50 交渉の手引き
老君との交渉をセドリックから引き継いで、クローディアは最初の一行を読み上げる。
「わたしとも、誓紙の文を交わしてください」
「――…何と書く?」
すると、髪飾りのローナが手引き書の「1-2」を、ささやき声で指定した。
クローディアは、言われた通り一ページ目の二番を読む。
「前書の一の文は、セドリックと同様の仕事を。報酬の二の文は、旧リッテンバーグ邸を。贖罪の三の文には、上記の二つに見合った処罰を願います」
「…面白いな」
一度のやり取りで、どういう手法で立ち向かうのか理解したらしく、老君が小さくもらした。
手引き書を使わず、ローナに耳打ちされた言葉をそっくりそのまま繰り返す方法もあったが、こちらの方が聞き間違えも避けやすいし、確実に老君の興味を引けるからと採用されたものだった。
クローディアは、ローナの指定が無かったので、事前の打合せ通り押し黙る。
「……どうやら、其方はセドリック・ヘインズと同じ仕事をするので、自分に旧家を寄越せと言いたいようだが、おそらく、学会側からは人手では足りていると一蹴されるだけで終わるだろう」
クローディアは文面に目を落とす。だが、ローナからの指定はない。
「それよりも、其方の立場なら、学会の望み通り子供を産むから旧家を寄こせと言ったほうが、よほど建設的な取り引きになるのでは?」
早々に子供の話になることは予想されていた。だから、ローナが次に指定した行は、同ページの「1-4」だった。
「……何よりもまず、セドリックの誓紙を無効にしなければなりません。彼が仕事をまっとうしてしまったら、わたしは自由になっても、彼は囚われたままだからです」
どうしても棒読みになってしまうし、箇条書きで脈絡と合っていない返答もしてしまうが、多少強引になっても押し通す算段になっているため、クローディアは続ける。
「わたしが先にセドリックの仕事を成し遂げた場合は、彼の責任は問わず、ただ白紙に戻すだけで終わらせてほしいのです」
「だから、望みの薄い皮算用をしてどうする。そのうえ旧家と責任の不問では、要求が二つに増えている」
それはそうだとクローディアも思う。
しかし、手早くこちらのペースに持っていくため、わざと話を持っていった。
ローナが「2-1」を指定するので、クローディアは一ページ目を一番後ろに送る。
「……これは正当な要望です。これが、わたしから提示できる最大の譲歩だからです」
「譲歩?」
「はい、どうあってもセド」
「まさか其方は、其方の有蓋の記憶を使って、正導学会を脅そうとしているのかな」
話の途中で遮られしまい、クローディアの口は固まった。
「たとえば、レコードを使用しない代わりに、セドリック・ヘインズを自由にしろとか……いや、今後一切、旧リッテンバーグ邸の人間に手を出さないと約束してくれるなら、学会が恐れている様な事態はこの先起こらない、あたりかな」
クローディアに少なくない動揺が走る。手引き書の「2-5」と「2-6」に書かれている内容がそのまま言い当てられてしまった。
本来なら、こちらからその流れに持っていくはずだったはずで、話の主導権を奪われてしまった焦りに加えて、ローナの指定が入らない。
「其方があれをどう使おうとも勝手だが……だがな、末裔よ。純血と家名の後継よ。其方に与えられた権能を完全なものとするには、先の二つを相続をしなければなれないが、ほうぼうの手続きを其方らはどれほど心得ているのか」
もちろん、どれほども心得ていない。
肝心の有蓋の記憶は、独学でどうにか使えるようになった程度で、真価など分からないことだらけだ。
けれど、そんなことは、さしたる問題ではないとローナは言っていた。
ローナの言葉を信じている。信じて待つクローディアに、彼女は自らの発言を証明するかのように、手引き書の「4-2」に指定が入った。
クローディアは「2」のノンブルが入った紙を、一番後ろに送る。
「――けれど、はか」
「違います」とローナの制止が耳元で飛ぶ。
一瞬、言っている意味が分からなかったが、紙面のノンブルが「5」になっており、紙束をめくる際、一枚多くめくってしまったことに気が付いた。
