39 場を支配するもの
「あ。その小麦粉は強力粉ですので、ちゃんと粉を落とす前に、水洗いや濡れ布巾で拭かないでください。かえって髪に張り付きますから」
そう忠告すると、オーウェンは主人の着替えを取りに浴室の扉から出て行く。
セドリックは、家に帰宅してから着たままになっていた魔導士のローブを脱ぎながら、ふと洗面台にある壁掛けの鏡に目を向けた。
鏡面に映っているのは、白い粉をまともに被った愉快な男の姿。
おかげで、愉快とは程遠い気分になる。
爆心地となった小書斎からひとまず避難して、着替えをしようと男主人の浴室へと場所を移したが、この強力粉という細かく挽かれた穀物の粉は、かなりの難敵だった。
はたけばはたくほど自分に返ってくる粉塵と格闘していれば、隣の衣装部屋から帰ってきたオーウェンが何も言わずに手を借して、ようやく小麦粉は払い落とされる。
湯に浸した布巾で顔と頭を拭ってから、シャツとサスペンダーという普段着に着替えるが、髪の隙間に残ったものをオーウェンが目ざとく見つけるので、そこはもう彼に任せて、セドリックはシャツのボタンを留めにかかった。
手を動かしながら、頭の中では別のことを考えていた。
この後どう行動すべきか。
ひとまず、礼拝室へ行きクローディアから女主人の権限を奪う方向に変わりはない。
そうなると、やはり礼拝室へ入るための、マスターキーが必要になる。
現在、そのひとつをクローディアが所持しており、彼女から贈られたカードの指示どおりに後邸二階西棟へ馬鹿正直に行くか、それとも、家女中が中庭に投げ捨てたという二本目のマスターキーを取りに行くか、どちらかふたつの手があった。
ふたつとも取る手段もあるが、そうなると、二か所ともオーウェンを連れて回るか、それぞれ別れて同時に攻めるか、さらにふたつの手ができてくる。
ただし、どれを選ぶにしても、悠長に攻略している時間はないだろう。
セドリックは、シャツのボタンをすべて留め終え、裾をズボンの内側に入れていった。
「……オーウェン、食料とかの仕入れは、出入り業者に頼んであるんだよな?」
不意の質問に、オーウェンは「はい」と簡潔に答えたが、鏡に映る彼の視線は、主人の後頭部とブラシに注がれている。
「それは、毎日のことか?」
「いえ。少し前までは、決まった時間帯に鶏卵や牛乳など生鮮食品を毎朝依頼しておりましたが、今は保存技術の目覚ましい魔法道具を貯蔵室に導入して、三日に一度まとめて配達していただいております」
「……なら、明日の朝は何日目だ?」
「…………三日目です」
すると、何かに気づいたのか、オーウェンが視線を上げたので鏡越しに目が合った。
「明日の朝、定時に業者が着いても、誰も応対に出なければ邸内で何かあったことが明白ですね」
「もしくは、お前が業者を出迎えに表まで出て行って助けを求める手もある」
セドリックは近くのサスペンダーを手に取りながら先を続けた。
「けど、それじゃだめなんだよ。考えてみろ、クローディアは使用を禁じられた有蓋の記憶を使っているんだぞ」
「…………」
押し黙ったオーウェンの考えを待ちながら、セドリックはサスペンダーの三つ又を二度、三度と調べるように持ち替えたが、返事がないので先を続けた。
「下手に助けを求めれば、そのまま事態が発覚しかねない。禁則を破ったクローディアは確実に処分対象だ。……当然、これから礼拝室に行き、配偶者を勝手に縁切りすれば、それも問題になる。ただし、いずれにしても露呈すればの話だが 」
「……ローナも、それは分かっているはずですよね」
「だとは思う。だから、それまでに何かしらの決着をつける算段を講じている……はず、なんだがな」
確信のない言い方で末尾を濁せば、オーウェンは、持っていたブラシを洗面台の上に置いた。
何をするのかと思いきや、サスペンダーをどう付けるべきか手こずっていた主人の助けに入ってくる。
「私としては籠城戦も視野に入れていたのですが。ちなみに、非常時の食料品や医療品は常にたくわえられています。特に食料は、各種の燻製品や加工品、穀類、豆類なども充分に備えておりますから、一年は余裕をもって暮らせますよ」
オーウェンの広すぎる視野に、セドリックの口からは渇いた笑いが出てしまう。
さすがに、そこまで付き合うつもりはない。
「まあ、このまま何もせず、あっちが動くまでただ待っているのも、相手の意表を突くという意味ではありかもな」
「あ、私もそれに賛成です。旦那様の体力面にいささかの不安もありますし」
