64 本当の目的
ローレンスの姿は、後邸一階北棟の醸造室にあった。
一番地ルイナからの帰宅後は、いつも通り両主人に真心を込めて仕え、彼の地から持ち帰った課題が話し合われたあとは、それぞれの寝室で床に就くのを見守った。
それからは各自の家内業務へと移るのだが、ローレンスの場合は会社館から戻った日から行っている旧リッテンバーグ邸の点検に入っていた。
全館を巡る魔力回路のチェックは二日前に済ませたが、その次の日から邸内の鏡板と化粧板の状態を総ざらいするため、前邸中邸後邸の各部屋をひとつずつ順に回っていく。
前邸の検査は前日に終えたため、今日は後邸のエリアを見て回っていたが、もちろん、すべてを点検し終えたあとは、後日改めて男主人に確認してもらう予定である。
現時刻は、午前零時をとうに回って、二時間近くが経っていた。
「――ここも、これといって、可笑しな仕掛けがされているとは思えませんね」
たった今、前邸の廊下から後邸の醸造室に移動してきたオーウェンは、言いながら実体化した自身の体を確かめている。
「わかった。板を確認する」
言って、部屋全体に意識を集中して、外部とつながっている板がないか一枚ずつ確かめていく。
十数分ほどかけて、不審な箇所は見受けられないことを確認し、オーウェンにも再度気になるところはないかと視線をやったが、合うはずの視線はそこにはなかった。
彼は、心ここにあらずといった面持ちで、空のボトルが並ぶ棚を眺めている。
どうやら、まだ気にしているらしい。
オーウェンは、自らの判断を誤ったせいで、危うく主人を殺しかけた。当日の内に謝罪をしたものの、襲われた当人はほとんど気にしておらず、それが却ってよくなかったのかもしれない。
「……何度も言うが、もしあの時、防げていたとしても、次の襲撃があっただろうと旦那様も仰っていただろ。今後に活かすことを考えろ」
「…はい」
「もし業務に支障が出るようなら、旦那様にお言葉をかけてくださるよう進言するが」
「それだけは止めてください。絶対」
さすがに、そちらの方が堪えるようだった。
ただ、落ち込む下僕を慰めようと、苦心する男主人を想像して少し笑ってしまう。
丁度その時だった。時刻は深夜二時を回った。
「――時間だ。行ってくる」
「はい。こちらの首尾は任せてください」
邸内を清掃する家女中たちに指揮しながら、課題の案を練っているローナにも一言断りを入れてから、ローレンスは旧リッテンバーグ邸を離れた。
主人たちが何時間もかけて移動する距離を、ほんの瞬きほどでの時間で飛び越えると、室外を思わせる広い場所へと出た。
堂内を満たしていた燻浄の白煙はすっかり抜かれ、月の光でも日の光でもない光芒が、半壊の天井から壁龕の木へと降り注いでいる。
「――これはこれは」
「…夜分に失礼いたします」
ローレンスは、どうにか気を張りながら口にする。
主人の許可なくここを訪れた瞬間から、とてつもない罪悪感に襲われていた。
一番地ルイナに広がる廃墟には、廃屋や廃道のどこにも回路は敷かれていない。それでも、訪れることができるのは、はじめから作りつけられた仕組みだからだろう。
ただし、出現を許されるのは旧家の家令のみで、実体化にも制限がかけられているが、何よりの抑止力は、そこが屋敷私僕が本能的に忌避する場所だということだ。
ここは、自らが取り仕切る家内環境が本当にどうしようもなくなった時に訪れる最後の場所であり、自らの無能を告白する場所でもある。
これは主人に対する反意ではないと、自分に言い聞かせながら、ローレンスは老君へと対峙していた。
「旧家の家令が、何用か」
「お聞きしたいことがあります」
「内部告発との関りは」
「ありません」
「そうか。かまわない。前例がないとも言えぬ」
「ありがとうございます」
あっさりと認められたが、取り立てて驚くことではなかった。
それよりも、密告を否定したからか、少しだけ気持ちが楽になりながら、ローレンスは続ける。
「聞きたいのは、会社館の後始末についてです。セドリック様を功労者として仕立て直すとのことですが、具体的な話を進める前に、必要な情報をいただければと」
「ここまで来て、聞きたいことがそれか」
明らかに真意を疑っている言い方だった。確かに理由としては弱すぎるだろう。
だが、目の前の存在が、嘘や絵空事すら楽しむ性質なのは知っている。
「今回の陰謀には、異邦人も関わっているのです。貴方や正導学会の威光が及ぶ効果など、たかが知れているはず。あの貿易会社は、はじめから虚像だった。ならば、彼らが貴方たちに協力した理由はなんですか」
