16 二人の溝
屋敷私僕たちの様子がいつもと違う気がする。
クローディアは、何となくだがそう思っていた。
日々の暮らしに変わりはない。いつものように、お菓子の箱や包装紙を手作りしたり、時々は散歩に出かけたり、週一度の休日には孤児院へと通っている。
私僕たちのよそよそしさは、そんな日常の合間に起こっていた。
特に侍女のローナである。
一体どういう意味があるのか、時々、何もない壁紙や空っぽの額縁をじっと見つめていることがあり、クローディアがどうしたのかと聞いてもすぐに言葉を濁される。
かと思えば、出ようとした部屋の扉に立ち塞がってきたり、進もうとしていた廊下の進行方向を変更するよう求められたりと、明らかに普段とは違う振る舞いが目立った。
おかしな行動は、料理番たちにも見られた。
クローディアは、屋敷の後邸にある調理場に顔を出す機会が多いのだが、いつもなら下拵えなどが終わっている時間に準備中だったり、料理そのものの調理中だったりする。
さらに言うと、それらはクローディアの食卓には並ばなかったりするのだ。
私僕たちは食事を摂らないので、どういうことなのか不思議だった。
他にも、邸内での業務が多い十体の私僕たちは、いつも挨拶やら何やらで毎日のように顔を見せに来ていたが、ここ数週間ほどは、その半分くらいしか姿を見ていない気がした。
最後にもう一つ。夫セドリックが、よく帰宅――というより屋敷に滞在している気がするのだが、侍女ローナからこれといった説明がない。
知っておく必要がないのなら、クローディアもわざわざ聞き出すような事をするつもりはなかったが、彼らの様子がいつもと違うのは、そのせいなのかもしれないと思っていた。
だとしたら、色々なことに合点がいく。
私僕たちの半分が姿を見せないのは、男主人の身の回りに割り当てられているからで、料理人が忙しそうなのは、彼の分の食事が用意されているからだろう。
そして、邸内だというのにローナから進行方向の変更を求められていた理由だが、実家にいた時は良く同じことをしてもらっていたので、それを推察するのは簡単だった。
意に沿わない相手と鉢合わせしないように、配慮してもらっている。
確信はないけれど、もしそうならクローディアは私僕たちの厚意に甘えるつもりでいた。いつもとの違いが気にならないと言えば嘘になるが、何事もないことに越したことはない。
そうして一人納得していたある日のこと、いつものように衣装部屋で朝の着替えを終えた時、ローナから声をかけられた。
「――奥様、その……」
彼女は、めずらしく口ごもっていた。
どうしたのかと、クローディアは黙ってローナを見つめるが、やけに恐縮しきっており、すぐには口に出さない。
今日の仕立てに何か不手際でもあったのだろうかと、クローディアが自分の姿を見下ろした。
街で流行っているブラウスにコルセットスカートという基本の土台に、侍女が才腕をふるって、厳選した上下の組み合わせや靴、帽子やアイテムでアレンジしていくのが、ここ最近の主流である。
いつも通り、配色と装飾がきれいに纏められている気がしたが、いつもと比べると、ブラウスのフリルやリボン、スカートのドレープやフレアが、やや控えめのようにも思えた。
ローナが、慌てて切り出す。
「いえ、違います。奥様は今日も素晴らしく愛らしい、ローナの奥様です」
ただ、とその後に続けると、とても申し訳なさそうに彼女は言った。
「…旦那様が、奥様をお呼びです」
そんないつもとの違いは、さすがに考えてもいなかった。
「奥様にも都合がございますから、もちろん断ることは出来ます。その際は、こちらから旦那様に申し上げますので、どうか気後れされませんよう」
ローナはそう、言い足してくれた。
けれどクローディアは、セドリックからの呼び出しを受けることにした。
ローレンスを通さず、直接対話を持ちかけられたからには、それほどの用件なのだろうと思った。
なら、いま断ったとしても、後からまた呼び出されるかもしれない。
そう考えて、クローディアは大人しく従った。
あまり食の進まなかった昼食後、ローナを伴ってセドリックの小書斎にまで足を運ぶ。
二年前に入ったきりの小書斎。
その扉をローナがノックをすると、ローレンスが音もなく扉を開いていく。あの時と、そっくりそのままの光景に、クローディアは妙な緊張感に見舞われた。
扉が開かれてから、半瞬遅れて小書斎の沓摺りを跨ぐ。
なるべく視線を下げながら奥へと進み、部屋の中ほどで足を止めた。
そこは、木とワックスの独特な皮膜が目に付く、書斎机の脚が少しだけ視界に入る場所だった。
だからクローディアには、セドリックが書斎机の隣りに立っていることは見えていなかった。
ただ黙って待っていると、ずいぶんゆっくりとした間合いで話が始まる。
「――…ローレンスから、聞いた」
聞き慣れない声。
記憶よりも低い声だから、まだまだ違和感がぬぐえていない。
とにかく、クローディアは従順にして待った。
どんな用向きで呼び出されたのか分からないが、早く済ましてしまいたかったから、口答えする気などまるで無いように見えるよう、けっして顔を上げず、余計な言葉も持たず、書斎机の脚を見つめながら続きを待った。
「…………」
かなりの時間が経った。
セドリックと直答するのは二年ぶりだが、クローディアの知っているセドリックと会話をしたのは九年も前のことになる。
