02 彼女が離婚する理由
クローディア・ヘインズが人妻になってから、間もなく二年の月日が過ぎようとしていた。
夫との馴れ初めを語るなら、幼い頃からの婚約者だろうか。
小さな頃には何度か二人で遊んだりもしたのだが、夫のセドリックはその頃の思い出を全く覚えていないようだった。
十五の歳を超えてから、結婚の約束が現実味を帯びてきて、そのための挨拶として何年ぶりかの再会を果たした時も、まるっきり初対面のように扱われた。
結婚への段取りは淡々と事務的に進められ、婚礼の当日までほとんど顔を合わせることのないまま、屋敷内にある祭壇のみが置かれた小さな礼拝室で、格式張ったものは大幅に省略された形だけの式をあげた。
クローディアが十六歳で、セドリックが十八歳の時だった。
結婚当初から、彼女の夫はほとんど家に帰ってこなかった。
仕事が忙しいためだと家のヒトたちは言っていたが、それが本当なのか、それともクローディアに気を遣った嘘なのかは分からなかった。
風の噂で聞いたことがあるのだ。婚約中だったはずの学生時代にも、クローディアではない恋人がいて、彼女とは今もなお付き合いがあると。
人工精霊を従える宮廷魔導士の研究員にして、最年少の十人委員会。
それがセドリック・ヘインズに与えられた職位である。
魔導士の称号階位としては、騎士と同等の勲位であり、厳密に言えば貴族ではないため、決して高くはない。
しかし、この国―――リグナム王国、国王代々の相談役である老君プリンケプスによってセドリック・ヘインズは別格の扱いを受けていた。
きっかけは、セドリックがまだ見習いだった時に、ある功績を立てたことで老君プリンケプスの目に留まったのだという。
それからは、何かにつけて目をかけられるようになり、老君個人の頼み事すら受けるまでになると、ついには十人委員会へと引き立てられた。
老君のお気に入りにして、若くして十人委員となった彼は、しかし、何を思ったのか、その権勢を笠に着て好き勝手にやりはじめるようになったらしい。
今ではさらに増長し、権力に近くあり過ぎてはならないという魔導士本分の戒めすら蔑ろにして、血縁貴族や地縁貴族との親密な交友関係を築いているそうだ。
当然、そんな有り様を白い目で見る者は多く、年を追う事に非難の声は大きくなっている。
彼の悪評は、結婚する前からクローディアの耳にも届いていた。
同じ魔導士であるクローディアの兄が、詳細を事細かに語って聞かせてくれていたのだ。
それでも彼女がセドリックと結婚したのは、何が事実なのかを本人の口から直接聞きたいと思ったから。
そうまでした結婚だったが、彼はクローディアのことを覚えておらず、どころか、はっきりと煩わしがられてしまった。
クローディアは、ただ子供が欲しいだけだった。
もちろんそれは、自分の体に流れる家系の血を継承させたかったからではない。
確かにセドリックとクローディアは、『古い魔法使いの家系』と呼ばれる魔導士一族の家に生まれているが、彼女にとってはほとんど他人事だと言ってよかった。
彼女はそう。本当に、ただ、子供が欲しかっただけだった。
*****
クローディアは、女主人の衣装部屋で朝の身支度を整えていた。
まるまる一室を使用した衣装部屋は、淡く塗装された白を基調とする部屋だった。
白い囲いの中で、何棹ものワードローブ、何脚ものトルソーの他、何足もの靴箱と何点もの帽子箱。姿見や鏡台。生地や型紙、裁縫道具を収納する格子棚。既製品のドレスカタログが並ぶ本棚が置かれ、騒々しくも華やかに部屋を賑わせている。
とはいえ、世間の流行に疎いクローディアには、侍女のローナが選んだ服を言われるまま着ていくだけの作業になった。
最近の流行りだという、ゆったりとしたハイネックブラウスと、膝丈のコルセットスカート。
たった二つの組み合わせだが、上は、シルクのリボンスカーフやカメオのリボンタイに、フリル縞やストライプ生地のブラウスがあり、下は、ダブルブレストや編み上げのウエストに、ドレープや刺繍に凝ったコルセットスカートなどがあるため、その組み合わせは何百通りにものぼる。
さらには、ジャケットとヘッドドレス。レースやサテンのガーターベルトで吊られたタイツと、色もデザインも多種多様な革靴も加えていくのである。
こうした服飾品は、厳しい審査を通過した旧家御用達の出入り業者から、そのまま購入することもあれば、生地やアクセサリーだけを購入して、ローナたちが仕立てることも多く、時折は、仕立屋のデザイナーを部屋に招いて共同制作していることすらあった。
考えるだけで目の回りそうなコーディネイトの世界から、今日のローナが選んだのは、ピンブローチのボウタイ付きブラウスとサスペンダーコルセットスカート。
衣装の選定が終われば、髪型を整える番になるが、これもローナに任せきりで、クローディアは鏡台の前に座っているだけで良かった。
古艶がとろりと光る木製の鏡台には、磨かれた台机と大きな鏡があり、そこにはまだ眠気の覚めきっていない女の顔が映っている。
肩で切り揃えられた髪は、亜麻色の薄茶。感情表現の乏しい瞳は緑味の強いヘーゼル。
