44 終結
小書斎の手前で出現したローレンスに、セドリックは狼狽しつつも速度をゆるめた。
「お前……」
「二度にわたるこの身の失態、挽回する機会をどうかお与えください」
ローレンスの嘆願に、意味が分からないのか彼は眉をひそめるだけだった。
後ろに続いていたオーウェンは、男主人と家令のそれぞれに視線をやって、どちらの意向に従うべきか逡巡を見せたが、背後から迫りつつあったクローディアを視界範囲にとらえる。
「クローディア様が」
オーウェンの忠告に、セドリックは背後を振り返り、今しがた自分の手で絶縁した女が、まっすぐ駆けてくる姿を認めると、怯むように後ずさった。
その背中をローレンスが受け止める。両肩に手をやり、動かないよう押しとどめた。
「何を――」
「ここで貴方を止めるのが、貴方のためだからです」
自らのしもべに足止めされたセドリックは、なすすべなくクローディアを出迎えた。
「――私のこと覚えて」
「お前のそれは、ただの執着だ」
逃げられないと悟った彼は、彼女が言い切る前に遮った。
クローディアの記憶があることは、もはや否定しないのか、間髪入れずにまくしたてる。
「子供の頃にちょっと優しくされたから、ほだされているだけだ。普通に考えてみろ。お前、九年もの間、ほったらかしにされてたんだぞ。それまで何を聞かされてきた。ろくでもない噂ばかりだったんだろ。お前なんか知らないと、二度も言い捨てられたんだろ。だったら、そこで忘れろよ」
言い立てられた量に気圧されたのか、クローディアは「私は…」と言いかけたきり、言葉に詰まってしまう。
ローレンスはその様子に不安を抱いた。彼と彼女では、受け答え能力に差がありすぎる。
そうして言葉に詰まっている間に、セドリックはさらなる応酬を用意しているだろう。
どう反論しようとも、ただちに切り返されてしまう気がした。
「……私は…昔のセドリックが好き」
ぎくり、と押さえていた両肩が震える。
ローレンスもまた目を丸くしていた。
どうしてそうなったのか、理解しがたい彼女の一言は、おそらくセドリックが頭の中で用意していただろう応酬を全て吹き飛ばした。
現に、彼は何も言えずに立ち尽くしている。
「……これだけは、ずっとそうで。今もそうで」
沈黙したまま、セドリックは動けないようだった。
「だから、噂に出てくる知らないセドリックの事を知っても、ぜんぜん知らない人のようで……私の事を知らないって言ってたあなたは、見た目や声が違っても、やっぱり知っている人のようにも思えて……」
たどたどしい言い方ではあったが、彼女の言いたいことが徐々に見えてくる。
「忘れて……忘れようとも思って。私の知っているあなたは、もういないって……でも、学院の百聞回廊の……部屋で、あなたが昔のように助けに来てくれて、それから、兄が嘘をついていたことを知って」
百聞回廊の一画にある『仮植の部屋』での出来事を言っているのだろう。
「でも、そのあと、マキオン老師に会いに行った時、あなたは、あなたが絶対に言わないことを言った。それを言ったら、あなたは言った意味に気づいてて……」
「あれ、は…――違う」
言いながら、セドリックは顔ごと視線をそらした。
「俺があの時、お前に――――たことと、……関係ない」
あの時の状況を語ろうとして、極端に言葉を濁した。
ふたたび口にすることすらためらうほど、まだ尾を引いているのだろう。
「……関係ある」
「関係ない。……だいたい勝手に決めるな。俺が意味に気づいてたって、そんなのお前しだいだろ。思い込みでどうにでも解釈できる」
反論された彼女は、しばらく一点を見つめていたが、徐々に視線を下げていった。
「…………わ、私には、関係あると思うから、関係なくない」
「…ふざけるなよ。なんだそれ。それで通ると思ってるのか」
クローディアは、さらに目を泳がせた。
「……関係あるから、関係なくないので」
