53 触れ合い方のさじ加減
「そんなにそわつかなくとも、もう間もなくいらっしゃいます」
「…………」
オーウェンなりの冗談だったのだろう。
小一時間前とまったく同じセリフに、セドリックはただ視線をやっただけだった。
場所は、以前と同じ居間で、二人掛けのソファーにセドリックが座り、背後にはオーウェンが控えて、ローレンスは彼らを眺めていたが、視界の端にはクローディアを捉えている。
彼女は今、ローナによって女主人の衣装部屋へと連れられて、とある準備を施されており、その間、男子陣は待機状態となっていた。
「——それで、奥様から何と打ち明けられました?」
さらなる冗談のつもりなのか、聞かれた相手は今度は振り向きもしない。
「……お前たちは、知ってたんだろが」
「ええ。知ってました。けど、キャビネットの中でのことは与かり知りませんから」
そこに切り込むのかと、半ば感心しながらローレンスも耳を傾ける。
けれど、返事はなかった。どうやら黙秘を決め込むつもりらしく、部屋には沈黙ばかりが落ちていき、会話が続けられる気配はないようだった
ローレンスは女主人の様子に意識を移そうとして、オーウェンに呼び止められる。
『もう少し踏み込んでもいいですかね?』と、こっそりお伺いを立てて来たので、ローレンスはやや考えてから『自分で判断』と簡潔に返した。
そして、自分で判断したらしいオーウェンは、一方的に話を続け出す。
「そんなに、おかしな話ですかね。私の知る限り、愛する人に触りたくなるのは人としてごく自然な欲求かと存じますが」
彼がその手の話題に弱いと知っていてわざと振っているのだろう。
セドリックは背後を振り向かず、あくまでも無関心を装っていたが、部屋中に視界がある私僕相手ではあまり意味はなく、豊かな感情が顔に出ていた。
「ローナが聞いたところによれば、子供のころはよくお願いされたそうじゃないですか。触りたいといえば触らせてあげたり、抱っことかも普通にしてたとか」
筒抜けすぎる情報に、セドリックの感情がさらに豊かさを見せていく。
「ようは、その時と同じおねだりでしょ。減るもんじゃあるまいし、体のひとつやふたつ差し出しても」
「あれはっ——」
ついに後ろのオーウェンを振り返った。
「あれは、クローディアの癖みたいなものだ。子供のころからの。でも、もう子供じゃないだろ。だから——」
一息に言って、急に勢いがそがれていく。
「だから……」
「…だからって、拒んだりしませんよね?」
また口をつぐんだ。
オーウェンから顔を背けるように前へと向き直ると、ソファに寝転び出す。
さすがにここまでかとローレンスが思えば、同調するようにオーウェンも言及を止めたが、少しするとソファの方からぼそりと何か言うのが聞こえてきた。
「…なんです?」
しっかり聞き取っていたが、オーウェンはあえて聞き直したようだった。
「――――……ごめんなさいって言われた。変なことして」
「…キャビネットの中で?」
分かり切った問いに答えはない。
彼女も分かっていたのだろう。セドリックに打ち明けるより先に、ローナに話すことを選んだのは、大人としての自制心が少なからずはたらいていたせいだ。
「……それで、なんと返したんですか?」
「…変じゃない」
どこか不貞腐れたように言うが、その言葉がローレンスはただただ嬉しかった。
我が家の大切な男主人が、同じく大切な女主人に、大切な言葉を返せたこともそうだが、キャビネットの中でされた二人だけの秘め事を、一端だけでも私僕たちに話してくれたことがまた嬉しかった。
「なら良かった。じゃあ、あとは本当にセドリック様しだいですね。頑張ってください」
聞きようによってはかなり軽薄な言い方に、応援された当人はソファに沈んだまま帰ってこない。
そのまま時が経ち、やがてローレンスとオーウェンはほぼ同時に扉の方を見る。
「いらっしゃいました」
オーウェンは言いながらソファの前方に回ると、上体を起こしていたセドリックの身だしなみを素早く整えていく。
前髪のほつれを戻し終えて、またソファの背後に回ると、見計らったかのように扉がノックされた。
