07 記憶と夢(2)
隙あらば頭を撫でてこようとする手を、『彼』はわずらわしげに振り払う。
「何だよ、さっきから」
「……ちいさい子、すき」
「俺はお前より年上だよ」
「うん……でも、ずっといない…見ていない」
ずっと見ていない?
何を指して言っているのか分からなかったが、『彼』はそれに構っている暇はなかった。
「とにかくやめろ。気が散る」
セドリックは『彼』の自室――子供部屋の中にいた。
今日は雨が降っていたので、二人とも部屋に籠もり、毛足の長いラグの上に寝転んでいる。
とはいえ、『彼』は眼前に広げた本の文をなぞるのに忙しく、少女を見向きもしない。
しばらく時間が経ってから、少女がぽつりと口を挟んだ。
「なかいい人は、あいしょうして呼ぶって」
「ふーん」
「クローディアのあいしょうは、リアだって」
「それで?」
「呼んで」
「やだ」
間髪入れずに拒否すると、どことなく気落ちした声が返ってくる。
「……なかよくするって」
「君の言う、“仲良く”って、早く子供ができるようにしたいからでしょ」
「うん」
迷いのない即答に呆れて、隣の少女を振り返る。
「あのさ、子孫を残すのは魔導士の義務みたいなもんだから、心配しなくても子供は作るよ。でも、だからって今から仲良くする必要はない。っていうか、今から仲良くしたって子供はできない。君さ、初潮もきてないでしょ?」
「……?」
「ほらダメだ。子供がほしいなら、子供がどうやってできるかくらい調べてきたら?」
「……おしえて」
「忙しい」
本の一文をなぞる手の、反対側の手には懐中時計がしっかりと握られている。
鎖に繋がれたそれは、最初の反省をいかして少女の手首にまかれていたが、どのみち少女の自由は奪われているため、ほぼ毎回、彼女は暇を持て余していた。
少女は週二回のペースで、人工精霊の子守に付き添われ『彼』の家を訪れている。
『彼』の家では両親ともに魔導士として健在であるため、家に居ることは滅多にないため、二人とも誰に気兼ねすることなく振る舞えたが、『彼』は少女が来るたび懐中時計と本に没頭してしまうので、少女は一人で不貞寝するしかなくなるという、そんな退屈な場面がすでに三度、セドリックの前で繰り返されていた。
いつまで続くのか、いい加減飽きてきたが、四度目になってようやく動きが出る。
さすがに学習したらしい少女が、家から持参してきて数冊の本を読むようになり、そして、それとは逆に『彼』は苛立ちを募らせはじめていた。
ヘインズ家に所蔵されている書物をあさっても、魔力回路の畳み方に言及した本がほとんど見付からなかったらしい。
だから苛立ちまぎれに、少女の実家から秘蔵本を拝借してこいと冗談半分で口にしたら、彼女は次回の訪問で本当に持ってきたのである。
バカって便利だっ。
言われるまま行動を起こした少女を、『彼』の心はそう賞賛した。
だが、さすがにどうやって持ち出したのかが気になった。
『古い魔法使いの家系』が所有する旧家は、人工精霊の管理下にあるはずである。少女が彼らの目を盗み、運び出せるとは思えない。すると、実にあっさり口を割ってくれた。家令のヒトに頼んだら、父親に言って貸してくれたそうだ。
屋敷私僕と呼ばれる人工精霊たちは、総じて家主たちに甘い。さらに言えば、娼婦の娘とされる幼い少女に、彼らが同情的であってもおかしくはない。
つまり、傷や汚れに気を配って、きちんと返却すれば、今後も見て見ぬふりをしてくれる可能性は高いだろう。
気を良くした『彼』は、さっそく少女にどういった本を持ち出すか、こと細かに指示しはじめたが、どうしてなのか、これが中々うまくいかなかった。
『彼』の望む本とは微妙に違うものが届けられ、言葉が足りなかったかと、さらに深く説明していくが、それが三度も続くと少女を訝しんだ。
よくよく様子を見ていると、少女は『彼』の話を真剣に聞いてはいるが、使われる単語の意味をきちんと理解しているのか怪しい素振りが目立った。
それは、『彼』にとって、もちろんセドリックにとっても唾棄すべき人種の習性である。
「あのさ、知ったかぶりって言葉、知ってる?」
またしても違う本を持ってきた少女は、『彼』の問いかけに首を横に振った。
「本当は知らないくせに、さも知っているような顔をして嘘を付くこと」
「…………」
『彼』が何を言いたいのか伝わったのだろう、少女はうつむいた。
その分かりやすい反応にため息が出る思いだったが、きちんと意思疎通をはからなかった自分にも非はあるのだろう。けれど、少し変だとも思った。
いつもなら、分からない言葉があるとその場で聞き返してくるのに、今回はそれが無かった。彼女なりの見栄があったのか、それとも、それほど興味がないことだったのだろうか。
