32 勃発
ローナは、じっとクローディアの後ろ姿を見つめていた。
部屋の主人たる彼女は、窓辺に置かれた肘掛け椅子に座り、何をする出もなく窓の外を眺めている。
そうして日がな一日、小間にこもりきりになっていた。
箱や包み紙、リボンや工作道具であふれた小間に女主人が居る時は、いつも何かしら切っていたり、貼っていたり組み立てていたりしており、ローナにも手伝いの一助が任されていた。
そんな時、ローナは女主人を独り占めにしているような、至福の時間を過ごすけれど、ここ数日の主人は、椅子に座ったまま窓の外を見ているだけで、当然、彼女の手伝いを許す声も、ローナにはいっさい降ってこない。
マキオン老師との二度目の面談――夫セドリックから、今後の身の振り方を選ぶよう言い渡された後、クローディアはこの家でごく普通に日々を過ごしている。
朝、決まった時間に起床して、洗顔や着替え、三度の食事に入浴、夜になれば決まった時間に就寝する。
朝の着替えの時、女主人の指輪を指へ嵌めることにすら抵抗を見せない。
週に一度は通っていた孤児院へは出掛けなくなってしまったが、それはおそらく、あの懐中時計に触れる事をセドリックから禁じられたからだろう。
それ以外でなら、クローディアは本当にいつもと変わらない日常を送っていた。
ただ、ある一点を除いて。
クローディアは、この家にいる誰とも口をきいてくれなくなった。
ローナが行動を促せば、不満も言わず指示通りに動いてくれるが、代わりに、話しかけても問いかけても、彼女の口から言葉が返ってくることはない。
そんな状態が、もう十日近く続いている。
何者をも寄せ付けない確固たる不言が、怒りからの反抗なのか、悲しみからの悲観なのか、それすら読み取れない己を、ローナは恥じた。
いっそ、彼女のためにあれだけの悪態をついた男主人に味方する裏切り者として、罵ってくれた方がどれほど楽だったか。
二年もの間、誰よりも側近くで仕えておきながら、女主人のことが分からない無様な侍女は、今や女主人の心がどこにあるのか、うかがい知ろうとする事も男主人によって禁じられてしまっていた。
そのせいで、あの時、クローディアがセドリックへ向かって言った言葉の意味も、問うことが出来なかった。
侍女が女主人のことを第一に考える立場にあるのは変わりないが、両主人から絶対的な『命令』が下された際に生じる優先順位は、旧リッテンバーグ邸の家長である男主人の方が上になっている。
この命令に逆らえる時があるとするら、おそらく家人の誰かが身体的危機にある時だけ。
しかしローナは、それを言い訳にして、他に手立てを講じなかったわけではない。
ローレンスに最後まで足掻くつもりだと言った通り、ローナは足掻いた。
クローディアが決めるよう言われている身の振り方について、彼女の相談に乗る許可をローナは男主人からどうにか獲得していた。
しかし、問える質問は男主人によって決められてしまい、分からないことはないか、聞きたいことはないか、その二つの質問だけがローナに許された限界だった。
「どうか、奥様のお心を聞かせてください」
必ず末尾に付けるその台詞に、どれほどの万感を込め続けたことか。
けれど、彼女の口は固く閉ざされたまま、ローナの懇願は拒まれ続けた。
そうして今日もまた、ローナの主人は朝の身支度が済むなり肘掛け椅子へと腰掛けて、窓の外を眺めている。
もうしばらくすれば、ローナは再び同じ台詞を言うだろう。
そうせずには居られないのだから。
もはや慈悲を乞うような気持ちで女主人の後ろ姿を見入っていたが、その後ろ姿がふと身動ぎをした。クローディアの左腕がこともなげに動き、自身の左手を見め出す。
その所作が、ローナには不吉なものを孕んで見えたのは、彼女の左手には旧リッテンバーグ邸女主人の指輪が嵌められていたせいだ。
「奥様、どう――」
たまらず声をかけようとして、言葉に詰まった。
女主人の左手には、侍女たるローナの見しらぬ装いが施されていた。
五本の指の頂にある、よく整えられた爪には赤い塗り物がされている。
日常的に料理を好んでいた女主人のため、爪の手入れはしても表面に色を入れることはしていない。今朝、彼女の指に指輪を嵌めたさいも、こんなものは見当たらなかった。
ならば、血のように赤い、あの爪紅はどこから来たのか。
よくよく見れば、赤い何かは木の指輪の周囲にも群がっており、まるで指輪から根ざすよう広がり――広がり続けており、手の甲へと不定形な紋様を描いていく。
「――それは一体…?」
「……うん。気付かれずに繋がれた…と思う」
久方ぶりに聞いた主人の声だというのに、答えになっていない答えを返されローナは狼狽するしかない。
クローディアは、感情の読み取れない顔をしてローナを見つめ返していた。
「ローナ。あのね、お願いがあるの」
ローレンスの日常は、表面的には元に戻っていた。
