45 二人のこれからの事
どうしたらいいのか、セドリックは差し迫った難題に直面していた。
クローディアの真意を知ろうともせず、自分の悪感情ばかりを見ていたことを彼女に詫びるため、触れ合う形になったまではいい。
彼女の手が届きやすいよう、頭を下げた先に偶然肩があったことも、まあ、ぎりぎり良しとしよう。
それからどうしたことか、一体全体どんな作用が働いたというのか、勢いあまってクローディアを抱きしめていた。
腕の中で温かな体温が呼吸をし、柔らかな背中が身じろぎを繰り返している。
なおかつ、その様子をローレンスたちが、すぐ側で見ているのだ。
実体化を解くこともせず、静かに待機したままの八体が、温かな眼差しをこちらに向けている。視線を外す気配すらない。
連続する感情の発露で、剥き出しになっていた情動も収まり、羞恥心が勝ちはじめてかなり経ったが、セドリックは、この状況をさりげなく切り替える術を、ほとんど持ち合わせていなかった。
頼みのローレンスは、セドリックから見て後方にいるため、助けを求めようがなく、そうこうしている内に、前方にいたローナと目が合った。
彼女はにこりと微笑むと、クローディアの背にそっと呼びかける。
「クローディア様、そろそろ場所を変えましょうか」
「……もう少し」
そう、ささやく声はセドリックにも聞こえていたが、ローナはわざわざ繰り返した。
「もう少しです」
と、とてもいい笑顔で叛意とエールを示される。
しかし、試練はさらなる形で続いた。
もう少しという時間制限を自ら設けたクローディアは、その制限の中で、今までの穴を取り戻そうとするかのように、手と腕を絡めてくる。
「――さ、触るだけ、だから」
どこにっ――
という、セドリックの言おうにも言えない問いは、当然誰にも聞き届けられず、されるがまま、クローディアと時間は、もう少しだけ長く続いた。
セドリックが解放されたのは、もう少しとは言えない時間が経ったあとだった。
気づくと、ローレンスたちは、主人に背を向けて立っていた。
周囲の目を気にする男主人に気遣ってだろうが、彼らは、顔についている目のみで物事を見ているわけではない。
ことのすべてを見ようと思えば見れていたし、確実に見ていたことだろう。
事実、見ていたとしか言えないタイミングで振り向くと、そのまま何も言わず、少し乱れていた主人たちの衣服や髪を整えにかかった。
セドリックの身繕いは家令が、クローディアの身繕いは侍女が素早く整え、それが終わると、やけに上機嫌なローナが、いの一番に切り出した。
「では、一階の談話室へ参りましょうか」
すぐそばに小書斎はあったが、あそこは現在、小麦粉まみれで使える状態にはないため、前邸一階東棟にある談話室を選んだのだろう。
ぞろぞろと私僕たちを引き連れて、一階談話室へと降りていけば、そこは隣接する応接間と同じく来客用の部屋だったが、応接間ほどかしこまった雰囲気のない場所だった。
四方の壁面は、深い赤で塗装された化粧板で覆われ、部屋の中央には、室内を暖める器具としては滅多に使用されない暖炉が設置されている。
室内装飾に、キャビネットやサイドボードに置かれるのは、水晶の原石や、瓶詰の幌船、鳥の剥製が入ったガラスドームなど。客をもてなす場として奇妙な物が多いが、これも最近の流行にならってのものだろう。
部屋の二か所には、形も材質も違う二つのテーブル席がある。一つはティーテーブルとソファ一式で、一つはラウンドテーブルとひじ掛け椅子の一式。
セドリックとクローディアは、三人掛けのソファに並んで腰かけたが、着席するなり、ティーセットワゴンが料理番カーラの手で運ばれてくる。
どこか晴れがましい顔した彼女や、場に集う私僕たちが、生き生きとしながらお茶やお茶請けを入れ替わり立ち代わり給仕をしていくが、それをクローディアと一緒になって受けるセドリックは、やたら気恥ずかしい思いにさせられた。
それでもカップに注がれた紅茶を飲み、ほどよく体を温めて、どうにか一息つけたころ、セドリックは場を見計らい、クローディアと再び向き合った。
「話さないといけないことが沢山ある。けど、それより先に言わなきゃいけないことがあるから聞いてほしい。――俺たちの問題は、ほとんどが解決していない」
あたかも、これまでのやり取りを白紙に戻したいように聞こえたのだろう、クローディアがすぐさま口を開こうとしたが、セドリックは手で遮った。
「いや、クローディアの考えは分かった。一緒にいたい気持ちは同じくらい俺も……いや、それは後で…いや、うん。……とりあえず聞いてくれ」
話題がずれるのを避けるため、沸いてきた羞恥心ごと頭を切り替える。
「まずは一つ。聞きたいんだよな。この九年間、俺が何をしていたのか。でも、理由があって、話せたとしても、学院にいた五年間しか話せない」
