49 廃墟の精霊
クローディアは、思わず天井を見上げていた。
そこはまるで、長方形の大きな温室のようだった。
一番地ルイナ。この国のどこよりも古くから存在し、人の出入りを滅多に許さないだろう場所は、どういうわけか、温室というちぐはぐな見た目をしているのだ。
錬鉄製の骨組みと、ガラス張りの円蓋天窓。
円蓋から延ばされる黒と無色の天井が、放射状に温室全体を囲い込んでいる。
場違いな真新しさに、クローディアは違和感を覚えるはずだった。
感じなければいけない不自然さを感じ切れなかったのは、温室に広がる情景を前にして、頭の中の収拾がしだいに追いつかなくなったから。
見た目は温室のはずなのに、青々とした草木や、色とりどりの花々は一切見あたらず、代わりに、崩れかけた廃屋の群れが視界の限りを埋め尽くしている。
小鳥や昆虫といった生き物の気配もなく、風の音すら聞こえてこない。
室内なのだから聞こえないのは当たり前だとして、あるはずの空気ですら希薄に感じてしまうのは、室内の温度がやけに低いせいなのか。
あたかも廃墟をまるごと額装にして、丁寧にしまい込んだ蒐集品のようで、そこにある何かがずれた美しさに、クローディアの頭はなかなか落ち着かないでいた。
戸惑うクローディアをよそにセドリックがゆっくりと歩み出すので、つられるように従った。
表面はつるつるなのに、やけにでこぼこした石畳を歩きながら廃墟の中へと入って行く。
石畳の両端には、まだ原型をとどめている住居が軒を連ねているものの、剥げた塗装、剝き出しになったレンガがほとんどで、中には壁面が大きく崩れている廃屋もあり、テーブルや椅子、寝台などが視界の端を流れていった。
板戸を失った戸口からは、積まれた編み籠や大小さまざまな素焼きのポット、油差しの置かれた木棚、畳まれた衣類や履物もちらほらと見えて、人がいた痕跡をそこかしこに残している。
しかし、やはり見た目は温室なのに内にも外にも植物らしき姿は見えず、石畳の割れ目や剥き出しの地面にすら雑草ひとつ生えてない。
中央に近づいていくと、次第に彩色や彫刻のはっきりした建物が増えはじめた。
住居にしては間口が広く、薄暗い壁面に描かれた動植物や女性の横顔を見ながらクローディアは先を進み、それからすぐに開けた場所に出る。
広場だった。ところどころ崩壊しているが、矩形の広場全体を囲う列柱からしても、単なる空地ではないだろう。
広場の最も目につく場所には、数本の石柱が横に並ぶ柱廊玄関が建っていた。
「…こっち」
セドリックが進行方向を変えながら促すので、クローディアも同じ方へ足を進めると、彼の目的は柱廊玄関にあるようで、石柱の奥には五段階段とぱっくりと口を開く古びた青銅扉が見える。
精緻な浮き彫りがされた青銅扉の先は、天井が半壊した大きな円堂だった。
ちらちら光る足元がクローディアの目を引いて、床に敷かれた画に視線を滑らせる。
小片を敷き詰めて、巨大な一枚絵を描くモザイク画。
何千何万もの小片は、暗褐色から飴色まで。色も磨きもばらばらな木片で出来ており、中には半透明の欠片もあるようで、それらがちらちらと煌めく床の正体なのだろう。
渦を巻くように糸を編むように描かれるモザイクは、終わりがないのか床からあふれて壁面にまで木片が侵食してしまっている。
これらは踏んでもいいもなのか、確認のためにセドリックの顔を見た。
「いいから…そういうものだから」
言いながら足を踏み出すのでクローディアも従うが、最初の一歩は木片が割れてしまわないか、やはり心配だった。
広々とした円堂は、半壊した天井から漏れる外光のおかげで充分な明るさがある。
ゆるやかに湾曲した壁面には、半円にくぼんだ壁龕が等間隔に十一あって、その内の十は空っぽだったが、ひときわ大きくそびえたつ正面奥の壁龕には祀られるものがあった。
半壊した丸天井から差し込む日光を一身に受け止める、一本の木。
植物が徹底的に廃されたこの温室ような廃墟で、むき出しの地肌に根を張った唯一の木に、クローディアもさずがに察していた。
人伝えでなら何度も聞いていたし、存在だけなら国中の人間が知っている。
実際に目の当たりにするのははじめてで、頭の片隅にあった大木のイメージからはほと遠い、大きさも見た目もごく一般的な木だったが、ただの木ではないことは、背後の壁龕が一目でわからせてくる。
――――壁龕の木。確かローナはそう言っていた。
円堂の中央、モザイク画の中心でセドリックが足を止めた。
クローディアもつられて止まるが、壁龕の木からはかなり遠い位置にあり、ちょうど日向と日陰の境目に立っている。