いつも通り、男主人の身の回りと仕事の補佐を中心に、家事を管理しながら家内をまわしていく。
そこには主人の体調管理もふくまれるが、それすら元に戻りつつあった。
元にというのは語弊があるかもしれない。
主人の睡眠障害に関しては、今も彼自身が制作した魔法道具でしのいでいる。
ただ、こういう類のモノは長く使うほど効果は薄れていくため、徐々に効力を強くしなければならない悪循環がつきまとうため、使用頻度の調整は今後の課題である。
いちぢるしく元に戻りつつあるのは、食事の摂取である。
あの日から、ローレンスの主人は食事を三食欠かさずに取っていた。
出された食事を完食するまでにはいかないが、必ず半分は口に入れるようにしているのである。ただし、咀嚼する度に吐き出しそうな顔をしながら。
そのうえ食べたら食べたらで胸を悪くして、しばらく動けなくなっていることもしばしばで、食べ物に中ってしまったのかと、かえって慌ててしまう時もある。
空腹も食味も感じていないのに、無理やり食べているだけ主人には、料理番の二体が嘆いた。
せっかく食べてくれるというのに、それが苦痛にしかなっていない。自分たちの力が及ばず面目しだいもないと、ローレンスは彼女たちから何度も詫びられるはめになる。
無力なのは、ローレンスも同じである。
セドリックがどうして無理やり食事を取っているのか、その理由はローレンスには分かりきっていた。
彼が必要以上に体調を崩せば、家人の身体的な危機として、ローレンたちは男主人から下された『命令』を覆すことが可能になるからである。
しかし、たとえ命令を覆せたとして何になるのか。
女主人たるクローディアへ、全てを話せばいいのか。
ローレンスたちがいくら言葉を尽くしても、セドリック本人に否定されたら、それで終わりなのではないのか―――
両主人のために出来る事を封じられてなお、両主人のこと考えずには居られない日々は続き、決まり切った仕事と一日を、ほとんど作業のように終えていく。
馬車での帰り道、車内は静かだった。無言で窓の外を眺めるセドリックを、ローレンスもフードの中から見つめていた。
やがて、屋敷の正門へとさしかかり、門からアプローチへと移動する途中、ふと違和感を感じて、家の中にいるクローディアの様子をうかがい見た。
何かが、おかしかった。
女主人が小間にいない。探せば、すぐ隣の寝室にいたが、そこではローナがクローディアの手を取って何ごとかを話していた。
それだけなら見咎めるような光景ではないが、彼女たちの口は動いているはずなのに喋っている内容がまったく聞こえてこない。
ローレンスは、すぐさま行動に移った。
いつからこんな状態だったのか記憶を振り返るのと同時に、旧リッテンバーグ邸の全号回路へ接続して自己診断へと入らせる。
この数日、クローディアは一言も口を開いていなかった。その油断があったのかもしれない。
己の不手際を省みながらも、家の中で起こっている異変をローナへと報せると、彼女は玄関がある方角を見た。
まるでローレンスと視線が合ったかのようににこりと微笑み、唇を動かす。やはり音は拾えない。
回路を通して返答すればいいものを、どうしてわざわざ唇を動かしているのか。
どうして聞こえないと分かっていて、わざと口を動かしているように見えるのか。
その疑問は解かれることなく、ローレンスの意識はそこで途絶えた。
セドリックがその異常に気付いたのは、走り出したはずの馬車が、門前のアプローチで停車したまま動かなくなってからだった。
どうしたのかとフードの中のローレンスに聞くが、返事はない。
首元を振り返るがそこには何の姿もなく、手で探ってみても何の感触も掴めなかった。
次いで、右手中指に嵌めている『旧リッテンバーグ邸男主人の指輪』から直接呼びかけるが、そこからも返事は返らない。
このようなことは今までになく、セドリックは言いしれぬ不安を感じて馬車から降りた。すぐさま御者であるハーマンの姿を確認したが、彼の姿まで跡形もなく消えている。
胸騒ぎはいっそう強くなり、セドリックは彼らの本体である旧リッテンバーグ邸を仰ぎ見ていた。
本体で何かがあった。そうとしか思えず、セドリックの足は勝手に動き出す。
見れば、玄関の両扉が少しだけ開いたままになっており、そこへと吸い込まれるように足を進めた。
直後、何者かが前方に現れる。
銀髪に黒い目。旧リッテンバーグ邸のお仕着せを身に纏った、しかし、ローレンスではない誰か――従僕のオーウェン。
彼は、セドリックを手で制し、立ち塞がった。
「いけませんっ、戻らな――」
突然と掻き消える。
どう見ても強制的にされた消失現象に、セドリックはますます急き立てられ、家の中へと走り込んでいた。
駆け込んだ玄関ホールで、セドリックは見た。
あたかも来訪を待ち侘びていたかのように、彼を出迎えるその人を。
