25 木と土と石
ローレンスは、セドリックの発言に目を丸くした。
彼はいま、己の妻――クローディアの兄を、確かにクズ野郎呼ばわりしていた。
「あの、奥様のお兄様がどう――」
しかしローレンスの言葉を待たずして、セドリックは扉に向かって歩き出してしまう。
彼の目的は聞くまでもなく明白で、ローレンスはとっさに引き止めていた。
「ま、待ってください。実は奥様から、旦那様と鉢合わせしないよう、事前に配慮して欲しいという要請が出ていまして。ですので―――」
その先を濁してしまったのは、扉のドアノブを取ろうとしていたセドリックの手が止まったからだ。
彼の手はドアノブを握ることなく、ゆっくりと身体の横に降ろされる。
ローレンスは、扉の前に立ったまま動かなくなった、主人の背中を見つめた。
クローディアからの頼み事は、言い換えれば「会いたくない」と、言われたようなものである。それに気付いて、ローレンスは申し訳ない気持ちになった。
「……ローナがおそば近く控えておりますから、いかようにも対処いたしましょう。もう一度連絡があるまで、どうか今しばらくお待ちを」
相手が人間ならば、ローナ一体でどうとでもなる。
何より、ここは学院の構内なのだから、いさかいなど起こればどこにいようとも即座に永久公僕が飛んでくるだろう。
セドリックが、少しだけローレンスに顔を向けた。
「……だったら、五分おきにローナと連絡を取れ。ただし、ローナの邪魔はするな」
「はい」
セドリックは息を吐き出すように言い、壁際に備えられたソファへと足を進ませる。
どうやら、そのまま休憩に入ってくれるようだった。
「…何か、温かい飲み物をご用意しましょうか?」
「……いらない」
ソファのふちに腰掛けるが、やはり疲れているのだろう下を向いたまま顔をあげようとしない。主人をいたわりたい気持ちは残るものの、それよりローナと連絡を取る方を優先させる。
時間を置きながらローナへと呼びかければ、応答はあるものの立て込んでいるのか、すぐに後回しにされてしまう。
焦れる思いを募らせつつ、辛抱強く待っていれば、ようやくローナからまともな受け答えが返ってきた。だが、その内容はローレンスを困惑させるものだった。
「……あの、旦那様」
はっとしたように、彼は顔を上げた。
「ローナからの報せですが……クローディア様とお兄様の関係について、旦那様は何かご存じないかと質問がきています」
すると、セドリックはあからさまに眉根を寄せた。
口に出すのも不愉快だというように、ためらいながら言葉にする。
「……あの男は、昔、まだ八歳だったクローディアを背中から蹴り飛ばしてる」
瞬間、ローレンスの中で沸き上がったのは、害意と呼べる感情だった。
しかし、それを表に出すわけにはいかず、ローレンスはできるうる限り私情を抑えてから、聞かされた情報をローナへと伝える。ローナからの反応はなかった。
ただ、クローディアは現在、物陰に身を潜めて兄との遭遇を遣り過ごそうとしているという状況報告が事務的に返される。
どこか片隅でうずくまっている女主人の姿を想像して、ローレンスは今すぐ助けに向かいたい衝動に駆られたが、見透かしたようにローナが、全て自分に任せてくれるよう、主人のセドリックにはそれだけ伝えるよう、すぐさま制止を入れられた。
ローレンスは、今は彼女の言葉に従うべきだと己を律して、クローディアがどういう状況かは伏せ、ローナの進言どおりにセドリックへと伝えた。
彼はどこか納得いかない顔をしていたが、ひとまず何も言わないでいてくれる。
長くもどかしい、待つだけの時間が続いた。
おそらく数分にすぎない時間の経過を経て、ようやくローナが連絡をよこす。
それは、あまりに端的で一方的だった。
『いますぐ、旦那様を奥様の元へ』
『――何?』
『いいから、早く』
言うなり、ローナとの繋がりが閉ざされた。
「――待て。どういう事だ?」
