17 語られなかった事実
ローレンスは、しばらく放心状態から抜け出せなかった。
昔のことを思い出したという、主人の言葉が頭の中で反響していた。
しかし、唐突にある事柄と結びつく。
「あの小箱ですか? あれは記憶媒体だと仰っていましたね」
「……そうだよ」
「では、あの時に思い出されたのですね、昔の記憶を」
「……そう」
「クローディア様とは浅からぬ仲だったのですね」
「…………」
沈黙は肯定だ。
ああ、と眩暈がする気がしてローレンスは頭を抱えてしまった。
偶発の域を出ない臨界現象やら、婚約者に赤の他人として扱われたクローディアの心境やら、主人が挙動不審だった理由の判明やら、様々な事柄が頭をよぎっていが、ローレンスは間違えることなく最も重要な事柄を選び取った。
「奥様を、愛しておられたのですか?」
「あっ――ばっ、誰がそんなっ!」
ソファから、勢いよく起き上がるなり叫ぶ。
ローレンスは耳を疑い、目を疑った。
声を荒げたこともそうだが、心なしか頬が赤いように見えるのだ。
言った本人も自分自身で信じられないのか、勝手に動いたらしい口を手で覆い隠している。
「……違う。記憶が、子供の……」
そう、歯切れの悪いことをつぶやく。
だがそれは、彼にとってクローディアが小さくない存在だと言ったようなものだった。
まさか、自分の主人にそんな人がいたなんて思いもしていなかったローレンスは、急くように先を続けた。
「ともかく。ここ最近、旦那様のご様子が可笑しかったのは、奥様に事実を話されようとしていたためだったのですね」
それで全て合点がいくと意気込むが、セドリックから返ってきたは、期待していたものと全く違う顔だった。
何が気に障ったのか、機嫌を損ねたように目をすがめる。
「……事実? 事実って?」
「え」
「レコードについて? それとも俺の“仕事”について?」
「それは……」
「記憶が吹っ飛んだことについては、まあいいだろう。でも、俺がしていることは口外できない。そういう誓紙を老君と交わしたから」
ローレンスは言葉に詰まった。
誓紙とは、起請文とも呼ばれる誓いを書いた木皮紙で、これを破れば大きな制裁を課せられる、とても重いたい宣誓書だった。
「それともお前は、俺に誓いを破って欲しいのか?」
「……いえ。ですが……でしたら、そのことは伏せて」
「それってさ、彼女にどれだけ不誠実なことをするか分かるか?」
セドリックはソファの上で座り直し、背もたれに肘を付けながら言った。
「俺が彼女に言うとするよ。昔の記憶を思い出しました。自作のレコードに封印されていましたって。だから七年もの間、音信不通してしまいました。そう言って謝るとする。そこまではいいよ。彼女が許してくれるかは、別として」
機嫌の悪さを隠しもしない言い様だった。
「でもさ、本当に謝る気持ちがあるなら、その七年間と結婚してからの二年間、俺が何をしていたのか話すべきだよな?」
どう答えるべきか迷うローレンスを待たず、セドリックは続けた。
「最初の五年は学生時代になるわけだから、馬鹿ばっかりに囲まれてクソ面白くもない毎日だったけど、お前も知っての通り、俺は十六の時にこの旧リッテンバーグ邸を復旧してみせて、あの性悪共に目を付けられた。それ以来、やりたくもない仕事を押し付けられて扱き使われている」
「……旦那様のしていることは、とても意義のあることです」
「人工精霊はいつもそう言うけど、俺はお前たちの仲間を一体作るたびに、人間の醜悪さを見せつけられて吐き気がするよ」
「……それも、旦那様がいつも言われる言葉です」
言えば、セドリックは憮然とした顔をする。
だが、いつものように堂々巡りにしかならないからか、彼は早々に見切りを付けたようだった。
「ともかく、おかげで俺は貴族だの商人だのとすこぶる悪い評判を獲得したうえ、結婚前から付き合ってる女がいると噂されている」
ローレンスはまた口をつぐむが、今度はあえてだった。
「…お前は、クローディアが、どこまで知っていると思う?」
「………おそらく…いえ、わかりません。確かめてはおりません」
途中で言い直したあと、取りなすように続ける。
「ですが、旦那様の身の潔白なら私めが保証できます。貴方が、クローディア様を裏切るようなことをなさっているとは思えません」
