第3章 交際編 2.歩幅
克彦は送っていくと言ったが、弘子は断った。一人になりたかった。心の中が飽和状態になっていた。
弘子の最寄り駅で弘子だけが降りた。克彦は電車のドア越しに手を振って、弘子が見えなくなるまで見つめていた。
(俺のカノジョ。弘子さん。…俺の、恋人…)
その表現は照れた。汗もかいていないのに、克彦は額をそっと指でぬぐった。弘子の手の感触がまだ背中に残っているような気がした。もどかしくて、今すぐ引き返して弘子をもう一度抱きしめたかった。
弘子は家に帰り着き、わき目もふらずに部屋に入った。家族の誰にも顔を合わせられそうになかった。すぐに敷いて飛び込んだ布団の中で、何度も寝返りをうってもじもじした。
克彦はこれからのことを考えていた。
(つきあい始めてどのくらいで、キスまで行っていいんだろう?)
急ぐつもりはないし、弘子のペースに合わせるつもりだ。でも考えるくらいはいいだろう。弘子は抱きしめる腕を拒まなかった。もっと中途半端な関係のときにもそうだった。
(案外、受け身なのかな…。俺が積極的にしたら、拒まないかな…)
もっと先にあるいろんなことへの想像にも身を委ね、克彦はその夜、ほとんど寝付けなかった。
土曜日、克彦がサークルに行くと、恵梨が出迎えてくれた。
「先週の話、覚えてる?」
「なんのことでしょう?」
克彦は逸りすぎる気持ちをこらえて一応とぼけてみた。よく覚えていた。
「聞いたよ、男子連中にもいろいろ話したんだって? キミがそういうの白状してくれると、女の子が無駄に泣かなくて済んでいいよね」
完全にからかい口調の恵梨に、克彦は堂々と言い返した。
「別に、俺は女の子の誰からも放っといてもらっていいですよ。自分が好きになった人には自分からちゃんとアタックしますから」
「あ、強気。さては、ホントにうまくいったんだ」
「だから、言ったじゃないですか。彼女がいないのは、先週、あの日までだって」
颯爽と言い残して克彦は空いたコートに入り、相手を募ってラリーを始めた。
男の先輩にも首尾を訊かれ、その日のうちに克彦に彼女ができたことはサークルの常識になった。大学生にとって、彼女ができたことは珍しいニュースではなくて、大した騒ぎにはならなかった。克彦はそれが残念だった。
その日は夕食を食べてから解散することになった。
「隣、座るよ」
克彦の隣には恵梨が座った。恵梨は、服装が派手で発展家風だったが、実際はとてもしっかりしていて、ざっくばらんで懐が広く、艶やかで魅力的な女性だ。先輩からは信頼され、仲間からは親しまれ、後輩からは慕われている。
「彼女って、どんなコ?」
訊かれて、克彦の顔が一気に緩んだ。本当は誰かに話したくて仕方がなかった。
「普通の子ですよ。真面目で、何の問題も起こさない『普通』。イマドキの『フツー』とかじゃなくて」
克彦はそこまで言ってふと不安になった。恵梨は気配を察して笑った。
「別に、その子のわら人形にくぎを打ったりしないよ。心配ご無用」
「…いや、別にそういうわけじゃないですけど…」
克彦は決まり悪そうに肩をすくめた。昔、小岩依里子とつきあいはじめた時には、嫌がらせなど、おかしな行動をした女の子が少々いなくもなかった。
「初めて好きになった相手って話を小耳に挟んだんだけど…キミ、もてるでしょ? なんで、大学生になるまで恋愛しなかったの? 私、自分がすっごい恋愛体質だから、もてる男がこの歳まで女の子に縁なく過ごせるっていうのが不思議なんだけど」
克彦は失笑した。
「いや、彼女はほしいと思ったし、だから好きでもない子とつきあってみたりもしましたよ」
「えー! 山根くんってそういう人なの?」
恵梨は目を丸くした。克彦は慌てて取り消した。
「いや、どうでもいい子とつきあったわけじゃないです。一応、まあこの子なら、いいんじゃないかな~…と思ったんで…。でも結果ダメだったから、ちゃんと別れたし」
恵梨はうっすらと白目がちのまなざしになった。
