ガーネットの心臓
「カムパネルラ君、見つからなかったそうだ」
父さんのその言葉に、僕はベッドの上で凍りつきました。目が大きく見開かれ眼球が乾ききり、服との間に定規が入ったかのように背筋がぴんと伸びて、またもとの猫背に戻るのが、自分にも分かるほどでありました。
部屋の中を照らすオレンジ色の光が、ひどく寒々しく思えてきてなりませんでした。ありったけの毛布をかき集め抱きしめてはみましたが、どうしても震えが止まりません。
僕は使用人のグアニルに暖炉の火をたくよう言いつけました。彼はカムパネルラと同じ石炭のように真っ黒な髪の毛の中で眉をひそめはしたものの、すぐに薪の用意を始めました。
父さんは、子猫のように震える僕と、窓の外で光る夏の大三角形とを見て心配そうに言います。
「まだ寒いのかい、ザネリ。そうだろう、そうだろう、川に落っこちたんだから。風邪を引かないように、しっかりと体を暖めるんだよ」
僕は一つ、うん、と首を縦に振りました。
「……それから、ザネリを助けて亡くなったカムパネルラ君に、ありがとうと言いに行こう。彼は君の、そして僕の救世主だったのだから」
うん、うんと何度も必死に首を振ると、そのままそうっとうつむきます。温まり始めた部屋の中で唇は乾ききり、舌で少し湿らすとぴりりと痛みました。
肌色の壁に立てかけられた大きな姿見を見ると、そこには一人の、茶髪で、顔が鏡開いた教科書の紙のように真っ白な顔をし、ただ胸につけられた星型のブローチのみが変に赤い、そんな少年が写っているだけでありました。
ブローチはこの町の特産品である宝石のガーネットの周りを水晶で囲んだ代物で、母さんが入学祝いにくれたもの。僕はそっとそれに触れると、引きつった口元を無理矢理笑みに変えながら開きます。
「もういいよ、父さん。ただ、胸の中がひどく冷たくて、凍っているみたいな気持ちがするだけなんだ」
(そして父さん、僕のこの心臓にとりついた氷は、もうどれだけの時間がたっても消えないような気がするのだよ。そうだ、このブローチが僕の今の心臓なのだ)
僕が心の中でそうっと付け足すと、父さんはひどく悲しい顔をして、何かを言おうとしましたが、首を横に振ると部屋を出て行きました。バタン、とひどく乾いた音が室内にこだまします。グアニルはいつの間にかいなくなっておりました。
(僕は、一体、何がやりたかったのだろう。カムパネルラの、そして周りのみんなの大切なものを奪って、何がやりたかったのだろう)
そんなことをぼんやり考えながら、僕はグアニルが置いていったホットミルクのカップを手にすると、じんわりやってくる温かさに驚きながら口をつけました。この牛乳は、あの父親がラッコの密漁をしているらしいジョバンニという少年の名前を偽って、仲間と盗ってきたものであります。彼はさぞかし困ったことでしょう、しかしいつもそこでこみ上げてくる笑いも、今日は一欠けらもありませんでした。
窓の外を見ると、その枠では切り取れないほど大きな天の川が夜空を彩っております。僕はそれにほう、とつぶやくと、そんな自分に気がついてまた小さくうつむきました。
その時、僕は窓の外で家の前を必死で駆けていくジョバンニの姿を見ました。彼の頬は血のように赤く染め上がり、目元は大きくはれ、その瞳は涙でいっぱいになっておりました。彼の視線と僕の視線がぶつかり合い、ジョバンニははたと止まりました。
僕は仕方なく毛布をはねのけベッドから降りると、窓にかけられたクレッセント錠をはずし思いっきり引っ張りました。
暖まりきっていた部屋の空気が一瞬で外へ投げ出され、生ぬるさと鋭さの混じる夜風が僕の凍った心臓を一突きにします。凍ったそれは小さく音を立てました。
「なんだよ、ラッコの――」
しかしそれをさえぎって、ジョバンニは口を開きました。
「ザネリ」