扉が開かれて、まずローナが姿を見せると、セドリックはクローディアの姿を探すように立ち上がっていたが、彼の位置から彼女は見えないようだった。
ローナが横に退き、加減を調整したというクローディアを、セドリックへとお披露目する。
「…………」
彼は絶句に近い表情で彼女を凝視した。いつもよりも目線を低くして。
現れたクローディアは、いつもより身長をいちじるしく低くしていた。およそ八歳のクローディアがちょこんと立っているのである。
前に見たときは、やや薄い亜麻色の髪を三つ編みにしていたが、今は凝った編み込みのハーフアップに結わわれ、エプロンドレスだった衣服は、サテンのリボンベルトとハイウエストのワンピースに着替えられている。
ローナが、この日を見込んで針子女中に用意させていた衣装であり、以前のエプロンドレスよりずっと落ち着いた雰囲気のある仕上がりだった。
見た目こそ幼い少女は、ローナに促されてセドリックの元へ歩き出す。
短い歩幅で近づいてくる小さなクローディアを、セドリックはしっかりと見つめ続け、胸よりもずっと低い位置から見上げてくるヘーゼルの目を、物怖じせず見下ろしていた。
しげしげと様子をうかがい、手を伸ばして彼女の頭の上にぽすりと置く。
考えあぐねるといった面持ちで軽く頭を撫ではじめ、ひととおり自問のような間を空けたあと、ようやく口を開いた。
「……これくらいなら、まあ」
口調は柔らかく、むしろ懐かしさすら込めた響きがあった。
「良かった。納得いただけて。ここから少しずつ年齢を上げ、加減を見ながら色々と試していきましょう。順調にいけば、八歳から十八歳までの色んなクローディア様とお会いできますから、ローナとしても楽しみです」
その発想はなかったのか、セドリックはちょっと驚いた顔して、改めてクローディアに目をやる。
彼女は彼女で彼を見上げながら、反応を確かめるようにそろりそろりと距離を詰めていくと、腹部あたりに手を添えて、見上げたままぴとり頬を引っ付けた。
「…………えっと…」
どこか恐る恐るといったクローディアの行動に、セドリックはどう対処すべきか困ってしまったようで、助けを求めるようにローナを見た。
「そうですね。ひとまず、動作確認を再開されてはいかがでしょう。ただし、今度は正しい手順で」
「…正しい?」
ローナは答える代わりに、いまいち意図が掴めていないセドリックとクローディアに二人掛けのソファを勧めた。
先ほどよりは近い距離で着席させると、ローナはまずセドリックが触れて少し乱してしまったクローディアの髪をさりげなく直しながら、クローディアの後ろ首を露出させる。
それからテーブルの上に広げられた、花降るようなダイヤモンドの首飾りをケースごと手に取ると、そのままセドリックに差し出すので彼はいぶかしげにローナを見た。
「これが正しい手順です。女主人の侍女として、このように自らの役目を放棄するような振る舞いはあまり褒められたものではありませんが、それも時と場合によります」
「……つまり、俺にやれと?」
「はい。これらの品々は旦那様が奥様のためにこしらえたもの。言わば手作りの贈り物です。もとより貴方以上にふさわしい御方はおりません」
それにはクローディアが反応した。ケースの首飾りとセドリックの顔を何度か見比べて、行き来させる目にきらめきを宿していく。
「お願いします」
言うなり、彼女は後ろを振り向いて自らの首を差し出してみせた。
勝手に贈り物という付加価値を付けられたセドリックは、助けを求めた手前、複雑そうな顔をしながらも、すっかりその気にさせられてしまったクローディアを待たせることも出来ず、差し出された首飾りを受け取らざるを得ないようだった。
首飾りの仕組みは、魔力回路を通した時にある程度理解しているだろう。
ただ、ローレンスが不思議だったのは、首飾りを着けるというのに、クローディアの髪をわざわざ下ろしてきたことだったが、理由はすぐにわかった。
慣れない手つきで首飾りを留めようとするので、意図せずクローディアの首をくすぐってしまい、彼女は何度も肩をすくめてしまう。
その度にうなじに髪がかかってやり直しになるが、すぐにクローディアが自分の髪を持ち上げてフォローするので、二人で作業する過程が自然に生み出されていた。