「…山根くん、そういうのを女の子を弄ぶと言うのよ」
克彦はさらに慌てて言い返した。
「ホントに、遊んだとかじゃないんですって。そのときのことは、コドモだったな~とは反省してますけど、俺なりに真面目だったんですから」
依里子とのことは徹底的にウィークポイントだった。「真面目だった」と言いながらも、心のどこかでは恵梨の言うとおり「弄んだ」気がしていた。
「でもさあ、その程度の気持ちで女の子の体を奪うのって、どうかと思うんだよね~」
克彦は飛び上がった。
「カラダって! いきなりそんな関係にはならないですよ! なんにもしてないです」
言ってから、「なんにもしてない」という言葉がちくりと胸を刺した。
「つきあったのに?」
「つきあうのと、なんかするのは、イコールですか?」
克彦は目をしばたたかせて否定的に言ったが、恵梨は肯定した。
「つきあうって、そういうことよ」
はっきり言いきられ、克彦は「そんなことはない」と言おうとした。だが、弘子とこれから進んでいきたい先をいろいろ考えると、そうなのかもしれないと思った。恵梨はどうにもおぼつかない克彦の様子を見て、「過去のつきあい」とやらが恋愛の真似事でしかなかったのだろうと断定した。
「ホント、山根くんって不思議。私、珍獣として研究対象にしようかな」
「珍獣って…」
「で…ちゃんとできた今度の彼女は、どんな子なの?」
ぱっと嬉しそうな顔になり、克彦は話しはじめた。
「小さくて可愛い子ですよ。可愛いって言っても、顔が芸能人みたいに可愛いっていうのとは違うんですけど。地味だけどなんか可愛いんです。吹奏楽部で、フルート吹いてます。芯がしっかりした子で…というより、頑固なのかな、あれは…」
恵梨は、明らかに浮かれている克彦の様子がおかしくてならなかった。克彦はそんな饒舌な自分に照れた。
「…すみません。なんか突っ走っちゃって」
「おい、そこ、なに二人の世界作ってんだよ。クジひけ、クジ」
部長の中川が乗り出してきて、割り箸を差し出した。
「来週、交流試合。相手はうちの大学の『メイツ』。あそこは軟派テニスサークルの割に、強いみたいだから」
恵梨は女用、克彦は男用のくじを引いた。恵梨のクジに赤線が入っていた。
「山根はハズレ。エリは試合出て。3人目」
サークルでは時折こうして交流試合をやる。試合の後には合同でコンパをやることもあった。基本的にはテニス交流なのだが、相手方が合コン気分だったりすることもある。だから、克彦は交流試合にあまり気乗りしなかった。
克彦がうかない顔をしていると、恵梨がしたり顔で言った。
「山根くん、怪しい女がいたら、私『この人、彼女いるわよ』って言ってあげる」
「…すみません、ぜひおねがいします…」
克彦は素直に応じた。今までに何度も面倒なことになっていた。相手が「怪しい行動」しかしていない段階では拒絶の態度をとるわけにはいかなくて、大変面倒だ。おせっかいとして釘を刺してもらえると本当に助かる。
克彦と恵梨のやりとりを斜め向かいで聞いていた高崎勇也は、
「山根、大変だな」
と言って笑った。表情の半分以上は羨望だった。克彦は苦笑いを返すしかなかった。
克彦と弘子の関係が恋愛に変わってから、初めてのデートの日がきた。2人はぎこちない笑顔で顔を合わせ、はにかんでうつむいた。そして、克彦は遠慮がちに申し出た。
「あのさ、…歩いてるとき、顔が見えないじゃない。…だから、手をつないで歩かない?」
弘子は最初からそんなことを言われて戸惑った。そういう、想定していない事態に対処するのは何だって苦手だった。
弘子が簡単にウンと言わないことはわかっていた。困ったように黙る弘子に、克彦は、
「ね、行こうよ」
と手を差し出した。弘子はこの手をそのまま下げるような恥はかかせられないと観念し、おずおずと手を重ねた。弘子の掌が逃げられないくらいのったところで克彦はさっとつかまえて、導くように手を引いた。
