桜の花びら
「随分遅かったじゃないか、おユキ」
賄い飯をとっくに食べ終えたおフクが不審な目を向ける。
「さぁさぁ、グズグズしてないで食べちまいなっ。
夕刻時に向けた仕込みが待ってんだ。
お客様がお見えになったら座って食べてる暇ないて無いん...おユキ?
どうしたんだい?具合でも悪いんかい?」
「うち...」
江戸の言葉にすっかり慣れていたおユキだったが、
余程のことがあったのだろう。
自然とお国の言葉になっている。
(・・・!)
「あっ、お、おフクさん、今戻りました...
... 今、何か私におっしゃいましたか?」
「大丈夫かい?本当に...
賄いを早いとこ食べちまいなって言ったんだよ。
さっき平助のところに持って行った煮豆と煮付けも用意したのに
すっかり冷めちまったよ」
「平助...?」
「平吉のことだよ。まぁた、からくりでもこしらえてたのかい?」
おフクはたまに、平吉のことを「平助」だったり「平太郎」と呼ぶ。
それは日常のことなのに、今のおユキには通じていない。
「は、はぃ...
今日も私が賄いをお持ちしたことに気付いていない様子でした。
こちらに背を向けていたので見えませんでしたが、真剣に何かをしていたようです...」
「全く困った男だよ、平吉はっ。
でも、そこの戸の建て付けを直してくれたり、商売に不可欠な火起しが
楽になるあそこ道具を作ったのも平吉だからねぇ。
まぁ、今度会った時にでも説教しといてやるから」
「あ、いえ、そんなのは全然いいんです。
賄いに気付いてくれさえすれば...
おフクさん、その賄い飯は夜に食べてもいいですか?
なんだか今はお腹が空いてなくて...すみません」
おユキは申し訳なさそうにおフクが用意した卓上へ目をやり、
今の腹具合を素直に伝えた。
「どうしたんだい?いつもと随分違うじゃないか?
顔も少し赤いよ。ちょっと奥で休むかい?」
「いえ、大丈夫です。
少し外の空気を吸って来ても大丈夫ですか?
店から見えるところにいます。お客様が入ったら、すぐ飛んで戻ってきますから」
「そりゃ構わないよ。行ってきな。
ただし、お腹空いたと騒いでも、夕刻の繁盛時が過ぎるまであれはお預けだよ」
おフクは言い終えるとニッと笑い、用意しておいた賄い飯を顎で指した。
「はい、それはもちろんわかってます。
ありがとうございます、おフクさん。
では行ってきます」
おユキはにっこり笑い返し、店の出入り戸へ向かう。
そして、ゆっくり戸を開けた。
春の穏やかな風が優しく吹き込む。
すると、それと共に桜の花びらが一枚、舞い込んできた。
(江戸に来て、もう一年か...)
おユキはその花びらをそっと拾い上げた。
そして店の戸を静かに閉め、隣の長屋へ視線を向ける。
すると、また...
またあの時の高鳴る鼓動が鳴り始め、
おユキは再び衣の合わせを、桜の花びらと重ね、ぎゅっと握りしめた。