19 予期せぬ出来事
セドリックから呼び出しを受けてから五日ほど経った。
あの呼び出しは、クローディアを実家に帰らせるためのものではないとローレンスから教えられて、クローディアはひとまず安堵していた。
けれど、それでもどこか落ち着けないのは、家にセドリックがいるからだろう。
邸内で出くわすようなことはないし、普段と変わりない生活なのだが、屋敷私僕たちが妙にそわそわしているような気がして、また何かあるのかと、どうしても気になってしまう。
繰り返すが、クローディアの一日自体には、何の変哲もない。
朝は、眠気が覚めるまでゆっくりとして、昼は、気分次第の散歩か読書、もしくは孤児院へ持っていくお菓子の準備。そして夜は、日課である就寝前の入浴時間である。
入浴といっても、身体や髪を綺麗にしてすすぐ事から肌や爪の手入れまで、一時間以上は普通にかかる手間仕事だった。
その日の夜も、侍女と家女中三体がクローディアにかかりきりになっていた。
よく温められたタイル床の浴室は、二つの区画に別れており、一方には猫脚のバスタブやシャワーノズル。もう一方には、パイル織りの柔らかな布が敷かれた寝台が備え付けられている。
防水用のワックスがかけられた木製の整理棚には、香りの抑えられた石鹸や洗髪剤、ローズ水や精製された植物の芳香油、オリーブオイルやはちみつを使った美容液などで溢れているが、他にも、レモンやオレンジ、ミルク、シナモン、粗塩や砂糖などが原材料の状態で置かれている。
これらの美容品は、服飾品の時とは違い、すべてローナたちの手作りだった。
クローディア、というより家人おのおのの肌に合わせて、ひとつひとつ調合してくれるのである。
特に浴室で使用されるものは腐敗を避けるため、女主人が入浴する傍らで、家女中のダリアが、これから使用する適量を今まさに調合してくれていた。
クローディアはもはや、何もする必要がない。
石鹸を溶かし入れたバスタブのお湯に、下半身を沈めているクローディアの裸体を、ローナが海綿を使って丁寧に丁寧に洗ってくれるし、それが終われば、シャワーヘッドから出るお湯を頭から被り、全身の泡をローナが洗い流してくれる。
バスタブから上がれば、家女中のマーガレットが用意していたパイル織りのタオルで身体を拭いていくが、同時に肌の健康状態も隅々までチェックされていく。
ただ、小さな頃からこうした世話を受けてるため、クローディアに抵抗感はなかった。
その後、全裸のまま寝台へと連れられて、水分を拭った髪と肌に作りたての美容液を塗り込みながら、血行と痩身を促すマッサージを全身に受けることになる。
最後に、バスローブを着せられて、手足の爪の手入れに入るのが一連の流れだが、この手間しかかからない毎日の日課を、侍女と家女中たちは幸せそうにこなしていく。女主人を磨き上げることは、彼女たちにとって何よりの喜びのようだった。
湯浴みの他にも、毎朝の着替えや新しい衣装を新調する時もそうだし、服から靴、装飾品などがイラスト付きで紹介されるドレスカタログを広げて、その年の流行ファッションを皆で話し合っている時も実にきらきらとしていた。
クローディアは、そんな彼女たちを見ながら、時々物思いに耽ってしまう。
もうすぐこの屋敷から出ていく身なのだから、自分で出来ることは自分ですべきなのだが、そういう話題を振ろうとするだけで、この世の終わりのような顔をされてしまうため、どうしても言い出せない。
時々ストローで飲み物をもらいながら、香ってくる甘いの匂いのせいで、自分が何かの食べ物になった気分になっていると、ローナがこともなげに切り出した。
「そういえば、まだお伝えしていませんでしたね。旦那様のことで」
どきりとした。案じていたことが的中してしまったのかと思った。
「もうお気付きでしょうが、先日から、こちらの方にご在宅されておいでです。どうやら、ようやくお仕事の方が一段落ついたのだとか。ですので、これからはきちんと、こちらのお屋敷に帰って来られるようですわ」
「…………」
「でも、ようございました。これで、旦那様に付きまとっている妙な噂も少しは収まりますもの。全く困ったものでしたわ。旦那様は、ただお勤めを果たしていただけなのに、おかしな噂ばかりが出回っていたのですよ」
