36 前邸
セドリックは、自分の指にはめられた男主人の指輪に目をやった。
相変わらず、セドリックからの接続を受け付けないため、クローディアが開いた『深窓』は、まだ開いているようだった。
かといって、女主人のクローディアに主導権のすべてが奪われたという気配はなく、家長権は、いぜん男主人の側に保持されている。
家長権は、配偶者や実子を含めた『家』に属する全てのモノに対する支配権であるが、旧リッテンバーグ邸をはじめとした旧家では、現象という形で現実に作用した。
古い魔法使いの家系の婚姻は、ほとんどの場合、正導学会が介在するのが現状であり、公的手続きを通さねば、正式な場で認められることはない。
要するに、外的圧力よって形骸化させられてはいるが、旧家での婚姻自体は、手続きを通さずとも成立し、おのずから、家長権をもってすれば家人との絶縁も強行できた。
女主人の指輪とクローディアを切り離すためには、離婚という絶縁を礼拝室で行う必要があるが、そこを選んだ理由はもう一つある。
クローディアは、知識と技術的な理由で回路の書き換えができない可能性が高い。
回路の書き換えができなければ、礼拝室の回路をいじることも難しいだろう。
そこにも迂回路を設けて孤立させてしまう手もあるが、それだと、男主人の指輪と女主人の指輪もろとも絶縁状態となり、互いに回路との中継ぎを失ってしまうはずだった。
それでも外へ出られる保証はないが、どのみち男主人の指輪が使えないセドリックとしては、試してみても損のない方法だった。
セドリックは右手の指輪から、つい先ほど暫定的に執事へと昇格したオーウェンに視線を移した。
彼は今、礼拝室までの最短距離を割り出した後、部屋従僕の職権で展示室に男女別席の行動制限をかけたように、執事の職権によって、より大きい行動制限と監視制限を旧リッテンバーグ邸を構成する三邸と地下室のすべてに『立入制限』をかけていた。
「――はい、お待たせいたしました。たいだいの手配は完了です。これにて邸内は“立入制限”による制約を受けます。不許可の立ち入りや偵察のたぐいは強制的にはじかれます。ただし、あくまでもそれは執事の権限が及ぶ範囲であり、裏を返せば、女中頭の権限が強い範囲では、私の方が逆にはじき出されます。その区分ですが――」
オーウェンは、旧リッテンバーグ邸の三邸のうち、前邸の間取りをざっと口頭であげていく。
ぐるりとひと回りするようにロの字を描く屋敷は、縦に並んで前邸と後邸に二つあるのだが、今いる展示室は、先ほど駆け抜けた玄関ホールのすぐ左、前邸一階西棟になる。
展示室から順当に図書室と居間があり、ロの字を右に曲がった北棟には、日浴室が併設された、屋敷中央を飾る中庭がある。
前邸一階東棟には、食堂、談話室、応接間があり、それから南棟へと回れば、屋敷の顔というべき、正階段を擁する玄関ホールへと戻る構造をしていた。
その中で、居間と応接間と玄関ホール以外は、オーウェンの統制下にあり、ローナは手が出せないが、応接間と玄関ホールは共有エリアにのため、『立入制限』は双方共に無効となり、行動と監視は可能になるという。
「ただし、中継ぎによる例外があります。先刻、玄関先で消された従僕が男主人の指輪から出てきたように、女主人の指輪からローナ以下、家女中たちの出現も可能です。部屋や廊下を隔てての単独行動はできませんが、クローディア様ご本人が行動された場合、いかなるエリアでもローナたちの同伴を止めることはできないため、礼拝室への道のりで十全に構えた奥様と出くわす可能性もあります」
「……それなら、願ったりかなったりだろ」
「そうですね。そして礼拝室ですが、そこは第二の至聖所ですので、いわば“立入制限”が常にがかかっている状態です。先ほど照合したように回路の状態は読み取れるのですが、室内の様子や中で何が起こっているのかは、家令の権限がなければ感知できません」