いつもとは違う、怒ったような、何かを決心したような顔つきの彼に、僕は身構えました。どんなきつい言葉でもジョバンニ程度なら跳ね返せる、僕は僕を守れる、そう思ったのです。しかし、それは暴言でも僕を責める言葉でもありませんでした。
「……ねえザネリ、ぼくはどうすればいい? カムパネルラは石炭袋へ、おっかさんの元へ行ってしまった。彼は彼の、ほんとうのさいわいを見つけに行った。ぼくはさそり座になれない。銀河鉄道は、もうぼくを乗せてはくれない。カムパネルラは、ぼくの親友は、行ってしまった……」
そうして彼は不思議な話を始めました。夜空を走る銀河鉄道が現れたこと、奇妙な乗客たち、天上、サウザンクロス駅のこと。そしてカムパネルラが、石炭袋のところで急に消えてしまったこと……。
それが何を意味しているのか、僕にはさっぱり分かりませんでした。暖炉の火はいつの間にか燃え尽き、ただ真っ暗な空に散りばめられた星と、一人の少年の死を悲しむ町が作った風が、僕達を静かに見守っているだけでありました。
ジョバンニは、目を話の中にも出てきたさそり座のアンタレスという星のように真っ赤にして、僕に問いかけます。
「ねえザネリ、ほんとうのさいわいって、何なんだい? みんなのほんとうのさいわいのために、ぼくは何が出来る?」
答えることなど、できるわけがありませんでした。ただ、「ほんとうのさいわい」という言葉を聞く度に頭がずきずきと痛み、凍った心臓に大きなヒビが入っていくようでした。
「ジョバンニ」
僕はそう声に出して、その続きを言葉にしようとしました。
(ねえジョバンニ、僕が――もしも僕が、わざと川でおぼれたふりをしたって言ったら、君はどうする?)
川でおぼれれば、みんなが心配してくれる。みんなが僕のことを考え、僕のことを思ってくれる。だから――だから僕は、わざと足を滑らせたのでありました。まさか、カムパネルラが、散々からかっていたジョバンニの友人が、助けに来るなど思わなかったのです。そしてもちろん、彼が死んでしまうことなど知りもしませんでした。
僕はその全てを彼に話そうと思いました。カムパネルラの親友である彼に、全てを懺悔しようと、そう思いました。
しかし、僕にはそんな勇気などありませんでした。
心臓が跳ね上がり、その後すぐに出てきた涙でいつも見ている街がぼやけました。それでも氷で囲われたそれは砕けず、胸元でガーネットは水晶に包まれたまま輝きました。くやしくて、なさけなくて、それでも上を向くと夏の大三角形とさそり座が優しく僕を見ていました。見ているだけでした。
僕はごしごしと目をこすると、
「ねえジョバンニ……ほんとうのさいわいは、きっと、僕らが行き着く先にあるんだ」
と言いました。
「それを、ある人は自己犠牲による他人の幸せだって言う。ある人は、他人を犠牲にした自分の幸せだって言う。生まれてきたことだっていう人も、ひょっとしたら死ぬことだっていう人もいるかもしれない。『ほんとう』はとってもあいまいで、優しくて、厳しいんだ」
だから、と、僕はブローチにそっと触れて言葉を紡ぎます。
「こんなところで立ち止まっていて――ほんとうのさいわいはみつかると思うかい?」
ジョバンニは徐々に下がりかけていた急に顔を上げて、僕の瞳を見つめました。そのまま一つ頷くと、どこかへ走り去っていきました。
自分でもひどいことをしたと思いました。結局何も言えず、嘘と、傲慢さと、かっこつけと、ほんのちょっぴりの本音を言葉にしただけだったのです。しかしそこには、妙なすがすがしさと開放感がありました。
(僕も、いつかジョバンニに真実を話せるような者になれるだろうか)
心臓色のブローチをはずすと、窓のアルミサッシに軽く頬杖をつきました。既にジョバンニの姿はありませんでした。
カムパネルラのいる星空を見上げ、おうい、と小さくつぶやきます。
どこか遠くで汽笛が鳴ったような気がしました。