるみたいに言うね。遥子って、実は男女交際とかってとっくに経験済み?」

「ううん、ない、ない。両想いはあったけどつきあうとかなかったし」

「ふうん…。よくわかんないな」

「両想いだからつきあうとは限らないし、つきあってるから両想いとも限らないよ。いろいろあるよ、つきあうにしても、両想いにしても」

 弘子は「つきあってる=両想い」という法則に自分が則っていないことを気に病んでいた。けれど「いろいろある」という一言に含まれる深さに、ふと、ハッとした。

「キスはおあずけにしたんだ~。カッコいいし、最初が山根先輩ってちょっとしたステイタスじゃん。しちゃえばよかったのに」

「…私、ステイタスなんてどうでもいいもん。好きな人としたいんだもん」

「あ、傷つくな~その言い方。山根先輩、聞いたらショック受けちゃうよ?」

「わかってるよ。だから、まだダメだって言っただけ…」

「これから弘子は山根先輩を好きになるように頑張るんだ。ああ、残酷。頑張らないと好きになれないなんて、あんまりだね~」

「…だって、状況が特殊なんだもん」

「べつに、普通じゃん。彼氏がちょっとカッコいいだけじゃん」

「ちょっとじゃないよ。カッコよすぎだよ」

「ただの都立高の先輩後輩じゃん。私、山根先輩がかわいそうになってきた。なんでこんなダチョウの卵みたいなのをゲットしちゃったのかしら」

「なによ、ダチョウの卵って」

「硬くて割れない。不毛の砂漠が良く似合う」

 遥子は笑った。

「山根先輩のほうが、さっさと行動しちゃえばいいのになあ。考えたって、恋愛は複雑になるだけなんだから。まあ弘子の価値が下がらないように、でも高価すぎて誰も買えなくなったりしないようにするんだね」

 弘子はしばらく考えて、なんとなく理解した。要は相手を飢えさせても、満腹させてもいけないということだ。

「でも、なんかそれってカケヒキだね。私、あんまりカケヒキとか、したくないなあ」

「恋愛に駆け引きは絶対あるよ。するとかしないとかじゃなくて、発生するの」

(かけひき、ねえ…)

 弘子は夜10時に遥子の家を出た。またなにかあったら遥子に話そうと思った。2人の親友にもいつか心おきなく話をしたいと思いながら、電車に揺られて帰っていった。


「また、悩みごと?」

 コートサイドに座ったまま克彦が振り返ると、恵梨が立っていた。土曜日のサークル、大学のテニスコートは午前の割り当て。克彦は、出てきたものの、何もしていなかった。

「…ほっといてください。自分で何とかします」

 そう言いつつ、克彦の声は、どことなくもっと追及してほしそうだった。

「キミさあ、態度に出すぎなんだよね。辛気臭~。まさかつきあったらすぐ、彼女にふられた…なんてこと?」

「…そんなこと、ないですよ」

 でも、近いよね…と克彦は思い、ずしんと石が落ちたように背中を丸めた。

「サークルに悩みを持ち込まない! 私だって、持ち込まないんだから」

 恵梨が含みのある言い方をしたので、克彦は顔を上げた。

「何かあったんですか?」

「うん、修羅場だった。他に好きな人ができたから別れようって言ったら、前の彼、怒っちゃってさあ。次の男教えろって、うるっさいんだから。教えられるわけないじゃない。殺傷事件とか起きちゃうとイヤだもん」

 恵梨はさらりと言ってのけた。克彦は恵梨のあっさりした態度に疑問をぶつけた。

「…高田先輩の別れ話のしかたが悪かったんじゃないですか?」

「今はこんな言い方してるけど、ちゃんと謝りました。もう、大泣きして」

 恵梨はニコニコしていた。

「なんか、嬉しそうですけど」

「そりゃあ、新しい恋が始まったんだから、ハッピーだよね~」

 克彦は疎外感にかられ、抱えたひざに顔を埋めた。

「あら、自分の恋はうまくいってないの? 今日は、テニスサボって話してようよ。毎週単調だしね。またどっかの大学と、交流試合でもするか~」

「…でも、この前みたいなところは、イヤですよ~」

 前回の交流試合のあとのコンパで、克彦は女の子に囲まれ、面倒くさい状況になった。克彦は恵梨に助けを求めて必死でアイコンタクトを送ったが、恵梨はしばらく面白がって放っておいた。結局は助けてくれたが…。

