38 術中にはまる
オーウェンがクローディアのもとへ到着するのに、数秒も必要としなかった。
それでも、男主人から目を離すことを恐れ、判断を鈍らせてしまったから、クローディアはすでに小書斎の中に入り込んでしまっている。
部屋の施錠はしてあった。それでも小書斎の中に入れたということは、女主人がマスターキーを所持していることは疑いようもない。
オーウェンは、男主人の書斎机に向かって立つクローディアの背中を見つめた。
彼女はまだ、オーウェンの存在に気づいていない。
「――奥様」
びくりと、細い背中がふるえた。
亜麻色の髪を揺らしながら振り返ると、まっすぐとしたヘーゼルの瞳に見つめられる。
明かり窓の薄日を受ける面差しは相変わらず無表情で、感情の機微は読み取れない。
オーウェンは、クローディアを注視しながらも、ローナたちの動向を探った。
クローディアは、どうしてなのか一人だった。女主人の指輪を介してならば、同じ空間においてのみ、実体化してこられるはずだが、その気配もない。
オーウェンは、クローディアの背後、書斎机に置かれた物にも気を止めつつ口を開いた。
「……まもなく旦那様がいらっしゃいます。どうか、それまで動かれませんよう」
クローディアからの返事はなかった。
ただ、後ずさるように足を横に動かし、少しずつオーウェンから距離を取っていく。向かう先には、小書斎の扉があった。
隙をつくように扉へと駆け寄ってノブを回すが、扉は開かない。オーウェンが、すでに鍵をかけ直していた。
クローディアは、スカートのポケットからマスターキーを取り出した。
鍵穴に差し込んで鍵を回し、扉の施錠を開いたが、直後にオーウェンが閉め直す。
負けじとクローディアはもう一度、今度は、鍵をさしたまま扉を解錠し、わずかに押し広げたが、それもオーウェンが押し戻して施錠し直した。
諦めることなく体ごと扉を押すが、びくともしないし、びくともさせない。
同時に、反対側にある中庭に続く明かり窓にも警戒していた。女主人の支配下にあるはずだが、今の状態では『深窓』は使えないのか、クローディアは懸命に鍵を回し続けた。
「……あまり無茶をされませんよう。怪我のもとです」
しかし、彼女はオーウェンの制止には、まったく耳を貸さない。
女主人の手にあるマスターキーは、まさしくこの小書斎から奪われたものだった。
確認するには距離が離れすぎているが、それは人間の視力と視界に限った場合である。オーウェンにはほんの僅かな違いもよく見て取れた。
目の当たりにする物的証拠に、感情はゆれる。
小書斎の管理を任されていた従僕にとって、部屋の規律を乱された憤ろしさは、筆舌に尽くしがたいものだったが、同類である家女中たちが、ましてや侍女が、それを理解していないはずはなく、ローナの企みに乗せられるまま感情的になるリスクを鑑みて、いったんは押さえ込んでいた。
しかし、現金なもので、ある意味では首謀者と呼ぶべき女主人が、マスターキーを手にしていても、オーウェンに腹立たしさはわいてこない。
むしろ、所有権が他者にある鍵を、勝手に持ち出してはいけないと、きちんとお諫めしなければならない使命感にかられていた。
「――奥様」
さらに呼びかけようとしたとき、室内に大きな異分子が出現する。
目をやらずともわかったが、オーウェンは、女主人の指輪を介して部屋の中央に実体化したローナへ顔を向け、彼女の存在を確認した。
ローナはローナで、オーウェンと目を合わせるなり、背後を振り返って歩き出す。
女主人から離れてどこへ行くのかと、視線で見張るオーウェンに、壁際まで行き当たったローナは、向き直りざま言い放つ。
「リリー」
突如、オーウェンの真下から女の足が伸び上がった。
顔面を狙った一撃は、どうにかかわせる速度だったが、体勢を大きく崩される。
家女中リリーは、勢いで飛び上がった体を最小限の動きで立て直し、部屋の中央にまで後退したオーウェンと対峙するが、すると同時に姿を消した。
「マーガレット」
ローナの一声とともに、家女中マーガレットが背後から襲いかかる。
出現位置が完璧すぎて回避できず、背部に入った膝蹴りがオーウェンを前倒しにさせるが、床の上に倒れる寸前に実体化を解いた。
オーウェンに動揺が走る。
小書斎は現在、執事が主導権をにぎっているというのに、立入制限されるはずの家女中たちにどうして正確な居場所が特定できるのか。
動揺に意識を持っていかれ、壁際にたたずんだままのローナに気づくのが遅れた。ローナが仲立ちなって家女中たちへ、位置情報を伝達しているにすぎない。
オーウェンはためしに、消えたマーガレットの場所ではなく、天井を足場にして再実体化してみせる。
「ローズ」
逆さまのオーウェンと同じように、逆さまに出現したローズは、現れるなり足払いを仕掛けてくる。
彼女の足が標的の足首をとらえる前に、オーウェンは床へと降り立った。
「アリッサ」