ローナの独り言のような言葉は、クローディアの耳に張り付いた。
セドリックが老君の命で、現在は再現不可能だとされる疑似人格をもった人工精霊を作るため、精製素子の研究に携わっていることは、クローディアも知っている。
ローナの言い様では、本当に今まで、その任に就いていたから忙しくしていたように聞こえた。
「――ご興味が、おありですか?」
はっ、としてローナを見れば、彼女はすでにクローディアを見ていた。
何とも言い難い視線に見つめられるが、とっさの事にクローディアは反応できない。
けれどローナは、もう一度言い様のない微笑みをにこりと浮かべただけで、それ以上は何も聞いてはこなかった。
セドリックは辟易していた。
家に帰るなり、玄関先で出迎えた家女中が物言いたげな目でじっと見てくるのである。
そのうえ夕食の時も、ワゴンを運んできた給仕の家女中がセドリックを見てくるし、部屋と廊下を移動する合間にも、別の家女中と家女中と家女中が見てくる。
主人でなくとも、他者を凝視するのは失礼にあたると心得ているはずだろうに、それをあからさまに誇示してくるのである。
耐えかねて「何だ」と聞けば、「申し上げてよろしいのですか?」と必ず返ってくるため、セドリックは「……よろしくない」と答えるしかなかった。
クローディアとの関係が、家内の屋敷私僕たちに周知されてしまった以上、こうなることは分かりきっていたため、セドリックはしばらく旧リッテンバーグ邸に帰るのを止めようかとも考えたが、ローレンスから進言を受けることになる。
曰く、人工精霊の制作をしばらく家で行ってはいかがかと。
屋敷私僕たちにペナルティーの件は伝わっているが、今の浮き足だった状態で家を空けると、かえって変な気の回し方をして、取り返しの付かない事にもなりかねないと。
それを避けるためにも、セドリックには出来るだけ家にいてもらって、屋敷私僕たちの抑止になるよう、家への帰宅を進められた。
あからさまに怪しかった。
しかし、ローレンスの言にも一理ある。
それ以上に、あえて口車に乗せられたふりをして、良からぬ事を企む屋敷私僕たちのしっぽを掴み、見せしめに猫一匹を家の中に放り込んでやるのも手だと思った。
すでに通常の仕事に戻っていたセドリックは、旧リッテンバーグ邸での人工精霊制作の許可を老君から取って、公私ともに家へと帰れるようにしてある。
そうして、五日ほど経った。
屋敷私僕たちがしそうなことと言えば、クローディアとわざと家の中で遭遇させることだったが、偶然を装うにはあまりにも白々しすぎるからか、廊下やホールで出くわすことは無かった。
ただ、ある日の夕食時、いつもはない料理の説明があった。
肉料理か、魚料理かの一言くらいは前からあったが、やけに詳細に語り出したかと思えば、最後のデザートで、奥様の手作りだという言葉が添えられたのである。
何でも、例の孤児院へ持っていくために、クローディアがお菓子を作ったのだが、初めて作るお菓子だったため、分量を間違えてしまったらしい。
たくさん出来てしまったお菓子を、人工精霊である自分たちでは処理できないため、有効活用に是非ともご協力ください、と言われた。
詭弁。と、断じることも出来たが、セドリックは並べられた魚料理を口に運びながら、どうするかを考えに考え、すると、いつの間にか皿の料理が空になっていた。
出された食事を完食したのは随分と久しぶりだった。だからその日は、たまたま空腹だったことにして、デザートのお菓子も、セドリックは食べることにした。
他にも、ローレンスが、その日の終わりにクローディアが何をしていたかを、いちいち報せてくる。
しかし、奥様の様子を報告することは、以前からしてることだから何の支障もないはずだと言い張られてしまった。
どうやら、屋敷私僕たちは私僕たちなりに、ペナルティーぎりぎりのところを踏まえて動いているようだった。
彼らには、好意しかない事は分かりきっている。
だが、一片たりとも悪意のないお節介にセドリックはため息を禁じ得なかった。