今の彼が何を考えているのか分からないのは仕方ないとして、いっこうに続きが始まらないことにクローディアは困惑していった。それでも顔を上げることはしない。
不意に、息を呑むような音を聞いた気がした。
「……資格を取ったと、聞いた」
心なしかさっきよりも強ばった声で、彼は言った。
資格のことはローレンスを通して許可を得たはずだから、何の不備もないはずだ。
それなのに、どうして今さらそんな話題を持ち出されるのか、クローディアには分からなかった。
「クライン家に、帰る気がないのではと……本当にそのつもりなのか、聞きたい」
「…………」
また、分からない質問だった。
どうして、そんなことを聞かれるのか。思い当たる節が無くて、頭の中が空転する。
あの時もそうだった。
身に覚えのないことばかりが彼の口から飛び出してきて、何をどう答えていいのか分からなくなった。
そう、あの時は―――実家に帰れと、確かそんなことを言われた気がする。
それを思い出し、発してもいない言葉を失った。
帰されるのだろうか。
これは、自分をあの家に帰すために設けられた場で、だから、資格を取ったことを咎められているのだろうか。
突然のことに対応しきれないクローディアに、セドリックの問いが続く。
「……実家を出て、どうする。何をするつもりなのか……何が、したい」
クローディアは答えられない。
資格を取り上げられないように、あの実家に帰らずにすむように、どう受け答えればそう出来るのかさっぱり見当が付かなくて、時間だけが無駄に過ぎていく。
およそ会話と呼べる間隔はとっくに過ぎて、彼女の答えは“無言”だとしか受け取れない様相を呈していた。
それでも室内の静寂は破られず、下を向いて立っているクローディアの平衡感覚がゆらぎそうなくらい長い時間が経過する。
不意に、わずかな衣擦れの音と、誰かの足が床を移動する音が彼女の耳に届いた。
「―――――もう、いい」
やけに遠い声だった。
それを合図にしてか、背後に控えていたローレンスがクローディアの隣りに立つ。
丁寧な身振りで退室を促されるが、このまま退室しては自分の望まない結果になる気がして、クローディアはローレンスを見上げた。
すると、彼はクローディアに向かって軽く頷いて見せる。
あたかも心情を汲んでくれたようで、ひとまずこの場から退くことが最善であるとローレンスから言われたような気がした。
彼に従って動き出したクローディアは、小書斎の扉から出ていく時、ほんの一瞬だけ部屋を振り返っていた。
彼女の目に映ったのは、ソファの背に手を付いて立っているセドリックの後ろ姿だった。
「どういうことなのですか?」
クローディアをローナに任せたあと、ローレンスはソファの後ろに立っている主人に、そう投げかけた。
「……何が?」
こちらを振り向きもせず、背もたれを支えにしたまま彼は答えた。
「奥様に対する、あの言い様です。まるで、彼女から資格を取り上げようとしているように聞こえました」
部屋の一角から、もどかしいほど対話のままならない二人を見ていたローレンスは、その非を目前の主人に問い糾す。
しばらく黙っていた背中は、ふとしたように言った。
「――…なるほど。確かに、そうにも聞こえるな」
どこか他人事のような口振りに、ローレンスは困惑を隠せない。
「まさか、実家に帰されるつもりではないですよね」
「無いよ。あるわけ無いだろ……ああ、そうか。本人にも言っておいてくれ。そんなつもりは無いって――――好きなように、したらいいって」
最後の一言は、ひときわ感情のない言い方だった。
セドリックは、背もたれの後ろから正面に回って、ソファの座面に腰掛けるやいなや倒れ込む。
「それと、明日からいつも通り仕事に戻るから。あっちにも連絡とか頼む」
「…………」
その言い様はまるで、この数週間、セドリックを奇妙な行動に走らせていた全てが、たった今片付いたのだと、言外に知らせてくるものだった。
それで、ローレンスが納得できるはずがない。
「待ってください。奥様に……クローディア様に何があるのですか?」
まさか、ここまで来て彼女には何もなかったで終わるつもりなのか。
少なくとも、ローレンスの主人にとって、とても重要な何かを秘めていたはずである。
さっきまでセドリックが立っていた場所にローレンスは立ち、背もたれ越しに彼を見下ろした。
小さく笑う声が、ソファから聞こえてくる。
「お前が考えてるほど、深刻な事じゃないから。……ただ、ちょっと。思い出しただけだよ。昔のことを」
彼の口調は、一転して軽々しい。
「……昔のこと?」
「彼女とは、子供の頃に会ってた」
「……それは、お聞きしています。十年ほど前に婚約の顔合わせをされたとか。でも、覚えていないと以前に」
「覚えて――思い出したって言ったら、どうする?」
「……え?」
「前にクローディアが言ってたろ。自分のことを覚えていないのかって。本当なら忘れちゃいけないことを色々と忘れたんだよ。俺の方が」
「――それは、どういう?」
「記憶が抜け落ちてた。昔、未熟だった子供の知識で、性能を無理に向上させた記憶媒体が臨界現象を起こしたせいで」
「なっ――」
あまりのことにローレンスは絶句し、けれど、セドリックの口から語られる言葉はどこまでも投げやりだった。
「それで、クローディアのことを全部忘れた。それだけだよ」