おハル
「おはよぅ、おハル。
今日もがんばれよっ!」
「あっ、京さん、おはようございます!
行ってらっしゃい」
おハルは店先で小さく手を振り、それだけ言って店を後にした京之介を見送った。
(京さんは変わらないな...)
おハルはこの毎日の日課に心が温かくなり、1年前のことを思い出す。
ここ干物くじら屋で、初めての奉公を迎えた日のことを。
(あの日も今日と何も変わらない京さんがいましたね)
桜の蕾がぷっくりと膨らみ、あちらこちらで花を咲かせ始めた早朝。
老舗・干物くじら屋の店先を吹き抜ける穏やかな春風を受け、佇む、1人の娘がいた。
「どこから手を付けたら良いかしら...」
その娘はすでに泣きそうな顔である。
店が始まるまでには、まだ時間は充分ある。その為に早起きしたのだ。
なのに、やるべきことが多過ぎて、店内を見渡し佇むことしか出来ないでいた。
「おはよぅ!おぉ、新米さんかな。
どうだぃ?奉公先には慣れたかい?
つっても、今日が初めての奉公だったなっ。
何から始めていいのか分かる訳ねぇよな。
どれ、俺も手伝ってやるよっ」
(こりゃ、噂通りのべっぴんさんだ)
偶然に通りがかった風を装ってはいるが、
いきなりそんなことを聞くとは誰が聞いてもあやしい。
しかも、やけに詳しいのだ。
ひとり捲くし立てた京之介は、もっとおハルと話がしたくて手伝いを申し入れた。
「あ、ありがとうございます。
貴方さまは...」
初めて見るその男の顔に、何も知らないおハルは恐る恐る聞いた。
「おっと、こりゃ、失礼した。
俺は京之介ってんだ。みんなからは、京さんって呼ばれてる。
そこの辻を右に曲がった処の長屋に住んでる者さ。
おハルちゃんだよな?」
「は、はぃ!よろしくお願いします。
うち、あっ、私、昨夜のうちにくじら屋の旦那さまから
朝の店開けの準備を教えていただいたのに、いざ一人になってみると
何から始めたら良いのかわからなくなってしまい...。
あっ、すみません、自分のことを...。
まだ時間はたっぷりあるさかいお手伝いは大丈夫です」
おハルは慌てて喋ったせいか、
お国の言葉が出てることにも気付かず頭をぺこりと下げた。
「遠慮するなって。重いものも運ぶんだろ?
この京之介様が全部運んでやらぁ」
見るからに強そうな太い腕を肩まで捲った京之介はグッと力こぶを作った。
(すごい腕...)
「だ、大丈夫です。
京さん、お勤めへ行くお時間じゃ...」
「おー、俺は忙しいんだから、早く言ってくれ!
どの樽だぃ?そのどデカイやつか!」
「えっ、あ、そんな重いのは誰も動かしませんっ、
京さん、ではこの樽をあちらへお願いできますか?!」
おハルがもじもじしている間に、
京之介は人間では動かせるはずもないどデカイ樽に掴みかかり格闘を始めていた。
「おっ、これじゃねぇんかい。
この樽をだなっ。こんなの朝飯前だっ」
京之介はいとも簡単にその樽をひょいっと並べた。
そして、涼しい顔で言い放つ。
「しかし、これをおハルに運べって、
くじら屋の旦那も随分ひでぇじゃねえかっ」
口調から、本気で腹を立てている。
「いえ。旦那さまはこんな私に1日の始まり、店開きの準備を任せてくれました。
お客様を迎える大切なお仕事です。それがとっても嬉しいんです、私。
上方から突然やって来て、奉公することになった私を雇ってくれた事自体、
どう感謝して良いのかわからないくらい有難いことで...」
「そうかい、うん、よくわかったよ。
なら、俺も協力する。
毎朝、手伝いに来っからよ。
おハルちゃんも早く慣れるといいな!またなっ」
京之介はそれだけ言うと跳ねるように
あっと言う間にその辻の右に消えた。
「京之介さん...
不思議なお方...」
おハルはそう呟き、暖かな春風と共ににっこり微笑んだ。
そんな彼女の背中越しには、さっきのどデカイ樽がある。
それは老舗くじら屋創業以来ずっと動くことなく置いてあったその場所から、僅かにずれていた。