これは、真実だった。彼は自分の懐に他の人間を入れたがらないため、よく知りもしない女性はもちろん、テレサ・ランヘルとも親密な関係になったことはなく、少なくとも彼に仕えてきたこの三年間、ローレンスは一度たりとも見てきていなかった。
それほどまでに他者を受け入れないのは何故なのか、はっきりとした理由は教えられておらず、ローレンスから尋ねることもしたが、主人の堅い口は閉ざされたままだった。
分かっているのは、セドリックが婚外子という存在に対して激しい拒絶意識を持っており、そのリスクを冒す行為をひどく忌み嫌っているということである。
だからローレンスは、それをそのまま訴えた。
しかし、セドリックは肯定も否定もせず、ただ気怠そうに首をソファに傾けた。
「だからさ、お前がいくら保証してくれたって、その保証をとやらを担保するには、やっぱり仕事について話すしかないわけで。でも話せば、老君との誓紙を破るわけで。はい、振り出しに戻った」
「あ……」
「分かっただろ。九年間も放っておいたことを謝ろうというのに、悪評やら愛人やらは言えませんって、そんな都合のいい事を言えっていうのか?」
「…………」
「そんなことをして、彼女に余計な負担をかけるより、何も話さないでこのまま――このまま別れた方が、よほど彼女ためだと言えるんじゃないのか?」
ローレンスは理解した。
セドリックが記憶を取り戻しても、すぐにクローディアへと話せなかった理由を。
そして、自分たち屋敷私僕にも話そうとしなかった理由も。
家を本性とする屋敷私僕には性がある。
取り分け家族の核となる夫婦仲は、彼らの本質的な部分に触れるため、介入の余地があるなら、とことん介入せずにはいられないだろう。
現に、ローレンスは探してしまっている。この手詰まりでしかない状況を、どうにか打開できる方法はないのかと。
しかし、そんな彼を突き放すように、セドリックはさらに言葉を重ねた。
「そもそもさ、九年だよ。音沙汰無しってレベルじゃない。そのうえ赤の他人扱いされて、ずっと捨て置かれて。今さら関係の修復を図ろうなんて、どれだけ虫がいいんだよ」
返す言葉もなかった。しかもである。ついさっきセドリックを前にした、クローディアの有り様を目の当たりにしたばかりだった。
主人の方を一切見ず、一言も発しようとせず、いっさいの意思疎通をはねつけるように、ひたすら黙って立っていた。
いや、あれは、どちらかといえば――そこまで考えて、ローレンスは言いしれぬ違和感を感じた。
何がどうという、はっきりした形はない。ただ、何かがおかしいような気がした。
おかしい“何か”が何なのか、すぐには分からなくて、ローレンスはセドリックの言葉を反芻する。おかしい“何か”は、その中に見付かった。
「……おかしくは、ないですか?」
「……なに?」
「なら、どうして奥様は、旦那様と結婚されたのですか?」
「…………は?」
ローレスの端的な問いかけに、セドリックからは疑問符が返される。
「奥様は旧家の出身です。旦那様と成婚されるまで、旦那様の醜聞を一切耳にされなかったとは思えません。正導学会と関わりがないのなら尚更です。クライン家の家名を貶めかねない結婚だと、ご家族の方から説いて聞かされたはずでは?」
セドリックの眉が不愉快そうに歪められた。
「……あること無いこと吹き込まれた可能性はあるだろうな。でもそれは、彼女を痛めつけるためだろうよ。それをするヤツに心当たりがあるから」
吐き捨てるような台詞に、クローディアの実家での暮らしが想像されて、ローレンスは胸を痛めるが、今は目をつむることにした。
「でしたら、なおのこと。そんな話を聞かせられていながら何故、クローディア様はセドリック様との結婚に踏み切ったのでしょう」
セドリックは押し黙った。
何の言葉も発しなかったが、彼は、口ではなくその目で答えていた。
ローレンスの感じていた違和感が伝わったのだろう、ゆっくりと見開かれていく。
「貴方は、自分と結婚するからにはよほどの理由があるのだろうと、以前に仰っていましたね。しかし、正導学会という理由はなくなりました。なら、クローディア様にはまったく別の理由があったことになりませんか。“よほど”という言葉が頭に付けられるくらいの理由が」
セドリックの目には、明らかな動揺が走っていた。
「確かめたかったからではないですか? 事実を」