「つまり、主人があらぬ諍いに巻き込まれないかと、危惧していると」
理解の早さに、思わず怯んでしまいそうになる。
「…相手が商人だけならば問題ありません。彼らは利益で動きますから。とりわけ、投資家に相応の違約金が支払われれば、ほとんどの者は引き下がるでしょう。ですが、これほど長期的な貿易を行うには、国規模の支援がなければ難しいのでは」
「想像に相違ない。近年、遠海近海を問わず、海域を騒がしくしている渡航船だが、一国の指導の下で動いている。貿易面での外交を除けば、彼らの要求は、航路の確保と航海の安全になる。これらを、こちらの軍事で統制して欲しいと言うものだ」
「どう答えるつもりなのですか」
「関与しない。どのような船が近海を通ろうとも、中立の立場を取るという結論に至った。一国の指導と言ったが、どうにも実体が危うい。交易と布教の名を借りた、もっと別のものだとする見方もある。会社館の一件を機に、我らは異国との貿易をいったん見直し、従来の部分外交に戻す運びになる」
「不興を買うのでは?」
「交渉とはそういうものだろう。二心があるならば、道理を欠いているはあちらだ。国力の不均衡を考えれば、背後関係のつながりが晴れるまで、距離を置くべきだろうというのがこちらの見解になる」
推測していた内容にそれほど違いはなかった。ローレンスの主人は国同士の政治に関わっていないが、ローレンス自身はローナともに大まかな算段だけは立てていた。
「では、もうひとつ。会社館そのものについて」
「かまわない」
「カミル・モアによれば、会社館は建設にあたり、あらかじめ数々の実証実験を重ねていたと伺いましたが、トラブルの対処用件と事後処理がやけに多かったように思えます。セドリック様を追い詰めるためだとしても、出来が悪すぎはしませんか」
「クローディア・ヘインズの参入があって、急ごしらえになったのだろう」
「着工から三年も要しているのに?」
「そうだ」
「……ではなぜ、会社館の地脈回路を切る許可を与えていなかったのですか。どれだけ不測の事態が起きようとも、大本の動力さえ断ってしまえば、ただちに停止できたはずではありませんか。こんな、あらゆる検証の基本を見落していたとは思えない」
ここまで、ほとんど間を空けなかった老君が発言を止めた。
ローレンスは、続ける。
「――本当は、何が目的だったのですか」
「ここに来た理由は、それか」
老君は、納得したように口にする。
そして、思案らしい思案もないまま、仕方がないと言いたげに切り出した。
「――はじまりは、セドリック・ヘインズが、旧リッテンバーグ邸を完全復旧させた日にさかのぼる」
はじめもはじめから切り出され、ローレンスはわずかに瞠目する。
「旧家を自己判断で修復された事態を受けて、学会の中で議論が起きた。大きなものでは、臨界現象を起こした唯一の旧家という、貴重な研究材料を失ったことで被る損失の割合だが、小さなものでは、誰がどういう理由で復旧させたのか、公に報じる事実の範囲だった。だが、最も紛糾を呼んだのは、|臨界現象を経験した旧家が正常に動くのか否か《・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・》だ」
言っていることが、すぐには呑み込めなかった。
「動作の確認にあたって、早急に試験的な運転を行う必要があった。ただし、ただの試験では意味をなさない。臨界現象が旧家にどのような影響を与えたのか、多面的な反応を記録せねばならなかったからだ。そのためには、屋敷私僕を家政に戻す必要があったが、安穏とした暮らしでは多面的な反応は引き出せぬと考え、ひどく不安定な主人をあてがうこととなった」
「――――……では」
「そう。お前が言った“本当の目的”を語るのなら、男主人を火種に使った、旧家の耐久テストになる」
あまりのことに言葉が出なかった。
「会社館の不備においてもそうだ。トラブルのいくつかは実際にあったようだが、本来の狙いは、より大きな負荷をかけるための実験であり、セドリック・ヘインズに対する一連の襲撃や処置は、もののついでにすぎない」
ローレンスは、目まぐるしく入れ替わる感情に眩暈がしそうだった。
彼があの三年間でどれほど苦しんできたか、最も間近で見てきたのは自分である。
それが、ただのついでで片付けられていた。
主人の辛苦を思って奥歯をかみしめる。
ローレンスはそれでも感情を押し殺して、声を絞り出した。
