夕暮れに溶ける君の顔
3.
夕暮れに溶ける君の顔
君が手を振り泣いた後
1
「異常だわ」
それが最近の彼女の口癖だった。黒い髪は頭上に結い上げ、細いフレームのないメガネをかけ、眼光は相手を射すくめるほどに鋭い。彼女の後輩は彼女を西洋の怪物である「メデューサ」に例えた。見れば怯えてすくんでしまうか、あるいは恋に落ちて動けなくなってしまうから。
「空野先輩」
扉を押し明け、くせっ毛の愛嬌のある顔が除く。空野は片手をあげて、それに答える。
「昼休みは、しっかりと休まないとダメなんですよぉ」
「休んでるわ。気分転換に過去のデータを見直してるだけだもの」
「そうやって先輩は……」
空野の持つ書類を取り上げ、わざとらしく怒った顔をしてみせる。
「先週入院してたの忘れたんですか?
お医者さんには過労だって言われたじゃないですか。
また先輩が倒れたら、私悲しいです」
「……そうね、アカリの顔を立てるわ。
コーヒーを淹れてちょうだい」
「任せて」
アカリと呼ばれた少女は意気揚々と、キッチンへと向かう。
空野シホが事務所兼自宅のアパートは、駅前の一等地区にあった。日がな一日数字の羅列を解析する。そんな仕事をしている彼女が、家賃の高いアパートに住めるのには理由があった。
社会は物質化の繁栄がピークを迎え、そして衰退していった。物質化に反比例して電子化――実体を持たない質量の集まり――が、成長していった。人々はみな人工の肉体に「魂」だけをふきいれて、社会生活を営む。遠くに移動するとき(遠くという概念はもうないが)、魂は中央のサーバを経由する。新たな肉体に、自分の魂が吹き込まれる。
人間はすべて1と0のデータに分解されてサーバ上に「存在」している。空野が見ているのはサーバ上に存在する人々の「魂」が数値化されたもの。いわば魂そのものだ。
膨大に並ぶ数字を見て、それを「人間」として評価できるのは物質化がピークを迎えた現在といえども、世界に2つとないスーパーコンピューターか、彼女ぐらいだった。
ある時空野はアカリにそれを「インスピレーション」と説明した。数字を計算するのではなく、理解するのではなく、直感的にわかるのだと。
「あーあ、天才はいいですよね」
アカリはのんきにあくびをしながら言った。
「一生食いそびれなくて」
「食いそびれるって。
世界がかかってるのよ」
「世界ってもねぇ」
アカリは両手を広げてみる。
「私の世界っていうのは、このくらいのもんですよ。
両手を伸ばして、届く距離。
人類の命運とか、世界の滅亡なんてのは、想像できないなぁ」
空野の持つ書類を指さす。
「これは、そんな大そうなものじゃないわよ。
この中にあるのは神様でも、運命でもない。ただの人間そのものだわ。
それも純粋な」
「うーん、難しい。あ、先輩はミルクいるんですっけ」
アカリが気を利かせて、ミルクを入れる。黒い海の中に、白く線を描いて、それはかき混ぜられて灰色に濁る。
「世界ってこういうものよ」
「カフェオレ? 」
「無粋だったわね、やめましょう」
いつもの悪いクセだ、と志穂は思う。今はただコーヒーを味わうだけでいいのだ。
2
物質が豊かになるにつれ、一体何が満たされたのだろう。まだ幼い志穂に、祖父が言った。祖父は一流のプログラマで、三流の世捨て人だった。彼の書いたプログラムは、一瞬にして世界を駆け巡り、ほんのわずかのうちに更新した。たった10分で、世界の文明が10年進んだ、と誰かが言っているのを聞いたことがある。祖父は笑って謙遜してみせ、志穂の前でだけ、誰にも見せない顔を見せた。……そこにいたのは人生に疲れきった、ただの老人だった。
「僕は世界を捨てたい」
祖父の口癖だった。
「僕は世界を豊かにした。
貧困を50%改善した。
平均寿命を30年伸ばした。
不治の病のいくつかに、改善策を提言した。
……そもそも、人間には身体なんて要らなくなるのかもしれないけど」
志穂は祖父を見上げ、
「怒ってるの?」
「怒ってる? あぁ、きっと僕は怒ってるのだろう。
もし居るとするなら神様に。
あるとするなら運命に。
それさえないなら、自分自身に。
