43 礼拝室
そこは、旧リッテンバーグ邸における、第二の至聖所である。
室内はさほど広くなく、高窓や長椅子などはない八角形をした部屋。
琥珀を溶かして塗り上げた化粧板の八方には、柱頭の木彫りが美しい付け柱が並び、格子天井の張子飾りを支えるようにして立っている。
外と内を線引きし、人と物を聖別する空間だが、それでも身廊の奥で鎮座まします祭壇の異質さとは比較にならないだろう。
一瞥という素通りを許さない、見たものの目を奪う祭壇衝立。
格子天井に届く威容を誇る木彫の衝立は、彫りと磨きの濃淡で三層の光沢を放ち、浮き彫りにされた祭壇画は、人と木を流れる枠でもつれ合わせたグロテスクを象る。
衝立と呼ばれてはいるが、実際は一面の鏡板であり、伝えられている文書には、地下深くで宝石化した木を一枚そのままくり抜いたものだとされていた。
本来ならば、ここには存在しないもの。
ここではない別の部屋にあった鏡板を一面だけ切り離し、幾重もの化粧と張子のまやかしを用いて、ようやく礼拝室に鎮めたものである。
セドリックは、長くない身廊を歩くが、礼拝室は常に気温が低く保たれていた。
祭壇衝立の手前にある、ずっしりとした木台の前で立ち止まれば、天板の上には一冊の装丁本が置かれている。
表紙にヘインズ家の家紋が押された本は、旧リッテンバーグ邸の解体材でつくられた木皮紙の本である。
化粧と張子のまやかしで鏡板を継木したように、画と字の彩飾を模様して木皮紙を継いだ手写本は、家名を失った一族が、それでも家に名を記すために編み出した、この礼拝室の一部とも言える本だった。
セドリックは表紙をめくり、縁定のページを探し出すと、ページにはセドリック・ヘインズとクローディア・クラインの二人の名が直筆で署名されている。
二つの署名を確認するなり、セドリックは縁定のページを破り捨てるが、ページは音もなく本から切り離された。
女主人が礼拝室に駆け込むのと、女主人の指輪に異変が生じたのはほぼ同時だった。
たったいま家長権を有する男主人の手で婚姻契約が破棄され、女主人は配偶によって与えられていた旧家での地位と権限を失った。
破婚による失権を女主人本人が、どれだけ感じ取れたのかは分からない。
だが、これよりクローディア・クラインは旧リッテンバーグ邸からの恭順と庇護が及ばない、客分相当の身分に落とされることになる。
もはや第三者でしかない彼女は、この家でただひとりの主人となった男の背中をただ見つめていた。
声をかけもせずに礼拝室へ踏み入るが、身廊の半分もいかない内にセドリックが後ろを振り返ったため、クローディアは驚いたように足を止めてしまう。
二人は視線を合わせたまま何も言わなかった。
互いの出方を見ているのか、沈黙ばかりが相対していく。
じきに、セドリックから口を開いた。
「……今回の件は、内々で済ませる。ほとぼりが冷めたら、また縁定にページを接ぎ直す。ただし、また同じことをしたら次はない」
「…………」
「いいか、もう一度言う。もし、同じことをしてみろ。その時は、お前がしでかした事の責任を、お前の侍女に負ってもらう。ローナを侍女から罷免して、旧家の屋敷私僕からも彼女の人格を排除する」
「…………」
クローディアは口を開いたが、声は音になっていない。
セドリックは、彼女から一瞬目を逸らした。
しかし、思い直したように続ける。
「言っておくが、もうばれてるんだよ。話し合いとか言っておきながら、ろくに話せないんだろ。だからあんな、だまし討ちみたいな手段を選んで、自分の不利を隠そうとした」
クローディアが、開いていた口を閉じた。
「違うって言うなら、反論してみればいい。その口を使って」
「…………」
「ちょうどいいだろ。ここには誰も入ってこれない。誰にも邪魔されない」
「…………」
「黙ってないで、喋ってみろよ」
しんっ、と室内は静まり返った。
何も言わなければ、肯定するようなものだと彼女も分かっているだろう。
それでもクローディアは、何も答えずにいた。
セドリックはなおも猶予を与える。