「…どうして?」
「老君と交わした誓紙を破ることになるから。俺はこの四年間ずっと、老君と正導学会から依頼で、ある仕事をしていた。誓紙の前書きには口外禁止が含まれている」
「……精製素子の?」
「違う。詳しくは言えないが、あれは俺が各所で動きやすいように正当性を与えるための建前だった。要するに世間の目を逸らすための方便だな」
「なら…」
どんな仕事をしているのか。そう聞かれても答えられないと言ったばかりであることを思い出してか、クローディアは口をつぐんだ。
「……そして、二つ目の問題は、子供だ」
「マキオン老師との話で分かっていると思うが、あいつらは、有蓋の記憶――家系図の更新のために、クローディアの子供を欲しがっていた。でも、俺は、そんな風にして、子供を持って欲しくなかった」
見つめてくるクローディアの目は、何か言いたげに思えた。
「うん。あの時、俺が言ったことは嘘だった。孤児院で自由に暮らす未来を選んで欲しくて、クローディアが嫌がる――傷つくようなことをわざと言った」
「…知ってる」
「うん」
「…少し嫌だった。……少しだけ、もうちょっと」
「……うん。分かっててやった。…だから……」
その先に続けるべき言葉に迷う。ごめん、と口先ばかりで謝るのは安すぎて、かと言って、どう言えば贖罪にふさわしい言葉になるのかも分からない。
気まずくなったのか、クローディアが、ソファの上で隣り合っていたセドリックの肩をぺすぺすと二度叩いた。叩いて、それだけで終わりだった。
彼女自身、何を言ってもらいたいのか、分からなかったのかもしれなかった。
セドリックは、ほとんど痛くない肩に手をやって、下ろしながら口にする。
「――…子供、今でも欲しい?」
こくりと、即座にうなずくので、続けようとした言葉を別の意味でまた迷った。
「でも、さ……俺たち、こんなにも半人前で、現状ですら自分の面倒を見きれているとは言えないよな」
「…………」
「正直、俺は子供を持つのが怖いよ。俺たち二人だけならいいかもしれないけど、もし、自分たちの不足や……悪癖が、子供に良くない影響を与えたらって思うと、やっぱり怖い。……これが、三つ目の問題」
クローディアの眉が目に見えて、八の字に下がっていく。
前にも似たような状況で、似たような話をした。彼女もそれを覚えているはずだった。
「な? 問題は山積みなのに、ほとんど解決してないだろ」
彼女は神妙な面持ちでうなずいた。
自分の悪癖は言うまでもないが、彼女の子供好きも十分悪癖と呼べるだろう。
おのずと話の接ぎ穂を失っていた二人に、ローレンスが手を挙げた。
「発言をよろしいでしょうか。提案がございます」
「……提案?」
「はい。まず、目下の問題を一度整理いたしましょう。一つめの問題ですが、クローディア様がセドリック様を選んだ時点で、誓紙に書いた報酬が対価としての意味を為さなくなりました」
セドリックは黙って耳を傾けた。
「これは二つ目にも同じことが言えます。正道学会が求めているのは、クローディア様の血であり、言い方は悪いですが、相手は誰でもいいのでしょう。ゆえに、セドリック様との子供であれば、彼らがとやかく言うべくもありません。ならば、ここで一旦、三つ目の問題に意識を向けていただきたいのです」
廊下で待っている間に考えたのか、あらかじめ用意したような話の運び方だった。
ローレンスと傍らにいるローナに目をやれば、驚いている風もない。
他の私僕たちも同様で、どうやら事前に打ち合わせてあったらしい。
「セドリック様が憂慮されている、子供を持つことへの不安です。それが、二つ目の問題にも、少なからず抵抗感を与えているかと存じます」
かなり的を射ていた。二つ目の問題と三つ目の問題は、どうしても反目し合ってしまうため、おかげで話をややこしくもさせている。
「私の提案はここからです。誓紙の前書きが果たされた先にある“報酬”を、以前のものに戻してください。どうか、我々をお使いください」
「…………」
「我々がお手伝いできます。もともとそのためにいるのです。家庭内における万事を請け負うために。とりわけ、子の誕生や養育に関する事柄ならば、長い年月を担保にした見識を代々培ってきております。ただ……」
ローレンスの目が、ほんの少しここではないどこかを見つめた。
「……ただ、屋敷の旧名が表すとおり、家名を失う名折れを我が家も負っております。ばかりか、御前の私僕どもには、前代の所業をお止めできなかった恥ずべき過去があり、内助を申し出る口が軽いのも重々承知しております。ですが、旧家のすべてが家名を失ってはございません。お仕えする私僕の人格に、少しでも懸念があるならば、旧リッテンバーグ邸の家令以下、屋敷私僕の総入れ替えを願います」