「……冗談だよ」
「それはすみません」
サスペンダーのややこしい仕組みを、オーウェンはものともせずに装着すると、そそくさと主人の髪の手入れに戻った。
着替えが終わったセドリックは手持ち無沙汰になり、オーウェンの動きを視線で追って止めさせる頃合いをはかっていたが、彼の背後、鏡面に映ったハンガーラックがふと目が留まる。
そこには、白くまぶされた魔道士のローブがかけられていた。
魔導士のローブには専用の回路がとおっており、普段から特殊なメンテナンスが施されているはずだが、強力粉の汚れを落とすとなると、さらなる手間を要するものになるだろう。
セドリックは、止めなければ延々と髪をいじっていそうなオーウェンを見て、それからもう一度ローブに視線を移す。
考えながら口をこぼした。
「あっちがお前の本能を利用してくるなら、こっちもあいつ等の本能を利用してみるか」
オーウェンは、中庭の敷石を踏みしめた。
庭から見上げる空はすでに暗くなっていたが、四方を囲う全館全室の室内灯からもれる光と、庭園を照らすランタンが、中庭の全貌をつぶさに写し出している。
前邸中央に位置する、四角い庭の敷地面積はかなりのものである。
縦横に走る石畳の小道が、中庭を四つの空間に仕切っており、それぞれのコーナーからまた別の景色を楽しめる設計がされているほど。
少し前までは、森林や湖畔の原風景を模した庭園が人気を博していたが、今は種や苗から手を入れて、成長を楽しむ園芸が主流になっており、旧リッテンバーグ邸も例にもれず、花壇や置き鉢が多用された造園が美事に咲き誇っている。
時刻は薄暮れ。全館の光量を絞ればもっと違う、そこかしこで瞬くランタンが、灯光と灯影をゆらゆら写し、一日を眠りにつかせる夜の庭園が姿を現わしていたことだろう。
外へ出ていけない男主人のそばを離れて、オーウェンだけが中庭に降り立った目的はただ一つ。家女中によって、中庭に投げ込まれたマスターキーを手に入れるためだった。
自分以外は誰もいない小道を歩数を数えるようにして進んでいくが、小書斎の明かり窓から見下ろしたマスターキーの落下地点はすでに確認済みであり、目的地へは一分とかかることなくたどり着く。
精緻な細工の施された錬鉄制の鍵は、石畳のほぼ中心に落ちていた。無警戒に放置されている鍵をオーウェンはひと拍ほど見つめたが、やがて緩慢な動作で手に取った。
音もなく、オーウェンの周りを取り囲んだのは、五体の家女中たち。
「……まあ、そうなるわな」
くすくす、と各々が含んだ笑い声をもらしていた。
中庭の立ち入り制限は、正面玄関や私僕居室と同じく、共有エリアとして機能する。
ローナはこの場に居ないことを確認しながら、オーウェンはマスターキーが左手から零れ落ちないようしっかりと握り込んだ。
「どうしたのオーウェン、こんなところで」
場を代表してか、ローズが口火を切った。
「小書斎の片づけとお掃除、手伝うって言ったじゃない。一緒に行きましょう」
いけしゃあしゃとのたまう彼女に、小書斎を侵害された腹立たしさが再燃しかけるが、オーウェンは手元の持ち物に集中して自分を落ち着かせた。
「与太ごとはいい。本当は何が目的だ。セドリック様に何をさせたい」
話題をかわそうとすれば、マーガレットが答えた。
「それなら大丈夫。ローナに任せておけば万事うまくいくから。だから、ね。私たちは小書斎に戻りましょう。ほら、今はあなたの許可がないといけないし」
「実はね、言い忘れてたのだけれど、私たちが仕掛けた小箱は、もう一つあるの。うっかりしててね。それを止めに行かなくちゃ」
リリーのすぐわかる嘘に、それでもぴくりと反応してしまった。
それを気取ったのだろう、アリッサとダリアがさらに付け加えた。
「あ、私は、小書斎から羽ペンとインクを持ち出しちゃった。戻しに行かなくちゃ」
「えーと。じゃあ、私は、机のスタンド動かしたかな」
オーウェンは、手の中にあるものの存在を意識し続ける。
家女中たちとは普段から舌剣を交わす仲ではあったが、それでも越えてはならない一線は、互いに理解しているはずだった。それがいま、完全に逸脱した行為をとられたうえ、挑発を続ける彼女たちに、オーウェンは、男主人の言いつけがなければ、冷静でいられたか自信がない。
しかし、冷静な頭で考えれば簡単ことなのだ。彼女たちとて屋敷私僕である。いくら自分たちの担当区域ではないからといって、平然と家の中を荒らし、汚せるはずもなかった。