「それじゃあ、クローディアが今、そこにいてもお前には分からないと?」
「はい。ですが、クローディア様は今、立入制限がかかる以前の行動から推察して、前邸二階西棟内におられると思います。もちろん確実とは言えませんが」
「……クローディアの回路の書き換えの方は、どうなっている?」
「そうですね……変わらず、あっちこっちしております」
迷子みたいに言うので、思わず想像しそうになる。
状況からして仕方が無いのだが、なんだかクローディアの話ばかりになっていることにセドリックは落ちつかない気分になった。
「……じゃあ、そろそろ行くか。礼拝室への最短距離は、西階段からだったな」
返事を待たずに歩き出す主人に、オーウェンが先んじて、手作業で展示室の扉を開く。
先ほど通った廊下へ出れば、西棟の廊下は静まりかえっていた。家女中たちが賑わす声も聞こえてこない。
映写室と居間の合間にある西階段へと向かう途中、オーウェンが口を開いた。
「――再度申しますが、西階段の先は通称“女主人の廊下”とも呼ばれていで、クローディア様の居住階になります」
主人が決めた道順の理由を、すでに知っていながら注意を促してくる。
セドリックは、何も答えず先に進んだ。
礼拝室は、前邸二階北棟の中程にある。
その途中にある二階西棟は、クローディアが使用する居室がひとかたまになっており、ほぼ女主人のエリアだと言っていい。
二階へのルートは、玄関ホールにある正階段からでも上がれたが、わざとその女主人のエリアを選んだのは、相手のテリトリーを横切って、クローディアたちの出方を探るという、かなり大雑把な戦法だが、いま起こっているごたごたを長引かせたくないセドリックにとっては、いたって無難な手段だった。
とはいえ、階段の段差を踏みしめ、二階を目前にすれば、それなりの警戒心が首をもたげてくるもので、西棟廊下に立ち入る手前で、いったん様子をうかがった。
目に見えて不審な仕掛けものはないか、廊下のしつらえへと視線を巡らせる。
壁の腰羽目や、天井の石綱飾り、床の寄せ木細工は、見慣れない装いをしているが、取り立てて怪しい部分は見当たらない。
二階西棟には、寝室、小間、衣装部屋、浴室、それといくつかの空き部屋が並んでいる。
該当する扉の前を横切るたび、オーウェンはどの部屋が寝室で、どの部屋が衣装部屋かを説明していくのだが、説明だけにすればいいものの、女主人が各部屋でどう過ごしているかも解説していくので、セドリックは真面目に取り合わないようにする。
代わりに目を向けたのは、廊下にかけられた空っぽの額縁だった。
絵画や刺繍のない、大小ざまざま木工細工の額縁が、等間隔に並んでいる。
木蝋ワックスで艶出しされた古い額縁で、旧リッテンバーグ邸に代々伝わっているものである。
裏板もなく、壁面をむき出しにしたまま飾っているのは、新しく改装、改築された旧家などではよく見られる光景で、改修には特別な建材が使用されるとはいえ、それなりの反発がやはり出てしまうため、邸内の回路を安定化させるために置かれるものだった。
四年前、セドリックによって完全修復されるまで、旧リッテンバーグ邸は五十年間、研究室の調査と実験を兼ねた要観察対象に指定されていたが、内装や外観にはほとんど手が入れがされていなかった。
それが、家として、もう一度人が住む空間に整えられることになり、全面的な改修工事が国費から賄われたが、正導学会お抱えの建築士たちと、復旧したローレンスたちは、あたかも旧友のような旧敵のような馴染み深さで、喧々諤々の論争を繰り広げていたことは、セドリックの記憶にも新しい。
空っぽの額縁はもともと、壁全体に張られていた鏡板の名残である。