手をつないで歩くと、一歩一歩にお互いの様子が伝わってくる気がした。弘子がちょっと遅れると克彦はすぐに気付いて振り返った。前方から人が来ると克彦は弘子の手を自分の背中の方に引いてよけるように促した。まだ残暑の残る初秋の街を歩いていると少し汗ばんだ。克彦は自分の手の湿気が弘子に申し訳ないような気がした。2人とも照れてあまりしゃべらなかったが、掌が触れているだけで沈黙はあまり苦にならなかった。
その日は水族館に行った。
「世の中の人々って、あちこちデートのネタ探さなきゃいけなくって、大変ですね」
弘子は何気なく言った。
「ウン、実は俺も大変。弘子さんを退屈させちゃいけないもんね」
克彦はそう言って弘子にいたずらっぽく目くばせをした。弘子はその視線を受け取り、慌てて、
「あ、そうですよね、すみません」
と頭を下げた。
やっぱり入場料はワリカンにした。
「こうやってデートしてると、お互い出費が大変だよね。みんな、どうしてるのかな」
「私もわかりません」
「俺、出してもいいんだけどな…って、こういう言い方すると、弘子さん絶対に払わせてくれないよね」
「どういう言い方したって同じです。どっちかが無理するの、やめましょうよ」
水族館は少し混んでいた。色とりどりの魚や大きな魚のいる水槽は特に混んでいた。2人は小さな魚ばかり見て回った。
(弘子さんを魚に例えると、なんだろう?)
克彦はそんなことを考えて、「めだか…だな」と結論して一人でクスッと笑った。
混んでいるせいで2人は押され、肩が触れ合い、腕が重なった。そのたびに2人ともドキドキした。各所で人に隠れていて水槽は見づらかった。克彦は、身長が弘子とまるまる頭ひとつ分違うことを思い出し、
「弘子さん、ここにおいでよ」
と言ってつないだ手を離し、肩に手を触れて自分の前に導いた。32センチの身長差はまるで大人と子供だった。克彦は弘子の肩に右手をおいたまま、弘子の背後から水槽をのぞきこんだ。克彦は接近できたことを喜んだが、弘子は動揺したり焦ったりしていた。
弘子は克彦に囲まれた小さな空間で魚を見ていた。ふってわいたように訪れた幸福を、まだうまく飲み込めなかった。6月の終わりに突然電話が来てから3ヶ月。まるで嵐のようだった。山根克彦は、テニス部の二人の友人たちだって遠い存在に感じていた人だ。弘子にとってはもっと関係のない存在だった。ガラスに映る克彦をちらりと見上げ、目を伏せた。3ヶ月で克彦とこんなに近くに立って、肩を守られている自分が飲み込めなかった。
(たとえば、中野くんだったら…)
弘子は1年前の片想いを思い出した。もう過去にすることができていたが、それでも、克彦にエスコートされながら眺める水族館よりも、中野大基と対等におしゃべりをしながら回る水族館のほうが楽しそうだと思った。克彦とは、まるで「芸能人と一日デート」をしているみたいだ。
弘子は、自分自身に追いつけずに、心だけが後ろを遅れて走っているような気がした。何か持ち物を後ろに転々と残したまま先へ進んでいるような焦りと不安感があった。
その日の帰り、克彦はチャンスがあれば「キスしていい?」と訊こうかと考えていたが、結果的にチャンスはなかった。一方で、弘子は手をつないで歩いたことを、予想外に早く交際が進展してしまったと感じていた。
克彦は、「彼女ができた報告」のために、久しぶりに和宣と会って話をした。
「…でさ、実は、…人生の先輩に、男女交際について訊きたいことがあるんだけど…」
克彦は真面目な顔で切り出した。和宣は訊き返した。
「小岩のときのことは、参考になんないの?」
和宣は依里子と克彦のことを知っている数少ない友人だ。
「小岩さんのことはね、…俺、悪いとは思うんだけど、ホントに恋愛してなかったなーって思い知ってるんだよね。だから、全然参考にはなんない」
依里子のことは悪く言いたくないのだが、どうしてもこういう形で話題に上ってしまう。
「3ヶ月手をつないで幼稚園生みたいに歩いてただけじゃ、なんの参考にもならないよな」