僕は生まれてこなければよかったんだ」
「お爺さんが居なくなったら、私は寂しいわ」
「……そうだね、志穂だけが僕の生きた価値と言っていいかもしれない」
「居なくならないで」
「人はいつか死ぬ。それは定めだ。でも、肉親が誰もいない志穂に、理解を求めるのは難しいよね。大丈夫、僕は死ぬかもしれない。
けれどいつでも『会える』ようにしておくよ」
そして1週間後、祖父は失踪した。志穂のもとにたくさんの人たちが、本当にたくさんの人間が訪れた。地位の高い人も、低い人も。健康な人も、そうでない人も、おじいさんから赤ん坊まで。肌が白い人も、黒い人も。敬虔なクリスチャンから無神論者まで。ある人は祖父を無責任だとなじり、ある人は泣いて助けをこう。志穂にできることは何もなかった。
祖父の言葉の意味が理解できたのは、志穂が16歳にして大学を卒業し、20歳にして自分のプログラムを立ち上げたときだった。すでに世界に存在するプログラムでは、志穂の発想を現実化することができなくなっていた。だから矛盾するようだが、「彼女が道具として使える道具」を自ら設計、作成しなければならなかった。志穂はそれを「space (宇宙) 」と名づけ、S-システムと呼んだ。
S-システムを起動したとき、 表示されたのは志穂が設定した「Hello」ではなかった。黒い画面には、青い文字で「welcome」と写っている。しばらく明滅が続き、画面には「久しぶり」と。
3
「白昼夢の悪魔? 」
アカリは、志穂の後ろから画面を覗き込みながら、そんなことを言った。
「今みんなの噂ですよ。昼寝をしてると、夢の中に誰かが出てくるって」
「冗談」
志穂は持っていた紙束を、デスクの上に放った。
「それこそ、たちの悪い夢よ。
夢なんてしょせん、人間活動の「ゆらぎ」でしかないわ。同じ人物が出てくる?
それは噂を知ったのと、人物が出てきたのと、どっちが先かしら」
「まあまあ、怒らないでくださいよ。ただの雑談なんだから」
フン、と鼻を鳴らして志穂は再び紙を手に取る。
「……もし不特定多数が同じ夢を見るというなら、こんなふうにノイズが入るはずよ。
でもしょせんノイズはノイズでしかない」
「つまり、無視できるってことですよね」
「ご名答。日本の妖怪みたいなもので、「そうと見ればそう見える」だけ」
「雲がわたあめに見える原理と同じですね」
「……あなたが理解しやすいなら、それでいいけど」
「さあ早く、世界の命運がかかってるんでしょう? 」
アカリは志穂が飲んでカラになったカップを手に、キッチンへ向かう。
志穂は感情のはけぐちを失い、それまでと同じように頭を抱えていた。
4
それは歪な愛の形だと思う。行く宛のない恋心。正解の無い。
アカリの髪を撫でながら。
アカリはかすかにうめき声をあげる。……けれど目を覚まさずに口元だけを緩める。いい夢でも見ているのだろう。
家族を知らない自分と、家族に知られなかったアカリ。
家族を作れない私たちは家族となり、うまくやっていけるのだろうか。
もたれたい私と支えたい彼女。けれど生み出される存在はない。
だからそれは、きっとどこか屈折した形。
5
アカリはしょせん噂だとタカをくくっていた。……けれど手元のデータを見て、それが見過ごせなくなってきたと感じた。
志穂はアカリの入れたコーヒーに口をつけて、ため息をつく。
ゆらぎが大きくなっている。そして広範囲に及んでいる。何度も繰り返される。違った人間が、同じ夢を見ている? そしてそれが「風邪」のように広がっているように見えるのだ。
それは例えばまだ灯りの乏しい江戸時代に、「妖怪」を闇の中に見つけたようなものだ。あるいは、米国で「宇宙人がきました」というラジオのMCにつられ大騒動になったこともある。人はよくも悪くも他人に騙されやすい。ならば今起きているこの現象も、偶然ではないかもしれない。
「先輩」
いつもと同じように、コーヒーを志穂の前に置きながら、アカリは言った。
「相談がきてます。……専門じゃないとは思うんですけど」
志穂はカップに口をつける。
「死んでるけど、死体がないんです」
6