結婚して二年の十八歳ではあるが、人妻としての貫禄はまるで無く、まだまだまろい輪郭に幼さを残す顔立ちだった。
むしろ、クローディアのかたわらで、かいがいしく世話を焼いているローナの方がよほど洗練された女性然としているだろう。
アップにして纏められた銀髪と、理知的な色をたたえる黒い瞳。
黒のロングドレスにエプロン、ホワイトブリムというお仕着せがとてもよく似合う、二十歳前後にしか見えない美しい彼女は、この家の男主人に見向きもされない若いだけの女主人を侮るどころか、この家に嫁いで来た日から誠心誠意仕えてくれている。
ローナは、クローディアが鏡越しに自分を見ていることに気付いたのか、手元作業の合間に視線を合わせ、にこりと微笑んだ。
それから何を言うでもなく、鏡台に用意されていた化粧道具に取りかかる。
爪の手入れは昨夜に仕上げてもらったから、化粧はいつものようにうっすらと施され、それが終わると、次は髪型のセットだった。
優しい手つきでクローディアの髪をとかし、あちこちで跳ねていた寝癖をひとつひとつ丁寧に直していく。
ほとんど時間を要さないでさらさらになると、手早く編み込んだ髪に、これも流行っているというサテンと銀細工で出来た髪飾りを挿していく。
身支度にひと区切りが付くと、それを見計らったかのように部屋のドアがノックされた。
「――どうぞ」
クローディアが返事をすれば、扉は静かに開かれる。
そこには、銀のトレーを携えた家女中のリリーがいた。
「奥様、奥様宛の手紙と届け物をお持ちいたしました」
リリーの持っていた銀のトレーを、侍女のローナが受け取りに行く。
ローナは、鏡台の前に座って待つだけのクローディアのもとまでそれを運び、優雅な身のこなしで差し出してくれた。
トレーの上に乗った手紙と届け物は、一通の封書と小振りな箱だった。
封書に記されてた『魔力訓練所』という文字を見付けて、クローディアの眠気は吹き飛んだ。
クローディアは、一年前から魔力訓練所に通っている。
魔力訓練所とは、魔力回路を上手く動かせない人たちのために指導を行うための施設だが、一方で魔法道具を作ったり、修理するための技術習得も行っており、魔導士よりもかなり限定的な範囲ではあるが、回路を扱う国家資格証を発行してくれる場所でもあった。
だからクローディアは、家令のローレンスを通してセドリックから訓練所に入る許可を得て、そして約一ヶ月前、ようやく『一級回路技師』の資格を取得したばかりだった。
銀のトレーに添えられていたペーパーナイフで封書の封を切れば、国家資格の証書と、祝辞と規約条項の記された手紙が入っていた。
それらを斜め読みしてから、小振りの箱に取りかかる。
格調高い箱の蓋を開ければ、枝葉を象った徽章が入っていた。
親指の爪ほどのそれを取り出して、クローディアは初めて手にした努力の証しを見つめる。
実家にいた頃は、訓練所に通うことすら許してもらえなかったから、それだけでもこちらに来た甲斐はあったのかもしれないと思った。
徽章を箱に戻して、ふと横を見れば、銀のトレーをリリーに返し終えたローナが、少し寂し気な顔をしてクローディアを見ていた。
何のためにこんな資格を取ったのか、ローナには話していない。けれど、家令のローレンスには伝えてあるため、ローナもまた知っているはずだった。
クローディアがしているのは、セドリックと別れた後の準備である。
セドリックは何故か勘違いをしていたようだが、彼との離縁が成立したとしても、クローディアは実家に戻るつもりはなかった。
さらに言えば、もう二度と実家を頼らなくてもいいよう、住むところと、働くところを得るために、こうして資格を取ったのだ。
まずは一歩を踏み出せた。
クローディアはそう嘆息したけれど、それはつまり、この家からも一歩踏み出したことであり、彼女たちとの別れにも踏み出したということだった。
別れを惜しんでいるような彼女の姿に何と言っていいのか分からず、クローディアは困ってしまう。
それを察したのか、ローナはおだやかに微笑むと、鏡台に置かれていたシンプルなデザインの木の指輪を手に取った。
それは、いつも身支度の最後に着けられる、『旧リッテンバーグ邸女主人の指輪』という、やたら名前の長い指輪だった。
旧リッテンバーグ邸の建材を利用して作られた木の指輪で、石座にはヘインズ家ではなく、リッテンバーグ家の家紋が刻まれた石が入っている。
ローナは、その指輪をクローディアの左手中指にそっと嵌め込むと、その手をクローディアの膝の上に戻した。
「奥様、今日はどのようにして過ごされますか?」
膝の上で手に重なるローナの手は、体温が無いのにいつも優しさに満ちている。
「……えっと。そう、明日は緑の園に行きます。お菓子を用意するのを手伝ってください」
「ええ、もちろんです」
彼女はまるで、最高の賛辞を贈られたような微笑みをたたえた。
明日は週に一度の、孤児院『緑の園』を訪問する日。
訓練所から証書と徽章が届いたことを、さっそく報告しなければと、クローディアはあまり動いてくれない口元を少しだけほころばせた。