和宣は笑った。克彦は真剣な面持ちで、ため息混じりに言った。
「恋をすると、人は欲張りになるんだな…」
和宣は今度は腹を抱えて笑った。克彦はやや憮然とした。
「笑ってばっか。俺、おまえならちゃんと答えてくれると思って訊いてるのに…」
「ゴメン、ゴメン。参考程度の答えはくれてやるよ」
「…実は、女の子とつきあう時に、せまるタイミングを聞きたいんだけど」
克彦は少し小さい声で和宣に言った。和宣はまた吹き出しそうになった。
「俺、真面目に訊いてるんだけど?」
克彦は口をとがらせた。
「まだ笑ってない、笑ってない。そうだよな、それは悩みどころだよな」
和宣は笑いをこらえながら答えた。そして深呼吸をして真面目な顔に戻り、
「で、何、おまえ自身はどうしたいの」
と言った。克彦は落ち着かない様子で肩をすくめて言った。
「…そりゃあさ、もう、なんだって欲しいよね」
「うわ、聖人君子の山根君とは思えないダイタンな発言だね!」
和宣は可愛げのない親友から齢18にして出た男の子らしいセリフに大喜びした。
「俺、別に聖人君子なんかじゃないもん」
「いやあ、小岩とつきあってるときのキミはまさにそうだったよ。それに、寄ってくる女を片っ端から切り捨てる姿もストイックで非常に見ごたえがあったんだけど。山根センセイもついに俗人になったんだねえ」
「…からかってないで、相談に乗ってよ」
「はいはい」
「この前、ちゃんとつきあいはじめて初めてのデートに行ったんだけど、そこでいきなりキスしたいって言ったらおかしいのかなあと思って、結局言えなかったんだけどさ、普通どのくらい待つもんなの?」
「これを言ったら参考にもなんにもならないんだけど、相手と状況次第なんだよな。極端なことを言えば、つきあい始めて初日からHする奴もいるし、1ヶ月たっても、2ヶ月たっても、小岩の時のおまえみたいに手をつなぐだけっていうのもいるし。でもおまえの相手、あの、俺が写真撮るの手伝った、ボケっとしたオクテそうな子でしょ。手ごわいんじゃないの? それとも彼女、昔つきあってた男とか、いるの?」
「…え…」
そういえば、いないと勝手に決めつけていたが、弘子に訊いたことはない。
「それはチェックしといたほうがいいんじゃないの~?」
昔彼氏がいたりしたら、弘子のほうが恋愛には慣れているはずだ。恵梨が「つきあうって、そういうことよ」と言ったことが頭をよぎった。
「進展したいんだったら、ちょっと強引に、試してみりゃいいじゃん」
「あのね、俺、まだ彼女に好きって言われたわけじゃないんだよ。今、やっと彼女が俺のことを好きになろうとしている状態で、そんなことして嫌われたらって思わない?」
「嫌われるまではないだろ。だいたい、小岩にはなんかしてくれって言われたんだろ?」
「なんかしてくれって、べつにそういう意味合いじゃないよ」
「同じだよ」
「違うよ。小岩さんだってそんな意味では言ってないし、今の彼女はもっとそういう子じゃないもん」
「結局は、同じことなんだけどね」
克彦は、和宣が恵梨と同じことを言っているのだろうと思ったが、結局はあまりよくわからなかった。それでも懸命に和宣に食い下がった。
「例えば、平均1ヶ月でキスまではするっていう統計があれば、1ヶ月後にキスを迫っても『この人、変』とは思われないでしょ? そういう指標がほしいの、俺…」
「つきあうのOKしたんだから、そのくらい覚悟の上だろ」
「いや、覚悟とか、ないと思う」
「おまえが考えてるくらいのことは考えるよ。女だって女なんだからさ」
弘子がそういう「いろいろ」を考えているとは、どうしても克彦には思えなかった。和宣はその様子を見て力強く言った。
「あのな、男はみんなエロ本を持っている。それと同じ。女だって、知識が全くないということはありえないし、自分の身にそういうことがいずれ起こるであろうことは知っている。彼氏ができたら当然考えるに決まっている。絶対に」
「絶対に?」
「絶対だね」