「……――――」
「奥様が、旦那様と結婚されたのは、貴方の口から事実が語られることを望まれていたからではないのですか?」
青い目が大きく揺らいでいた。
そんな動揺を悟られたくなかったのか、セドリックは答えることをせず、顔を背けるように下を向いてしまう。
しかし、ローレンスの言葉を、真に受けたからこその反応だろう。
クローディアは今まで何度となく、婚約者の良くない噂を耳にしてきたはずなのだ。
それなのに、出所も不確かな風評には惑わされることなく、事実を確かめるためにセドリックのもとまで来てくれた。
もし、そうだとしたら、ローレンスも心が震える思いだった。
人間不信の人間嫌いである、ローレンスの主人にそんな人がいたなんて。そこまで想いを交わした人がいたなんて思ってもみないことだった。
「仮に――仮にそうだとして、今も望んでいるとは限らないだろ……」
顔を背けたまま、セドリックが物怖じしたように零す。
「そうだよ。さっきの様子をお前も見てただろ。彼女は、こっちを見ようともしなかった。会話すらして」
「そうなって当然でしょっ。どうしてこの小書斎に呼び出したんですかっ」
知らず声を荒げていたローレンスに、虚を衝かれたようにセドリックが振り返る。
「ここは二年前、奥様が旦那様から知らない人扱いされた挙げ句、離縁を申し渡された場所ですよっ。そんな場所にもう一度呼び出されて、真っ直ぐ面と向かえという方が無理でしょう。そのうえ資格うんぬんと、いきなり追い詰められて、冷静に受け答えできますかっ」
完全に叱りつける調子になっていた。
面食らうばかりだったセドリックは、次第にその表情を崩し、苦悶の色を滲ませる。
ただ、これに関しては彼ばかりを責められなかった。
どういった話し合いがされるのか、もっと踏み込んで確認しておくべきだったのだ。
以前、クローディアの時は、彼女のことをよく知らずに失敗したが、今回は違う。
わずか数年の付き合いでも、我が家の男主人と女主人がこういう場面を不得意としていることは、充分察知できたはずだった。
場所や招き方といったセッティングの重要性を、きちんと進言できなかった己のいたらなさを、ローレンスは悔いた。
「――――……俺に、どうしろって言うんだ」
呵責と葛藤をない交ぜにしたような声。
いくらクローディアの内面を論じたところで、八方塞がりな状況であることに変わりはない。でなければ セドリックもここまで悩んでなどいないだろう。
しかし、ローレンスに諦めるという選択などできはしない。
とにかく何でもいいから、打開策を求めて頭を巡らせた。
最大の問題は、老君プリンケプスと交わした誓紙が邪魔して、セドリックはクローディアに全てを話せないことに尽きるはず。
あの誓いを破らせることはローレンスとて本意ではない。
なら、破らせなければいいのではないだろうか。そう、たとえば、
「たとえば、彼の方との誓いを履行することはできないのですか?」
「…………」
セドリックからの反応は薄かった。
まるで、思ってもいなかったことを言われて、理解が追いついていないという顔に、ローレンスも少なからず驚いた。
まさか、それを考慮していなかったのだろうか。
いつもなら、気付かなくていい事にも気付いてしまうくらいなのに、ローレンスは訝しみながらも続ける。
「旦那様が、彼女のことを考えて身を引こうとするのは分かります。ですが、私は屋敷私僕の人工精霊です。出来ることなら、我が家の女主人であるクローディア様を諦めて欲しくはありません。ですから、もっと悪足掻きをしてくださいと強く意見いたします。どのみち、あと一年は定められた法によって離婚の成立は認められないのだから、まだ時間は残されているはずでしょう」
「……あと一年以内に、“仕事”を終わらせろって?」
「はい。すでに三年以上かけてきているのです。もう充分ではないですか? 貴方はそろそろ、働きに見合った報酬を受け取るべきです」
「…………」
セドリックは、しばらくローレンスの顔を黙って見つめていた。
それから、ここではないどこかを見据えると、考え事に耽りだす。
一考の価値ありと判断したのだろう。ならば、主人の邪魔をしないよう、ローレンスはその場で待機するのみである。
仕事を終わらせる。
