46 大事な話はキャビネットの中で
話すべきことは、まだまだたくさんあった。
けれど、夜もかなり更けていて、互いに疲労の色も見えたため、私僕たちのすすめで、いったん休むことになった。
言うまでもないが、各々の寝室、各々のベッドでである。
クローディアとぎこちなさすぎる就寝のあいさつを交わして別れた後、セドリックは、軽い湯浴びをしてからベッドに入る。
なかなか寝付けなかった。寝付けないのはいつものことだが、いつもとは事情とが違う。枕に頭を預けて目を閉じると、さっきまでの出来事が、頭の中をぐるぐると回ってめまぐるしい。
家に帰ると彼女が待っていたこと。ローレンスが封じられたこと。閉じこめられたこと。小箱を投げつけられたこと。礼拝室でつたなく喋ったこと。求められたこと。
肉体的な疲れから気だるさと眠気はあったのだが、体を横たえているとそれも癒えてしまったのか、小一時間ほど悶々としていたら、完全に目が覚めてしまった。
のっそりと、ベッドから身を起こす。
「…眠れませんか?」
ローレンスが暗闇の中にいた。
「…眠れると思うか?」
苦笑を返しながら、彼はベッド脇にあるサイドテーブルのオイルランプに火を灯す。
「……クローディア様の方も、同様のようです」
彼女の名前が出てきて、ますます頭が冴てくる。
それも同じ理由で眠れないのだろう事が察せられて、妙に照れくさい。
セドリックは、揺れるランプの明かりを見つめ、しばらくしてから言った。
「……彼女と、話できるか?」
「え…」
ローレンスは、セドリックが思っていた以上の驚きを返した。
「話というと、ローナを介して?」
「…いや、直接」
「え…、でも、それは、ちょっと…早」
「話ができるか聞いてるんだ。話だけ」
「――あ、はい。そうですよね」
状況的にありえない早とちりをされ、セドリックはむしろ心配になった。
「……ちょっと調子悪かったりするか? 隔離されてたろ、お前」
「…………いえ。おそらく、私も少々取り乱しているのかと」
そう告げるローレンスは、どこか苦笑気味にしていた。
前邸二階西棟はクローディアの居住階であり、通称女主人の廊下には、すでに明かりがついていた。
ローナを介した許可を得て、セドリックはローレンスを連れながら女主人の廊下に入ると、廊下の中ほどにローナを従えたクローディアがすでに待っていた。
厚手のナイトガウンをしっかり体に巻きつけて、こちらを見つめながら立っている。
再びぎこちない挨拶を二人で交わした後、セドリックは後ろのローレンスを見向いた。
「二人にしてくれ」
言えば、ローレンスのみならずローナもお辞儀を返しながら速やかに消えていく。
しかし、厳密には二人きりにはなっていない。二体とも確実にそばにいて、両主人を見守っているし、会話もがっつり聞いているだろう。
セドリックは、女主人の廊下を一望してだいたいの見当をつけると、とある扉の前に立ち、クローディアを手招きする。
手招きに従いながらも彼女は不思議そうにしていた。自分でも謎行動だと思うが、どうしても探し出したいのだ。私僕らの死角を。
鍵のかかっていない扉を開けると、そこは女主人の来客用の客間である。
ご丁寧にも、扉を開けるなり部屋の照明がつけられた。
主寝室ほどではないが、広い室内には上品な調度品に磨き込まれた木卓やソファ。優美な彫り込みのキャビネット。鏡台には新品の化粧道具が備えられ、天蓋付きのベッドには豪華な寝具が横たわっている。
セドリックは部屋を横切って、ひと続きになった扉のない物置部屋に行き、手狭な空間の一番奥にあった大きなキャビネットを目指した。
質素なつくりだが、人間二人なら余裕で収納できそうなキャビネットの扉を開けて、中が空であることを確かめると、後ろを振り向いてもう一度クローディアを手招きする。
促されるまま彼女はキャビネットの中に入り、セドリック自身もキャビネットへと納まると、ぱたりと扉を閉めた。
これで、どうにかしのげるだろう。回路の繋がっていない家具の中なら、私僕たちは感知できないし、漏れる音も小声で話せばほとんど聞こえないはずだ。