夕食を終えた後、セドリックは旧リッテンバーグ邸の地下にある大書斎に篭もることになる。
そこで、人工精霊制作の作業に入るのである。
その前に、作業の邪魔になるからと必ず外すものがあった。
旧リッテンバーグ邸男主人の指輪。
「…………」
旧リッテンバーグ邸で使われた、木の建材を削りだして作られる男主人の指輪には、対となる片割れがある。
同じ屋敷の建材を同じように削り出されて作られる、その木の指輪は、言うならば伴侶の証しとも呼べる指輪である。
セドリックは、ともすると指輪を眺める自分がいることに、つい最近気が付いた。
そして、指輪を眺めるだけで、ほとんど何も出来ていない自分にも。
そのまま思考の泥沼にはまりそうになる頭を振り切って、セドリックは指輪を作業台の上に置いた。
とにかく今は、目の前にある問題をひとつずつ片付けていくことが、最も建設的な方法のはずだと自分に言い聞かせて、もう慣れた手元の作業に集中していった。
予期せぬ事態が起きたのは、その深夜。
「――旦那様」
声を落とした呼びかけに、ゆっくりと目蓋を上げる。
「旦那様、急ぎ判断を仰ぎたい事態が」
気付けばベッドの上にいた。
作業台の上で眠り込んだのをローレンスが運んだのだろう。ぼんやりと記憶もある。
視界に入る内装からして大書斎の簡易ベッドだったが、ローレンスの姿は見えなかった。
再び呼ぶ声が聞こえて、顔を向ければ声はベッドサイドに移動していた指輪からだった。
「――なに?」
「お休み中に失礼いたします。先刻、落雷がありまして。本邸に直撃したようです」
落雷。かみなり。高圧エネルギー。直撃。負荷。バースト。機能不全。
半覚醒した頭の中で、端的な思考と思考が結びついてく。
「…被害は?」
「三号回路に損傷が。人工精霊の実体化が不安定になっています。末端の導体にもいくつかにも不具合が生じており、家内の何カ所かが感知不能になっております」
「…自己回復できない?」
「許容範囲です。三十分もすれば、問題なく稼働できます」
「なら、修復しておいて。魔力の入れ替えは明日にするから。もう寝る」
話を切り上げるように掛布へと潜り込み、目蓋を閉じる。
「あの、それが……予期せぬ事態がありまして」
「んー?」
目を閉じたまま返事を返す。
「…その、なんと言いますか……何ヵ所か家内の状況を確認できないため、それで……いえ、屋内から出られたという痕跡はありません。屋敷内におられることは確実です。ただ、念のためご報告を」
「なに?」
しどろもどろな声に訝しんで聞き返せば、ローレンスは少しだけ躊躇ってから答えを返してきた。
「奥様が、寝室にいらっしゃいません」
ぱちりと、セドリックの目が一瞬で覚めた。
ものすごく大きな音がした。
びくりと跳ね起きてみれば、窓を叩きつける雨の音がクローディアの耳に届く。
―――雷。
クローディアはほっと息をついて、そのまま窓の外を見た。
何層にも重なった黒い曇天が、とどろきながら蠢いている。
閃く雷光が走った。
瞬く間の邂逅に、恐怖よりも好奇心の方にクローディアの胸はうずいてしまう。
もう子供ではないのだからと、働く自制心もあったのだが、少しだけならという誘惑の方が強くて、ちらりと、ベッドサイドに置かれた指輪を見た。
いちいちお伺いを立てる必要はないだろう。危険があるなら制止が入るはず。そういうことにして、クローディアはベッドからそっと抜け出した。
まずは部屋の窓から様子を見るが、周囲の建物が邪魔してどうにも視界が狭い。
眺めの良い場所を探してみるけれど、中庭は、景色は良く見えても空が見えづらかった。
確か廊下の方が視界が開けていたはずだと、思い出して部屋の扉を開けてみれば、タイミングよく鮮烈な稲光りがクローディアを出迎えた。
遅れてやってくる轟音が、彼女の肌を震わせる。
どきどきと胸が高鳴るまま、深く考えもせずに廊下の窓に歩み寄った。
曇天が光を孕んで明滅するのを見ている内に、クローディアの足は雷光が流れていく方に誘い出されていく。
ぺたぺたと歩きながら、どれくらい廊下を進んだ頃だろうか。ふと、視界の端に動くものを捉えた。
視線をやれば、廊下の端に黒い人影が立っていた。