「おい…」
セドリックが、唸るような声を出す。
「内助の件はひとまずいい。だが、最後のやつを今さら蒸し返すな。報酬を戻そうが戻さまいが、俺はお前たちを入れ替えるつもりはない」
「お言葉を返すようですが、主家の家名が継げず、廃絶の憂き目にあった場合、そのたびに屋敷私僕を入れ替えるのが通例です」
「それは、以前仕えていた主人と私僕が、どこかで鉢合わせたりすれば差しさわるから、そういう習慣が根付いただけで、必ずしも変更する決まりはない。知ってるだろ」
そして、ローレンスたちが前代の主人を失ったのは、五十年も前だ。
「ですが、今一度、私どもを報酬として迎えていただけるのなら、それを機にご一考なさるべきです。三年前に願い出た時とは、立場も状況も異なりますし、セドリック様以外の方が主人になれば、どのみち消される運命です」
「お前――」
その時、クローディアが行儀よく手を挙げた。
談話室の注目がすべて彼女に集まる。
「…あの、言っていることがわからなくて……」
どうやら話についていけてないらしい彼女に、ローレンスは優しく笑いかけた。
「はい。分かりました。では、もう一度、提案のはじめから……」
クローディアが首を横に振る。
「そうじゃなくて…どうして報酬…の話に、この家が出てくるのか……この家は、セドリックが家を直したご褒美に、老君からいただいたって……」
談話室にいるクローディア以外の全員が、目を丸くした。
この場にいる中で、彼女だけが知らない事実があったことを全員が失念していた。
セドリックは、どう説明したものか、考えながら切り出す。
「あー……つまり、この家は、まだ俺のものじゃないんだ」
「……? でも……」
「確かに、こうして俺は、旧リッテンバーグ邸の家長として、屋敷私僕を従える男主人という地位に身を置いているが、それは、一時的に借り受けた立場に過ぎない」
「……借り受け」
「そう、まだ仮なんだ。俺が仕事を果たして手に入れるはずの報酬は、この家だから」
目をしばたくクローディアに、セドリックは話せる範囲で話をした。
世間では、旧リッテンバーグ邸は、五十年もの間放置され、壊れた精霊たちが徘徊する幽霊屋敷だとされていた。
しかし実際は、臨界現象を起こした旧家という、過去に類を見ない特殊なケースだったため、要研究対象に指定されていたのが真相である。
それを四年前、新人の研究員が、なんの届け出もなく無許可で修復したため、本当ならば、その研究員は処罰を受ける身だった。
そのはずだったが、ある日、老君に呼び出され、仕事の依頼を持ち掛けられた。
仕事を果たす引き換えに、犯した過ちを免責されるうえ、限られた数しかない旧家ひとつを報酬として譲り渡すという破格の条件を提示され、セドリックは二つ返事で引き受けていたのである。
「それじゃあ、セドリックはずっと、この家のためにお仕事をしていたの?」
「ああ」
「四年間ずっと?」
「いや、実際には旧家の修繕に一年はかかっているから、三年くらいになる」
「少しばかり訂正を」
ローレンスがすかさず口をはさんだ。
「ですが、セドリック様への報酬は、現在この家ではありません。正導学会に狙われたクローディア様を自由にするため、旧家を手に入れる権利と引き換えにされました」
セドリックが止める間もなく、ローレンスが暴露してしまう。
クローディアが確認を求めるように、セドリックを見向くが、彼は彼女の視線を正面から受け止めきれず、横を向いて顔を背けた。
ぺすぺすぺす、と先刻より大きな抗議が、セドリックの肩を襲うが、襲われる側はなすすべなく、無防備な肩を揺らされ続ける。
「ですので、報酬をふたたびこの旧リッテンバーグ邸へと戻し、お二方に我々を手に入れていただきたいのです」
「この家を取り戻したい」
ローレンスが重ねて言えば、クローディアがそれに応えて言った。
「この家を取り戻すためには、どうしたらいい?」
「では、誓紙の大元である老君と話をされるのがよろしいかと。今のクローディア様ならば、彼の者と交渉できる材料を充分にお持ちですし」
傍らに控えていたローナが、的確な助言をクローディアに送る。
「……ちょ、ちょっと、待て」
「そうして下さい。そうすれば、貴方を苦しめる仕事も終わらせられます」
ローレンスに耳打ちされ、セドリックは目を見張る。
本当にそうできれば、どれほどいいか。
「私は、老君と話したい。――セドリックは?」
「俺は……」
ローレンスとローナはああ言ったが、どちらも希望的観測に過ぎず、必ず実現できるとは限らないのに、安易に答えてしまっては無責任だろうとどうしても思ってしまう。
せめて、きちんと道筋を建ててからだろうと思うのに、セドリックが自分の気持ちを素直に口にするのに、それほど時間はかからなかった。