思わず声に出てしまっていた。何度も呼びかけるが、応答はない。
「どうした?」
主人の声にローレンスが振り向けば、セドリックはソファから立ち上がっていた。
「――…それが、旦那様を奥様の元へと。ローナはそう言ったきり、応じなくなってしまって……」
彼にも意外な言葉だったのだろう、当惑したような表情を浮かべる。
一体どういうことなのか。ローナにも対処できないことが起こっているのか。だとしたら、あの一方的な応答は、セドリックの助けを必要として発せられたものなのか。
同じように考えたのだろう。呼び出しを受けた本人は、わずかに逡巡したあとローレンスを見据えながら言った。
「クローディアの位置は、確認できているな?」
「……はい、ローナがおりますので。それほど遠くはありません」
「いくぞ」
「はい」
今度は止まることなく、部屋の扉をセドリックは開けた。
ローレンスは、コートかけのローブを手に取って彼の跡を追っていく。
歩きながら主人にローブを着せれば、ローレンス自身は人の姿を一度消して、いつものようにフードの中へと潜り込んだ。
クローディアは、『仮植の部屋』と呼ばれた一室でそれを見上げていた。
ローナのおかげで入室を許された部屋は窓のない部屋だった。壁掛けの照明がひとつだけ付けられていて仄暗い。
暗くとも空間の広さは感じられ、広間と言っていいほどのスペースがあったが、何故か部屋中に大きな円柱のようなものが何本も立っていた。
縦に長い石造りの円柱は、中を空洞にくりぬかれ、錬鉄とガラスで出来たケースに覆われている。
ケースから見える円柱の内部には、小さな木が生えていた。
生えている、というのは少し違うのかもしれない。
クローディアとほとんど背丈の変わらない若木は、内部に照明器があるのか、半円形になった壁面を背にして、ほんのりとした光を放っている。
「ああ、“壁龕の木”ですね」
ローナの声だった。
振り向けば、人型の姿の彼女と目が合う。彼女は、女主人の衣服の乱れが気になったのか、服のシワとほつれた髪を整えながら説明をはじめた。
「私どもの本体は、堅牢な保護によって幾重にも守られておりますが、天災や予期せぬ事故が発生すれば、やはり定期的な補修や改築は必要になります。それには特別な建材を使用していて、それが壁龕の木というこの国にただひとつの霊木です」
壁龕の木。
名前の響きに妙な引っ掛かりがあって、自分の記憶をたどっていけば実家の書架室でその名前を見た覚えがあった。国の成り立ち以前からある、とても大切な木だったはずだ。
さあ奥様、とローナは次に手振りでクローディアを促した。
促された先にあったのは、仄暗い部屋の中でひとつだけ灯っていた壁掛けの洋燈で、その下に、ぽつんと照らし出されていた木製の長椅子だった。
クローディアは、ローナに言われるまま長椅子へと近づくと、洋燈の光で淡く浮かび上がった壁面に、絵が描かれていることに気づく。
気づいたが、気づいただけで、気にせずそのまま腰掛ける。
ここでしばらくやり過ごしていれば、兄に見付かることはないだろう。彼がわざわざクローディアを探しにでも来ない限り。
ほっと息をついて、クローディアは改め周囲を見渡すが、視線が低くなったせいもあり、目の前の霊木がやはり目についた。
外の光が排除される作られた夜の下、そびえる円柱は石肌を微かに光らせても見える。
魅入られるように見上げていれば、傍らに立っていたローナが静かに口を開いた。
「この若木は、子株だということはご存じですか?」
クローディアは、首を横に振った。
「一番地ルイナにある本体から枝分けされた挿し木になります。この仮植の部屋で発根させて、充分に根を伸ばしたのち、場所を変え、溶かした琥珀を養分として与えながら定植させるのです。その大部分は木材として利用されますが、周辺からは樹脂が染み込んだ粘土質の土が取れまして、それらは土材として利用されています。ご覧ください、あの円柱――小室は、その土からできているのですよ」
