「あなたのために」と女は嗤い(わらい)、 「愛してる」と僕を刺す
3
「あなたのために」と女は嗤い(わらい)、
「愛してる」と僕を刺す
私は名前をソラという。
1
私は名前をソラという。頭の上にある空でもいいし、からっぽの意味でもいい。空耳の「そら」でも、とにかくなんでも。私は自分の名前を気に入っていた。
灰色に塗り固められた通りを歩く私。私には相棒がいる。一匹の小さい、灰色の猫。私は猫を小太郎と読んでいた。小さいけれど、太く朗らかに生きる。そんな私の思いを知ってか知らずか、小太郎は私に餌をねだる。
「今日は何もないよ」
手をひらひらさせてみせる。にゃあ、と小太郎は一声応える。ふと通り過ぎる風。私は風の予感に耳を澄ませ、鼻を鋭敏にして去来を待つ。一瞬だけ私の髪の毛と、小太郎のしっぽを通り過ぎて風は去っていく。……いろんな情報を、残して。
「今日は3丁目のスーパーで安売りだって。特に卵がお得」
「高橋さんの隣に住んでる中野さんが、膝を痛めたらしい」
「おじいさんがまたボケちゃって」
「空虚と書いてむなしい、その心は『』」
「ううう」
「行こっか」
私は小太郎に声をかける。「どこへ?」といった具合に首をかしげる。
「卵を買わなきゃ。ええと、それはどうでもいいわね。とにかく風のふくまま、気の向くままよ」
にゃあ、ともう一度だけ小太郎がないた。
2
地面から生える巨大なキノコ。空に突き刺さり、いつか空に穴を開けてしまわないかとヒヤヒヤしている。それとも逆で、空が落ちないようにと柱になって支えているのか。
それはそれとして、私と小太郎は商店街を歩いていた。軒先にラベンダーが咲いている。中にいるパン屋のおばさんは、私を見つけてほほえんで見せる。
「あら、今日も元気ね」
「そうね。元気ってことはないけれど元気だわ」
「小太郎くんも」
「にゃあ」
「小太郎はいつも元気だって」
おばさんは右手をほほに当てて、首をかしげてみせる。
「そらちゃんにパンをあげようと思っていたのだけれど……、うちの旦那が捨ててしまったみたい」
「いいわよ別に。私パン嫌いだし」
「にゃあ」
「そうだったかしらね」
おばさんは冗談めかしてからからと笑う。
本当はおばさんには旦那などおらず、パン屋の中でパンを売ってないことを私は知っている。
「あら、小太郎くん」
「にゃあ」
次に声をかけてきたのは魚屋のチェリーさん。チェリーさんは耳にさくらんぼのピアスをいつもしている。
「今日はます? あじ? さば? 」
「にゃあ」
「ちょっと待ってね」
チェリーさんが奥に行き、何かを袋につめて戻ってくる。
「はい、じゃあこれ小太郎くんに食べさせてあげて」
「お金は? 」
「別にいいわよ」
チェリーさんは笑う。
「どうせ捨てるものだし。私は魚が嫌いだから」
そしてホウボウで呼び止められ、いろんなものをもらいながら、私たちはやっと目的地へたどりつく。……商店街の奥の奥。路地裏に入り、壁を乗り越えて、スナックの中をつっきってたどり着く場所。
そこに灰色のフードをかぶったおじいさんが、いつもいる。
「おはよう」
「こんばんはが適切だ」
私はおじいさんの隣に腰掛ける。
「別にいいよ、どっちでも。面倒くさい」
「面倒くさいことあるか。時間の経過が大事だと、……お前の年にはまだわからんだろうなぁ」
「うん、分からない」
ふう、と少し長めのため息をつく。
「今日も商店街を通ってきたのか? 」
「うん、みな元気そうだったよ」
「元気じゃ困る」
おじいさんの目は遠くを見つめていた。
「嘘と虚飾で見栄を張って自分を覆い隠している。世界は理不尽とジレンマに包まれているというのに」
「おじいさんがそう思うように」
私は言う。
「みんなは『正しいことなんてどうでもいいから、楽しく生きたい』と思ってるのかもよ。
私はそっちのほうが好きだけど」
「違うのさ」
おじいさんの口調が変わる。
「ここは夢なんだ」
3