「…じゃあさ、和宣が、キスまでどのくらい待ったか訊いてもいい?」
「ひと月」
「和宣でそれじゃ、やっぱ1ヶ月以上は待たないとせっかちだと思われるよなあ…」
「あんまり参考にするなよ。おまえにはおまえのペースがあるし、彼女にもそれなりのペースがあるだろ」
克彦は逡巡して、和宣の様子をさぐってから、さらに小さい声でこっそり訊いた。
「あの…さ、もうひとつ…、…彼女と、その…Hしたのって、どのくらいたってから…?」
まずいことを訊いたかと恐縮する克彦に対し、和宣はあっさりと答えた。
「ふた月」
「ふた月!!」
克彦はびっくりした。
「そんなもんなの? 俺、そこまで行くのは年単位くらい待つのかと思った。キスまでひと月かかるのに、残りの全部もひと月で済んじゃうの!?」
「おまえ、待てるの? おまえだって、できるなら今でもいいわけでしょ?」
「…いや、それじゃさすがにちょっとロマンがないかな…って思わなくもないけど…」
「だから、自分が良くて、相手がOKしたタイミングでいいんじゃないの」
克彦はつい苦笑した。弘子にOKと言わせるのは至難の業だろう。たとえ心の奥底でOKと思っていても、弘子が素直にうなずくことは決してあるまい。
「女は一人とは限らないし、そう思いつめるなって」
「…俺、他の女の子なんて、考えられないよ」
真剣な面持ちの克彦を見て、和宣は笑った。
「みんなそう言うけど、実際は来るときが来れば別れたりするんだよ。唯一無二の女なんて、実際はいないよ」
そう言われても克彦は、どこを探しても、色のついた女性は弘子しか見つからないような気がしていた。失うのは絶対に嫌だった。
克彦は、とりあえずひと月は、このまま我慢しようと思った。
だから、ひと月は手をつなぐだけで過ぎ、10月が終わった。弘子は拍子抜けした。抱きしめるくらいなら、初めてじゃないんだし、別にいいのに…と思わなくはなかった。
克彦は悩んでいた。例えば肩に手をかけるにしてもきっかけがつかめない。少しは進展したかったが、成り行きまかせに進められるほど慣れていなかった。
とにかく2人っきりになることだ、と克彦は思った。だから、少し遠くの森林公園に弘子を誘った。草原や森林に囲まれた広い公園は、どこかに2人きりになれる場所を準備してくれるだろう。
「…あの、お弁当作って行ったほうがいいですか」
弘子は気後れしたように言った。親元にいるせいもあり、台所に立ったことがほとんどない。克彦はなんとなく察知して、優しく答えた。
「その方が嬉しいけど…いいよ。いつかはぜひと思うけど、今じゃなくてもいいよ」
「すみません、次のチャンスまでに、修業しときます…」
だから、あえて午後から待ち合わせて、森林公園についたときには2時を回っていた。手をつないで広場の花畑や散歩道を歩いた。周りには子供連れが大勢いた。
「弘子さん、子供って好き?」
克彦は何気なく訊いた。弘子は子供があまり好きではなかったが、正直に答えると克彦にどう思われるかと心配した。でも、嘘をついてもしょうがないと思い、正直に答えた。
「あまり、好きじゃないんです。どう相手していいのかわかんなくて」
「あ、そうなんだ。女の子って、みんな子供が好きなのかと思った」
「…すみません、私、冷たい人間なんです」
同年代の女の子たちは町で赤ちゃんや小さい子を見かけるとごく自然に「可愛い」と言う。弘子はそうして嬉々として子供をあやす友人の姿を遠巻きに見ることが多かった。
克彦は消沈した声にびっくりして弘子を見た。
「え、そんなことないよ。ぬいぐるみじゃないんだから、そんなに簡単に可愛いとか、言えない人もいるよ。うちでいとこの子供あずかったとき、妹は可愛い可愛いって言ってたのに、一日も持たずにギブアップしたよ。女の子が子供を可愛いって言うのはそのくらいのものでしょ。弘子さんは、そういうことは言えないっていうだけでしょ?」
克彦が気を遣ってくれたのが伝わって、弘子はホッとした。