クローディアは目を見張った。遠目に見ても滑らかな石柱は、とても土の質感だとは思えない。
「……土、なんですか?」
「ええ、特殊な加工法によって練られた“混凝土”は、下手な石よりも硬い石となります。言うならば、この霊木ひとつから木と土と石の建材が取れることになりますね」
「…………」
「ただ、建材と言いましてもその根幹はたいそう丈夫にできていまして。通常の手段で伐採することは不可能だと言われています。ですから、伐採するのにもそれ専用の工具を使用するしかありません。そうしてまず、伐採のための魔法道具が生み出されたと言われています」
部屋に入ってから、やけに口数が多いローナにクローディアは考える。
今しがた、ひどく取り乱してしまったから、こうして全く別の話題をふって気を紛らわせようとしてくれているのかもしれない。
だとしたら、きちんと耳を傾けようとクローディアは心した。
「もちろん、伐採だけでは何も作れませんから、木と土をそれぞれを加工するための魔法道具、その次に組み立てるための釘や楔といった建築道具が開発されていきました。この国の建築技術が独自の発展を遂げているのはそのためです」
そのためだと言われても、クローディアにははじめて聞く話だった。
「こうした技術は――技術だけですが、精霊建築以外にも活用され、市街地の建造物や市民の住居、土木工事などにも用いられてきました。技術の維持や革新、区画整理の意味合いもあったのでしょう。研鑽は何世代にもよって繰り返され、現在の王都の街並みは徐々に形成されていったのです」
自国の変遷に関してまったく無関心だったクローディアは、ひとつひとつどうにか飲み込みながら耳を傾ける。
ローナの自国談義はそれからも続き、この国の国土上に分布する、都市や農村の発展速度は、王都よりやや遅れているのだとか。各地方の血縁貴族が治める領主館にも人工精霊や魔法装置などがあるのだとか。各地方の所領地には一級回路技師しかいないため、一年に一度、王都の魔導士を中心にした視察団が編成されるのだとか。
一本の木から始まったこの国のお話は、それから段々と専門的な話になっていくが、クローディアの頭ではついてくのが難しくなり、ローナの声はリズムを持った音として聞こえるようになっていく。
彼女の優しい声音は子守歌のようで、心地よい眠気に誘われた。
「――奥様、大変です!」
突然と呼びかけられ、クローディアはびくりと目を覚ます。
直前までうとうとしていたせいでとっさの対応がままならず、何が起こったのかうろたえてしまうがローナがすぐに視界の中に現れた。
「どうやら、さきほどの警士が奥様の素性を調べていたようです。それで奥様が体調を崩していると、夫君である旦那様に連絡を入れてしまって……」
「――え、――え?」
「申し訳ありません。実は、少し前からローレンスととても繋がりが悪くなっていて、すぐに気付くことが出来ませんでした。旦那様はもう、すぐそこまで来ていらっしゃっています」
「――ど、どうしようっ」
セドリックがすぐ近くまで来ている。
彼女の言葉がクローディアの頭を貫いて、弾かれるように立ち上がっていた。
「お待ち下さい。いま外に出てしまうと、それこそ鉢合わせしてしまうかもしれません」
「――そんな」
「ひとまずこの部屋にとどまりましょう。大丈夫です。照明は一つしかついておりませんから、どこかの物陰に隠れるだけで、お姿は見えなくなるはずです」
「…………」
確かに部屋は暗い。照明が照らし出すのは円柱の石肌ばかりで、少し離れた場所はほとんど見通せなくなっている。
「ローレンスとの繋がりが戻ったら、すぐにここを離れるように言いますから。さあ、こちらに」
言いながら先導するローナに、クローディアも身体が動いていた。