からくりが分かれば、あとは簡単だった。誰かの名前が呼ばれたと同時に姿を消して、再出現のポジションをわずかに移動させるだけでいい。
「ダリア」
横手からの打撃を、消失してかわす。
回避できるのはいいとして、そうなると、いつまでこんなことを続けるつもりなのか疑問がわいてくる。
広くはない室内で、空振りしたダリアが書斎机のスタンドを倒しかけたが、きちんと立て直してから姿を消すのを、後方から見届けたオーウェンは考える。
「リリー」
まさか、こうしてオーウェンを翻弄することで、ミステイクを誘い、いまなお必死で鍵を回すクローディアが扉を開けられるようにするつもりなのか。
だとしたら、こちらを侮りすぎだと思ったが、それならそれで、男主人が到着するまで、わざと彼女たちの相手をしておくのも悪くなかった。
リリーの次は誰だと、彼女をあしらったオーウェンは、小書斎に姿を現す。
「奥様」
「え」
扉の前にいたはずのクローディアが、オーウェンの目の前にいた。
小書斎の扉に意識を向ければ、クローディアはまだ扉の前に立っており、オーウェンの目の前にいるのは、クローディアの姿を模したマーガレットだった。
偽物のクローディアは、オーウェンの脇をすり抜けると走り出し、それを待っていたかのように、本物のクローディアが偽物めがけて何かを投げつける。
マスターキーだった。
偽物のクローディアが取りこぼすことなく鍵をつかめば、中庭に面した明かり窓にとりついて、マスターキーを持った手を動かす。
やはり本当の狙いはそちらかと、オーウェンは跡を追ったが、前触れなく現れたローズから妨害が入った。
わずか数秒後、明かり窓の施錠は解かれてしまい、オーウェンはとっさに本物のクローディアが明かり窓へ向かうのを足止めしようとしたが、振り返った女主人は、小書斎の扉をその場で解錠し、扉を大きく押し開いていた。
何が起こったのか、オーウェンは飲み込めなかった。
明かり窓のドアが開いたとき、小書斎の扉は確かに閉まっていた。
一体どうやって開けたのか、呆然とするオーウェンの目の前で、女主人は駆け出すが、その手には家令室のマスターキーが握られていた。
――――二本目っ!
腑に落ちたオーウェンを置き去りに、窓側を開いたマスターキーは中庭へ放り投げられ、扉側を開いたマスターキーはクローディアと共に廊下へ飛び出し、立入制限によってオーウェン以外の屋敷私僕たちは強制的に小書斎から排除される。
取り残されたオーウェンにはこの瞬間、三つの選択肢があった。
中庭のマスターキーか。西棟廊下の女主人か。西棟階段の男主人か。
束の間の時間の中で選んだのは、単純に距離だった。
男主人のエリアである前邸東棟の廊下を、ひた走るクローディアを追い、オーウェンは彼女の進行方向に立ち塞がる。
そこで、またしても不測の事態に見舞われた。
自分の足で走っていたはずのクローディアは、気を散じているあいだに、ダリアによって抱えられ、廊下を走って――滑走して、オーウェンに迫っていた。
廊下の上を滑って移動すれば、二足歩行による上下運動がない分、女主人への負担はかなり抑えられるだろう。
だからこそ出せる過剰な速度に、オーウェンは固まった。
あれだけの速さで動いているものを押しとどめたら、何をどうしたって相応の反動が女主人に返ってしまう。主人を転落させるリスクを冒してまで足止めを強行するなど、己の本性が許さない。
追跡に出たはずの廊下で、指先一つ動かせないまま、オーウェンは女主人とその私僕に、正面から突破されるのを、ただ黙って見送った。
オーウェンのすぐ横を通過して、クローディアとダリアは前邸南棟へと向かう。
そこに、他の家女中四体が現れた。これっぽちも必然性がないのに、ぱたぱたと両足を動かしながらオーウェンへと近づいてくる。
「じゃあね、お疲れー」「あとで手伝うからさ、片付け」「それ言ったら、掃除もでしょ」「けんとー、けんとー」
それぞれが労いの言葉を掛け、それぞれが両側を駆け抜けていく。
ほどなくして、クローディアが女主人のエリアである西棟へ入り、今度はオーウェンが立入制限による閉め出しを受け、彼女の居場所すら追えなくなった。
敗北を喫するとは、このことだった。
六対一という数の劣勢を徹底的につかれ、ねじ伏せられただけでは済まない。
小書斎では、自分が否定したマスターキーの使用法で扉を開けられてしまい、廊下では、自分がとった玄関ホールでの戦法を、さらに改良した方法で突破されてしまった。
あのときはオーウェンも、男主人を担いでいれば下手に手が出せないと分かっていた戦法だけに、カウンターを予想していなかったのは、手痛い落ち度だった。
精神的にも負かされてしまったオーウェンは、それでも自身の本分を果たすために、己を動かす。
まず、マスターキーが投げ捨てられた、小書斎の明かり窓を確認するが、窓はすでに閉められており、施錠もしっかりかけ直されている。