境目から動かないセドリックに、ここで事がはじまるのかとクローディアも待ってみるがはじまらず、隣の人を見上げれば、彼は人差し指を口の高さにかざして沈黙を促す。
沈黙は苦ではないが、何もせずにとどまっていると、どうしても視線が動いてしまって、淡い光線が降り注ぐ壁龕の木から、半壊した天井に目をやれば、そこはガラスと錬鉄できた円蓋天窓の真下だった。
また、何かが美しくずれている。太陽の光にしては温かみを感じない。
もしかしたら、踏み込んではいけない境界線なのかとぼんやりと考えていた時、誰かが小さく笑う声がして、クローディアは思わず後ろを振り向いていた。
声が背後から聞こえた気がしたが、後ろには誰もおらず、笑い声の主を探して壁龕の木を見上げると、どこか楽しげな声が言う。
「――番いが来た」
今度は、右側から聞こえた気がした。
円堂の四方八方から聞こえてくる姿の見えない声に、クローディアはセドリックを見るが、彼は目線で応えるだけですぐに壁龕の木へと目線を戻す。
だとしたら、この声の主が老君プリンケプスなのだろう。
百聞回廊を抜けて直答を求めにきた、この国でただの一柱、無人の廃墟に住むという――本物の精霊。
「さて、何を話そうか」
大いなる存在の呼びかけは、やけに親し気な物言いをしていた。
セドリックは、あくまでの日陰の中から壁龕の木に向かって話す。
「貴方との誓いを記した、誓紙と報酬の件について」
静寂が返ってきた。
何故なのか、クローディアは視線を感じた。
発言したのはセドリックなのに、姿の見えない眼差しがしげしげと前後左右から眺めまわしている気がして、居心地が悪い。
視線はやがて、女主人の指輪に止まった。
「…心変わりか」
姿のない声がどちらに言ったのか分からなかったが、応えたのはセドリックだった。
「――…その、色々あって…………はい」
「詳しく」
「あ、いや…それは、また後日…………今日は、貴方と交わした誓紙を以前のものに戻してもらいたくてここに居ます。特に二の文の書き直しをお願いしたくて。二の文に書かれた報酬事項を、クローディアの身の保証ではなく、最初に求めた旧リッテンバーグ邸に戻してもらえませんか。いま一度の取り交わしを、どうかこの場で認めください」
思考するような間が開いた。
その間、やはり視線はクローディアに集中している。
「……それは、いささか虫がよすぎるのではないか?」
老君は、誰もが想像していた答を返した。
「そもそも、学会側にどんな利が? クローディア・クラインを自由にする代わりに、セドリック・ヘインズの自由はなくなり、これから先も彼らの手駒になると約束した。ばかりか、旧家がひとつ空き家になるのだから、正導学会は得しかしない」
「……では、誓紙そのものを反故にすると言ったら?」
「誓紙の三の文にある通り、誓いを違えた代償として、セドリック・ヘインズからヘインズ家名を剥奪する。家名を失った其方は、出生や職位、身分のすべてを喪失し、旧リッテンバーグ邸もまた、家名の廃絶という復旧直後にして最大の不名誉をこうむる」
クローディアはどきりとする。
セドリックが受ける罰のことは知らされていたが、旧リッテンバーグ邸は違った。
それではまるで、セドリックの修復が失敗に終わった欠陥品だと言われているようで胸が痛む。
「なら、俺の代わりに、彼女が旧リッテンバーグ邸を求めた場合はどうなりますか?」
「…彼女?」
セドリックから眼差しを向けられて、クローディアは慌てて姿勢を正す。
「旧リッテンバーグ邸をクローディア・ヘインズが求めた場合、その要求に応じてくださいますか?」
「……彼女が?」
確認のためか、老君は再度聞き返した。
「はい、クローディアです。この先は彼女自身が交渉しますので、彼女の話を聞いてください」
老君からの返事が返る前に、クローディアがクロークの下に隠し持っていた紙束をがさごそと取り出したせいか、老君の意識はそちらに奪われているようだった。
「…あの、これを読んでもいいですか?」
「それは?」
「書いてきました。わたしが…貴方と交渉できるようにした言葉を、ここに。紙に書いたことを読み上げてもいいですか?」
また廃墟に静寂がやってくる。
場に見合いすぎる静けさの中、紙束を手に緊張していると、上の方から声が降ってきた。
「……つまり、手引き書か」
こくり、と一度うなずく。少し遅れてから「はい」ときちんと言葉にした。
「…………そのやり方は、はじめてだ」
呆れとも感心とも取れるつぶやきが聞こえてくる。
本当にこんな形を認めてくれるのか心配だったが、手引き書を作るのに協力してくれたみんなの意見は何故か一致していた。
「かまわない。では、話そう」




