土用
「ちょっとー、なんなのよっ!この忙しさっ!」
今にもキィーッ!と金切声をあげて逃げ出して行きそうな杉田は、今日も素敵な手拭いを頭から被っていた。
ハゲ頭から滝の様に流れ落ちる汗を止める為だ。
脂ののった鰻は、下の炭火にモクモクと白い煙を休み無く生み出させている。
腹を空かせた輩たちには堪らないそんな夏の風情にすっかり包まれ、
そこからオネエ言葉が聞こえなければ、まさかその中に杉田がいるなど誰も考え付かないだろう。
「なんでこのクソ暑い日に、鰻なんか焼かなきゃなんないのよっ!」
江戸は夏真っ盛り。特にここ数日は、猛暑と言う以外の何物でもない。
杉田の気持ちもわかるが、鰻屋に勤めているのだから、
そんなことを言い出す杉田がどう考えてもおかしいのだ。
外気と目の前の炭火の両方から煽られ、杉田の怒りが限界を迎えようとしていた。
「もうっ、なんなのよ!この繁盛加減はっ!
昨日の客なんて、昼時に十手遣いの鉄ちゃん。それに、
いつものお忍び旦那と連れの女だけだったじゃないのっ。
なのに、なんなのよっ、急にこんな!もう私、耐えられないっ!」
言葉ではキレているが、
きちんと並べられた鰻の配下の炭火を団扇で煽る杉田の手はリズミカルに動き続ける。
鰻屋の旦那にだけは頭が上がらないのだ。と言うか、
ここのイケメン店主は杉田の好みど真ん中なのである。
性格など二の次三の次の杉田にとって、見た目が好みの男と
一日中一緒にいられるという理由だけで、ここ、鰻屋「港や」で働き始めたのだ。
ふらっと江戸に来て、大小様々な喧嘩沙汰を起こしながらも
あっという間にこの町に慣れ親しんだのは、こんな杉田の自由奔放な性格ならではだったのかもしれない。
「まぁまぁ、杉ちゃん。今日は丑の日ですから」
汗だくのハゲ頭を尻目に、
うまい具合に煙の来ない腰掛にちょっこり腰を下ろす源内が涼しげに声をかけた。
「源ちゃんが、土用がどうのこうのって言いふらしたからこうなったったんじゃない!もうっ!」
杉田は相変わらず手を止めずに、しかも手際良く鰻を順番にひっくり返し始めている。
とても良い具合に焼き色が付いた鰻が次々と炭火の上に並ぶ。
なんとも腹の鳴る香りだ。
ついその艶やかさに見惚れ、今にもヨダレを垂らしそうに源内は返す。
「いいえ〜言いふらしてなんていませんよ〜」
すっかり目の前の鰻に心を奪われた源内の言葉には全く反省の色などない。
「もう知らないっ!源ちゃんの分なんかないんだからっ。
こんな繁盛しちゃって、足りるわけないでしょ!鰻っ」
杉田は意地悪で言っているのではない。
焼いても焼いても、群がる人だかりが小さくならないのだ。
「そ、そんなっ!それは困りますからっ。
で、では私が今から川に行って採って来ますからっ!」
「源ちゃんが採れるわけないでしょ!今日の仕入れはあんだけで終わりよっ。
またあのグニャグニャした蛇みたいのをさばくなんて、まっぴらごめんよ!今日はお終いっ。
源ちゃんはそこで祈ってなさい。売り切れないようにっ。自分で蒔いた種でしょ!」
黒い物体がぴしゃぴしゃひしめき合う奥の大振りな桶を杉田が顎で指した。
確かに自分で蒔いた種ではあるが、港やの旦那に店終いの相談をされたものだから、源内は策を考えただけである。
それは練りに練った策には程遠く、実は、ぱっと思いついたことをしたまでだった。
たった一枚の紙っぺらのおかげで、こんなことになるとは源内にも想定外だったのだ。
鰻お預けのまま空腹で気が遠くなりかけた源内は、
店の入り戸の脇に張った一枚の紙にぼんやりと視線をやる。
鰻が這ったような字が八文字。源内本人が書いたもの。
そのまま上へ視線をゆっくり這わせて行くと、店の看板「港や」の文字の横にそれはいた。
鰻をがっちり掴んだ右拳を高々と天に突き上げる河童。その目は一切笑って無いが、その足取りは戯けつつ、とても愉快そうに見える。
「杉ちゃん・・・」
薄れていく視界の中、その河童に弱々しくそう呼びかけた源内は、そのまま彼のいる腰掛けに突っ伏してしまった。
「あなたもよっ!」
そんな源内の傍で良く冷えた茶を呑気に啜っていた責平には、とんだ飛び火だった。キッと睨む杉田の視線に、苦笑いで会釈を返す。
責平は、杉田と源内ふたりの会話を聞きながら、茶を啜り啜り考えていた。
この店が昨日まで閑古鳥だったのは、まさに杉田のせいだ。
好みど真ん中の店主とふたりで日々を過ごしたいが為に、
店に入ろうとする客に鋭い眼光を向け、眼力で追い返す。
それは杉田らしい単純なやり口だった。
痩せた杉田から漂う異様な雰囲気とその鋭利な視線はそれだけで充分な効果があった。
責平は一度だけ見たことがある。
鰻に向かって包丁片手に
「ニョロニョロ気持ち悪いわね!」と言い放つ杉田のその手捌きは只者ではなかった。
「おりゃっ!」と鰻の頭に釘を打つと、サッと包丁を引くと同時にその真っ白な身が現れる。
目に止まらぬ速さとは、このことを言うのだと初めて息を呑んだものだ。
それらを串に刺し、蒲焼たるものの基が積み重なる光景は圧巻だった。
杉田が包丁を持っていない頃合いを見計らい、
後日、彼に聞いたこともある。彼はどこ吹く風とばかりにこんなことを言っていた。
「こんなの誰だって出来るわよ。ホント気持ち悪いんだから、あいつらっ」
誰だって出来る?そんなことはない。
普通の町人は、そのあいつらを捕まえることすら難しい。
なのに杉田はぶーぶー文句を言いつつ、一発で捕まえてるではないか・・・
学者肌なのか責平は、鰻と杉田についての謎を
どこまでも続く蟻の行列のようにずっとその先を追ってしまう。
ツルツル。
これしか思い浮かばない。この共通点に、責平はすっかり捕らわれていた。
一度、一つの考えに囚われた人間は、自由な発想が出来なくなるのだ。
(こりゃ参ったな)
責平の表情は自然と苦笑いになる。
そして、巣に入り込んだ蟻を見て諦めるように、その考えの深層まで行き着くことが出来ないでいた。
今日はそんな頃合いで飛び火を受けた形だったのだ。
「平ちゃんにもないんだからっ。う、な、ぎっ!」
「はっ、はぃ」
思いふけっていた場所から杉田に突然呼び戻された責平は、素直に応じるしか無かったのである。
汗と煙まみれになった恐ろしくも頼もしい形相の杉田をマジマジと見、
すっかり温くなった茶を責平は一気にごくりと飲み干した。
「本日土用の丑の日」
今日、江戸は夏真っ盛り。
杉田も夏男、真っ盛りである。




