56 廊下での出来事
クローディアは、会社館二階西棟の廊下を歩いていた。
先を行くローナのあとについて、来賓客と出くわさないように先導されながら歩く。
盛装へと着替えたあと、ジルベルタ・モアから、共有の連絡網として『綾織の手帳』の説明を受けていた。
手帳はクローディアとセドリックに一冊ずつ配られるが、セドリックはこれまでの『仕事』で使い方を知っているため、動作確認で実際に文字のやりとりをしたのは、ジルベルタ・モアとクローディアだけになる。
着替えたドレスの話題を皮切りにして、手帳の説明も手帳でするなど、はじめて触るそれを大いに楽しむが、どうやら連絡距離に支障があるらしく、有効範囲はせいぜい会社館の中なのだとか。
連絡系の魔法道具はいっこうに距離の上限が伸びないことを、ジルベルタ・モアが不思議がると、ベースになる古物が無いせいだろうとセドリックがすかさず答え、すると、彼女は少し大げさに感心してみせた。
そのまま『中継ぎ』の話になり、魔法道具にも適用は可能かの議論がはじまると、技術的には不可能ではないが、インフラ面で難しい点を述べるので、ジルベルタ・モアはますます感激して、ここぞとばかりに彼の才知と技術力を褒め出すものだから、居心地の悪くなったセドリックが強制的に話を打ち切った。
見計らったかのようにローナが切り出し、早めの来訪者が予想よりも多い懸念が告げられる。
なるべく人目につかぬよう、こちらも早めに行動することになり、それぞれの持ち場につくために空き部屋を後にしたのである。
セドリックとは視線だけの別れを告げて、クローディはいま、会社館二階西棟の廊下を歩いていた。
早めの来訪者たちは、すでにそこかしこで勝手なふるまいを見せているようで、ローナの道案内は度たび進行方向を変えていく。
あらかじめドレスの試着と歩行練習はしているとはいえ、布地を引きずる衣服が歩きにくいことに変わりはない。
習った裾のさばき方をどうにか実践しながら、これから向かう先は、会社館に併設される倉庫に待機させている馬車の中だった。
今日の式典にクローディアはセドリック・ヘインズの妻として参加するつもりだが、途中参加という形をとる予定だった。今まで不仲だったのに、突然一緒に現れたらさすがに不自然だからである。
「本当に素晴らしいドレスですね」
隣を歩くジルベルタ・モアが口にした。
共有の連絡網である『綾織の手帳』の説明を終えた後、個人的に話があるからとクローディアの移動に同行していたが、よほど気に入ったのだろう、手帳でのやりとりでも褒めてくれたドレスの話を繰り返す。
「ローナさんだけのデザインですか?」
「いいえ。奥様の参加は急遽決まったことですが、こうした宴席がいつあってもいいように、コンセプトに合わせたデザイン画をシーズンごと外注しておりますので、その中のひとつを選んで、デザイナーご本人と手直ししております」
とはいえ、クローディア自身はそのデザイナーとの面識はない。私僕の一体がクローディアの姿に扮して、採寸や試着などの相手をしていた。
ジルベルタ・モアは、持ち歩いていた付箋やら切り抜きやらで嵩増しされたでこぼこの革本を開くと、とある付箋のページを開き、文面に指を走らせる。
「…もしかして、スキャパレリのナタリア・オルミ氏のデザインですか?」
「よくご存じで」
「彼女は先鋭的なデザインをしますよね。でも、不思議と幅広い年齢層に人気がある」
「意外ですね。服飾関係にもご興味が?」
「というより、何かを作ってる人が好きなんです。だから、気になった人は分野を問わずチェックしていて。まあ職業柄、規模の大きなモノがとりわけ好みですけどね。……ですから、あなたのご夫君のファンでもあります」
不意に横を向くジルベルタ・モアに、クローディは思わず身構えてしまう。
「旧家の完全復旧を成し遂げたと聞いた時から、ずっと遠目に見てきました。どうして研究職に収まっているのか、彼の技巧はもっと形の残るものに費やされるべきだと思いませんか? わたしは思います。だから、色々ともったいなくて」
彼女がどんな話をしたくて、クローディアに同行したのかは分からないが、少なくとも、ドレスに関して聞きたいのではないことは分かった。
「貴女のことはジュードおじ様から聞いています。セドリックさんは一度は、旧家よりも貴女の方を選ばれたとか。そんな貴女に聞きたいことがあるんです。貴女は―――」
突然ローナが足を止めた。同時に、ぱりんと何かが割れた音がする。