ふと、少女の読んでいた本が目に付く。
それは、お姫様や王子様が出てくる、童話に近い児童書だった。
「……君さ、まがりなりにも“古い魔法使いの家系”なんだから、すこしは正導学に興味もったら?」
後ろめたいのか、彼女はあさっての方向を見たり、足下に視線を落としたりと、言いにくそうに見える仕草をしてから口を開く。
「……せいどうがく。だと、知らない」
「……………は?」
「なまえは知ってる。なにか、だと知らない……」
「え。だって家系の子だろ? 十一歳になったら学院で学ぶんでしょ?」
王立学院で学ぶためには、最低でも魔力訓練所以上の知的能力がないと難しい。だが、家系の子なら訓練所に通わずとも、生家で徹底的に仕込まれているはずである。
「がくいんは、がっこう?」
「……まあ、そうだよ」
答えながら、『彼』はさらに当惑していく。
家系の子が皆、魔導士になるわけではないが、王立学院を出ていることは、家系の子にとって何よりの社会的地位になるはずである。
それなのに八歳になっても正導学を知らない彼女に、『彼』は言いしれぬざわつきを覚えた。
少女はしばらく黙っていたが、ひとつ頷いてから『彼』へ近寄ると、耳元に口を寄せる。
「がっこうは、行くって、ダメなの」
口元を手で隠し、さも秘密だと言いたげな内緒話は、『彼』の了承を得ることなくはじまった。
「イザベラさん…いまのお母さん。お兄さんはずかしいから。しょうふのムスメが行くとって。だから、えっと……まりょく? に…を、ウソにして、わたしはビョウキで、だから行けませんって言うから、ダメなの」
「…………」
「でも、王さまは知るからって。だから、セドリックとけっこんするになって。いまのお家にいたら、くさる? うん。くさる、らしいよ?」
「――それ、誰から聞いたの?」
「お父さん。じゃない。精霊さん。お父さんミカタになれないって。でも、王さまにお願いしたのは、お父さんガだって」
何の頓着もなく言ってのける少女に、傾ける言葉を『彼』は持たなかった。
別段、珍しいことではないからだ。大事なのは血と技術の継承であって、家庭環境など二の次でも問題ない。どっちつかずの父親も、国に対する義務を果たしただけマシだろう。
ただし、思うところがないわけではなかった。目の前の少女に眉根が寄る。
自分の境遇をどこまで理解しているかは、このさい置いておくとして、何を平然と話しているのか。甘んじて受け入れる気の満々の彼女に、今度は言いしれぬ腹立たしさが沸き上がってくる。
無学の嫁を娶らされる事実に、ムカついているだけだ。
そう、わざわざ理由付けをしてから、『彼』は少女を見据えた。
「俺さ、無知を無知のままにしてるバカって嫌いなんだけど」
「――…え」
少女が、珍しく驚いたような瞳で『彼』を見つめ返す。
嫌い、という強い言葉がよほど効果的だったのか、彼女はまじまじと『彼』を見つめ、何を言われたのか、その意味を改めて呑み込んでいるようだった。
そして、次に彼女が口にした言葉は、要点がやけにズレていた。
「……けっこん、しなくなるの?」
「…………そうかもね」
あえて濁してやれば、ヘーゼルの瞳が大きく揺れた。
「だいたいさ、少しくらい学び取ってやろうとか思わなかったの? 自分が特別な血を引いてることは知ってるんだよね?」
「…………わたし、赤ちゃんいたらいいから、って」
「あはは。そっか。俺、お前と結婚したくない」
「――!」
ものすごく笑顔で言い切った『彼』に、少女は何故かビクついた。
「あ、え…えと。したらいい……ちがう。どう…?ど、どうしたらいい、ですか?」
「だったら、古い魔法使いの家系にふさわしくなれるよう勉強して。別に学校に通わなくたって学ぶことはできるんだから」
「……わかった。うん。おしえ」
「やだ」
「…………」
にべもなく突き放された少女は、心なしか途方に暮れたように見えた。
とはいえ、いつまでも彼女が無知のままだと、少女の実家から本を拝借してくるお使いがこなせない。
仕方あるまいと、『彼』はため息をつきながら立ち上がって、自室のキャビネットを探り出した。
大昔、正導学の基礎を学ぶ時に使用した指南書の収められた箱を取り出し、少女の前にどかりと置く。箱を開け、中から一冊を選び出すと少女に手渡した。
「まず、これを百回読んで」
概要の概要をまとめたペラペラの冊子を見て、少女が「ひゃく?」と聞き返すが、『彼』は本気である。それを丸暗記してもらわないと、おそらく先へは進めない。
読んでもらう本は、まだまだあるのだ。弱音を聞いている暇はなかった。
「せめて、訓練所を出られるだけの知識は身につけてもらうから」




