一番
おハルへの想いを伝える決心をし、お幸やを飛び出していった京之介。
それから一夜明け、いつものように店を開けようと拭き掃除をしていたおサチ。
そこへ、慌てふためいた様子で再び京之介が飛び込んできた。
彼のただ事ではない形相に、おサチは優しく諭すように話し始めた。
「京さん、聞いたよ。
昨日あれから、おハルの奉公先の干物くじら屋に行ったそうだね。
行っておハルを見つけるや、
惚れちまった!大好きだ!っておハルに攻め寄ったそうじゃないか。
くじら屋の旦那、目を三角にしてお怒りだよ。
旦那が言うには、おかげで客が引けた時の唯一の楽しみ、
上物のするめイカを炙り焦がした、って腹を立ててたわ。
おハルは顔を真っ赤にして、そんな京さんから逃げるように奥に引っ込んじまって、
今朝もまた奥座敷から出てこねぇ。
猫の手も借りたいのに、これじゃ商売上がったりだ、ってぼやいてたよ。」
「なに?おサチはもう知ってるのか…
くじら屋の主人め、おしゃべりな野郎だ。
上物のするめイカを焦がしちまったとは済まねぇことをしたが、
そんなに目くじらを立てるこたぁなかろうに…」
「まったく困った人だねぇ。
京さんは、おハルが絡むとてんで別人になっちまう。
まぁ、あの娘に惚れちまったんだから、仕方ないかねぇ」
「それでな、おサチ。
おハルのやつ、顔を真っ赤にして奥の座敷に引っ込んじまったのは聞いての通りだが、
それからは、何度呼びかけても出て来やしねぇ。
俺ぁ、嫌われちまったかもしんねぇ・・・
おハルのやつも知らねぇ仲じゃねぇんだし、初めは、
いらっしゃい、京さん。なんて笑顔みせてくれたんだ。
何も隠れるこたぁねえのになぁ。そう思わねえかい?
でもまぁ、いつまでも隠れているわけにはいかねえだろうからよ、
ほとぼりが冷めた頃にまたおハルの顔を見に行って、
いつもの与太話でもしてやりゃあ、また笑顔見せてくれるだろうよ」
「で、どうなんだい?京さんは。
おハルは誰に詰め寄られてもそんな感じの娘だよ。
やっと心中を伝えられたんだろう。
少しは落ち着いたかい?」
「いやいや、おハルの目を見たとたん、
お江戸の大火も真っ青なくらいに俺の気持ちは燃え上がっちまったよ。
もういてもたってもいらんねぇよ。
もしかしたら、おハルは惚れた男に義理立てしてるのかもしれねぇな。
それならそれで構わねぇ。ちゃんと想いは伝えたんだからよ、
いつか俺のことも考えてくれるようになるさ。
俺ぁしつこいからよ、諦めねえぜ」
「ほんと、京さんはしつこいねぇ。
まあ、おハルがあんなだから丁度良いって言ったら良いのかもしれないねぇ。
そうそう、京さん。おハルはもう店に出ているよ。
今さっき、遣いの帰りだからってここに寄ったんだ。
先日は葛もちの代金を払わずに出て帰ってしまいすみませんでした、とさ。
葛もちの代金より鉄さんを心配しなって言ってやったよ」
「そうかい、おハル、ここに寄ったのかい。
で、俺のこと何か言ってなかったかい?」
「何も・・・と言いたいところだけど、
開口一番に、顔を真っ赤にして京さんのことを話し出してさ。
寝癖をつけた京さんが息を切らして来たから、くすっと笑ってしまった、
いつも通り挨拶をしたら突然大声で叫ぶし、
くじら屋の旦那さまが炙っていたするめイカからは火が上がるし、
あんなに驚いたのは生まれて初めて、だってさ。
京さんに何言われたんだい?ってあたしが聞いても、
おハルは益々顔を赤くして頭を何度も下げるだけで、なぁんにも言わないんだよ。
耳まで赤くして、あれ見てたらこっちまで照れちまう」
「そうか、その様子じゃあ、嫌われてはいねぇみてぇだな。
良かった、安心したよ」
「なぁ京さん、あたしはもう若気は忘れちまったけど、
おハルもまんざらでもないんじゃないかい?
もしかしたら、心に留めたお方って言うのは、京さんなんじゃないかねぇ。
いや、私の考えすぎか。まさかねぇ...」
「おいおいおい、冗談はよせやい。
おハルが惚れた相手は俺だって?
それが本当の話なら天にも昇る気持ちだが、まさかなぁ。
まあ、どっちにしろ俺はしばらくの間くじら屋に通うつもりだったからよ、
いずれおサチの勘所が正しいか、はっきりすらぁな。
俺が顔出して、おハルが隠れなきゃ、の話だがな。
俺ぁ、こんな風に女に入れ上げるの初めてだからよ、
女の気持ちもわからねぇし、まっすぐ気持ちをぶつける事しかできねぇんだ。
おサチに諭されてなかったら、今頃牢屋敷に入ってたのは俺かもしれねぇ」
「その気持ちがあれば、万事うまくいくから安心をし」
「ありがとよ、おサチ。
よっしゃあ、そうと決まれば、早速くじら屋に行ってくるとするか。
まずはおハルと話せにゃあ始まんめぇ。
おっと、今度は寝癖はきちんと直して、男前を上げていかねぇとな。
百年の恋が冷めちまったら敵わねぇ」
「おハルが隠れなきゃ、ねぇ。
まあ、京さんがくじら屋に通うってなら、隠れるおハルの女心もわかってくるだろうよ。
それに京さん、おハルは寝癖なんか気にする娘でもないよ。
よく考えてみな。あの鉄さんを青くしたんだよ。
鉄さん、いつ見たって粋な髷に整えてたってのに」
「そうなのか? やっぱり女心はわからねぇなぁ・・・」
「まぁ、あたしが言いたいのはさ、
おハルにとっちゃ、その心に留めたお方、ってのが一番なんだ。
どんな男よりも。
周りがやいやい騒いでも変わらないだろうよ。
まぁ、京さんもせいぜいやってみるんだね。
いつでも話は聞くからさ」
奥の台所へ戻りながらおサチはそっと京之介の肩に手を載せた。
「恩に着るぜっ、おサチ」
おサチの肉厚の掌の温もりを肩でしみじみと感じた京之介は、ちょっぴりの照れと共に返事をし、右人差し指で鼻を擦った。