最近の流行りだというコルセットスカートにハイネックブラウス。亜麻色の髪とヘーゼルの瞳をした彼女は、侍女のローナと、家女中の五体を従わせていた。
彼女を中心に三体づつ、その左右に並び配している。
「お帰りなさいませ、旦那様」
そう言って、うやうやしく頭を下げたのは侍女と家女中たち。
けれどセドリックは、彼女たちの中央に立って、真っ直ぐと自分を見据えてくるクローディアから目が離せなかった。
とにかく頭の中が真っ白で、今しがた入ってきた両扉がばたりと音を立てて閉まっても、退路を塞がれたという考えにすら及ばなかった。
束の間の静寂。
不意に、セドリックの男主人の指輪がわずかに鳴いた。
反射的に手元へ目をやるが、手元ではなく、足下で跪いていた男と視線がかち合う。
「――失礼いたします」
男の一声と共に、セドリックの両足が宙に浮く。
転倒と感じるほど視界が揺れ、腹部に息の詰まるような圧迫感を覚えた時には、その場から連れ出されていた。
瞬く間の出来事に状況が掴めず、セドリックは上体を起こして、自分を連れて逃げる男を確かめる。
後頭部しか見えないが、判別はすでについていた。従僕のオーウェンである。
玄関前で消されたはずの彼が再び姿を現し、セドリックを肩に担ぎ上げて疾走していた。
「ちょっ、何を」
「口閉じてっ。舌噛みます」
オーウェンは、有無も言わず走り続けている。
このまま任せるべきか否か迷っていれば、威勢の良い声々が聞こえてきた。
セドリックが遠ざかっていく後方に見たのは、家女中たちが追いかけてくる姿。
「待ちなさいっ、オーウェン!」「そっちがその気なら容赦しないから!」「旦那様を渡して!」「大人しく奥様に従いなさい!」「そうよ諦めなさい! こっちは六体よ!」
彼女たちは口々に批難を浴びせかけるが、オーウェンはそれらを完全に無視し、セドリックを運び出すことに迷いを見せない。
人工精霊は回路の構成しだいで人間を上回る身体能力をいくらでも出せるが、それは男女の違いがある屋敷私僕も同様で、人格的な性差はあっても基礎体力にはほとんど違いがない。
このまま逃げ続けても、人間が耐えられるスピードで走るしかないオーウェンの方が明らかに不利である。
しかし、突き進んでいた廊下が曲がり角へと差し掛かり、オーウェンが手荷物への負担を最小限に身を躍らせた途端、家女中たちの追跡がぴたりと止んだ。
聞こえてくる、「ズルい」とか「ヒキョー者」とか、そういう罵りを背にしながらオーウェンは走る速度を緩めると、すでに開かれ、明かりの漏れている部屋の中へと足を運ぶ。
セドリックたちが入室するなり扉は閉まり、施錠も自動的にかかる音がした。
オーウェンは主人に対する非礼を詫びながらセドリックを肩から下ろす。
その口で状況の説明へと入ろうとしたが、男主人の衣服の乱れが気になったのか、セドリックの身なりを整えながら現状報告へと移った。
「私が兼ねている部屋従僕の権限で、展示室一帯に立ち入り制限を設けました。男性のみ立ち入りを許可されていますので、男主人か家令の許可がない限り、女主人でも無断で踏み入ることはできません」
展示室と言われて、セドリックは部屋の中を見渡す。
彼自身は見覚えのない、章飾らしき額装や装飾剣、装身具など、骨董品のようなものが所狭しと置かれているが、今そんなことを気にかけている余裕はない。
「――何が起こっている?」
間髪入れず問われたオーウェンは、やや考える素振りを見せたが、返ってきた答えは簡潔だった。
「ローレンスと連絡が取れません」
それだけで、事態の甚大さは伝わった。
家令であるローレンスは、旧リッテンバーグ邸に張り巡らされた回路によって運用、管理される家内全ての機能と、家政の全権を取り仕切る屋敷私僕の筆頭である。
その家令と連絡が取れないと回路で繋がっている従僕が言うのなら、旧リッテンバーグ邸そのものが異常をきたしたと言っていい。
だとしたら、奇妙なのは他の屋敷私僕たちはこうして動き回っていることである。
家内の機能はある程度正常に保たれているが、回路の中枢――少なくとも、ローレンスを形づくる一号回路だけがダウンしているというのか。
そんな離れ業のような変則的運用をどうやって可能にしているのか。そこまで考えて、すぐさま思いいたったのは、玄関ホールで見た光景だった。
この奇怪な状況と、彼女を結びつけるのにそれほど時間はかからない。
「…………他には、何かないのか?」
判断材料が足りなくて、セドリックはオーウェンが把握している情報をさらに求めた。
「……私としても、ほとんど事態が掴めていないため正確な事は言えません。ですが、邸内がこうなる少し前に、ローナから連絡事項のようなものが回ってきています」
「何だ」
「……本当に、“ようなもの”でしかありませんよ」
「いいから言え。ローナはなんて言ったんだ」
では、とオーウェンは前置きしてから、しごく真面目な顔つきで口にする。
「奥様がお怒りです」