ようするに、彼女たちもまた、女主人の言いつけがあるからこそ、そういう振る舞いができるにすぎず、その目的は、マスターキーの運搬妨害にほかならない。
オーウェンが衝動に動かされるまま、一度でも実体化を解いてしまえば、せっかく手に入れた鍵は物理的な拘束を失って、手のひらから抜け落ちてしまう。
いま、オーウェンが何よりも優先すべきことは、実体を保ったままいかにして家女中たちの攻撃をかいくぐり、男主人へマスターキーを届けるかだった。
「――ところで…」
話の腰を折ったのはマーガレットだった。彼女の目線は、ある一点に固定されている。
「さっきからソレを気にしてるけど――右手に丸めて持っているモノは…何?」
オーウェンは答える代わりに、右手に丸めて持っていたモノに視線を落とした。
マスターキーを持った左手とは別に、右手であるモノを大事に抱えていたが、これを中庭まで持ち込むためにひと苦労していた。
男主人と共に女中頭の監視を避けながら、いったん地下の大書斎に下りたあと、それぞれの目的を果たすため二手に別れ、オーウェンは大書斎の天井近くに設けられた、邸内の気流を調整する通気口へと向かった。
当然、通気口の出入口には鉄格子が待ち受けている。
しかし、迂回路による封鎖は通気口には行使されていなかった。
あそこを閉じてしまうと、主人たちが命の危機に晒されるからか、それとも敵を誘い込むためか、とにかくオーウェンは、大きな布でできたソレを通気口に押し込んでから、自身はネズミに姿を変え、布の端を口でくわえながら引きずって運んできた。
中庭に持ち込むためとはいえ、手元のソレにはかなりの無茶を強いてしまい、オーウェンは労わるようにひと撫でする。
それから、ひと息に語りだした。
「これは、草木の染料と古い甲冑の媒染によって黒く染色した羊毛を、綾織製法で編みあげたのち、常闇蔵に十年以上封じた生地をオーダーどおりに縫製したもので、遠矢を防ぐ絹裏地、災禍を祓う銀糸の刺繍、鋳潰した円盾の地金を留め具に利用し、我が国の誇る特殊縫製士がベースを、服専魔導士が魔力回路を埋め込むことで、高度に仕立て上げた魔法現象、とりわけ防御性と隠密性を高く付与した魔導士のローブだ」
ざわざわと、家女中たちに広がっていたざわつきが、大きなどよめきへと変わる。
「ゆえに、日々の手入れにも卓越した技能が要求される代物だが、本日、たいへん痛ましい事故に遭い、まともに被った強力粉の被害に加え、不可抗力による二次被害……埃、泥、擦り傷による全身の損傷が計り知れないことになっている」
押し殺した悲鳴が五つ上がった。
「――そ、その……そのコを…こちらに渡しなさい」
洗濯女中を兼任するマーガレットが震える手を差し出したが、オーウェンは取り合わない。
「まさか……」
「そのコを……?」
リリーとローズが、事の意味に気づいたらしいが、オーウェンはそれに応えない。
「え。ちょっ、待って……ねえ、待って。そのコに罪はないでしょう?」
「謝るから。この間、背中に張り紙ゲームしたの謝るから……」
最後のは初耳だったが、ともかく、立場は一瞬にして逆転していた。
言いつけがあったからこそ、小書斎を挑発の道具にできていたのだから、言いつけにない事が起これば、取り乱すのは自明の理である。
とはいえ、自身も少なくない自己矛盾を負っているオーウェンは、慌てふためく彼女たちを前に喜べるはずもなく、だが、いまは気取られなぬよう、鷹揚な振る舞いで右手のローブを前面に突き出した。
びくりと、家女中たちが反応して一斉に押し黙る。
彼女たちの視線を浴びるなか、畳まれていたローブが解け、裾がはらりと宙に舞った。そのまま地に落ちそうになるが、襟ぐりは右手にかけられたままのため、ゆらゆらと風に揺れるにとどまる。
それからオーウェンは、左手のマスターキーも大仰に掲げてみせた。
固唾を飲んで見守る家女中たちの前で、ゆっくりとマスターキーを持った手をローブの内ポケットに潜り込ませ、しっかりと中にしまい込んだ。
場を支配する魔導士のローブを囲みながら、屋敷私僕たちは向かい合う。
いったい何を見せられているのか。言いようのない不安にかられたのだろう、家女中たちは再びざわつき出したが、オーウェンはいたって本気である。
これからが本番だと、静かな火蓋を切るために、掲げて持っていた魔導士のローブをこれ見よがしに広げて背後へ回すと、自らの腕に袖を通す。
家女中たちが一斉にぽかんと口を開けた。