びくり、と身がすむ。
窓と窓の合間にできた暗所に身を潜め、姿をはっきりさせない人影は、微動だにもしないため、クローディアの足は一歩退いた。
「奥様、ローレンスです」
聞き慣れた声に、とたん緊張がとけていく。
人影の方からしたローレンスの声は、けれど、いつもの礼服姿が見えない。白いシャツにズボン。身長もやや低い気がした。
「ただいま落雷がありまして、三号回路を中心に不具合が生じています。屋敷私僕は姿を現すことが出来ません。現在、旦那様の手を借りて回路の見回りに向かっています」
「――!」
クローディアは、目の前に立つ人影が誰なのかに気付いた。
その顔を思いっきり直視してしまうが、窓から差し込む逆光のせいで、表情どころか顔そのものが見えなかった。
はっとして、クローディアは視線を床に落とす。
そのせいで気付いた。今自分が裸足であることを。
ばかりか、ガウンも羽織っていない薄い寝間着姿だった。
はしたない格好を晒してしまっていることに若干うろたえていると、ローレンスが助け船を出してくれた。
「奥様、明日の朝には問題なく回復しています。安心してお休み下さい」
退却のお許しが出された。
クローディアはすぐさま頷き、きびすを返して廊下を駆けだした。
ローレンスからの報告に、セドリックは思い悩んだ。
クローディアが寝室から消えたというなら、その原因としてまず考えられるのは落雷だったが、子供の頃に彼女が雷を恐がっていたという記憶は無かった。
家内の機能が回復する三十分を待てば、すぐさま安全を確認できるだろうが、その間にさらなる不測の事態が起こらないとも限らない。
セドリックは苦慮の末、こっそりと様子だけでも確認することにした。
だが、廊下の窓から雷光を眺めているクローディアの姿を発見した時、己の考えが大きな間違いであったことを悟った。
雷のことではない。
クローディアの寝間着姿のことである。
襟ぐりの大きく開いた、ハイウエストのネグリジェだった。
それが窓から差し込む稲光によって、その下にある輪郭を色々と透かしていた。
しかも彼女は、寝乱れた髪と顔でセドリックを真っ直ぐと見返してくる。
何かを察したらしいローレンスが、追い立てるようにクローディアを寝室へ戻るよう促し出した。
クローディアは当然のごとくそれに従い、セドリックには何の断りもないまま、逃げるように駆けだしていく。
そして、寝間着の裾が廊下の角へと消えるなり、ローレンスが再び語りかけてきた。
「旦那様、奥様のご無事は確認できました。では、我々も戻りましょう」
「…………」
「……旦那様?」
もう誰もいない廊下を見つめながら応えずにいると、何を思ってかローレンスが礼服に身を包んだいつもの姿を現した。
ところどころ実像の乱れた、不安定な姿で。
「旦那様、夜も更けております。お体に障りますので、出来るだけ早い休息を」
セドリックは、ローレンスに視線を投げる。
どこか必死な様子で説得を試みてくる彼に、自分がいま、ものすごく不埒な容疑をかけられている事に気付いた。
どんな人間でも魔が差すことはある。それをよくよく理解しているからこそ、不安定でも実体を現してきたのだろう。いざとなれば、力ずくで止めるために。
ローレンスの危惧は褒めて然るべきものである。だが今は、行き届きすぎる気遣いが、却って言いしれぬ腹立たしさをセドリックにもたらした。
黙ったままクローディアとは逆の方向に足を繰り出すが、その際、腹いせとして廊下の壁をしたたかに殴りつけてやった。
「――え。ちょ、何ですか?」
自然現象である雷雲や落雷を、意図的に起こせるはずがない。
たとえ起こせたとしても、どんな被害が出るか分からない高圧エネルギーを、自らの本体に直撃させるはずもない。
よって、屋敷私僕たちのはかりごとではないことは明白である。
しかし。
しかしである。やはり、何かが無性に腹立たしかった。
だから、とても手近で手頃な八つ当たり先に、もう一度思いの丈をぶつけてやる。
「……あの、やめて……止めてください」
痛覚のないローレンスの困惑した声が、セドリックの背後から付いてくるが、壁を静かに殴りつける音はもうしばらく続いた。