アカリに告げられた場所で待つと、黒いコートをきた男が現れる。男は「土竜弘明」となのり一瞬だけ手帳を見せると、「この相談は私用なので」とすぐに隠した。
「世界的権威である星野博士に会えるとは」
「時間がないので、手短に」
「失礼」
男は一度、咳払いをする。
「先週の金曜日、死亡届けが出されていました。まだ若い男22歳。届けは家族が出したそうです」
「とくに感想はないわ。続けてください」
「問題はそのあとなんですが……、死亡届けには『死亡を確認した人間』が必要なんですね。でなきゃ事件扱いになってしまう」
「そう。家族の誰も、死体を見ていないのね」
「お察しの通り」
「私がサーバーを探り、『魂』の生死を確認して欲しいと」
「助かります」
「特約事項をご存知? 」
「すいません、勉強不足で」
「かいつまんで説明しますけど、中に『他人に情報を漏らさない』と明記してあります。
私が扱うデータは、何分デリケートだから。もしかしたら、」
「星野博士が知ることはできる。けれどあたしがそれを教えてもらうことはできない。
そういうことですな」
「申し訳ないけれど。それでもいいならやりますけど」
「お願いします」
男は頭を下げる。
「これもね、実は事件にもならんような話なんです。実際は書類上で『行方不明』にして、あと何年かしたら書き換えるだけ。けれど死んだ男ってのが、私の甥っ子でして……。小さいころから見ていたものですから」
「カタキをうちたいと」
「せめて、事情は知りたい。せめて生死ぐらいははっきりさせてやりたいのです」
その気持ちがわからないな、と志穂は思った。
事務所に帰り、志穂はコンピューターに「高橋信行」の情報をアウトプットさせる。机の上には片付いていない書類が山積みになっている。それを見て少しだけ気が滅入ったが……どうせ今がんばったところで終わりはしないと、割り切ることにした。
プリンタから印刷された紙の束に目を通す。名前、家族構成、血液型、生年月日といった基本的なデータから、本人の詳細をしめす1と0の羅列。話では先週の金曜日に活動を停止しているはずだった。
「ちっ」
志穂は思わず舌打ちをした。「高橋信行」は存在し、活動していた。
7
家族が死亡届けを出したということは、おそらく遺書か何かを受け取ったのだろう。……けれど高橋信行の「魂」は、今も現世にとどまり活動を続けている。
話を聞いたアカリが、首をかしげる。
「そんなことってありえるんですか? 」
「さあ。でも実際に起きてるから」
「エネルギーは保存されて、エントロピーは増大するから。
人が死んだら何も残らないような気がするんだけどなぁ」
「誰かがエネルギーを補っているのかもしれないわ。
旧時代の物理理論を持ち出してもしょうがないの」
アカリは口を突き出す。
「それじゃあその高橋なんとかさんに会いに行きましょうよ」
「直接会える場所には居ないわ。……サーバに直接アクセスすることもできるけど、
インターフェイスがないから少し面倒ね。開発に……1週間ぐらいはかけたいかな」
「お疲れ様です」
「何言ってるの、プログラミングはあなたの得意分野でしょ」
「ひえー」
悲鳴をあげて、アカリは頭をおさえた。
「できました」
次に志穂がアカリに会ったのは、ちょうど一週間後である。
アカリは目の下にクマを作っていた。
「なんとか完成させましたけど。デバッグまではできません。
でも先輩ならすぐ直せますよ。少し寝ます」
言ったきり、事務所のソファーに横たわり寝息を立て始めた。
アカリの作ったソフトを起動させると、ピンク色を基調としたかわいらしい画面が表示させる。「高橋信行」のデータを打ち込むと、数秒後、志穂の使っているパソコンとサーバーがリンクされ、チャット形式で会話ができるようになっていた。
「こんにちは」
『驚いた、こんなとこまで来る人がいるなんて』
「私も初めてよ。……頼まれでもしなかったら、こんなことはしなかったと思う」
『そっちの世界では僕は死んでいる?』
「ええ。残念ながら」
『いえ、いいんです。気を使わないで。それが僕の望みだったから』