「で、キミ、なに悩んでんの?」

 恵梨はあらためて訊いた。克彦もすねるのはとりあえずやめることにした。

「俺のカノジョ、まだ俺のこと、好きじゃないんです。俺がしつこくつきあってくれって言うからOKしてくれただけ。好きになること、『努力します』って言われちゃった…」

 克彦はひざに顔を埋め、潤んだ目をまばたきでごまかした。

「この色男つかまえて、彼女、よくそんなこと言えたね~。誰かにとられちゃったら、どうすんのかしらね。でもまあ、努力するってことは、いずれ好きになるってことじゃん。時間の問題、時間の問題」

「もう告白して4ヶ月もたってます…」

「実力行使しちゃえば? 押し倒しちゃうとか」

 克彦は跳ね上げられたように起き上がり、叫んだ。

「冗談はやめてください!!」

「アレ、そういうのはナシ?」

 恵梨はあっけらかんと言った。克彦は見えなくなるほどの勢いで顔の前で手を振った。

「とんでもないです。キスしようとして逃亡されましたから」

「ふーん…つきあいはじめてどのくらいだっけ?」

「1ヶ月です」

「アラ。1ヶ月もたってるのにね。今度、そのカノジョ連れてらっしゃいよ、私がいろいろ教えるから。それとも、ヤキいれちゃうかな」

「…変なこと、教えないでください。絶対に連れてきませんからね」

 結局その日、克彦と恵梨はしゃべり倒してしまった。帰り際、恵梨がサークルの輪を離れると、克彦の隣に勇也が寄ってきた。

「山根、今日、エリ先輩と何話してたの?」

 勇也の目には隠しきれない不安が漂っていた。克彦はすぐに状況を察して、

「メシ、食ってく?」

 と親指を立てて背後を指した。克彦と勇也は2人だけで群れを離れ、夕食に行った。

「今日、俺と高田先輩は、俺のカノジョの話をしてただけだよ。おまえ、高田先輩、好きなわけね?」

 克彦がストレートに訊くと、勇也は水を吹き出しそうになった。慌てて口を押さえて水を飲み込むと、勇也は、

「え、いや、まあ、隠すことじゃないんだけど。おまえのことも、気にしてねえよ」

 と答えた。だが、実は恵梨が気になって何度も空振りして、お遊び試合に負けていた。

「高田先輩、彼氏いるじゃん。知らないはず、ないよね?」

「彼氏と別れたらしいって話を聞いて、じゃあどうなのかなって」

 次の人がいるみたいだよ、と言うべきか克彦は迷った。勇也はすぐに続けた。

「あ、知ってる、エリ先輩、次のオトコしっかりいるんでしょ? 今日見てて、俺、おまえがその〝次の男〟なんじゃないかって、マジヒヤヒヤしちゃったよ」

「ゴメン、絶対俺じゃないから。でも、俺でも別の人でも、どっちにしても高田先輩に男がいることにはちがいないでしょ?」

 勇也はかぶりをふって真剣に言った。

「いや、知ってる奴なのと知らない奴なのは、違う。知らなければ、気にせずにいられるじゃない」

 腹いせでもないだろうが、勇也は克彦にかみついてきた。

「おまえ、他の女の子とは仲良くしないのに、なんでエリ先輩とだけ仲いいの?」

「え、ああ、それは…悪いけど、俺にとって高田先輩が一番女性として縁遠い存在だからじゃない? 俺、女の子には近づかないことにしてるもん」

「おまえな~、失礼だろ~、エリ先輩聞いたら傷つくぞ」

「ああ、ゴメン」

 克彦にしてみれば、どっちかというと恵梨をほめたつもりだった。だが確かに言葉の上では女性に対して失礼だ。

「エリ先輩って、今度の彼と別れるときも、次の男控えてそうじゃない? …てことはさ、彼氏がいるうちに立候補して、行列に並んでおかないといけないのかな」

 その日はひたすら勇也の吐露を聞いた。克彦は、ときどき勇也の中に自分の情けない姿を見るような気がした。必死で恋をしていると、男なんてみっともないなと思った。けれどそんな体験をしている今を、とても大切に思った。