克彦も安堵のようなものを感じていた。周囲には、「子供が好きで、動物が好きで、料理が好きな私って、可愛いでしょう?」というアピールをする女の子がたくさんいた。弘子がそういうタイプでなかったことが嬉しかった。克彦自身は子供がけっこう好きなほうだが、一方で「私、子供大好きなんですぅ」と熱いまなざしを向けてくる女の子は信用できない気がして、どうしても苦手だった。
小さな売店と休憩所があったので、2人はお茶を買ってテーブルベンチに向かい合って座った。秋の風が気持ちよかった。
「何度目かな、こうやって一緒に過ごすの」
克彦は感動に身を浸して言った。弘子は、ええと、と言って指を折った。
「…9回か、10回ですね。…先輩と、駅でバッタリ会った時を入れれば、10回」
「駅でって、あれは会いに行ったんだよ。4ヶ月もたったんだね、俺が告白してから」
弘子は赤くなって下を向いた。克彦は、弘子が自分と会った時を正しく数えることができるほど覚えているのが嬉しかった。
「でもさ、弘子さんって、あんまり俺のこと見ないで、下向いてること多いよね」
克彦はそう言って弘子の顔をのぞきこんだ。弘子はますます目を上げられなくなった。
「もっと慣れてよ。弘子さんって、内気で控えめでおとなしい子っていうわけじゃ、ないよね。俺、友達とはしゃいでる弘子さんとか、知ってるよ。なのにいつも、俺と一緒のときは借りてきた猫みたい。俺に可愛いと思われたくてすましてるんなら、それはそれで嬉しいけど、どうしてもそうは見えないんだよね」
克彦が言葉を切っても、弘子は肩をすくめて聞いているだけだった。
「俺ばっかりしゃべってて、すごくおしゃべりだと思われてるんじゃないかって心配してるんだけど…。弘子さんがしゃべってくれれば、俺、何時間でも聞くのに」
「…すみません」
弘子が謝ったので、克彦は当てが外れたような顔になった。
「そうじゃなくってさ。ねえ、俺に、慣れてよ」
克彦はこの時、向かい合って座ったことを後悔した。もっと近づこうと抱き寄せたかったが、2人の間には大きな木のテーブルがしっかり座っていた。
「弘子さんって、俺のカノジョでしょ?」
衒いのない問いかけに、弘子は顔が熱くなって赤くなっていくのを自分で感じたが、どうにもできなかった。
「そうだよね?」
克彦が返事を促して黙ったが、弘子はしばらく身動きができなかった。克彦は目の前で困っている弘子を、意地悪く「可愛いかも」と思って眺めた。そんな自分に出会ったのは初めてだった。
「疲れた? もう少し座ってる?」
克彦が訊いた。弘子は、
「あ、いえ、歩きましょうよ」
と言って立ち上がった。弘子だって幸せはもちろん感じていた。ただ、熱心な思いが向けられている関係は、自分の好きな人と一緒にいるのとは違うような気がして、なんだか後ろめたかった。
日はだいぶ短くなり、少し夕暮れに近づいてきた。克彦はさりげなくしていたが、弘子は道しるべの3つの行き先のうち、克彦が暗そうな森を選んだことにしっかり気付いた。
森は、うっそうとはしていたが、舗装された散歩道がずっと続いていて、ところどころにテーブルベンチがあった。克彦は弘子ともっと近づける環境を探した。それにばかり気をとられて、口数はめっきり減っていた。
弘子は、なにかを期待している自分に気付いて不思議に思った。何事か起こそうなんて思っていないのに、何も起きなかったらガッカリするだろうと思った。
森の中に小さな広場が開けた。散歩道の柵が丸く広がり、丸太を模した長いベンチがいくつか置いてある。克彦は弘子の様子をそっと探り、弘子は何も気付かないふりをした。
「ちょっと座らない?」
克彦は細心の注意を払って言った。弘子は克彦に手を引かれてベンチへと歩いた。
「結構歩いたね。大丈夫?」
「先輩と会う時って結構歩いてばっかりだから、慣れました」
「俺、そんなに歩かせてたっけ…ゴメン、気付かなかった」