「お前な。そのまま堂々とまかり通ろうとするなよ」
「えと。でも……でも、私がそう思うなら、ずっと隠していることになります」
「は? なんでそうなるんだよ。いい加減、その超理論やめろ」
「だって……隠しているのか、隠していないのか。中を知らないとわからない。のに、中身を知ってるのはセドリックだけなのに、教えてくれないから…わたしはずっと隠してると思うしかなくなる、わけで」
「――くっ」
なるほど、とローレンスは思わず感心してしまう。
超理論にも一理あるのだと思っていれば、クローディアのくせにと言いたげに歯噛みしていたセドリックが声を上げた。
「いや、ダメだ。騙されないからな。それじゃあ結局、お前が納得できる話でなきゃいくら言っても――」
負けじと抗弁しようとしたセドリックは、はっと何かに気づいて、口元を押さえる。
見覚えのある光景だった。以前にも、むきになった自分を抑える場面があったが、それがどんな経緯で起こったか、ローレンスははっきりと覚えている。
子供の頃の記憶が影響しているのか。それとも、生来の性分なのか。
ともあれ、クローディアと会話が続けば続くほど、セドリックは不利な状況に追い込まれていくようだった。
彼は、頭の中にあるものを追い払うように首を振る。
「…………お前の知っている奴なんか、もういない」
それでもなお、セドリックはクローディアを拒絶してみせた。
「いないんだよ、どこにも。九年もあったんだ。それだけあれば、人は変わる」
吐き捨てるような口ぶりは、間違いなく自分に対してだろう。
「世間に聞こえてるような醜聞なんてまだマシだ。そんなものより、よほど醜悪な人間になり下がってる。自分のためなら、何でもする人間に。そのくせ自分は悪くないと言いたげに、自分を貶めて見せるんだ」
ローレンスは、内心で身構えた。先ほどとは真逆の意味で見覚えのある姿。
もう何度も経験した、主人のあのサインのようなものを感じ取る。
彼女と長く話していては、ペースに飲まれるだけだと、おそらく察したのだろう。
だから、手っ取り早く話を終わらせるために、彼は切り出すつもりなのだ。
それは、彼が彼女を拒絶しなければならない最大の理由である。
ただ、自らの行いで、患ってしまった悪癖を告白することは、それなりの胆力を必要とするようで、彼は顔をうつむかせ、一人、深く葛藤している。
すると、ローレンスがした予測の埒外で、ある事が起きた。
じっとセドリックの様子を見ていたクローディアが、まごつきながらも動き出していた。
相手の状態をうかがいつつ、二人の距離を詰めていく。
セドリックが距離の近さに気付いた時には、彼女の手が自分に向かって伸ばされる最中だった。
頭を撫でようとする仕草に、驚き――その手を掴んで止めさせた。
「――――お前……これを、一生続けるつもりか」
ローレンスには、意味の分からない指摘だった。
「こうやって、俺が悩んだり、塞ぎ込んだり――何かある度に、ずっと俺の機嫌を取るつもりなのか?」
「――…どうして…? ダメなの?」
「ダメだろ、こんなの。こんなのはいつまでも続けたらダメだ」
しかし、クローディアの反応は、反応とは呼べないほど薄く、どこか意に介していない面持ちだった。
「それだけじゃない、気に入らないことがあれば、憂さ晴らしをするんだ。もし、すぐ隣で、自分を傷つけて苛立ちを沈めているような奴がいたら、一緒になんていられないだろ」
「……ダメなの?」
「――わ、わかってないだろ、お前。そういう手合いのヤツはな、そばにいる人間も巻き込むんだよ。見境なく周囲を振り回して、果ては相手の人間性まで壊していくんだ。そんな奴と一緒にいていいはずがないだろ」
「私は」
「お前が良くても、俺が嫌なんだよ」
聞きたくない答えをあらかじめ口にして、彼女が口にするのを封じてしまった。
クローディアは返答に困ってか、瞬きを二度ほど繰り返すも何も言わず、視線をゆっくりと下げ、つながれた二人の手を見た。