「…どうしたの?」
狭く暗いキャビネットの中でクローディアが小さく聞いてくる。体温が近い。
だが、顔が見えないのはかえって好都合である。
「……うん。話しておきたくて。テレサ・ランヘルのこと」
ぎくりと、クローディアが身構えたことが気配で分かった。
「たぶん…ていうか絶対、色々なとこから彼女との噂を聞いてたと思うけど、あれは全部違うから」
彼女は、何か言いたそうに身じろぎするが、言葉が見つからないのかすぐに大人しくなって静かになる。
事の真相は、仮植の部屋でクローディアの兄が暴露していたが、離れた場所にいた彼女にどれだけ聞き取れたか分からないし、聞き取れていたとしてもクローディアのことである。きちんと訂正しておきたかった。
「あの女とは、確かに同期で、職場でも同僚として働いてるけど、プライベートな関係はいっさい無い。出会ってからこれまで、どうしてなのか偶然と偶然が重なって、一緒に行動する機会が多くて……けど、ずっとそりが合わなくて、顔を合わせても口喧嘩しかしてない」
「…………」
「それに、テレサ・ランヘルに限らず……ないから………誰とも。そういうこと」
後半はかなり囁き声になってしまったが、この近さなら聞こえているだろう。
「…いちおう、言っておきたくて」
「……うん」
たった一言、とても小さな肯定だったが、込められている意味は間違いなく信用である。
セドリックは、本当に顔が見えなくてよかったと、上がる体温を自覚しながら思う。
これでセドリックの話は終わった。となると次は、クローディアの話である。
ノエル・ハイマンについて聞きたい。
どう切り出したものか言い淀んでいると、誰かがセドリックの腕に触れた。
誰かなど、一人しかいない。
「…………なに」
「…うん」
うん、と答えはしたが、彼女もまた言いにくそうに、口ごもっている。
「…あのね」
言いながら、彼女は捕らえた腕にもう片方の手を絡ませ、身を寄せようとするので、セドリックの強張る体が思わず壁を蹴ってしまう。がたんと大きな音がした。
数秒後、ノック音がクローゼットに響く。
「――無事かどうかだけ」
ローレンスの声だった。
扉は開けず、神妙な声色で聞いてくる。
どうすべきか迷った。「無事だ」と返して、この状況の継続を選ぶか、黙ったままこの状況からの脱出にローレンスを使うか。
寄り添ってくるクローディアの腕を振り払えず、セドリックが動けずにいると、彼女がさらに腕を絡めて、ぎゅっと抱き込んでくるので、また、がたりと狭い箱が鳴ってしまう。
「――だ」
しかし、次の瞬間には掴んでいた腕を離し、彼女はクローゼットの扉を開いていた。
ローレンスの固い顔が出迎える。
彼と傍らにいたローナの身体検査を視線で受けながら、クローディアが先んじてキャビネットを出るので、セドリックも彼女に従った。
物置を出て、互いの私僕から前髪後ろ髪と襟ぐりの身繕いを受けつつ客間の扉まで歩いていくと、クローディアはセドリックを振り返り、何か言いたそうにした。
しかし、考えがまとまらないのか、なかなか言い出さない。
「……なに?」
「……うん。ちょっと……うん。ちゃんと、考えてからにする」
クローディアはやはり何か言いたそうで、セドリックは疑念を覚えるが、その疑念は不信からではなく、いわゆる既視感からだった。
「じゃあ、おやすみなさい」
「…あ、うん。おやすみ」
軽いお辞儀をすると、クローディアはローナを連れて先に客間を出て行った。
残されたセドリックとローレンスは、扉がぱたりと閉まるのを一人と一体で見届ける。
「…すみません。水を差しまして」
「…………」
「お話の方は、ちゃんと最後まで?」
「……まあ」
「すみません。邪魔をいたしまして」
「何度も言うな」
セドリックは、自分から客間の扉をあけて廊下に出る。ローレンスも続いて、前邸二階東棟へと向かうが、途中でこの家の家政全権を掌握する屋敷私僕が問いかけてくる。
「……あの、まさかとは思いますが……これからも二人になられたい時、その度にキャビネットを活用されたりしませんよね?」