少し奥の廊下、角を曲がった先でガラスが割れたようだが、クローディアの位置からは何も見えず、状況を確認するためにローナの指示を待った。
すると、廊下の奥から声が聞こえてくる。男の人の声と女の人の声。
ローナは少し焦ったような雰囲気を見せ、まるで他のルートを探すように左右の壁を気にするが、すぐにクローディアの視線に気づいたようだった。
こちらに向かって歩き出し、後ろに下がらせようとする。
「――いえ、立ち入り禁止であることをお伝えしたのですが……どうやら、家女中が粗相をしたようです」
抑えた声でクローディアを誘導しようとする合間も、話し声は聞こえていた。
怒気をはらんだ男の人の声と、丁寧にお詫びする女の人の声。
「…どうか、お聞きなさいませんよう」
ローナが進言するが早いか、女の声がどこかの部屋に案内すると言い出した。
どうやら、ぶつかった拍子にグラスを落とし、衣服まで汚してしまったらしい。
責任を取るよう執拗に迫っていたが、別室に案内すると言うなり納得したようだった。
人の気配が遠のいていく。場が収まったことでクローディアはこれ以上後ろに下がらなくてよくなったが、屋敷私僕が人とぶつかるなんてありえない気がした。
しかし、ローナからの説明はなく、何事もなかったかのように先導をはじめた。
「これからたくさんの人が来ます」
廊下の角を曲がろうとした時、ジルベルタ・モアが言った。
「とりわけ今回の式典は、ちょっとアレな人の集まりだとも言っていいですから、良くないものを見聞きすることになると思います」
「…モア様」
咎めるようなローナの声。
「ローナさん。前もって知っておいた方がいいことは、分かり切っているはずですよね。それでも言っていないのは、セドリックさんが嫌がるからですか?」
「…………」
「でも、隠すのはだめですよ。老君が望まれていることです」
答えないローナを無視して、ジルベルタ・モアはクローディアに続けた。
「さっきのは、わざとお酒こぼして衣服を汚したんです。着替えを要求するために」
わざとではないのかとクローディアも思っていたが、その理由が着替えだというのは少し意外だった。
「給仕とか奉仕の延長みたいなものです。彼らはとにかく屋敷私僕を従わせたいんですよ。しかも相手は五十年ぶりに復活した、旧リッテンバーグ邸の屋敷私僕です。希少性が高い分、なおさら欲しがる。当然、着替え以上の事も要求されます」
着替え以上の要求。それが何を意味しているのかは、さすがに分かった。
「主人の利益になるならば、そういうこともします。ただ、セドリックさんはまず許さないでしょうね。今日だって、自分の私僕たちにべたべた触られているの、死ぬほど嫌だと思いますよ。かといって、相手の方から言い寄ってくるのは止められないじゃないですか。無下に断って騒がれたら、今回の作戦に支障をきたしかねませんし、こうしている瞬間にも同じことは各所で起きているはずですよ。貴女たちには伝えていないだけで」
本当なのか確かめるためにローナを見たが、彼女は背中を向けたまま先導を続けている。
「こういう搦め手って、いつの時代やどんな場面でも有効ですから、むしろ彼女たちから積極的に誘い込む場合も多いと思いますよ。私僕らにしてみれば使える武器を使っているだけですし、各部屋に来賓客を分散させるなら、これ以上の方法もありません。主人の利益になると判断したら本当に何でもしますので、もし止めさせたいなら、ちゃんとした方法で命じないと止めませんよ」
クローディアはローナの背中を見ていた。
どうして教えてくれなかったのかと、彼女の想いに考えを巡らせる。
言ってしまうと、女主人が傷ついてしまうと思ったのだろうか。
「どうします? 止めさせます? 止めさせたいなら方法をお教えましょうか?」
そそのかすように言うジルベルタ・モアに、クローディアは視線を向けた。
どこか好奇心をのぞかせる浅黄色の目に、空き部屋で見た突き刺すような鳶色の目を思い出す。
知っている目と、色どころか形すら似ても似つかないのに、既視感があるのはきっと気のせいではないのだろう。
クローディアは、ゆっくりと首を横に振る。
止めさせるつもりはないと、はっきり否定すれば、彼女は少し驚いたようだった。
「……意外です。こういう裏の事情を聞くと多くの人は答えに窮したり、取り乱したりします。とりわけ、貴女のような育ちが良くて穏やかそうな――」
ジルベルタ・モアは、途中で何かに気づいたかのように静止した。