その昔、模様替えなどで部屋の移動をするときは、そこに使われていた鏡板ごと移動することで屋敷をだまして、混乱を最小限に抑えていたのだが、その技法を応用し、改装や増築という大がかりな改修工事が可能になってからは、額縁の形にまで小型化した。
ただ額縁の場合、旧家の解体材を再利用するので、縁飾りをどうするのか決めるのだが、たったそれだけのことで設計士と私僕たちは一週間も揉めていた。
旧家の伝統として枝葉や木の実といった、樹木を意匠するのが倣いだが、最近は流線を活かした蔦模様が流行だと主張する設計士たちに対して、流行に迎合しぎるのも如何なものかと私僕たちは渋り、そうした細かい論争は、必然的に屋敷全体にまで及んだ。
結局、どれも各空間に応じた文様を施すことで落ち着いたが、空っぽの額縁の方は、額装できる絵画や蒐集品を入れても効果はあるため、中身の装いは、男主人か女主人が少しずつ埋めていくものだと――
ふと、また変な方向に考えが傾きかけたことに気づき、セドリックは額縁からも目をそらした。
真っ直ぐ前を向いたまま無言で廊下を歩き、不気味なほど人の気配がない女主人のエリアを抜け、罠らしい罠など何もないまま、北廊下へと出る。
そして、実にあっさりと礼拝室へ到着していた。
肩すかしをくらったような妙な気持ちでセドリックは立ち止まるが、その横をオーウェンが通り過ぎて、両扉の取っ手を手のひらで指し示す。
「ここの扉は、執事の権限では開けられません。旦那様の手ずから――指輪をされている右手で、開錠をお願いいたします」
言われて、対面するのは、重厚なたたずまいをした木製の両扉。
木工の取っ手を握りしめ、重い抵抗を手の内に感じながら力を込める。
びくともしなかったので、さらに力を込めて扉を押しやり、逆に引いたりする。三度目は、反対の扉に手をついて力の限り押し、または引いたが、木造の両扉はついに開かなかった。
セドリックは、抗議の視線をオーウェンに向けた。
彼は怪訝な顔を返してから、両扉の中を探るように見据える。
礼拝室とその周辺の回路を探っているのだろう。
「……変ですね。やはり書き換えは行われておりませんし、迂回路なども設置されていません。正常に機能しております」
「中は、どうなってる?」
「いえ、ここは至聖所ですので、家令の権限がないと……」
少し前にも同じことを言っていたことを思い出し、セドリックは考えあぐねる。
ここの回路に迂回路を設けて孤立させてしまっては、女主人の指輪も使えなくなるのは、クローディア側も分かっているはずだろう。
だとしたら、どうやって部屋の施錠を可能にしているのか。
「礼拝室が開かない理由、他に心当たりはないのか?」
「そうですね……開かない理由を想像するのは難しいですが、開けられる方法なら、他にもありますよ。きわめて原始的な方法ですが」
「――なんだ?」
「鍵です。マスターキーを使えば開けられます」
至極ありふれた方法を示されて、セドリックは目を見張る。
「ですが、手段としては二番手かと。開けること自体ならできると思います。それこそ正面玄関でも。しかし、外界につながる扉はすべて、クローディア様に掌握されておりますから、開けたそばから施錠し直すことも可能になりますので、いたちごっこが関の山です」
何にせよ、鍵という方法もあるのなら、提示だけでもしておくべきだろうと、セドリックは指摘しようとしたが、オーウェンが主人をこの家から脱出させる提案をしていた時、クローディアとの話し合いに方向転換させたのは自分だったことを思い出して、口をつぐんだ。
「……そのマスターキーがある場所は、わかっているのか?」
「はい。旦那様の小書斎と、後邸の家令室にひとつづつ。小書斎ならすぐ近くですが……鍵を望まれるなら、わたしだけで参りますが?」
「――…いや、俺も一緒に行こう」