「ここしか知らないそらに、正しく認識できるとは思わないけど」
「分かるわよ、そんな気がするから」
「……。この世界にいる人々は、現実じゃ疲れ果て、あるいは諦めきっている。
せめてここだけでは楽しく、満たされて生きたいと願っている。
もともとここは、そのための場所だった。活力を得て、自分の人生を充実させるための場所」
私はため息をつく。
「知らない。
おじいさん、いつからそんなに分からずやになったの? 」
それもそうだ、と苦笑して、おじいさんはいつもの灰色のフードを目深にかぶる。
「でもわしは、知ってほしいと思ったのだ」
「知ってるわ。
ちょっとイタズラをしてみたい気分だったの」
思い切り息をすう。鼻の奥に緑の香り。おじいさんが笑うのがみえた。にゃあと小太郎が鳴く。
4
白い人、というの街中の噂だった。
特に何をするわけでもないけど、なんだか不気味だとチェリーさんは言う。
「ここにいる人は、顔なじみだから。たまに誰か来てもすぐに去っていくのだけれど」
「おばさん、気にしすぎだよ」
「そうかしら」
「小太郎に魚をちょうだい」
私はお金を払ってあじを二尾買った。
「何もしなくても大抵だいじょうぶ。世の中そういう風になってるんだから」
けれどそんな私の楽観とは裏腹に、みんなが暗い気持ちになっているのが手に取るようにわかった。理由はわかる。みんな変化を恐れているのだ。ここは停滞と無痛とささやかなノイズ、例えるなら子宮の中に似ている。……おじいさんの受け売りだけど。
この世界では善を成しても悪になっても、翌日にはすべてが元通りになるけれど、今回現れた「白い人」のように、何を考えているかわからない存在というのは、理解の範疇を超えている。危害を加えられることには慣れていても、街に調和しない異物があることで、「変化」を起こさないかとみんなおびえているのだ。
「会ってみようか」
私は小太郎に話しかける。にゃあ、といつもの口調で彼は答えた。
「やめなさい」
灰色のフードのおじいさんは、開口一番そういった。
「白い人」に会うための相談をしにいった矢先だった。
「どうして? 納得できる理由がないと、嫌だよ」
「そら。お前は無垢で純粋だ」
おじいさんがフードを取る。いつものように、口調が変わって。
「この街みんなの希望だ。お前を危険な目に合わせたくないんだ」
「危険? 危ないことってなによ」
「お前にはまだ早いんだ」
「じゃあいつならいいの? 明日? あさって?
一年後? この街の人がみんな居なくなったら? 」
おじいさんは顔を歪めて首をふる。
「私は自分が居る意味くらい分かってるつもり。
その上に私の自由意思も奪おうとするのは、ねえおじいさん、それは残酷ってものじゃないかしら」
「分かった」
おじいさんは灰色のフードをかぶる。いつものしゃがれ声にもどる。
「無理をするなよ。わしはお前のことを娘みたいに思ってるんだ」
「ありがとう。私もおじいさんのこと好きよ」
フードの中で笑っているのが見えた気がした。
5
私がいつものように、風に耳を澄ませている。隣ではこたろうが毛づくろいをしている。今日もビルが高い。空からふと、流れ星が見えた気がした。
それが噂の「白い人」だと直感した私は、走って光を追いかける。光はふわふわと、綿毛のように左右に揺れて、ゆっくりと下降していく。……そしてそれはこの街で一番高いビルの屋上で止まった。
全身で呼吸をしながら、ビルの屋上にたどりつく。まだどこにも行かないでと願いなら。赤くさびたノブに手をかける。がちゃん。きぃ。両手で扉を押す。
外から風が吹き込む。私は思わず目を閉じる。にゃ。小太郎の声。前に一歩ずつ踏み出す。屋上に出て、周囲を見渡す。フェンスの向こう側に、その人は居た。
「こんにちは」
私の声はふるえてるみたいだった。
その人、男の人は驚いた表情でこちらを見る。
「あの、お話してもいいですか? 」
「ダメな理由がないよ。僕はクウって言うんだ」
クウは口元を少しだけゆがめて、笑った。