視線に気づいたセドリックは、自分の手を放そうとしたが、クローディアに掴みなおされ、両手で引っぱり返される。
「セドリックの言っていることが分からない」
「…分からないって、だから……」
「壊れている人なら、たくさん知ってる。……きっと、たぶん、セドリックよりもたくさん。わたし、その人たちと、ずっと暮らしてた……」
「……――――、――いや」
「それで人が壊れるなら、わたしはずっと前に壊れてる」
語る彼女の目に、嘘やごまかしがなさ過ぎて、ローレンスはセドリック以上に言葉を失う。
「でも……、けど…………、…………、…………………………」
クローディアは、目に見えて言葉を詰まらせていた。
声が出ないのではなく、言いたいことを言うための言葉が見つからないようだった。
やがて彼女は、使いこなせない言葉を放棄する。
セドリックの手を掴んでいた手を、おもむろに持ち上げて、自らの側頭近くにまで引き上げた。
だが、長さが足りなかったのだろう、クローディアは自分から一歩寄っていって、セドリックの手に頭の横を触れさせる。
両手で彼の手のひらを開き、より触れる形で頭に密着させると、上下に動かした。
ほぼ強要のうえ、動作ももたつくが、どう見てもクローディアは、セドリックに自分の頭を撫でさせている。
頭の形でも教えるように、何度も自分を触らせ、手のひらを勝手に使われる方は、されるがまま抗わない。
どこにも根拠などなかった。それでもローレンスは、彼女が言わんとすることを理解した。人ではないものにすら伝わった。
彼が彼女を拒絶する同じ理由で、彼女は彼を求めている。
ローレンスは、呆然と立ち尽くしている主人を見つめた。
彼女が求めるものに、彼は何を感じたのか。
人の心を完全に汲み取れる日は、屋敷私僕にはおそらく来ない。
ただ、他者からの慰めと、愛撫を求めることが、彼の中で許されて欲しかった。
どうして求めてはいけないのかと、訴える彼女の言葉が、彼に届いて欲しかった。
セドリックが動いた。
残されたもう一方の手が、クローディアに向かって伸ばされていく。
手が触れる直前、ほんの少しだけ指先がためらう。
またたきほどの迷いを永遠に感じながら、やがて、彼は亜麻色の髪を梳くようにして指を差し込んだ。
「――わかった。わかったから……」
セドリックの意思が、愛撫を返す。
「ごめん。俺…忘れてて……俺、こんな…自分のことばっかり……」
顔を上げるクローディアの瞳に涙があふれた。
ぼろぼろと涙はこぼれても、泣き声は泣き方を知らないようで、どこか不揃いな彼女の哀切を、セドリックが慰めるように額を合わせた。
「ごめんな…………ごめん……約束破って、ごめん……」
彼もまた喉を詰まらせていくが、声がもつ限り、同じ言葉を繰り返し続ける。
ローレンスは肩の拘束を外して、静かに二人を見守った。
一人では立っているのも困難なほど、ままならないものを抱えた二人は、寄り添うことを選んでくれた。
支え合うというにはあまりに心許ないが、それでも、我が家の主人はこれから一人と一人ではなくなる。
屋敷私僕としては、待ちに待った瞬間なのだろう。
まさしく本懐ですらある。
けれど、手放しで喜んでもいられないことは、ローレンスにも分かっていた。
分かっていたが、口を挟めるはずもなかった。
涙もまだ冷めやらぬクローディアが、目元をぬぐいながら、ふと思い立ったように手をさらに上へやる。
手の行き先に気づいたらしいセドリックは、やはりわずかな躊躇いを見せたあと、何かを隠すようにして彼女の肩に顔をうずめた。
撫でやすくなった頭を撫でる彼女と、大人しく撫でられている彼を見て、ローレンスも思わず笑みがこぼれてしまう。
いまはまだ、何にも邪魔されたくないと思うのだ。
人と人とがむつみ合う掛けがえのないひとときを、少しでも長く見つめていたかった。