 その夜、克彦の携帯電話に思いがけず弘子からの電話があった。弘子が電話をかけてくるなんて初めてだった。「斉藤弘子」の文字を見て、克彦は慌てて電話をとった。

「弘子さん? どうしたの、珍しいね。なに?」

 克彦の声が嬉しそうだったので弘子は言いよどんだ。返事がなかったので、克彦は、

「ねえ、弘子さんもケータイとか、メールとか、持たないの?」

 と、ずっと気になっていたことを訊いた。弘子は、

「…え、苦手なんです、そういうの…」

 と言った。

「だって、俺、弘子さんに電話かけるとき、いつもご家族の誰かに取り次いでもらうんだよ。あんまり電話かけられないじゃない」

「ケータイ、なくても困ってないんです、友達が合わせてくれるから。お金もかかるみたいだし…、親に出させる気もしないし。パソコンは、機械、わからないし…」

「俺、頼まれれば買うのつきあうし、パソコンならセッティングしに行くけど…」

「壊れたときとか、自分でわかんないから…」

 克彦はガッカリした。弘子に直通する手段が何もない。携帯電話を持っていないなんて実は嘘で、克彦と関わりたくないかのようにも聞こえた。

「あのさ、気が変わったら、言ってね。いつでも手伝うから…」

 こんな話をされて、弘子はますます言いづらくなった。克彦もその雰囲気を察した。

「あ、ゴメン、俺の話しちゃって。ね、何?」

「あの、変な意味じゃないんですけど…」

 克彦がやっと嫌な気配に気がつき、黙っていると、弘子はおずおずと言った。

「…しばらく、…会うの、…やめませんか?」

 克彦は凍りついた。

「あの…変な意味じゃないんです、ホントに…。私、すごく、申し訳ないんですけど、自分の気持ちとか、いろいろ、考えたくって…」

 しばらく沈黙が流れ、克彦はやっと口を開いた。

「それは、やっぱり…この前、俺が、変なことをしようとしたから…?」

「それは、違います」

 弘子は慌てて否定した。でも、直接は関係なかったが、間接的に関係なくはなかった。弘子は自分の気持ちを、いろいろな要素を含め、整理したかった。

「…じゃあ、なんで?」

「あの、ホントに…会いたくないとかじゃないんです。ただ、時間がほしいんです。いろんなことを考えたいんです…」

 克彦は黙り込んだ。言いたいことはたくさんあるようで、けれどうまく言葉にまとまらない。しばらくして、やっと、

「…それは、どのくらい?」

 と訊いた。

「わかりません、ひと月…かかるか、どうかじゃないかと思います…」

「ひと月も?」

「その前に答えが出れば、ちゃんと…」

 弘子は沈んだ声で答えた。克彦をガッカリさせること、そして傷つけてしまうこともわかっていた。

「…弘子さんは、勝手だよ…」

 克彦は電話をきつく握りしめた。

「どうして、俺の気持ち、考えてくれないの?」

「考えました。でも、私、このままの自分じゃ、嫌なんです。…すみません。…でも、次に会うときは、きっと、私、先輩の彼女だって自信もって言えるようにしますから…」

 ハイそうですかと電話を切ることはできなかった。けれど、克彦は弘子の言うことを尊重する以外に道はなかった。

「自分勝手ですみません…。あの、それでもしも先輩が私を嫌いになっても…それは仕方ないと思ってます。すみません。それじゃあ…」

 克彦の言葉を待たずに電話は切れた。弘子にしてみればこれ以上克彦の声を聞いていると決意が鈍るからそうしただけだったが、克彦にはそれが冷たく感じられた。

 克彦は呆然と掌に残った携帯電話を見ていた。脱力と怒りを覚えた。

「…嫌いになっても仕方ないって…」

 どうにもやるせない気持ちに苛まれ、克彦はベッドに倒れこんでそのままずっとぼんやりしていた。どうしても、立ち上がる気力がわかなかった。

 せっかく弘子を〝彼女〟にできたのに、以前より不安定になった気がした。自分の気持ちも不安定になった。なんでこうまでして弘子に執着しているのか疑問がわいてきた。

 弘子は、克彦のそんな変化まで覚悟の上だった。壊れるのなら今のうちに壊れてしまえば傷は浅いような気がした。

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