05 旧リッテンバーグ邸
馬車での帰路、ローレンスは主人の体調を案じ、車内に人型で同乗していた。
約一ヶ月ほど空けた家に帰るにあたって、それは一応の礼儀だったのだろう。
小箱をいじる片手間に、主人はそのしもべへと問いかけてくる。
「ロレンツ、家内で何か変わったことは?」
「ローレンスです。そうですね……ひと月ほど前に、奥様が魔力訓練所の国家資格を取得されましたよ」
「へー」
気のない返事の合間にも、彼は魔力回路を開いたり閉じたりしていた。
ローレンスの主人、セドリック・ヘインズには結婚して二年の妻がいる。
二人を結びつけたのは、彼らの家系に課せられた王命という名の義務だった。
さらに言えば、ローレンスの主人は彼女のことを正導学会からの回し者だと思っていた。
現にそれらしい発言もあったため、彼らに何を言い含められ、送り込まれてきたのか、ローレンスもしばらくの間は彼女を警戒していたが、彼女がすることと言えば、週に一度の孤児院通いくらいだった。
彼女の行動を見張ってみても、正導学会との繋がりなど見あたらず、それが一年も続くと、セドリックはは自分の妻に対する関心をすっかり無くしていた。
今では、奥方の孤児院通いを自分に対する当てこすり程度にしか思っていない。
夫から見向きもされない妻。子供ができるはずもない彼女は、孤児院に通うことで悲劇のヒロインよろしく己に酔っているのだと、そういう手合いにしか見ていないようだった。
「それで、他には?」
「いつも通り、孤児院に通われておりますよ。寄付金も毎月決まった必要経費から」
「違うって、そっちじゃない。我が家自体に何か面白いことは? 泥棒が入ったとか、不審物が送り届けられてきたとかさ」
「あるわけ無いでしょ。そもそも、安全な知人リストか厳選した出入り業者以外の来客や物品は、原則的に認めていないので、屋敷の敷地にすら入れません」
「ガードが固すぎるとモテないらしいぞ」
「ガードの緩すぎる主人がいますので、バランスを取っているのです」
ははっ、と全く笑えない事を笑い飛ばされて、ローレンスは嘆息する。
どれほど言葉を尽くしたところで、意に介してはもらえないと分かっており、この場は早々に諦めて話を切り替える。
「あとは、本日付の新聞に、拡大する異国貿易事業という見出しで、古物商人と地縁貴族の業務提携と、公共事業の新規運用を紹介する記事がようやく載りました」
「…それ、今朝も言わなかったか?」
「言いました。ですが、今朝もそうやって気もそぞろだったではありませんか」
手中の小箱を視線で示すが、セドリックは手元の作業を止めない。
彼は新聞を読まないため、ローレンスがすべて目を通して、主人にとって重要な案件と、興味を引きそうな内容だけを毎日報告していた。
「学会の意向どおり、明確な事業内容は避けて、新しい催事場や公益質屋だと仕向けるため、新聞広告に異国の品の煽り文が挿絵付きで載っています」
へー、と先ほどと同じくらいの生返事が返ってくるばかりだったが、ローレンスはその後も家内に関係する事柄を報告し続けた。
新聞だけではなく、研究室からの機関紙や論文の写し。論文は差出人や著者名、主題やテーマといった内容などもあげていく。
ローレンスは、セドリック・ヘインズの私邸、旧リッテンバーグ邸を本性にする人工精霊だった。
屋敷の家政を取り仕切る家令であるが、執事と従者も兼ねている。
兼ねているのは、現在の家内状況では、能力を分散させる必要がないだけで、『古い魔法使いの家系』が代々所有する屋敷――旧家は、おおよそ家内全ての使用人が人工精霊である場合が多く、必要に応じて、相応しい役職の人工精霊を増やすことが出来た。
そして現在、旧リッテンバーグ邸には十五体の人工精霊が常に勤務し、稼働している。
家令のローレンスを筆頭に、奥方の侍女が一体。従僕が一体。家女中五体。料理番が二体、庭師が一体、御者が二体。他にも家馬の牽引馬が二体いた。
こうした精霊たちは、本来なら『本体』から遠く離れた行動を制限されるが、中継ぎとなる装身具を主人たちが身に付けることで、行動限界は取り払われた。