いっこうに始まらない会話をただ待っていたが、じきに、自ら会話を締め切った。
クローディアをその場に置いて大きく足を踏み出し、礼拝室の扉を目指す。
木製の取っ手に手をかけようとして、
「……――――てがみ」
か細い声が、静かな部屋に落ちた。
足音にすらかき消されそうな声に、セドリックの手が止まる。
「…………てがみを…書きました」
クローディアが言葉を発していた。
きちんと意味のある語句を並べていたが、しかし、書いたという手紙を所持している様子は見られない。
いったい何を示して言っているのか、脈絡がある語り口とはいえず、話の意図は掴めなかった。
それは、背中を向けて立ち止まっている人間なら、なおのことだろう。
「たくさん書いて……でも、返事はなくて」
背中がわずかに身じろいだ。
何か言い返すのかと思いきや、それだけだった。
意味が分からないと聞き返すこともなく、ぎこちない声がつむぐ言葉を聞き続ける。
「毎日のこと――読んだ本や、わからないことを書いて、……お菓子とか、時計とか、していたことも、書いて」
セドリックが小さく何かを言った。
ほとんど聞き取れなかったが、それは、制止をかける言葉のように聞こえた。
「ずっと書いていて。あなたが何をしているのか、知りたくて」
「――やめろ」
今度ははっきりと制止をかけた。
クローディアは一瞬ひるんだが、どうにか踏みとどまり、話し続ける。
「――し、知りたいのは、今も同じで。でも、知りたいなら、それより先に、私がしていたことを言うべきで」
「やめろ」
クローディアはやめなかった。
「――私は、私がしていたことを言うから、あなたも」
「もういい!」
セドリックが、振り向きざまに叫んだ。
声を荒げ、取り乱した彼の顔にあるのは、戸惑いであり、焦りであり、恐怖すらにじませた、おそらく自分でも把握しれきれない感情の暴発だろう。
そんな姿に、クローディアは驚くどころか、目の覚めるような顔をしていた。
次に続ける言葉は、どこか確信めいていた。
「――――わ、私のこと。本当に、覚えていませんか?」
セドリックの相貌が崩れる。
ぼろぼろと崩れていく自身を隠すように、彼は片手で顔を覆うが、それでは覆いきれないと分かってか、なりふり構わず礼拝室の外へ駆け出していく。
クローディアは、呆然と彼の後ろ姿を見送った。
彼女の問いに、彼は答えたようなものだった。
もはや、間違えようもないくらい明白に。
実感を抱くのに多少の時間は要したが、クローディアは思い出したように足を一歩前に踏み出した。すると、つられて両の足も動き出す。
だいぶ遅れてはしまったが、彼の後を追いかけた。
クローディアから逃げ出したセドリックは、礼拝室から前邸二階東棟へ向かっていた。
途中、オーウェンが男主人と合流したが、礼拝室での出来事を感知できていないオーウェンは、部屋から飛び出してきた男主人に何があったのか確認を取っている。
一方で、クローディアも同様に、彼女と合流したローナが状況を確認するが、二人とも口で説明するほどの余裕がなく、二体ともただ追従するだけを強いられる。
二人の間には、小さくない距離が空いていた。
このままでは、前を走る男主人が、小書斎まで逃げおおせてしまうだろう。
ならば、すべきことは決まっていた。
意識を取り戻したとき、考えるより先にしたことは、男主人と女主人の居場所の特定だった。
身の無事と、身の安全を確かめ、それから己の置かれた状態の掌握に取り掛かれば、いたるところに迂回路が仕掛けてあり、がんじがらめにされていた。
ほかにも家内の様子や、家犬の出動など気がかりな点はあったが、まずは必要な機能を優先的に回復させ、その間、目の前で起きている覚束ないやり取りを見守っていた。
やり取りのすべてを把握できずとも、何が起きているのかははっきりしていた。
迂回路によって阻まれていた実体化を、ようやっと成し終え、邸内に姿を現す準備が整う。
そうして、旧リッテンバーグ邸屋敷私僕の一、家令のローレンスは、男主人セドリック・ヘインズの前に立ちはだかった。