マスターキーそのものは、まだ中庭にあることを確認してから、指示された女主人の足止めを遂行できなかった報告と、小書斎に置かれたモノの判断を仰ぐため、西棟階段にて立ち止まっている男主人のもとへ戻った。
セドリックは、階段の踊り場で消耗しきっていた。
中邸の長廊下を、もてる体力の限りで疾走し、したものの、前邸入り口付近で息切れを起こし、前邸からはほぼ歩きで進んだ。
上がった息はなかなか治まらず、前邸西棟の階段をのぼるが、踊り場にたどり着くころには力尽きていた。
階段手すりによりかかり、休んでいたところに、クローディアのもとへ送ったオーウェンが帰ってくる。
何もしていないのにすでにボロボロの主人を気遣う言葉もそこそこに、オーウェンは、クローディアを取り逃がしたことと、小書斎でおきた顛末を簡潔かつ的確に説明した。
「……それで、逃げられたわけか」
「はい」
踊り場にあぐらをかきながらセドリックが確認すれば、傍らで膝をつくオーウェンは面目なさ気に答えた。
「なら、部屋に閉じ込めた時点で俺のところに――いや、だめか。結局、窓から逃げられるし。じゃあ、窓にストッパーをかませて――いや、それも明かり窓じゃ……そもそも、出口が一つしか無い場所に、何の対策もなしに行かせるわけないか」
セドリックは、独り言のようにつぶやいたが、すぐに諦めて息をつく。
「下手したら、お前が小書斎のマスターキーを見たあと、考えがどう動くのかも見越していた可能もあるな」
「…………面目ありません」
「いや、逆にローナを注意すべき理由がよく分かった。分からないのは、どうしてクローディアたちは、わざわざ小書斎に行ったのかだが」
「はい。その点ですが、クローディア様は、旦那様の書斎机に小さな箱を置かれていきました。小書斎を訪れた理由のひとつは、それにあるかと」
「はこ?」
「はい、箱です。奥様が子供たちにお菓子を配るために、いつも手作りされている箱です。包装紙とリボンでラッピングされて置いてあります」
「…………置いてあるのか、俺の机に」
「はい。中身の方は判断しかねますので、旦那様自身でご確認ください」
「…………分かった」
セドリックは立ち上がる。オーウェンから諸々の報告を受けている間に、体力はかなり回復していたが、それでも走ることはせずに小書斎へと向かった。
小競り合いがあったという小書斎は、さほど散らかっていなかった。
オーウェンが片付けたのか、もしくは、最小限の被害で済むように動き回ったのか。
ともあれ、書斎机には、見知らぬ小包が本当に置いてあった。
青色のリボンと、白地に金模様の包装紙に包まれた、手のひらほどの小さな箱。
近くによれば、リボンの封蝋には、旧リッテンバーグ邸の家紋が押されている。包装紙の方も、要所要所が蝋で固定され、やたら小綺麗にまとめられていた。
セドリックは一度、小包を黙って見つめた。ためらいではない何かがそうさせたが、やがて手に取った。
持ったときは分からなかったが、慎重に包みを開けて、内箱に指が触れた瞬間に、回路が通されていることを感じ取る。
ほどんど職業病の脊髄反射で、導体構成図を読み取り、知り得る模式の系統から割り出していくが、符合する回路がなかなか見つからず、ずいぶん遠回りしてから合致したのは、子供向けのおもちゃの回路。
「…………」
「私が開けましょうか?」
回路が発する燐光で、小箱が回路仕掛けだと察したのだろう、オーウェンが口を挟む。
「……ローナたちが、俺の身を傷つける仕掛けを許すと思うか?」
「いえ、まったく」
セドリックは、続けて回路を読み取る。
魔法現象と呼ぶのもおこがましい、開けたら中のモノが飛び出すという機能しかない、びっくり箱の設計がされていた。
箱の材質は加工紙で、『箱』として作られて数年もたっていない。高度な回路を施すには、圧倒的に経年度合いが足りておらず、隠れた構造があるとも考えづらい。
様々に思考が駆け巡っていくが、いくら考えたところで出る答えはなく、何よりクローディア側が、ようやく動きらしい動き見せたのだから、箱を開けない手はなかった。
セドリックは、オーウェンに視線を投げてから、箱を開けた。
中身が飛び出すことは分かっており、驚くことはないと高をくくっていたが、蓋を開けた途端にセドリックは驚いた。
視界が真っ白になっていた。
次いで、真っ白い何かを吸い込んでしまい、咳き込んだ。
「下がって」
オーウェンが箱を取り上げながら、前方を見失ったセドリックを部屋の後方へ誘導する。
「……小麦粉、ですね」
発生源から離されて、回復した視界の中、オーウェンが白く煙っている空間を手触りで確かめていた。
それから、箱の中をのぞき込き込む。
「まさか、これだけか?」
「――あ。いえ、カードが中に」
オーウェンが箱の中から一枚のカードを取り出すと、表面についていた小麦粉を拭ってセドリックに渡す。
カードには、誰が描いたのか、凝った縁取りが手描きされていた。
そして、ずいぶんと人を食った一文が綴られている。
『後邸二階西棟、女性使用人部屋までどうぞ』