「どうしてこの街に? 」
「僕はここしか知らないから」
「何をしてるの? 」
「何も。やりたいことをしてるんだ」
「あなたは誰? 」
「僕は、」
顔を歪めて
「誰だろう。それを知りたいのかもしれない。
……いや、それは嘘だ。僕は自分が誰だか知っている。
その質問には答えたくないだけだ。悪いけど」
「ごめんなさい」
私は頭を下げて非礼をわびる。
「苦しそうなのは、何か理由があるんですか」
「僕? よく気づく子だね」
クウは街を見下ろした。
「僕は人を殺したんだ。ちょうどこの場所、この位置で。
もう少し僕が何かできれば、あるいはいい答えを出せれば、そんなことにはならなかったんじゃないかって思うんだ」
「生きるのは素晴らしいこと? 」
クウは驚いた顔をしていた。
「ごめん、その質問にも、僕は答えられそうにない」
帰り際。
「思い出した。僕の目的、僕の願望。
僕は空が見たいんだ」
「わたし? 」
笑って首を振る。
人差し指頭上を示し、
「底抜けに広がる、青い空さ」
6
「おじいさんは、後悔をしたことがある? 」
私の質問に、おじいさんは首をふる。……それは否定の意ではない。
「それだけが人を老いさせる」
「じゃあ後悔をしてるから、おじいさんになってしまったの? 」
「それは半分正解で、」
フードを外すおじいさん。そこにあるのは、精悍な青年の顔つき。
「半分は間違いだ。
僕はふりこのように繰り返しているだけだ。
そんなことがありえるか? ありえる、とだけ応えておく。目の前にあること、自分で知ってることだけが世界の全てじゃない」
「でも私は、全知だわ」
青年は苦笑する。
「そうだね、君は」
「でもあの人は私の知らない人。名前をクウと名乗ったの。私は彼のことを知りたいと思った」
「彼に近づくのは危険だよ」
「危険なことなんて、何もないわ」
青年は、いつしか老人に戻っていた。
「君には危険じゃないだろう。
だがわしには危険だ。わしは恐れている」
「おじいさんは物知りで、大人なのに、怖いことがまだあるの? 」
「怖いことはね、消えてなくなりはしないから。理解は恐怖を縮こませる。けれど決して消えたりはしない。たまに自分が小さくなると、そんなちっぽけな恐怖がとてつもなく大きく見えたりするのさ。
それを人は臆病だと言う。気が弱く、繊細だと。僕を優しいのだと。違う。違うんだ。僕はただ」
青年。
「俺はただ、強くなりたかっただけなんだ」
「そうすれば、彼女のことも忘れられるから」
「過程はどうあれ、結果はどうあれ、自分の気持ちを汚したくない。
ああ、手が消えていく。足が透けていく。もう俺はこの世界に留まれないらしい。……。
恨み言は言うまい。ソラ、君のことを、俺は、わしは、本当に娘のように思っていたんだ」
「知ってる」
おじいさんは、風に吹かれて消えてしまった。
「だから、おじいさんがうまくいくように、私は祈ってるわ」
ただここから。
7
いつもは原色を身につけているチェリーさんが、その日は様子が違って、薄汚れたねずみ色のパーカーを羽織っていた。私がそれを指摘すると、彼女ははにかんで笑ってみせた。
「これね、最近流行ってるらしいの。なんだかとても落ち着くのよ」
「チェリーさんの信念は、もういいの? 」
「信念って、何かしらね。もう忘れてしまったわ」
小太郎がにゃあ、といつもどおりに声をかける。
「あら、小太郎くんごめんなさい。もう魚屋は廃業したの。
今日からここは肉屋です」
街の中に、灰色のフードを身にまとう人が増えていった。……それはおじいさんがつけていたフードによく似ていた。けれど私は、「おじいさんのようだ」と思わない。彼は自分の信念に基づき、自縛していたけれど。ここにいる人にとってフードはただのファッションだった。
通りを歩く女が、私を見て足をとめる。
「あなた、魔法を使ったことがある? 」
「ないわ」
「かわいそう。私の先生を紹介しましょうか。