女主人の侍女ならば絶対に避けるべき失態だが、ちょっとしたアクシデントを許容して、両主人のきっかけにするなど、ローレンスには考えも及ばなかっただろう。
それでもやっぱりもたついて、首をくすぐってしまうたびクローディアは小さく笑い、どうしても動いてしまう肩をセドリックも笑い声まじりに諫めたりと、二人の空気は時が経つにつれて楽し気になっていき、ローレンスもつられて笑みを含んでしまう。
触れ合いというのは、触れる面が大きければ良いというものでもないはずだ。
互いの気持ちが兼ね合えば、手のひらや指先だけでも事足りるはずで、とりわけ、着替えや身繕いというのは、より身近な相手のみに許される行為なのだから、触れているのは指先ばかりではないだろう。
なごやかな時間とたゆまぬ健闘を重ねた末、花ダイヤの首飾りはどうにか装着された。
セドリックは一息つきながら、その出来栄えに素直な感想を述べる。
「…さすがに、ちょっと不格好だな」
大人向けの、それも宴席用の華やかな首飾りを小さな女の子が着けているちぐはぐさ故だろうが、男主人の言葉を聞き咎めたらしいローナが口を添えた。
「ご要望でしたら、十八歳の奥様にもご登場いただけますが?」
「……このままでいい」
「では、そちらのお披露目は、当日までに取っておきましょう」
気を取り直して、首飾りの動作確認のため、実際にクローディアが使用する段階に移る。
セドリックが自ら手を出して、クローディアに触れようとすると、連なる花ダイヤが反応して、近づいてきた指をはるか手前で弾き、弾かれた空間はダイヤによく似た花を咲かせて割れていく。
ぱらぱらと散る様はもろく儚いが、加わる力が強ければ強いほど、弾く力も強くなって相手に返っていく代物でもある。
そのはずだったが、制作者本人は何かが気に入らなかったらしく、同様の確認作業をもう何度か繰り返すと、自分から手直しを決めてしまった。
次の装身具を取り出して、小さなクローディアにはぶかぶかの指輪を着けていくが、それにも気に入らない部分があったらしく手直しが入る。それから、ブレスレットと続けて確かめていくが、結局すべてにリテイクが出されてしまった。
明日までに直しておくと、難しい顔をして言うセドリックは、完全に自作の魔法道具たちに気を取られていたが、明日も動作確認の場が設けられると知ったクローディアは、それはそれで嬉しそうだったので、ひとまず良しとなる。
お開きの時間にも丁度良く、解散の流れに話は進んで、就寝の挨拶を交わす二人を見届けると、ローレンスは張り詰めた意識をいったん解いて、安堵する。
キャビネットの再利用という不測の事態はあったが、おおむねローナの筋書き通りに事は運んだ。
あの時は、いろいろな意味で緊張してしまったが、結果として女主人の悩みを男主人は聞くことができたし、家令以下の私僕たちも、突発的状況に動揺はしつつも命令系統に混乱はなく、それぞれの業務を支障なく無難に継続できた。
主人たちの密会に乗じて、いい予行練習になったと言うのははばかられるが、かといって、訓練もないまま決行日を迎えるには小さくない懸念があったのも事実である。
寝室にて、ほぼ同時に寝支度をはじめていた侍女と従者が、主人から正反対の対応を受けるのを横目にしながら、あとの家内は彼女たちに任せて、ローレンスも家外の業務に戻ることにした。
ただし、今回の件で発生した、早急に対処すべき問題はしっかり心に留めておく。
もっと安全なキャビネットを用意するべきか。近いうちに当事者たちの意見を踏まえた検討会を開くべきだろう。
次の日から、装身具の動作確認という名目で、家庭内親睦会がはじまった。
二回目は、セドリックの要望で昼からの開催になったため、ローレンスも時間に合わせて意識を居間へ向ける。
昨夜の延長で、遅くまで夜更かしていた彼は朝食と昼食の席には顔を出せず、今日はじめて会うクローディアはすでに小さな姿だった。
部屋に入るなり、彼女はさっそくセドリックのもとへ向かうが、待ち受けていた彼もまたさっそく動作確認に取り掛かる。