当然ローレンスの主人たるセドリック・ヘインズも、『旧リッテンバーグ邸男主人の指輪』という、旧リッテンバーグ邸の建材から切り出された指輪を、右手中指に嵌めている。そうしてはじめて彼の側近くに侍ることを許されていた。
ちなみに、公営施設の『永久公僕』のように、屋敷を本性とする人工精霊にも『屋敷私僕』という呼称があるのだが、ごく一部の層からすこぶる評判が悪い。
どうやら、『屋敷しもべ』という某妖精と間違えられてしまうらしく、長い年月の間、様々な人間に仕えてきたローレンスだったが、お子様たちのがっかり顔には未だ慣れないでいた。
そうこうしている内に、何事もなく旧リッテンバーグ邸の門構えを目前にする。
屋敷を構成する『前邸』『中邸』『後邸』の三邸の内、主家となる前邸のファサードは、古代の造形を色濃く残した二階建ての建築様式。
ローレンスの意志で開閉する門扉をくぐり、長くないアプローチを通ってエントランスの車寄せまで馬車が横付けされた。
注意力も散漫な主人を玄関ホールに招き入れるが、奥方たるクローディアの出迎えは、もちろん無い。
ローレンスが先触れすれば、ただちに屋敷私僕すべてに報せがゆくが、そんなものは最初の半年だけでローレンスが取り止めた。
彼女に出迎えさせたところで、主人はおざなりな返事しか寄こさない。
奥方は気にした様子を見せていなかったが、ただでさえ帰宅の不定期な主人のために、彼女の生活スタイルを乱す必要はないとローレンスは判断したのである。
そして、主人に何の断りもなくそれを実行したが、当の主人からは気付く気配すらみられなかった。
一ヶ月ぶりの帰宅である今も、出迎えた家女中を見向きもせずに歩いている。
結婚相手の顔を覚えているかどうかも怪しい主人の背中を見ながら、家令兼従者のローレンスは、彼の着替えを手伝いに付き添った。
旧リッテンバーグ邸の地下には、地上の三邸とほぼ同じ規模の広大な地下施設がある。
主な区画に、大広間や大書斎、大書庫などがあるが、その内のひとつ、大書斎にセドリックの姿はあった。
代々の家長が、正導学の研究室として使用してきた大書斎には、木製の額縁や、額装された貴重な紙片や生地の標本。天球儀や医学用品。異国から持ち込まれた木工、金工各種の工芸品など、人によっては、がらくたとも呼べる品々で溢れかえっている。
そんな一貫性のない蒐集品に囲まれながら、セドリックは室内の冷たい石床に敷かれたラグにあぐらをかいて、例の小箱を訝しげに見下ろしていた。
複雑に折り重なり、小綺麗に畳まれてあった回路の導体構成図を展開し、色々とさらけ出したことで小箱の子細がかなり解き明かされていた。
どうやらこれは、確かに記憶の媒体を目的とした魔法道具らしい。
らしい、というのは、通常の記録媒体の導体構成が、さらに三十二連ほど繋がっており、もはや魔法道具とは呼べない代物に仕上がっているためである。
魔法現象を生じさせる魔力回路には、大きく分けて魔法道具と魔法装置がある。
生活の補助となるようなものを魔法道具、人工精霊ほどに大掛かりなものを魔法装置と言うが、ふたつの違いは単純に規模が大きいか小さいかの違いにすぎず、明確な区切りはないと言っていい。
導体構成図の三十二連など、通常ならこのように小さな箱に入るような代物ではないが、構成図が複雑に折り畳まれているため、可能にしたのだろう。
だからこそ、まず間違えなくコレはセドリック自身が作成したものだと言えた。
魔力回路の畳み方しだいでは、どういう魔法現象をもたらす構成図なのか、容易には読み取れないようにできるのだが、定期的に点検や修復を必要とする魔力回路に、そんな方法を取るのは非常識であるため、今ではほとんど行われていない。
けれど、セドリックはそうした作業がことさら好きで、今では凝りに凝って本人にしか読み取れない、取り出せない、という域にまで達している。
その上で、この小箱はセドリックの趣向をあまりにもなぞり過ぎているのである。
ただし、非常に気にくわないことがあった。
大変受け入れがたいことに、このレコードは完全な失敗作だった。
あの状態で使い続ければ、おそらく強い負荷がかかって暴走し、ダウンするかバーストするだろう。
魔力回路の構成図そのものに問題はない。だいたいレコードくらいの小物、子供でも作れる。失敗しようがない。