代償はひまわりの種でよろしいそうよ」
「俺は人のために生きてきた」
路地裏から出てきた男だった。
「でもそれももう終わりにする。ここには俺しかいない」
「お母さん」
「お母さん」
「お母さん」
小太郎がにゃあと鳴いた。世界がおかしくなっている、と私は思った。
ある時「白い人」が屋上でひときわ強く輝くと、それきり彼は姿を見せなくなった。
それにどんな意味があるのだろうと考えた。……。でも私は、彼に会いたいと結論づけた。
「小太郎、お願い」
私の要望にも、小太郎はいつもの調子で「にゃあ」と答えた。
8
その世界で、私は白い毛に覆われていた。意識はあるけれど、それとは無関係に身体は動く。4つんばいになって、俊敏に。ガラスに映った、上品そうな真っ白な猫。首には赤い首輪がされている。それが小太郎だと気づくのに、少し時間がかかる。
小太郎はガラスにうつった私を見て、いたずらっぽく「にゃあ」と鳴いてみせる。「これが本当の僕だよ」「驚いた? 」
私は首を振る。
「私はいつもの小太郎のほうが好き」
「にゃあ」
小太郎は笑って、「僕と気が合いそうだ」「でも悪い男に騙されちゃだめだよ」と。
「あの人の家を知ってるの? 」
小さくうなずく小太郎。答えは、鼻が知っていた。いつものように、風に身を委ねると。小太郎の嗅覚を通して、いろいろな情報が伝わってくる。暖かい匂い。冷たい匂い。誰かが怒っている気配。家族を待つおいしそうな匂い。孤独な、寂しそうな匂い。私と小太郎は、それが白い人、すなわちクウの家であると結論づける。
においでたどりながら家を探す。
「朝藤」と表札の書かれた家で止まる。
そこは外壁を真っ白に塗っている。インターホンを押そうとして、自分の毛むくじゃらの手に気づいてそれをひっこめる。小太郎が「にゃあ」と。全身を縮こませて、それを力にして、一気に塀の上にジャンプする。……それを何度か繰り返し、白い家のベランダへと侵入する。窓は、どうやらあいているようだった。
私と小太郎は中に入る。部屋の中には、何もない。ただ1つ、ベッドがあった。
部屋に充満している悲しみの匂い。私はその密度に泣きそうになる。
ベッドには男の人が寝ていた。髪の毛は短く切りそろえられていた。白い丈の短い服を着ていた。目だけは子供のように好奇心に満ちていて、けれど顔は土気色をして疲れきっていた。
「あなたがクウなのね? 」
「君がソラか。会いにきてくれたんだね」
「私は、」
どうして自分が会いたくなったのか。
言葉が出なくてはがゆい。彼を救おうと思ったから? 気になったから。エトセトラ。
でもそれもすべて違うような気がした。
「私は、あなたを友達だと思ったの。
友達に会いにくるのに、何か理由が必要? 」
「うん。要らないさ」
クウは上体を起こし、ベッドから立ち上がろうとする。……けれど力なくずるずるとベッドにひきづり落ちる。
「君が入ってきたってことは、この部屋は外とつながっているのかな」
「窓が割れてたわ」
「外に」
歩けないクウを、私と小太郎でひっぱって、部屋の中央までなんとか運ぶ。……小太郎の身体じゃ、ベランダの窓を横にあけることができないから。代わりに、カーテンを開ける。部屋の中に風が吹き込む。どうか悲しみの匂いが薄れますように。クウが泣いているのが分かった。
「きれいな、空だ」
9
私は小太郎にお礼を言う。「にゃあ」と、彼はいつもの調子。「どういたしまして」「またね」。それから、「あまり気を落とさないで」。
クウは――、最後の最後で満たされたのだろうか。空を見ることができた。人生の目標を叶えることができた。……。小太郎の視線に気づいて、「そうだね、それは本人にしか分からないことだよね」。私は言う。
今日も街中に風が吹き抜ける。耳を澄ませて、いろいろな情報を集める。……。うん、みなも元気そうだ。けれどさよなら。白い人はもういない。
頭上には空が広がっている。ただ青い「そら」。遮るものがない、「くうきょ」な空。