頭が真っ白になった。耳元でローナが何度も呼びかけてくるが、気が動転するあまり彼女の言葉が途切れ途切れにしか聞き取れない。
「――どうした?」
右手からの老君の声に、クローディアはつられて右を見てしまう。
「…もう終わりかな?」
今度は前方から聞こえてきて、日向にある壁龕の木を見つめるが、突然と手に持っていた手引き書が消え去った。
手のひらから消えた紙束を探して視線をさまよわせれば、隣にいたセドリックの手の中にあるのが見えて、クローディアはようやく自分は失敗したのだと自覚させられる。
見かねた彼が失敗の肩代わりをするのだとばかりに思っていたが、セドリックは手引き書を読み上げるのではなく、ノンブルの番号どおりに順番を入れ替えると、番号「1」が一番上に戻された手引き書をクローディアに差し出してきた。
彼は何も言っていないが、何を言われたのか分かった気がした。
セドリックに言われた通りに手引き書を受け取って、クローディアは再び老君へと向き合う。
「…あの、もう一度、やり直してもいいですか?」
「かまわない。どうせなら“1-1”からはじめ直してくれてもいい」
間を置かずに答えが返る。
どうやら彼は、こんな状況でも楽しんでいる様子だった。
しかし、寛大なる彼の意見は反映されず、ローナから「“4-2”からがよろしかと」と指定が入る。
「…いえ、あの。さっきの途中からです」
「どうぞ」
まったく頓着のない許可を得て、ノンブルが「4」のページをきちんと確かめてからページを後ろに送り、番号「2」の文を読み上げる。
「使い方が分からないというのは、むしろ、あなた方にとっての弱みです。分からないまま使われる方が、よほど恐ろしい結果を招きかねない」
「……痛いところを突かれたな」
ローナが耳打ちし、「4-5」を指定してくる。
「…あなた方は、わたしを止めることはできません。セドリックが仕事をまっとうしてしまえば、わたしは自由だからです。セドリックの自由を奪う代わりに、あなた方はわたしを止める資格を失うのです」
熟考しているのだろうか。老君からの返答が止まった。
ローナからも指定が入らず、出番を待つ紙面の上に廃墟の静寂が重くのしかかる。
「……まあ、こんなところか」
同意か、決裂か、どちらとも取れる答え方だった。
「だが、残念ながら、お粗末だという他ない。まず、旧家をよこせという要求が、脅しでしかないのがいただけない。それも国の根幹を揺るがすほどの恫喝だ」
クローディアは、紙面から顔を上げていた。
「ならば、学会側はセドリック・ヘインズとの約束を反故にしてでも、クローディア・クラインの自由を奪う手段を取らざるを得なくなる。これでは本末転倒だろう。有蓋の記憶を脅迫の道具とした時点で、交渉として成り立っていないのだ。旧家を求めるテーブルで国家を潰してどうする。差し出す対価が釣り合っていない」
「その通りです」
できた、と内心でつぶやいていた。
クローディアは、手引き書通りにたどり着いた。
「天秤が釣り合っていないのです」
続けざま、指定された「5-2」を読み上げる。
「けれど、最初に秤の不均衡に取り合わなかったのはあなた方です。確かに、セドリックは自ら望んで報酬を変更しました。元に戻す理由もないのでしょう。でも、わたしはそれに納得ができない。わたしのために不均衡になってしまったのなら、秤の針はわたしが元に戻すべきです。これはわたしの望みです」
老君は何も答えなかった。
すぐに「5-4」の指定が入る。
「天秤の釣り合う話をしましょう。利益はなくなっても大きな損はしない取り引きです。事を大きくする必要は、はじめからなかったはずです」
クローディアは、棒読みではない心からの願いを込めて言う。
「セドリックへの報酬を、旧リッテンバーグ邸に戻してください」
「――何事かと思えば……」
不意に背後から声が聞こえた。
見知らぬ声に振り返ると、見知らぬ女性が円堂の入口に立っていた。
四十代ほどの女性は円堂の中を一、二歩進むと、クローディアを一瞥して立ち止まる。
「いったい何を――彼女は、貴方にいったい何を言ったのですか」
孕んだ怒気を、どうにか抑え込んだような声だった。
「旧家が欲しいそうだ」
「――――……それで?」