「――…それで、試験の合否は付いたのですか」
「アビゲイルが言っていただろう。たった一人のイレギュラーによって、積み上げられた三年の月日は見事に瓦解した」
「……それは」
「合否の判断を付けるどころか、彼らはもはや、旧リッテンバーグ邸には手出しが出来なくなったということだ」
まさかこんな形で女主人が関わってくるとは思わず、思い描いた彼女の姿とともにローレンスの心は、いくぶんか静まっていく。
「しかし、残念だな。おかげで、アビゲイルとはしばらく話せなくなった。あの子との会話は楽しかった。言っていることと、やっていることが次第に逆転していくのだから」
「……どういうことです?」
「人間よりも人工精霊を優先する者を不穏分子と呼びながら、実際に行ったことは、人工精霊を優先にした、人間の使い捨てではないか。不思議なものだな。お前たちが、あれほど自分たちは使い捨てでいいと訴えているのに、当の人間たちは、どうして人間の方を使い捨てにしたがるのか」
「…………」
ローレンスは、老君の言っていることが、ただの詭弁だと分かっていた。
アビゲイル・モアがしたことは――許しがたくも、しようとしたことは、『私』ではなく『公』の優先に他ならない。
それを老君たる者が分からずに言っているはずがなかった。
「貴方こそ、公平性を欠いているのではありませんか」
ローレンスは、挑むように切り返す。
「貴方の存在理由は、王の――国家の相談役でしょう。名を預かるものとして、誰に肩入れすることなく、公明正大に向き合うのが原則であるはずなのに、クローディア様に節目を問うとき、何故このことを伏せていたのですか」
このうえ何を企んでいるのかと、言外に含ませれば、老君は、さも当たり前のように答えた。
「人は考えを変えるものだろう」
妙な言い回しだった。
「お前は、節目を問う時と言ったが、どうして節目を問う時が、あれ一度きりだと思うのか。彼女は未だ、有蓋の記憶の所有者だ」
老君が言わんとしていることに、ローレンスは少なからず動揺する。
「話はまだ終わっていないのだ。何故なら人は考えを変えるからだ。とりわけ、人生の契機となるような出来事が起これば、物事の見方を顕著に変えてくる。分かりやすいのは、実子の誕生か」
動揺は狼狽に変わっていた。
「今回の節目では、互いの不干渉を約束していたが、果たしてそれがいつまで続くか。もし、これまでの考えを一変させる大事が起きた時、あちら側にとって都合の悪い事実を残していた方が、以前の答えが間違いだったと撤回する口実になるだろう」
「――口実。そんな、ことですか」
「そうだ。どのみち、あの場では、あれ以上の結論は得られなかっただろう。ならば、次の議論の材料とするのが定石ではないか」
「材料、次の……」
「そう。しかし、こうなると、学会側がもっと別の不始末を起こさない限り、訂正は難しくなる。お前たちの主人にとっては不利な形となるだろう」
そんなことを言っているのではないと、口にしようとして言葉が出なかった。
ローレンスは分かっていたはずだった。老君が、何に重きを置いているのかを。
しかし、改めて話が通じない相手を前にして、言い様もなく閉口してしまう。
「だが、そうだな。ここでお前が黙っておく手もあるか」
老君が屋敷私僕の本能を試すように言う。
ローレンスもまたそれを考えていた。自分のこの行動は、もしかしたら主人たちの不利益になるかもしれないと。だからこそ、ここに来ることは黙っていた。
けれど、
「…少なくとも。お二人に御子ができた喜ばしい日に、そのような恐ろしい話を吹き込むまねはさせません」
「…それは残念だ」
「何より、お二人が子供のために考えを変えるというなら、その程度の不利益で事を投げ出すはずがないでしょう。お二人には我々がいるのだから。我々はそのためにいるのだから」
目の前の存在に抗うように言い切ってみせれば、老君は少し考えるような間を置いた。
「――なるほど。実に頼もしい限りだ」
声に、揶揄や嘲りはなかった。
だから、そこに何を込めて言ったのかは分からなかった。
ただ、この場に留まる理由はもうないだろう。
できれば、二度と来たくなかったが、例の話を詰める作業が残っている以上、少なくともあと数回は訪れることになるはずだ。
「…本日は、ありがとうございました。後日また、よろしくお願いします」
礼儀として最低限の挨拶は述べておく。
老君もまた、簡潔に返事を返してきた。
「そうか。では、私はここで待っている」