「…………」
「されたりしませんよね?」
圧の強い確認をやたら繰り返すローレンスに、やはりどこか調子が悪いんじゃないかと思いたいセドリックは、無言で廊下を進んだ。
戻った寝室で一人休むが、眠りに落ちたのはだいぶ遅くなってから。
それもいつものことだったが、起きた時間はいつも通りではなかった。
正午を完全に過ぎていて、自分で驚くほど深い眠りに落ちていた。
水差しの水をコップにそそぐローレンスから食事はどうするかと聞かれるが、どう考えても昼食には適さない時間帯であり、返事を決めかねていると、奥様はもう済まされましたと、こともなげに報らされる。
クローディアと食事。気まずすぎる光景がよぎった。
まず何を話すべきか。食事の内容か。一日の出来事か。天気の話か。とりとめのない思考ばかりが頭を巡りベッドでうだうだしていれば、いつの間にかローナからローレンスに連絡が入っており、奥様がお会いしたいと仰っている、と再びこともなげに告げられる。
セドリックは、知らず身を起こしていた。
だが、正真正銘の寝起きである。寝間着姿で髪は乱れ、顔すら洗っていない。何の身支度もしてない事実を目の当たりにして、すぐさまベッドから足を下す。
寝室の内扉から隣の浴室に行き、洗面台で顔を洗い、用意されていたタオルをローレンスから受け取って寝室に戻ると、オーウェンが衣装部屋から着替えを持って来ていた。
簡単な着替えは寝室で済ませるため、日常的な差配だが、昨日の出来事を乗り切った後だと奇妙な親近感を少なからず感じてしまう。しかし、今はともかく着替えである。
「――え」
不意にローレンスが漏らした。
襟元に伸ばした手を止めて、セドリックと視線を合わせる。
「…あの、やっぱり、いいそうです。ゆっくりお休みくださいと」
「――は? いや、でも、もう着替えてるし」
旨を伝えるためか、ローレンスは待つようにと指で制止し、虚空を見つめる。
回答はすぐにやってきた。
「……やはり、先ほどの件は無かったことにしてくださいと。クローディア様ご本人が希望されているようです」
「…………」
セドリックは、呆然とローレンスの顔を見た。
主人の意向を目でうかがってくる二体の私僕にセドリックは何も言わず、言わせず、踵を返して一歩二歩と部屋を歩いて行くと、倒れるようにベッドへ沈んだ。
ベッドの住人へと舞い戻ったセドリックは、本当に眠り込んでしまう。
さらに数時間眠りこけて、おかげで夕食の時間までをも逃した。
眠りすぎたせいなのか、ぼーっとする頭で窓の外に目をやれば、日はとっくに沈んで暗くなっている。
起きる前から明かりがついていた寝室に、指示なくパンとスープと果物の軽食が運ばれてきたので、セドリックは義務的に口へ運んだ。
もう一度顔を洗い、今度こそ着替えを済ませた頃には、ようやく頭も冴えてくる。
これから向かうのは、前邸一階西棟にある図書室だった。居間や談話室も候補にあったが、資料や筆記類が揃っている点で図書室が作戦会議室として選ばれた。
安直なネーミングはどうかと思うが、ともかく、旧リッテンバーグ邸を手に入れるための作戦会議はそこではじまる。
部屋の扉は勝手に開き、中に入ると充満する紙とインクの匂い。
図書室は、名の通り皮装丁や紐綴じの本が納められる本棚が行儀よく整列しているが、発行された書籍や送られてきた論文を書き写す書写室を兼ねている。
書写机の大きなテーブルに、いつもなら書写用の木皮紙や羽ペン、インク壺が大量に積まれているが、片付けたのか今は見られず、代わりにティーポットやカップ、糖衣フルーツやビスケットなどの茶菓子が並べられ、席に着く一人の女性に供されていた。
こちらを振り向くクローディアに、セドリックは「おはよう」か「こんばんは」か「元気?」かで悩み、結局、手を軽く上げる挨拶で済ませると、彼女も軽く頷く。
側にいたローナに彼女の隣の席をすすめられ、セドリックは大人しく従い着席すると、用意されていた同じ柄のティーカップにお茶が注がれた。