しばらく沈黙し、
『どうしてこんなことを、と思うでしょう。
肉体を捨てたのか。捨ててまで生きているのか』
「そうね。まあ、ありきたりだけど」
『その理由を、うまく説明はできないけど。
……僕は物心ついたときから、消えてなくなりたかった。身体が不便だった。
大切なものはすべて頭の中にあったし、それで満足できた。
つまり僕のいう世界というのは、体の外じゃなく、頭の内側にあるものなんだ』
「だから身体を捨てた? 」
『捨てたわけじゃない』
「なら、」
『これが本来あるべき状態。僕は元に戻っただけなんだ』
プツリ、と通信が途絶える。
8
それに「人体不在症候群」と名付けられるのは、そう遅いことではなかった。高橋信行のことがニュースで取り上げられると、テレビ局に電話が殺到した。……全国各地にいる「人体不在症候群」の家族によるものだ。彼ら彼女らは異口同音に「肉体的な消滅」と「魂の存在」を説明した。
志穂がパソコンから顔を上げた時には、すでに外は暗くなっていた。デスクから立ち上がり、窓辺にたつ。眼下には車のライトが、人々の流れが見える。雑踏。平々凡々たる営み。ただ前に、と歩く会社員は幸せだろうか。
すぐに頭をふり、その考えを消す。疲れているのだ。想像と妄想を混同してはいけない……。
「魂、か」
志穂は一人つぶやく。
仕事の合間の戯言だ。ほんの遊びの思考。人間とは。人体とは。身体が死んでなくなれば、それはこの世から居なくなったことと同義なのか? 魂とはどこにある?
祖父は自殺したのか。それとも、身体を捨てただけなのか。ならば死とは何か。
ため息をついて、思考を止める。再びデスクに戻り、書類を読み始めた。
土竜に会ったのは、それから数日後だった。
大柄な身体に見合わぬ困り果てた顔をしながら、彼は説明した。
「高橋信行の件があってから……少し問題があってな」
「すでにある死亡届けの信頼性が揺らぎましたか? 」
「まあ……そういうことだ。特に事件に巻き込まれた被害者からの声が多い。
『まだどこかで生きてるはず』って。どこかっていうのは、まあ、サーバーの中なんだけど」
「バカバカしい」
言って、何がバカバカしいのかを説明しようとしたが、言葉が見つからない。
「とにかく、そんなことをしたって何もメリットはないのに」
「今回の件はとにかくいろんな方面に波及してるぜ。そんな気はなくとも、「死後の世界」ってやつを証明したことになるんだから」
「それこそ、馬鹿らしい。
そんな世界、あったところで何だというの」
「俺は議論する気はない。とにかく、伝えるべきことは伝えた。
あとは、あんたの事務所が割れて、人が大勢押しかけるかもしれない。……おそらくそうなるだろう。それを心配してるだけだ」
「ありがとう」
言って短く、話を切った。
けれど土竜が予想したようにはならなかった。
大衆の矛先は志穂ではなく、警察へと向けられた。……「魂の在り処」というセンチメンタルではなく、「死亡届け」という現実問題として。
「人が生きてるってなんだろう」
オフィスの窓から、道行く人を見下ろしながら志穂はつぶやいた。
「難しい問題ですね」
志穂の隣には、いつものようにアカリがいる。
「簡単には答えが出せない……。けれど私は、先輩と居れるだけで、嬉しいですよ」
「そうね」
「あれ、怒ってます? 」
「怒ってないわ」
志穂はため息をついて、アカリに近づく。アカリを抱き寄せ、その首にそっと腕をまわす。アカリがうっとりともたれかかる。
志穂は無表情に、アカリの首の後ろについているボタンをおした。アカリはゆっくりと、その動きを止める。「あなたが言うなんて」と志穂は思った。だからもう、愛せないだろう。
神は自分に似せて人間を作った。究極のエゴ。自我の肥大化。家族を作ろうとして、結果作ったのが似非自分。けれどそんな人間を裁く、神の矛盾。「お前がいうなんて」と知恵を持っってしまった人間をなじる。だからきっと、神はもう人を愛せないだろう。
日はかたむき、影が伸びる。優しく寄り添う影。
飲み込まれて、だんだんと消えゆくあなたの影。
そこで泣いているのは、いつも私だ。