「それだけだね。それだけでもないが」
思わせぶりな言い様に、彼女は一歩引いたような態度で口をつぐむ。
すると、老君は先ほどまでのやり取りを自ら話し始めた。
彼女は、その場に立ったまま四方から聞こえてくる声に耳を傾けている。
クローディアは説明が終わるまでの間、手持無沙汰もあってそわそわしそうになってしまう。名も知らぬ彼女は、きっと老君へ加勢になるだろう。
手汗をにじませながら紙面を見直していると、隣から手が伸びてきた。
セドリックの人差し指が、文面の端っこに書かれている「?」を指さしてくる。それは、会話できない時のために用意していた、アドバイスを求めるための記号だった。
クローディアは、一度セドリックの顔を見上げてから、同じく端っこに書かれている問題なしの「〇」を指さす。
お隣からの訪問指が、「◎」と「※」と「!」をさまよってから「≒」を指した。だからクローディアも応えようとして指を動すが、その前に隣の指が引っ込んでしまう。
どうやら、背後からの鋭い視線に気づいて、距離を取ったようだった。
老君の口上は、ちょうど恫喝に差し掛かったところで、彼女の視線はクローディアにとってもかなり痛い。
それでも、自らを落ち着けるために紙面へと目を落とす。
ノンブルと番号、記号や添削だらけの手引き書は、みんなで作った共同制作物だった。
手始めにセドリックとローナが、老君から何を聞かれるか、どう答えるべきか、どう主導権を握るべきか、あらんかぎりに候補を出し合って、それをローレンスとオーウェンが二体して紙に書き留め、他の私僕たちは文献や資料から百聞回路の記述をあさる作業が続いたが、特にすることがないクローディアは次々と書き上がってくる備忘録をただ黙読していた。
時々読めない文字や意味の分からない単語があったので、別の紙に書き留めていたのを紅茶を新しく代えに来た料理番のカーラが目ざとく見つけて、家女中たちを交えながら読み方や意味を教えてくれ出すと、延々と議論を重ねていたセドリックとローナも気づいた。そこからクローディアが言いやすいよう箇条書きすることや、「〇」「×」で意思疎通する案、やや強引にでも話を誘導する方法をみんなで練った。
理解を少しでも深める作業もかねて、完成文はクローディアが清書したが、それでも、みんなの添削や注意書きが入っている。
セドリックの字とローナの字とローレンスの字、家女中たちが編み出してくれた「〇」「×」の記号がどのページにも書かれてあって、眺めているだけでクローディアは心が温かくなっていくのを感じた。
「アビゲイル、彼女の言っていることは現実的ではないが、実現可能だということ考慮に入れなければならない」
アビゲイルと呼ばれた女性は、顛末を聞き終わると淡々と語りだした。
「……セドリック・ヘインズの報酬を旧家に戻す件、私に異論はありません。他の十人も、だいたい同じ意見でしょう」
クローディアは安堵しつつも続く言葉に身構えるが、アビゲイルはそれ以上何も言わなかった。
これで終わりなのか、セドリックの顔を見たが、彼はアビゲイルの顔を探るように見ている。
「それだけでは済まないだろう」
声は、四方から聞こえてくる老君のものだった。
「アビゲイル、これから其方は相応の対応に出るはずだ。クローディア・ヘインズは、この国の脅威になると自ら仄めかしたのだから」
アビゲイルは、顔色一つ変えずに黙っている。
「だが、ここで敵愾心を露わにして、彼女の不安をあおるのは得策ではないし、彼女たちの目的が旧家だけにあるなら、なおさら事を荒立てるべきではない。だから、内々に手を回して、近辺を警戒するよう采配を取るのだろう」
内実をばらされているのに、やはり彼女は平然とした顔を崩さない。
アビゲイルという女性は、老君の加勢に来たものだとばかり思ったが、そうとは限らないのかもしれないとクローディアは思った。
「それも不毛ではないか。敵に回すより、味方に引き入れるのが学会にとっての最善策ではなかったか」
それにはセドリックが反応した。
何を言わんとしているのか、察したようだった。
「どうだろ、せっかく仕事を手伝うと言っているだから、本当に手伝ってもらうのは」
「待ってください」