止まったままなのに、何かを訴えかけてくる目を離そうとしないので、言いかけていた彼女の疑問に、クローディは答えるべきなのか迷ってしまう。
育ちが良いか悪いかは分からないが、少なくとも生まれはあまり良くないと思う。
そう言った方がいいのか迷っていると、ジルベルタ・モアは申し訳なさそうに顔をそらし、ためらいながらも口にした。
「……ごめんなさい。無神経なことをずけずけと……謝ります。ローナさんにも」
どうやら、彼女はクローディアの生い立ちを知っているようだった。
いいえ、とひとまず謝罪を受け入れれば、場はいったん収まった。
どこか気まずい雰囲気の中、会話のなくなった廊下にはドレスの衣擦れの音だけが流れていくが、時折、ローナの指示で足を止めて衣擦れの音すら無くなれば、遠くから聞こえる楽しげな人々の声も伝えてくる。
間もなく目的の倉庫へ到着しようという時、ジルベルタ・モアが口を開いた。
「――やっぱり、さっきの質問の続きをさせて下さい」
でこぼこの本を両手に抱く彼女は、また好奇のような色を目にのぞかせていた。
好奇にしては温度の低い、人を探る目。
しかし、質問の続きと言われても、どの質問なのかが分からなかった。
「どうしても…貴女の出自や経歴を、曲がりなりにも知っているからこそ聞いておきたいんです。わたし、その人がどんな人か手掛かりにするために、いつもしてる質問があるんです」
「……どうぞ」
断れば引き下がってくれそうな言い方だったが、クローディアが先を促せばジルベルタ・モアは少しの間を置いてから切り出した。
「貴女は、何を作るのが好きですか?」
クローディアは、内心できょとんとした。
彼女の神妙な面持ちから、よほどのことかと思っていたので、意表を突かれながらも質問に答えていた。
「――え…ケーキとか、お菓子…とか」
思いつくままに言えば、ジルベルタ・モアは浅黄色の目をわずかに見開いた。だが、それだけだった。真顔ともいえる顔で、淡白に見つめ返してくる。
反応の薄さにクローディはっとする。彼女はもっと魔法道具や魔法装置について聞きたかったのではと、質問の意図をはき違えたことに気づき、同時に、ケーキとお菓子では意味が同じであることにも気づいた。
「…ケーキ、ですか。ケーキとお菓子」
「あの、違って。間違えて…もう一回……」
やや焦りながらも過去の記憶を探り、最近セドリックと一緒に作ったぴこぴこブローチのことを思い出す。
「もっとちゃんとしたのが――」
「いいえ。素敵です。ケーキとお菓子」
そう言って、ジルベルタ・モアは遮るように首を横に振る。
何がどう素敵なのかは分からないが、改めてじっと顔を見てくる好奇の目は、さきほどよりも少しだけ温度が上がって見えた。
「ありがとうございます。その答えが聞けて良かったです」
そう言うジルベルタ・モアは、満足げに微笑んだかと思えば、あのでこぼこの革本に何やら書き込みだした。
クローディアは焦った。このままではケーキとお菓子の人になってしまう。せめて、ケーキとお菓子は同じ意味だったと訂正しておこうかと迷うが、迷っている間もなく本はぱたりと閉じられてしまった。
「そろそろ倉庫に着きますね。では、わたしもわたしの持ち場に着かないと」
ジルベルタ・モアは少しだけ距離を取ると、軽くお辞儀をしてみせる。
それから駆け足になって廊下をいくが、やけに親し気な様子で手を振ってくれた。
呼び止めそこなった手を、クローディアはゆっくりと下ろしながらローナの方を見ると、彼女もこちらを見つめていた。
目が合うと、ローナは深々と頭を下げる。
「…黙っていて、申し訳ありませんでした」
「…………」
何について謝っているのか、これはすぐに分かった。
少し悲しげなローナに、クローディアは首を小さく横に振る。
「…私は、大丈夫。ありがとう」
女主人を気遣ってくれた侍女を精一杯ねぎらえば、ローナもわずかに笑みを含んでくれる。そのまま会釈を返すと、再びクローディアを案内するために歩き出した。
先を行くローナの背中に、ジルベルタ・モアの言葉がよみがえる。
彼女は意外だと言っていた。答えに窮したり、もっと取り乱すものだとも。
クローディアとて旧家の育ちである。何も思わなかったわけではない。けれど、彼女の話を聞いて脳裏をよぎったのは、おそらく思い出せる中で一番古い記憶だ。
だからだろう。答えに窮したり、取り乱したりしなかったのは。
あの時に思ったことを、はっきりとした言葉で言い表すことは難しい。
でも、似たような感情が湧き上がるたび、結局同じところに行きつくのだ。
人間の方が大事だと。