向かい合って作業するには、ソファの上では手狭なため、あらかじめ用意されていた毛足の長いラグに二人とも腰を下ろして、昨日と同じ首飾りから着けるため、クローディアはセドリックの膝の間に収まった。
装着にはまだ手間取ったが、触れるものを弾く花ダイヤの守りは、前のものより大きな花を咲かせるようになり、そこそこ満足のいく出来になったようだった。
首飾りを外して微調整を入れている間、クローディアはちゃっかり距離を詰めて胸元に寄りかかるがセドリックは無反応だった。時折、彼女から話しかけるが首飾りに夢中の彼は生返事をするばかりで、けれど、クローディアに気にした様子はまったくない。
むしろ慣れのような気安さがあって、やけに自然体な二人を見守る私僕たちの方が拍子抜けしてしまう。
実は、今日の女主人は、昨日より一歳年齢を重ねた九歳で、ふたつに束ねた髪はゆるく巻かれ、衣装もボレロのワンピースと明らかに違うのだが、男主人は気づかず、特に誰も指摘しないまま時間は流れた。
小さな手を背後から掬い取って、幼子には大きすぎるブレスレットがはめられる。
すっかり背もたれになっているセドリックに、されるがままくつろぐクローディアは、ブレスレットの細工が、大ぶりのニードルに変化するのを眺めていたが、ベースの形状に縛られるはずの導体構成図が、どうやって形状変化の魔法現象を可能にするのか、とりとめのない疑問をぽつりと口にする。
それが何かのスイッチだったらしい。
セドリックは、クローディアの着眼点を手放しで褒めると、嬉々として説明しだし、途中から平易な言葉に直してまで、とうとうと述べ立てるが、どこをどう辿ってそうなったのか、セドリックはクローディアに装身具の自作まで提案しだした。
安全面から許容できないと割って入るローナを、一定の基準を満たしていない場合は採用しないという条件と、思いがけずクローディア自身がやる気を見せたことで押し切ると、使えそうな装身具を適当に見繕って来させる。
ローナが取りに行っている間、ブレスレットのチェックを進めていき、終わるころには戻ってきたローナから、ブローチ、チョーカー、アームレットと今回は使用予定のなかった品が渡された。
最も形が安定しているブローチに決め、明日までに身を守れる魔法道具を作ってくることを課題として出されると、その日は解散となる。
その後は、未完成だった残りの三割の宝飾品をセドリックはその日一日で終わらせて、クローディアもまた、ローナのアドバイスを受けながら、出された課題を悪戦苦闘しつつもどうにか終わらせた。
翌日、クローディアはブローチを提出し、セドリックが品を定める。
彼女が作ってきたものは、光を集積して目くらましに使う反射鏡だった。
だったのだが、どう贔屓目に見ても、ぴこぴこ点滅するおもちゃでしかなく、セドリックからは容赦ない駄目だしを入れられてしまう。彼の物言いにローレンスはハラハラしてしまうが、どうやらその辺りにも慣れがあるらしく、彼女は平然と聞き入れていた。
それからは、ぴこぴこブローチの手直しがはじまった。
予定では、五日前からリハーサルの段取りを組んでいたため、それらと並行して手直しは行われ、昼夜を通して二人が仲良く過ごす姿はたいへん喜ばしいが、言うまでもなく、一日ごとにクローディアの年齢は上がっている。
果たしていつ気づくのかと、私僕たちの間でもっぱらの話題になっていたが、十一歳になっても気づかれず、先に改良版ぴこぴこブローチの方が完成してしまった。
三日かけての改良で、閃光と呼べる光を放つようになったのと、クローディアの腕前が今どの時点にあるのか、だいたい把握したことで気が済んだのか、セドリックはブローチの出来にとても満足していたようだが、念のため、という理由で彼女の魔法道具は実践には採用されなかった。
決行日が押し迫った次の日からは、広さのある玄関ホールに場所を移して、リハーサルに本腰が入れられるが、クローディアが十二歳になると、さすがに気づいたようだった。
言葉もなくじっと見つめてくるセドリックに、「気づいた?」と嬉しそうにクローディアが言うので、彼は仕返しとばかりに頭をぐしゃぐしゃにして彼女を余計に喜ばせた。