「なんだ。先ほど誓紙を交わすと言っていたではないか。それともあれは、ただの方便だったのか?」
「……いえ」
「確かに、セドリック・ヘインズへの要請はこれきりで、以降は関わらない約束だったが、事態はとうにそれを許さないだろう」
「…………」
「ならば、見せればいい。其方たちがこの国のために何をしてきたのか。そして其方たちも彼女を知らねばならない。彼女が何を考え何を語るかを。すべては、その後だ」
セドリックとアビゲイルが視線を交わした。
交わしたのち、二人とも示し合わせたかのようにクローディアを見るので、まるで返答を託されているかのようだった。
老君は、セドリックの仕事を手伝ってはどうかと言っていたと思うが、それにしては妙な言い回しをしていたので、判断しきるには自信がなかった。
女主人の困惑を察したのだろう、ローナの助言が入る。
「クローディア様、老君はセドリック様のお仕事を手伝ってみてはいかがかと仰っておられます」
こくりと頷く。
頷きながら、クローディアは紙面を見つめて、次の指示に従おうとした。
「では、文面からではなく、ご自分のお気持ちをそのままお伝えすれば良いかと」
「……そのまま?」
「はい」
それなら返事は簡単だった。
「――やります。わたしも旧リッテンバーグ邸が欲しいのです」
「素晴らしい」
低く上がった感嘆は、八方からだとそれなりの威力があった。
アビゲイルは渋々ながら「分かりました」と答えて、クローディアへと向き直る。
「ただ、させられる仕事の内容も知らずに即答するのはどうかと思う。私僕らも、まず最初に指摘すべきところだろ」
すると、ローナが「6-2」を指示した。
「――では、セドリックとの誓紙を破棄し、内容の口外を許してください。あなた方が語る内容に嘘や誤魔化しがないよう、彼の協力が必要です」
アビゲイルが今度ははっきりと不満顔を見せるので、老君の小さな笑いを誘った。
「アビゲイル、持ってきてくれるかな」
円堂の入口付近にいた彼女は、言われるまま十ある壁龕のひとつに向けて歩き出す。
空っぽの壁龕には、よく見ると裏に通路があって、彼女は壁龕の奥に入っていく。
少ししてから一巻の巻子本を手に戻ってくると、円堂の中央へと進み出し、そこにいたセドリックとクローディアに場所を空けるよう手振りで催促してきた。
指示に従う二人と入れ替えに、日向と日陰の境目である中心へ収まったアビゲイルは、両膝をついて巻子本を広げだした。
わざわざ位置を移動したのは、老君にもよく見えるようにするためか、モザイク画の上を転がる長い木皮紙には、びっしりと文字が書き込まれている。
するすると慣れた手つきで巻物本を巻き取っていく彼女は、目当ての文に行きついたのか、手を止めるなり木皮紙を乱暴に引き裂いてしまった。
しかし、破かれたはずの木皮紙は、音もたてずにきれいに切り離されている。
「以前と同じく自分たちで処分しろ。この時点で誓紙は無効になるから、彼女に話しても支障はない」
端的に言いながら差し出された木皮紙を、セドリックは受け取った。
横から見ていたクローディアには、装飾された縁取りと彼の直筆の署名だけが垣間見える。
「――これは、何事ですか?」
突然と背後から別の声がした。
振り返れば、五十代ほどでタイとベストを来た知らない男性が円堂入り口に立っている。
セドリックとクローディアを見つけるなり円堂を歩き出し、アビゲイルを見付けるなり口を開いた。
「アビゲイル、説明を」
指名されたアビゲイルは、億劫そうに巻物本を巻きなおしている。
ここに足を踏み入れることができる人物なら、かなり高位の地位に違いなく、セドリックたちが危惧していたとおり、これからどんどん集まってくるのだろう。
集団で囲まれる恐ろしい想像をクローディアがしていると、アビゲイルの代わりに、事態の収拾をはかったのは上からの声だった。
「一度、日を改めようか。どのみち、新しく接ぐための紙と、一の文から三の文を改めた誓紙の作成には時間がかかる。他にも聞きつけてやってきた者たちに、一から繰り返すのも吝かではないが、それで楽しめるのは一部だけだろう」
老君からの意向に、異議を唱える者は誰もいなかった。