弘子は内心「私のせいだけど」と思って舌を出した。さっきも「歩きましょう」と言ったのは自分だ。煮詰まらないよう、いつも歩くことを選択している気がする。
「ねえ、さっきの話だけど」
明らかに克彦の声の調子が変わった。弘子は平静を装ったが、緊張を隠すことはできなかった。克彦も弘子が緊張したことがわかったし、むしろその方が良かった。
「弘子さん、俺の彼女だよね」
弘子は黙っていたが、克彦は返事を待つ気はなかった。
「でも、なんだかいつも、緊張して、打ち解けてくれないよね。俺、こうやって一緒にいても、時々、淋しいなって思うことがあるんだ」
周囲の森が静かすぎるように感じた。自然に遠くで子供の声がしたり、車の通る音が聞こえていてくれた方がいいと思った。それでも気持ちを強く持って克彦は続けた。
「…弘子さん、俺のことどう思ってるの?」
森の空気が張りつめた。弘子は少しだけうつむいた。克彦は、掌の小鳥に逃げられないように、そっと体を弘子の方に向けて肩を抱き寄せた。
「ねえ、俺のこと、好き?」
弘子は答えたいと思ったが、YESとはまだ言えない。
「…ねえ」
克彦が真剣な声で囁いた。
「…キスしていい?」
弘子はびくっと体を震わせた。克彦は肩に回した手をゆっくり引き寄せ、弘子の顔に優しく手をかけ、強引にならないように少し上を向かせた。弘子はどうしたらいいかわからず、目だけはずっと下の方を見ていた。二人の顔が近づいた。
次の瞬間、弘子は克彦を突き放して立ち上がり、元の道を走って戻った。克彦は弘子を目で追い、それから置きっぱなしの小さなバッグを手にとり、立ち上がった。
弘子が分かれ道で立ち止まるのが遠目に見える。克彦が少し足を速めて追いつくまで、弘子は道しるべを見たままぼんやりしていた。
「…弘子さん」
克彦は恐る恐る声をかけた。弘子は黙っていて、背中は感情を全く映していなかった。
「怒った?」
弘子の背中はやっぱり何も語らなかった。
「ゴメン。でも、…俺、間違ったこと、言ったわけじゃないと思うんだけど…」
克彦の声を背中で聞きながら、弘子はただぼんやりしていた。本当は、自分がキスを自然に受け入れようとしたことに気付いて、ショックを受けていた。
「…弘子さん…」
克彦はか細い声でもう一度名前を呼んだ。弘子は慌てて振り返った。
「あの…、すみません、私、まだ…」
それだけ言うと、弘子はぺこりと頭を下げた。近づきたいと思う克彦の気持ちはむしろ嬉しかった。克彦のことをまだ「好き」だと言えない自分の中の問題だった。
「…ゴメンね…」
警戒されたくなかったから、克彦は遠めに立って腕を伸ばして弘子にバッグを返した。弘子は、克彦を傷つけてしまったと思ったが、そのまま手をつなぐことなくただ黙って並んで歩いた。
弘子は、なんとかやっと、
「あの、怒ってないですから…」
と言った。克彦は、そんな弘子にちょっとだけ腹を立て、ふてくされた声で、
「弘子さんにとって、俺って、なんなの?」
と言った。
「自分でも、まだ飲み込めてないんです。この期に及んで、こんなの、…嫌ですよね…」
弘子がそこまで言うと、克彦は慌てて言葉をさえぎった。
「そんなことないよ。もう、ただ会ってるだけの関係も俺は嫌。後戻りするの嫌だよ」
「…でも」
「今はほんのちょっとだけでいい。好きだって言えないくらいちょっとでも」
弘子は困ったように口をつぐみ、それから小さな声で言った。
「あの…努力します」
克彦は「ありがとう」と言って笑顔を作った。そして、「今日はゴメンね」と弘子の手をとり、強く握った。弘子はためらいがちに握り返した。
克彦は、弘子のそんな力にも淋しさを感じていた。弘子は「努力する」と言った。努力しなければならないということは、ひとつの事実を克彦に突きつけていた。
(弘子さんの気持ちはこれからなんだ。今は、…まだ、好きじゃないんだ…)
克彦は切なさともどかしさをこめて弘子の手を握りしめていた。けれど、弘子はそんな克彦のつらさには気付かずに、ただ自分の気持ちのことを考えていた。