オーウェンの返事を待たずにセドリックは歩き出し、勝手知ったる東棟、男主人のエリアへと向かった。
内装装飾に違いはあるものの、構造自体は女主人のエリアとほぼ変わらず、寝室、小書斎、衣装部屋、浴室、空き部屋がいくつか。
まっすぐ行って小書斎へと入れば、室内もいつもと変わらぬ様相をていしていた。
いつの通り、ほどほどに散らかっている。
何を置いてもまず本だった。大部分が製本された紙の本だが、中には羊皮紙の装丁本や巻物、導体構成図のかきつけ、ページの写しといった書類も、書斎机からはみ出して床にまで山を作っている。
他にも、手遊びで作った反復運動を繰り返すオーナメントや、思いついた回路をその場で試すために取ってある、年代だけは重ねた骨董品が、まとまりもなく本棚やガラス張りの飾り棚に転がっていた。
片付いているのは昼寝用のソファくらいで、それ以外が散らかったままにされているのは、セドリックが片付けなくていいと言いつけたためで、ローレンスたちの手抜かりではない。
セドリックは、率先して部屋に入ったものの、マスターキーがどこにあるの分からず立ち止まる。その背後からオーウェンが、迷いのない足取りで書斎机に歩み寄り、最上段の引き出しを開けた。
「…………」
「――どうした?」
引き出しを開けたまま、オーウェンが固まって動かなくなった。
「……ありません。鍵を入れたケースが」
やけに起伏のない声で言う。
「置き間違いか?」
「――いいえ。本の一冊、書類の一枚一枚を、内容から位置のすべてまで記憶しておりますので、間違いが発生することなどありえません」
当たり前と言えば当たり前だが、言い切られると部屋の主人でも少し怯む。
しかし、ならばどうして、置いてあるはずの場所にマスターキーがないのか。
その疑問には、オーウェン自身が答えた。
「今日の正午過ぎ、非常用ランプのオイル取り替えに各部屋を回っていたローズが、小書斎にも入りましたから、その時、私に無断で持ち出したのでしょう」
オーウェンは、淡々とした調子で述べた。
だが、彼の視線は、机の引き出しに注がれたまま離れようとしない。
小書斎の備品管理は、従僕オーウェンが担当していたはずである。
自らが管轄し、独自の秩序が保たれているだろう場所から、もし勝手に品物が持ち出されたら、当人の心中は穏やかではいられないように思えるが、オーウェンは、おもむろにセドリックを振り返ると微笑んでみせた。
「どうなさいます? マスターキーは家令室にもあります。ですが、家令室は後邸一階西棟にあり、後邸は、女中頭の権限が強い場所ですので、広い範囲で執事に立入制限がかかります。男主人の指輪を介せば、わたしも同伴できますが、主人と離れて――つまり、部屋や廊下を隔てての単独行動や、状況感知は不可能になります」
思うところはあるだろうが、現状把握に切り替えてきたオーウェンに、セドリックもわざわざ言及しないことにする。
小書斎からマスターキーが消えたのは、どう考えてもクローディアの、正確に言うならローナの指示によるものだろう。
いったい何をたくらんでいるのか。
『奥様がお怒り』だというからには、もっと感情的な遣り方を想像していた。
それとも嵐の前の静けさとでもいうのか。
とにかく、相手の行動が消極的すぎて、目的らしい目的が見えてこない。
いっそ女主人の廊下に戻って、部屋の扉をひとつずつ扉をたたいていくのも手か。もしくは、部屋の前に陣取って、首謀者が出てくるのをひたすら待つか。
そうした力業も脳裏をよぎるが、しかし、もう一方のマスターキーの確認をおろそかにもできない。
ふと、行った先で『拘束』という罠が頭をよぎったが、どのみち閉じ込められている身に変わりはないため、それを忌避する理由はあまりなかった。
「いくぞ。家令室」
はい、とオーウェンは端的に答え、主人の意に従った。