それは、日増しに精神的負担を大きくする主人の姿を見てきたローレンスが、もうずっと前から考えていたことでもあった。
だから真っ先に浮かんだのだが、同時に、この考えをセドリックが思考の外にしていたことが意外だった。
彼の境遇をかんがみれば、それも致し方ないのかもしれない。
お歴々からの要望に唯々諾々と従い、やりたくない事をやらされる日々がもう三年以上続いていた。
セドリックにとってそれが日常になりすぎて、終わりどころか進捗状況を見通すための裁量すら失っていたのかもしれない。
だとしたら、ここで主人に助言できたことは、ローレンスにとっても幸いだった。
やがて、セドリックが面白くなさそうにローレンスを睨んできた。
おそらく、彼なりの答えが出たのだろう。そしてそれは、そのふてくされた顔からして、高確率でローレンスが望んだ答えと同じものだと考えられた。
しかし、主人はなかなか切り出そうとせず、ローレンスは待ちきれずに口を開いた。
「老君から、旦那様の体調をうかがう報せも来ていますし、近日中に、彼の方にかけ合ってみてはいかがですが?」
すると、ますます面白くなさそうに眉をゆがめる。
「――――……考えておく」
その言葉に、ローレンスは感極まった。
彼の『考えておく』は、『分かった』と言ったも同然である。それくらいの判別は付くくらい、彼との付き合いはある。
ほんの先刻まで全てを諦めていた主人を、己の言葉で踏みとどまらせたのなら、ローレンスは今まさに屋敷私僕としての本分を果たせたことになる。
「ええ。そうですね。考えておいてください。そして一日でも早く、旦那様のお仕事を終わらせましょう」
「あのな。まるで、それさえ済めば全部解決みたいな言い方してるけど、そう言うのを皮算用って言うんだ。上手くいく見込みなんて、どこにもないだろ」
「もちろん、分かっています。本当の正念場はそのあと、奥様を引き止める、正当な言い訳を勝ち取ってからですから」
「……ものすごく、情けない響きだな」
「何を仰います。私にとって、これ以上に大事ことなどありません。我らが男主人に愛する人がいたのですよ」
聞き捨てならないとばかりに、すぐさまセドリックが反応する。
「――おい、愛とか言うのヤメロ」
またしても、頬がうっすら赤かった。
三年も仕えてきて、まず見られなかったその反応に、ローレンスは心が浮き立つのを止められない。
「そのように恥じらう必要はありません。それは人間の有する最も優れた感情です。我々は、もちろん旦那様の味方ですから、もし何かできることがあれば、いくらでもご協力いたします」
出来ることは、老君との誓いを果たす働きかけだけではない。
今からでも夫婦仲を取り持てるきっかけがあるなら、いつでも力添えする所存だと、ローレンスは言外に伝えたが、セドリックの返事はにべもなかった。
「……先に言っておくが、クローディアに関することで何かくだらないことを目論んでみろ。ペナルティーとして猫のつがい二十匹を飼ってやる」
とたん、ローレンスの笑みがひくりと引きつった。
ネコ。
古くは、役畜として家に従属し、『家猫』という名まで冠されておきながら、時代が下るにつれて数々の人間たちを手練手管で籠絡しはじめ、ばかりか、守るはずの家内をところかまわず飛び回っては、家具や衣類を引っ掻き回す非道な存在へとなり下がった、問答無用のケダモノである。
それをつがいで二十匹。ローレンスの高揚感はいっきに沈下していった。
「わかったなら、お前はまず、老君と謁見できるように手配しろ」
「……はい」
ローレンスは言われたとおりに動き出すが、しかし、だとしたら困ったことになると頭の片隅で思った。
男主人と女主人の間に起こったやむにやまれぬ事情が、この屋敷の中で告げられた今、すでに屋敷中の人工精霊に知れ渡ったと言っていい。
彼らの自意識は個々に自立して、考えそのものを共有しているわけではないが、根本的な部分は魔力回路でつながっている。
自分たちの性に駆られて、すでにそわそわしはじめており、内の何体かは、主人の目をかいくぐる方法を模索している気配も感じられて、どうしたものかと、ローレンスは彼らの対処に悩む。
もしそんな方法があるなら、自分だって手を貸したいと思わずにはいられない。
そんな己を鑑みて、ローレンスはしばらく家内秩序が乱れることを覚悟した。