原因は、セドリックの癖とも言える凝った畳み方にあった。
折り畳みの小綺麗さにこだわるせいで、重ねの不具合が省みられず、部分部分で導体同士が触れ合ってしまっている。これでは要らない負荷がかかるだけだった。
信じがたい初歩的なミスに、セドリックは驚きを禁じ得ない。
さらに受け入れがたいことに、この小箱はすでに負荷暴走していることが分かった。
これは見れば明らかで、すでに該当部分の導体が焼き切れているからである。
おかげで、その時何が起ったのかは分からなくなってしまっていた。
それなのに、それらしい記憶はセドリックに残っていない。
失敗作。などという不名誉きわまりない品物を、自分が忘れるはずがないと彼は思う。
誰かに罠を仕掛けるため、わざと不良品を用意した可能性はあるが、だがやはり、セドリック自身が覚えていないというのは無理がある気がした。
テレサの言葉が思い出される。
――――十年近く前に作成されたと推測されるそうよ。
先日二十歳になったのだから、確かに王立学院の寮に入っていた時期と重なる。
その頃の自分は、何をしていただろうか。
思い出そうとして、セドリックはすぐに止めた。
十年前などという曖昧で不確かな糸をたぐったところで、出てくるのは曖昧で不確かな記憶でしかない。それよりも、もっと確実な方法が目の前にある。
セドリックは眼下の箱を手に取った。
そう、あれこれと考える必要はない。全ての答えはこの箱の中にある。
これがレコードだというのなら、何を記憶しているのか見てみればいい。
そのためには、このまま回路に不具合をきたした状態で起動させる必要があるが、言うまでもなく危険行為だった。
そんな危険性を前にして、セドリックはむしろ、ある種の誘惑にかられていた。
今ここで自分がリタイアしたら、あの性悪どもはさぞかし泡を食うだろう。
そうなれば、どれほど胸のすく思いがすることか。
かといって、むざむざ失態を演じるつもりもなかった。ただ、そうなったらそうなったで小気味が良いだろうというだけで。
セドリックは立ち上がり、さっそく準備に取りかかった。
すでに負荷暴走している回路にさらなる負荷がかからないよう、新たな補助回路を作ることにし、せっかくなので改良も加えてみることにする。
まずは、魔力回路のよく浸透する古い物を調達せねばならない。
それなりの年月を経ていて世界になじんだ骨董品となると、すぐには手に入らないため、セドリックは手近にあった寝室のベッド――ブロンズの光沢が味わい深い木製の寝台――を使おうとして、ローレンスの反対にあった。
リッテンバーグ当主の存命時代からあるアンティークだと、断固として譲らなかったため、仕方なく空き部屋にあった、そこそこ年代物のベッドで手を打った。
天蓋付きのベッドを大書斎に運ばせたあと、魔力回路の導体構成図を描きあげ、ベッドへと折り込んでいくセドリックの傍らで、ローレンスは終始渋い顔をしていた。
小箱を開けて、一度は昏倒したのだ。当然と言えば当然の反応だが、セドリックの刹那的な行動を止められたためしのないローレンスは、最後まで口を出しはしなかった。
ヘッドボードの宮棚に小箱を設置して回路をつなげれば、即席の『記録媒体投影装置』は出来上がった。
試運転もしないで横になるセドリックは、ベット脇のローレンスを見向く。
「じゃ、起きるまで起こさなくていいから」
「…できるだけ、そうします」
不服従を匂わせるローレンスに微笑むと、宮棚の小箱に触れて蓋を開けた。
蓋裏の鏡が仄かに光を宿して、セドリックはまぶたを閉じる。
ゆっくりと落ちていく感覚に身を委ね、眠りに就くように四肢の感覚を失っていく。
うつつから切り離された意識がやがて捉えたのは、やけに見覚えのある部屋だった。
そこがセドリックの生家『旧ペンバートン邸』にある応接室だと知っている彼の前に現れたのは、壮年の男。
記憶よりやや若いが、周囲から似ていないとよく言われるセドリックの父親だった。
「さあセドリック、仲良くしてあげなさい。将来、お前の妻になる子だよ」
聞き慣れた固い口調で、父はソファに座る少女を紹介した。
肩で切り揃えた亜麻色の髪に、まるいヘーゼルの瞳を行儀良く並ばせるが、父の紹介中ににこりともしない女の子だった。