どうせならと、午後はいっきに十四歳まで年齢を引き上げることになる。
どのみち、十二歳では着慣れる練習に難しい部分があるため、十四歳以上のクローディアには遅かれ早かれご登場願う必要があった。
ハーフツインの髪型に、ブラウスとビスチェにサーキュラーのロングスカートを着たクローディアが、軽快な足取りでセドリックのもとへ向かうと、彼は明らかに態度を変えた。
駆け寄りざま抱きつかれると思ったらしく、半歩退いてしまうほど身構えていたが、彼女はただ手前に立っただけだった。
十四歳くらいがボーダーラインだなと、男主人の女性認識をローレンスが判断している合間にも、リハーサルははじまった。
まず、クローディアがローナからドレスの裾さばきを学びながら、侍女と呼吸を合わて美しく歩く練習をしていき、その間、セドリックは彼女たちが向かうゴール地点として立ちながら、オーウェンから別のレクチャーを受けている。
しかし、彼はずっと気もそぞろのようで、落ち着かない視線が右に左に流れていた。どうやら、もう決して見るはずのなかった年齢の彼女に、どうしても意識が向いてしまうらしい。
一時間ほどの練習ののち休憩に入ったが、入るなり距離を詰めてくるクローディアをセドリックはあからさまに避けてしまうので、彼女は、十四歳の自分の姿を見下ろして考える素振りを見せた。
それから、再びキャビネットに連れていかれた。
以前のように暴れるようなことはなく、出てくる時間もずっと早かったが、開扉を待ちわびていた私僕たちに対して、二人の反応はやけに淡泊だった。
小さな話し合いがあったのは確実だが、何を話したかは教えてくれず、意味あり気に目配せするばかりで、ついには聞くなと言いたげに玄関ホールへと戻ってしまう。
それからは、不必要に互いを意識することはなくなり、リハーサルもスムーズに執り行われた。ばかりか、日常会話もさり気なく交わしたりと、驚くほど普通といえる一日が過ごされた。
式典前日となる翌日は、クローディアの望みで十八歳の、つまり本来の姿でリハーサルに参加するが、セドリックはさほど動揺した様子は見せず、最終的な打合せはつつがなく行われる。危なっかしい部分もややあったが、おおむね進行通りに終えられた。
二人の落ち着き払った振る舞いに、キャビネットの中で交わされた内容が大いに気になるところだが、主人たちに話すつもりがないなら聞き出すことは出来ず、二人だけの秘密を増やしていく夫婦に、喜びと憂いのジレンマを感じながらローレンスたちは式典の朝を迎えた。
東の空が白みはじめる早朝、前邸一階南棟の玄関ホールに両主人の姿はあった。
朝の簡単な身支度は済ませたが、格好はまだ普段着のままである。
盛装姿には、あちらで着替える予定のため、衣装一式が収められたトランクやアクセサリーケース、メイクボックスなどは、昨夜の内に馬車の荷台へと運び込まれている。
出発の準備が整った頃を見計らって、ローレンスは二人の前に姿を現した。
男主人と女主人の御前にお目見えするのは、実に十二日ぶりになる。
軽く一礼をして、挨拶の言葉を口にした。
「おはようございます。ご存じのとおり、本日は、式典開催の日となります」
久しぶりの顔に、二つの視線は好奇のような色をのぞかせていた。
「主催者たるお二人がこの家を出立された時点で、旧リッテンバーグ邸はすべての家内業務を停止し、最低限の防衛機能のみを残した半運休状態へと入ります。気がかりな点や、お忘れ物などなきよう、この場にてご確認ください」
二人は顔を見合わせた。それから、各々の侍女と従者に目線をやって、忘れ物の有無を無言で問う。
首を横に振る二体を確かめると、場を代表してセドリックが答えた。
「ない」
では、とローレンスは口にしながら正面扉を開いていく。
二人と二体が車止めに停まっている一台の馬車へと乗り込むのを見ながら、ローレンスもエントランスまで出ていき、施錠された玄関ポーチの前に立ちながら待った。
「いってらっしゃいませ」
送り出すローレンスの言葉を合図にして馬車は走り出す。
残される一体は、正門から出ていく馬車の後輪が見えなくなるまで、主人たちを見送り続けた。




